みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃に実在した仙人の話  3

今週も修那羅大天武のご案内をさせて頂きます。先週も書きましたが、大天武は9歳で霊山である妙高山の巌窟に籠った折に、自らは心ゆくまで肝を練り、自修切天の奥義をおさめる最中において、密かに破顔微笑していたと伝わります。f:id:rcenci:20260118105919j:image

戸隠村の某家には大天武の像が残されております。大天武が51歳より前の御姿であると大天武一代記に有ります。私の天武に対するイメージも此方の像となります。f:id:rcenci:20260118105925j:image

修那羅大天武は短い剣を佩いていたと伝わりますが、像の剣が其れかも知れません。剣とは本来此の様な造り込みで有ります。不動明王が右手に持つ利剣と同じで有り、魔を祓って人々を正しい道へと導くためのものだと認識しております。f:id:rcenci:20260118110031j:image

また、修行時代の修那羅大天武は巌窟などに寝泊まりしており、生活の費えは殆ど必要とせずにおられました。請われて困り事を解決されても、返礼の金品は受け取らずにおられたそうです。

しかし我々日本人の心根と致しまして、立場の有る方ほど『礼』を重んじます。礼を逸しては末代の恥辱と考えるのは常の事で有り、代わりに当時の方々は石神や石仏を奉納されておられました。

天武が眠る安宮神社には其れ等の石神等が安置されております。此方は後々に代表的な物をご案内させて頂く予定です。f:id:rcenci:20260118105942j:image

今回の主題は、実際に天武が行った事についてのご案内となります。ガリ版の資料や書籍を元に私が綴った3冊程のノートの全てをお伝えしますと2年ほど必要になってしまう為、大天武一代記に出ている主なものだけをお伝え致します。

まずは、幕末安政2年の夏の事、信濃国安坂村は大旱魃に見舞わられました。其処で安坂の民は大天武に『雨乞い』の祈祷を依頼したのです。修験道におきまして、水は浄化を意味し、九頭竜神などの龍神信仰と密接に繋がり、数々の秘法が伝わっていたと言われたおります。

村人三百余名が集まり、修那羅天武が験力を発動し潔斎の後に祈祷を行ったところ、其の日より雨が降り出しました。約170年程前の話ですが、地元には確りと文献で残っている史実です。f:id:rcenci:20260118110054j:image

先にも触れましたが、何を持って雨を降らしたのかと、罰当たりな私は子供の頃に思いました。何故なら雨後にはイワナがたくさん釣れるからです。

どんな方法で?の答えとしましては、焼八千枚(しょうはっせんまい)護摩供と言う不動明王に対する護摩焚きを行ったと書籍に有ります。

護摩焚きは炎から至近距離で行う荒業の為、業者は灼熱の中に身を晒しながら行われるそうです。 高野山薬師院さまのHPよりf:id:rcenci:20260118110103j:image

まず前行として、百日間で十万遍の不動真言を唱えながら21日間63座にも及ぶ護摩行を行ってから本番の焼八千枚護摩供に入ります。

焼八千枚護摩供とは、断食を続けながら八千本の護摩木を一昼夜かけて焼き尽くし、自らの煩悩を消し去ると同時に験力を高めて行くと伝わります。此れは修験道でも最高峰の荒行で有り、途中でトイレも何も有ったモノでは有りません。通常の荒業を八千回行う事を一昼夜で実行して結願(けちがん)するのです。正に自らの命を懸けた行となるのです。

もはや人では有りません。此れを知った時、私のチチンプイプイでイワナを沢山釣る夢は潰えました(笑)。

私のブログをお読み頂いておられる読者の皆様には見覚えが有ると思いますが、秋のキノコ採りの際に必ず参拝する聖大神社です。実は大天武が祀られている安宮神社とは比較的に近い場所に有り、聖大神社もかつては修験道の聖地でした。f:id:rcenci:20260118110117j:image

