みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

次女の引っ越し

此れは昨年末の事ですが、我が次女が転勤で尾張名古屋から神戸に引っ越しをする事となりました。親バカと笑われる事を承知で申し上げますと、更に父から遠い所へ赴任する事が内心面白くなく思っておりました。

真ん中が我が次女です。此の写真は昨年秋に次女が地元の友人達とグァム島に旅行した時に撮影したものだと言っておりました。f:id:rcenci:20250202125827j:image

次女の会社は『shiro』と言う化粧品会社です。最初の一年は新宿の店舗に勤務し、その後は名古屋に転勤になり、今度は神戸となります。我が社では考えられない程短い一店舗ごとの勤務年数です。先程の本音と相まって実に面白くありません。

小さい頃の娘達は日曜日の朝に私が作る目玉焼きが大好きで毎回喜んで食べておりました。此方は次女がが小学4年生の図工の授業で制作したベーコンエッグです。此の作品は何らや賞を頂き、何と東京国立博物館に一時展示されました。今は私の美術品コレクションの一つです。f:id:rcenci:20250202125841j:image

神戸の新たな新居を次女と共に選ぶ為に私も現地に向かう事と致しました。3連休を選び、まず名古屋の娘の部屋で前泊し、翌朝に神戸に向けて名古屋を後にしたのです。父子共々生まれて初めての神戸でした。早速予約してあった不動産屋に訪問し物件を調べたのです。

何気なく神戸の地図を見ていると、地図の中に有った神社の名前が目に留まりました。其の名は湊川神社でした。ご存知の通り、あの有名な大楠公を祀る神社です。

皇居外苑の一角に有る楠兵衛尉正成公の銅像です。かつて頼朝公が後白河院の呼びかけに従って京の都に入った際に従者として共に都入りした楠四郎を先祖に持ちます。やがて北条氏が幕府の実権を握り、武蔵国御家人であった楠一族は北条氏の命により河内に移ったとされております。 写真は千代田区観光協会さまよりf:id:rcenci:20250202125856j:image

そうか!神戸って湊川の戦いが有った場所だった。私は娘の赴任先が更に遠くなり面白くなかったのですが、大楠公を祀る神社の有る場所だと知ったら話は全く別となりました。

湊川の戦いで敵の矢を受ける義貞公です。新田義貞公は楠正成公と共に湊川の戦いに挑みました。尊氏軍の猛攻に遭っている図です。源氏の宝刀である鬼丸と鬼切を左右に持って戦ったと伝わりますが、多勢に無勢で撤退を余儀なくされました。義貞公は亡妻の家の近に有る京王線分倍河原駅にも銅像が有ります。f:id:rcenci:20250202125932j:image

府中市のHPよりf:id:rcenci:20250202125939j:image

私の義父は山梨県塩山一ノ瀬の出自で有り、周辺一帯は殆どが楠さんと田辺さんです。勿論、明治8年に公布された『平民苗字必称義務令』の影響も多分に有ると思いますが、其の集落には大楠公(だいなんこう)の一族が逃れて住み着いたと言う伝承が伝わっているのです。結婚式当日に驚きましたが、義父の一族の家紋は菊水の家紋だったのです。

不動産屋さんの話だと、湊川神社の直ぐ近くに物件が有るとの事でした。其の物件の住所を見てみて更にビックリでした。神戸市兵庫区西多門通り.....『西多門通り?』 正成公の幼名は『多門丸』です。もう我が娘の住まいは此処に決定でした。次女は『え、もう決まったの?』と言ってましたが関係有りません。f:id:rcenci:20250202125921j:image

早速内見に行きましたが、周囲の環境も交通事情も建物のセキュリティも問題なしだったので、其の物件に決めさせて頂きました。不動産会社の若い社員が娘に『本当に他を見なくても良いのですか?』と聞いてまいりましたが、娘も『父が気に入ったみたいなので、此処でお願いします』と言ってくれました。早速不動産屋で契約を済まして、私のお仕事は終了致しました。

何でも会社が1ヶ月ほど予約しているホテルが有り、暫くはホテルから通勤するとの事でした。明日には初出勤との事で2人で百貨店に買い物に行きました。

後は湊川神社の御祭神である大楠公に、娘が神戸で無事に過ごせる様に心を込めて参拝を行うだけです。

湊川神社訪問の写真は次週ご案内させて頂きます。

追記

楠公の御尊名を表記する時に『楠正成』と書く場合と『楠木正成』と書く場合のニ通りがごさいます。此れには理由が有ります。私の恩師の話では古来宮中で陛下の臣の名前を記す時、例えば『新田義貞公』だと『新田左近衛中将義貞』と書くなど必ず官名を書き記します。大楠公でしたら、『楠河内守正成』となります。つまり物凄く長くなるのです。従って終戦までは殆どが『楠正成』と書きました。しかし、戦後に皇室を特別な存在としないようにする戦後教育が強制的に行われ、其の風潮のなかで皇室の表記した文字を避けて『楠木』としたのです。日本の伝統を重んじる教職員は皆さんGHQが行った公職追放で全て居なくなってしまったのです。もし『楠木』だったら『楠公』と書いて『ナンコウ』では無く、『楠木公』になってしまいますね(笑)。現在まで全てとは言いませんが、日本の国体を解体しようとしている売国奴達が80年もの月日を重ねて子供の教育を担っているのです。馬鹿らしい話だと思いませんか?