今週も修那羅大天武のご案内をさせて頂きます。先週も書きましたが、大天武は9歳で霊山である妙高山の巌窟に籠った折に、自らは心ゆくまで肝を練り、自修切天の奥義をおさめる最中において、密かに破顔微笑していたと伝わります。
戸隠村の某家には大天武の像が残されております。大天武が51歳より前の御姿であると大天武一代記に有ります。私の天武に対するイメージも此方の像となります。
修那羅大天武は短い剣を佩いていたと伝わりますが、像の剣が其れかも知れません。剣とは本来此の様な造り込みで有ります。不動明王が右手に持つ利剣と同じで有り、魔を祓って人々を正しい道へと導くためのものだと認識しております。
また、修行時代の修那羅大天武は巌窟などに寝泊まりしており、生活の費えは殆ど必要とせずにおられました。請われて困り事を解決されても、返礼の金品は受け取らずにおられたそうです。
しかし我々日本人の心根と致しまして、立場の有る方ほど『礼』を重んじます。礼を逸しては末代の恥辱と考えるのは常の事で有り、代わりに当時の方々は石神や石仏を奉納されておられました。
天武が眠る安宮神社には其れ等の石神等が安置されております。此方は後々に代表的な物をご案内させて頂く予定です。
今回の主題は、実際に天武が行った事についてのご案内となります。ガリ版の資料や書籍を元に私が綴った3冊程のノートの全てをお伝えしますと2年ほど必要になってしまう為、大天武一代記に出ている主なものだけをお伝え致します。
まずは、幕末安政2年の夏の事、信濃国安坂村は大旱魃に見舞わられました。其処で安坂の民は大天武に『雨乞い』の祈祷を依頼したのです。修験道におきまして、水は浄化を意味し、九頭竜神などの龍神信仰と密接に繋がり、数々の秘法が伝わっていたと言われたおります。
村人三百余名が集まり、修那羅天武が験力を発動し潔斎の後に祈祷を行ったところ、其の日より雨が降り出しました。約170年程前の話ですが、地元には確りと文献で残っている史実です。
先にも触れましたが、何を持って雨を降らしたのかと、罰当たりな私は子供の頃に思いました。何故なら雨後にはイワナがたくさん釣れるからです。
どんな方法で?の答えとしましては、焼八千枚(しょうはっせんまい)護摩供と言う不動明王に対する護摩焚きを行ったと書籍に有ります。
護摩焚きは炎から至近距離で行う荒業の為、業者は灼熱の中に身を晒しながら行われるそうです。 高野山薬師院さまのHPより
まず前行として、百日間で十万遍の不動真言を唱えながら21日間63座にも及ぶ護摩行を行ってから本番の焼八千枚護摩供に入ります。
焼八千枚護摩供とは、断食を続けながら八千本の護摩木を一昼夜かけて焼き尽くし、自らの煩悩を消し去ると同時に験力を高めて行くと伝わります。此れは修験道でも最高峰の荒行で有り、途中でトイレも何も有ったモノでは有りません。通常の荒業を八千回行う事を一昼夜で実行して結願(けちがん)するのです。正に自らの命を懸けた行となるのです。
もはや人では有りません。此れを知った時、私のチチンプイプイでイワナを沢山釣る夢は潰えました(笑)。
私のブログをお読み頂いておられる読者の皆様には見覚えが有ると思いますが、秋のキノコ採りの際に必ず参拝する聖大神社です。実は大天武が祀られている安宮神社とは比較的に近い場所に有り、聖大神社もかつては修験道の聖地でした。
聖大神社では、驚くべき事に現代におきましても鎮守の森に湧く『御種池』と言う水源におきまして『雨乞い』の儀式が執り行われております。撮影した画像も有りますが、強すぎる事も有り掲載は控えておきます。
雨乞い神事が執り行われる御種池です。
やっと一つだけ大天武の成し得た事をお伝え出来ました。次回も同様に幾つかご案内させて頂きます。