聖大神社では、驚くべき事に現代におきましても鎮守の森に湧く『御種池』と言う水源におきまして『雨乞い』の儀式が執り行われております。撮影した画像も有りますが、強すぎる事も有り掲載は控えておきます。

雨乞い神事が執り行われる御種池です。f:id:rcenci:20260118110126j:image

やっと一つだけ大天武の成し得た事をお伝え出来ました。次回も同様に幾つかご案内させて頂きます。f:id:rcenci:20260118110136j:image

信濃に実在した仙人の話  2

お正月で一話挟みましたが、引き続き信濃に実在された仙人である修那羅大天武のお話を御案内させて頂きます。お産まれは寛政七年(1975年)3月3日です。f:id:rcenci:20260112124524j:image

時代は江戸幕府老中の田沼意次が失脚し、質素倹約で有名な松平定信による寛政の改革の真っ只中でした。此れは全くの偶然なのですが、私めの誕生日も3月3日で有り、尊崇する大天武と同じ誕生日なのです。

山辺りから見上げる春の妙高山は素晴らしい景色です。新潟文化物語さまよりf:id:rcenci:20260112124538j:image

生誕地は越国の大霊山である妙高山の麓の大鹿村と言う場所です。最初の名前は望月留次郎と言います。妙高山は仏門における須弥山と言う意味の梵語を日本名に訳したものと伝わり、古くから修験道の聖地として尊崇を集めてきた聖なる山です。

此方は一代記に出ております大天武の生涯年表になります。なかなか写真を真っ直ぐ撮影出来なく、とても見難いのですが、各地の巡った先などを御覧下さい。f:id:rcenci:20260112124550j:image

大天武の人生は木喰を基本にし、正に修験道における荒行の連続でした。諸国を巡り始めたのは何と9歳からです。

信濃から相州及び加賀、遠江や四国、更に遠くは北部九州など、全国で名の知れた修験道における霊山を巡り、其の験力を高めて行きました。

江戸時代には家出した者を迎える山岳宗門は無かったと大天武一代記には出ております。理由として無頼の浪人が修験者を装って潜伏する事を恐れた故です。主な定めとして、まず身元不明な浪人の受け入れはダメ、受け入れには両親及び庄屋と村役人の連署印判が有って、必ず身元が確かで有る事が必要でした。

写真は大霊山戸隠の奥社へ通じる参道です。f:id:rcenci:20260112124608j:image

幕府における宗教政策な柱石であった天海僧正が再興した戸隠山顕光寺の威光は強かったと伝わります。平安後期から江戸時代は高野山比叡山と共に三千坊三山と言われておりました。此の時代の顕光寺は多くの宿坊を擁していた事が三千坊と言われる所以となります。因みに顕光寺は明治の廃仏毀釈により戸隠神社になっております。

戸隠奥社へ通じる参道約2kmの途中に立派な随神門がございます。f:id:rcenci:20260112124617j:image

若い大天武か訪れた頃の戸隠顕光寺は先にも話した通り、天海僧正が再興した場所ても有って新しい修験者の受け入れは厳しかったと言われております。ところが北部九州の霊山である彦山(英彦山)出身の阿吸房即伝法印と言う修験者の教えが其の開き、入峰印証状を拝領したと大天武一代記に有ります。彦山では多の修験者をあたたかく迎え、様々な事を伝授し送り出す風習があったと言われております。阿吸房即伝法印と言う御方は彦山修験道の中興の祖とも称され、峰中儀礼や教義をまとめた文献を多く残した大人物です。此の事も有り、若き大天武は其の後に遠く九州彦山にまで修法の旅に出ております。阿吸房即伝法印の『法印』とは大和尚の事です。

彦山とは福岡と大分の県境に有る霊峰です。添田観光情報局さまのHPより

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現代における修験者の衣装です。何故に白なのかと申しますと、俗界から霊山に入って天地自然との合一を図り、人間離れした修行を積む事によって俗界での自分は死に、自らの魂を新しく生まれ変わらせる為だと言われております。想像しただけでも壮絶ですね。f:id:rcenci:20260112124722j:image

