前回まで武田典厩信繁公の縁の品を数点ご案内させて頂きましたが、典厩寺境内に併設さらている川中島記念館の品々は数多く有りますので引き続きご案内ささて頂きます。
典厩公の実兄にあたる武田信玄公の絵です。諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)を被られております。此方の兜は天津の神々が日本に降臨する前から存在してしている諏訪大明神の特別な御神威を宿す神器とも言える兜となります。
此方は本物と伝わるものです。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館さまの特別展示の時に展示されたものです。金の角を生やした赤鬼の前立に、頭頂部には日本に生息していない『ヤク』の白毛が使われているとの事です。此の兜は諏訪の地にて78代継続している神長官洩矢家に伝わったものとなります。洩矢一族とは、縄文時代から継続するシャーマンの家系で有り、太古の神であるミシャグジ様を降ろす能力を有する一族です。そして其のミシャグジ様を宿す能力を持った者が途中で諏訪入りした奴奈川姫と大国主の間に生まれた建御名方命でした。写真は中日新聞さまより
有名な甲陽軍鑑です。
成立までの期間は長く、とてもご案内し切れないのですが、海津城の城代である春日虎綱が長篠の戦いの直前に武田家の行末を危惧し配下に話した内容を、甥の春日惣次朗や春日家の家臣である大蔵彦十郎等が虎綱の口述を書き写した物とされます。後に家康が武田家の旧臣を多く召抱えた事により軍学書として有名になりましたが、元々は武田勝頼公や其の周囲の側近達に『諫言』する為に作られた書物なのです。
此方は典厩公の愛馬に付けた馬具とあります。信玄公の愛馬は『黒雲』という名馬であり、父親の信虎公は名馬の『鬼鹿毛』と其々の馬の名前が後世まで伝わっておりますが、典厩公の愛馬の名は私の勉強不足の為に判明しておりません。
此方は以前に撮影した妻女山から八幡原を見下ろした写真です。
此の八幡原で雲霞の如く攻め寄せる屈強な越後軍を相手に劣勢となりながらも馬上より『我こそは武田信玄が弟 武田典厩信繁なり 腕に覚えの有る越後武者はかかってまいれ』と大音声で名乗りを上げ、兼高の太刀を右手に天高く掲げている典厩公の勇姿が脳裏に浮かびました。周囲の注目を自らに向ける事で兄の信玄公居る本陣に向かう敵兵を減らしたのです。
此方は手前が火縄銃、其の向こうが薙刀です。
此の火縄銃は其の種類の中でも『狭間筒』と言います。城の土塀や砦の狭間から遠距離の敵に向けて撃つものです。弾道が安定するように銃身が長く重く作られております。射程距離は他と比べて長く、現代で言うところの狙撃銃にあたります。映画『のぼうの城』で主人公の成田長親を撃った火縄銃も此れと同じ種類です。
黒焦げの不動明王像です。何か異質な雰囲気を感じました。武田軍のものであるとの事です。
此方は恐らく歴戦の足軽が身につけた胴だと思います。鉄板でお腹と背中を守る物ですね。
朱漆で丸に三菱紋が書かれた胸当です。鉄板が左右上下と鉄線で結ばれているのは体を丸めた際に動きやすくする為だと思います。大鎧と違い此の時代の当世具足は、ある意味で日本の鎧の完成型だと思います。
因みに赤色を身につけた事で有名なのは武田の赤備えですが、赤備えの発祥は武田家の譜代家臣であった名将飯富虎昌(おぶ とらまさ)です。やがて弟の山県昌景に引き継がれ、武田軍に属していた真田にも伝わりました。やがて武田家が滅び、徳川の御代となった後、赤備えの部隊は井伊家が抱える事になったのです。大忠臣の飯富虎昌ですが信玄公の嫡子義信の謀反を扇動したとされて処刑されました。何ともやるせない出来事ですね。
まだまだ多くの展示物が有りましたが、キリがないのでこの辺りでやめておきます。かつて川中島で収穫出来る米の石高は、越後一国で収穫出来る石高より多かったのです。また、其の肥沃な土地では麦も多く栽培しており、雑穀も他地域より発育が良く沢山取れました。更に日本海から遡上する鮭なども多く取れたのです。つまり宝の山のような場所だったのです。
左が千曲川、右が犀川です。日本一の長さを誇る天下の千曲川と、安曇族の聖地である上高地から流れ降る犀川が交わる場所が川中島で有り、日本の屋根と言われる神山からの水には豊富な栄養素が含まれ、大水が出た時は肥沃な土壌まで運んで来ました。
写真の北國西往復道(善光寺街道)は以前より有った道筋を謙信公と景勝公の二代で整備した道です。北國街道は以前から有った道筋を松平忠輝と大久保長安等によって佐渡の金銀を江戸へ運ぶ重要な街道として整備されました。2つの道筋は川中島で出会います。此れを見ても川中島が西と東を結ぶ大事な場所と言う事が分かりますね。長野国道事務局さまより
追記
山本勘助から様々な兵法や築城の術を学んだ海津城城代の高坂虎綱(春日昌信)は、典厩公が戦死した第四次川中島の戦いの後に甲軍と越軍の戦死者を丁重に埋葬しました。越軍の戦死者が使用した武具も取り集めて敵側に引き渡したのです。仏道に深く帰依していた謙信公は高坂虎綱の取った処置に深く感じ入り、後に甲斐が駿河から塩止めを受けた折に、謙信公は甲斐の民の為に越後からの塩を止める事は有りませんでした。謙信公は此の恩に対して家伝の太刀を謙信公に贈ったのです。
此方が其の太刀です。上杉家では此の太刀を大事に保管し現代まで伝わっております。
此の故事は後に書かれた『謙信公御年譜』に有ります。駿河の今川氏真が謙信公に甲斐への塩止めを要求して来ました。しかし謙信公は『信玄入道とは弓矢で戦うが、甲斐の民を苦しめるのは道理と違う』と塩止めは行わずに今まで通りにしたのです。信玄公から謙信公に送られた太刀は後に景勝公御手撰三五腰にも入っており、国の重要文化財に指定さるております。号は『塩どめの太刀』と言います。何と漢らしい話でしょうか。