みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の史跡探索

今週は故あって帰郷致しました。通常は中央自動車道から長野道を通って更埴インターで降りるのですが、今回は立ち寄りたい場所があった為に途中から下道を選びました。

目的の場所は信州上田にございました。『上田原の合戦』と言う大きな戦いが有った場所です。

上田原古戦場に鎮座する石久摩神社の鳥居です。神域の中に石碑がございます。
f:id:rcenci:20240707081805j:image

鳥居の横にある石柱です。
f:id:rcenci:20240707081818j:image

此の時代の信濃を取り巻く勢力図です。越後の長尾景虎(上杉謙信公)は此の後に関東管領上杉憲政名跡を継いで大勢力となります。Wikiより
f:id:rcenci:20240707081857j:image

此の地で行われた戦は天文17年2月14日(1548年3月23日)、甲斐の武田晴信公と北信濃の名族で葛尾城を本拠とする剛勇村上義清公との間で繰り広げらた合戦です。合戦の規模は両軍合わせて実に一万七千人、討ち死にした将兵は四千人から六千人とも言われております。約3人に1人が討ち死にする戦国時代においても稀に見る激闘でした。

此方が石久摩神社境内にある記念碑です。上田原の住民の皆様で建立されております。此の激戦て晴信公も手傷を負ったと言われております。本陣まで攻め込まれた事例を持ってしても村上勢の猛攻が想像出来ますね。
f:id:rcenci:20240707081913j:image

説明書きです。
f:id:rcenci:20240707081924j:image

武田晴信公は父で有る武田信虎公を古参の板垣信方甘利虎泰等と画策し駿河に追放しました。若き晴信公は家督を相続した後に破竹の勢いて連戦連勝しておりましたが、此の上田原の戦いで村上義清公にコテンパンにやられてしまったのです。其れも忠臣達が諌めたにも関わらず強行したと言われております。私の考えですが、後に戦国最強を誇った武田軍は信濃村上義清公に2回もやられた事により形成されて行ったとも言えます。

こんな看板も有ります。電線が猛烈に邪魔です。唯一ては無く2回もにしたらどうかと思う次第です。
f:id:rcenci:20240707082011j:image

武田側は此の合戦で重臣の筆頭格である板垣信方甘利虎泰を失いました。此の時の晴信公は恩人とも言えるニ将を失ったのですから自らの采配に対して思うところ有ったと思います。

大河ドラマの『風林火山』では千葉真一さんが勇将板垣信方を演じておりました。私は毎週食い入る様に観てました。NHKアーカイブスより
f:id:rcenci:20240707082118j:image

同じく甘利虎泰です。ゴリさん演じる虎泰に当時の私は痺れました!
f:id:rcenci:20240707082131j:image

一方で村上勢も勇将を失っております。小島権兵衛、雨宮刑部、屋代源吾です。何も村上勢の中枢的な存在でした。

此の戦士達には今でも伝わるお墓が有ります。此れがお墓の位置図です。やはり古戦場が信濃である為に村上勢の墓が多いですね。
f:id:rcenci:20240707082150j:image

私の最寄駅は屋代駅でした。古くは信濃国府が置かれており、森将軍塚と言う東日本最大級の前方後円墳も残る地域です。其の地域を治めていた屋代城主の屋城政国の嫡男が屋代源吾でした。未だ20歳にも到達してない元服したての若き武将でしたが、見事に上田原に散ったのです。故郷防衛の為に立派に散った屋代源吾公に心を込めて手を合わせました。

実は此の合戦は我が先祖も戦っております。私も生まれてくる時代が変わっていたら大暴れしていたかも知れません(笑)、しかし粗暴につき直ぐに打ち取られていたと思います(笑)。
f:id:rcenci:20240707082957j:image

説明書です。
f:id:rcenci:20240707083007j:image

さてもう一度、お墓の配置図を見て下さい。

此処は信濃なので普通は村上勢のお墓のみ有っても不思議では有りませんが、唯一武田側の板垣信方のお墓が有ります。此れは信方が味方も敵も認める大人物だったからです。
f:id:rcenci:20240707082150j:image

板垣信方は幼い晴信公の守り役でした。武田晴信公は板垣信方により教育されたのです。また、武田家中で一番の重臣でもありました。信虎公の追放の際も中心的な役割を果たしており、晴信公からは『真の父』とも呼ばれていたのです。

そんな板垣信方ですので信州人がお墓を造った事も理解出来ますね。敵方にも敬意を持って対応するのは楠木正成公なども行っており、日本人特有の美徳だと思います。

板垣信方の最後は、其の壮絶な散り際を千葉真一さんが演じております。当時観ていた私は晴信公の『板垣〜』の雄叫びと同時に涙してしまいました。NHKアーカイブスより
f:id:rcenci:20240707083031j:image

板垣信方のお墓は『お墓』では無く『板垣神社』として伝わっております。格式が一段上ですね。
f:id:rcenci:20240707083045j:image

晴信公を育てた板垣信方の魂魄は時代を経て此の五輪塔に宿っております。
f:id:rcenci:20240707083058j:image

説明書きに煙草が好きだったと有ります。
f:id:rcenci:20240707083105j:image

信州の古戦場は至るもころに有り、趣味と慰霊の為に其の大部分を訪問させて頂いておりますが、訪れる度に郷里に対する思いは増して行きます。郷里の土地から産出された食べ物で育ち、郷里を流れる水で産湯をつかったのですから当然かも知れませんね。松尾芭蕉が弟子の曽良と平泉を訪れた際に『夏草や兵どもが夢の跡』と詠んだ気持ちが少しだけ分かりました。