修験者の目的とは、厳しい霊山での修行を積む事により、天地自然の理や其の生命力を自らに取り入れ、結果的に験力(げんりき)を取得し、自らが悟りを開き、他者の救済を行う事を主眼としていたと伝わります。大天武の行ったと伝わる『筆神楽』などの占いも有ったとも考えますが、天地自然の理を知る事で験力を感得した事が根底に有った事だと思われます。

実を申しますと、父親から大天武の話を聞いた子供の頃の私は『罰当たり』な事を考えておりました。丁度イワナ釣りに熱狂し始めた頃と重なり、修験道における大成者の事を学ぶ事で天地自然の理を知り、結果的にイワナの大きいのが沢山釣れるだろうと思っていたのです(笑)。何と言う邪な考えだろうと、今思えば甚だ的外れで有り赤面の至りです。

話を戻します。大天武は28歳で信濃に入り、そして66歳の時に船窪山に入って安宮神社を創建されました。大天武は私の実家から近い長野県篠ノ井塩崎の堤源八郎宅で修法の為に滞在していた時に体調を悪くされて没されました。享年78歳だったと伝わります。

大天武一代記には堤家の写真が掲載されております。堤家は八百余坪の土地を有しており、江戸時代を通して庄屋を務めておられましたが、其の後は没落し、現在は塩崎に痕跡を留めていないそうです。f:id:rcenci:20260112124803j:image

堤源八郎は老齢な大天武を気遣い、心ばかりの膳を提供されていたと言いますが、大天武は9歳で家を出てから死に至るまで修験道の修行の為に『木喰』を貫いておりました。庄屋であった堤家で火を通した膳(普通の料理)を食した為に体調を壊したとも言われております。

塩崎と言えば何と言っても地域屈指の古刹である金峰山長谷観音さまです。写真でお話されている御住職さまこそは、我が高校時代の大先輩です。母校の大先輩は槍投げの選手でした。日本遺産 月の都千曲さまのHPよりf:id:rcenci:20260112124827j:image


次回に続きます。

令和八年元旦

初春のお慶びを申し上げます。
昨年中は私めの拙いブログをお読み頂き感謝しております。令和八年が皆さまにとって実り有る歳になる様に心から祈念致します。

郷里の信濃ではお正月も然る事ながら、大晦日を家族と共に過ごす事に重点を置く風習がございます。此の独特の風習は『御歳取り』と言いまして、天地自然に囲まれて暮らす信州人の考え方の現れとなります。

床の間には『高砂』の軸を掛けました。生花は毎回母が設えております。此処からしめ縄で結界が張られ、鏡餅を歳神さまの依代と致します。f:id:rcenci:20260101160557j:image

神棚も全て清めて、鮭の頭、十二本の箸を置いた御飯、御神酒、塩、生米をお供え致します。f:id:rcenci:20260101160608j:image

仏壇にもお酒、ご飯、果物、献花をお供え致します。f:id:rcenci:20260101160620j:image

『御歳取り』とは、一年を通して家族が無事で有る事を氏神さまと御先祖さまに感謝し、更に家族が数え年で一つ歳を取る事のお祝いなのです。

心尽くしの料理を囲み、一年の振り返りを行いながら賑やかに祝ってまいります。更に元旦の昼前には親戚一同24人が集まり、座敷を三つ使って宴となります。f:id:rcenci:20260101160632j:image

元旦の早朝は暗いうちに家族で氏神さまに参拝致しました。参道は真っ暗ですので出店の灯りが有難く思います。f:id:rcenci:20260101160646j:image

氏神さまは我が一族にとりまして心の拠り所となっております。f:id:rcenci:20260101160702j:image

摂社に相撲の起源と言われている野見宿禰命をお祀りしている社がございます。天神さまで有名な菅原道真公は野見宿禰の後裔となります。f:id:rcenci:20260101160712j:image

参拝の後、初日の出を拝む為、昨晩飲み過ぎて鈍くなっている身体に鞭打ち、激寒の千曲川の河原まで出てまいりました。

五里ヶ峰山脈がから昇った令和八年における初日の出です。霊験あらたかな初日の出を家族で参拝し、今年一年の平穏を祈念した次第です。f:id:rcenci:20260101160720j:image

冷え切った身体を若湯で温め、歳神さまが降りた実家に向かった次第です。f:id:rcenci:20260101160728j:image

信濃に実在した仙人の話  1

今回は本当に実在した『仙人』と言われている修験者の話です。少し前に御案内させて頂いた麻績村立聖博物館から凡そ車で30分程の山頂に其の足跡が残されております。f:id:rcenci:20251228074421j:image

此のお方は寛政七年(1795年)に産まれ、明治五年(1872年)に没っさた方なのです。数え切れない程の難事を解決に導いた神通力は現代にまで語り継がれているのです。私は其の多くの奇跡を父から聞いておりました。

其の名は修那羅仙人(以後 修那羅大天武)と言います。現在は青木村筑北村の境にある『安宮神社』に祀られております。今迄に数回訪問しておりましたが、今年の夏に家族の健康を祈願するため参拝してまいりました。修那羅は『シュナラ』と読みます。

安宮神社は舟窪山という山の頂上付近にございます。駐車場から神社に向かう入り口には此の標識がございます。f:id:rcenci:20251228074553j:image

此の安宮神社の境内には、石神、石仏などが千二百二十八社も奉祀されております。驚くべき事に、此れ等のものは、全て大天武を頼った皆さまの『満願成就』後に納められたものなのです。新しい物も有りますが、奉祀時より時が経過し、半分以上土中に埋没している物もございます。

古い明神鳥居をくぐると、其の向こうは、大天武が眠る清らかな神域となります。写真の人物は大手ゼネコンに勤務している我が義弟です。f:id:rcenci:20251228074952j:image

しばらく山中の参道を歩きます。船窪山の名前の通り、船の様に真ん中が窪んでおり、其処は風の通り道となっているらしく、そよ風と木漏れ日が我等を迎えてくれました。f:id:rcenci:20251228075215j:image

新しい石碑が建てられておりました。大天武が没っして150年以上経過しておりますが、崇敬される方々は現在も御健在で有る事が理解出来ます。f:id:rcenci:20251228075230j:image

新しい石碑が幾つか続きます。f:id:rcenci:20251228075307j:image

石神の中には有名な佐久間象山が奉納したものものざいます。天武への感謝を示す社が数多ございますが、写真に収めた石神さまや石仏を一部を後に御案内させて頂きます。また、同時に修那羅大天武が実際に導かれた幾つかの事例も御案内させて頂く予定でございます。

やがて、石段を登ると安宮神社の拝殿となります。f:id:rcenci:20251228075325j:image

今回の話は私の考察と合わせ、此方の大天武一代記と言う書籍から引用させて頂きます。学生時代に大天武についての文献を手に入れる為、2冊購入したうちの一冊です。もう一冊は長年に渡り使用した為、本の装丁がボロボロで原型を留めておりません。現地に度々足を運んで研究していたのは、既に25年以上前の話なのです。f:id:rcenci:20251228075339j:image

書籍が発行された日付と作者名です。昨今、地域に存在する神域の研究者は老齢化されておられるか、或いは没しておられ、若い郷土史家は極端に出てまいりません。実に寂しい限りなのです。f:id:rcenci:20251228075351j:image

拝殿の横に小さな鳥居が有り、其の奥が石神、石仏群への入り口となっております。詳しくは次回から御案内させて頂きます。f:id:rcenci:20251228075404j:image

周囲の簡単な地図です。真ん中で中心線より少し下に修那羅峠と有ります。此の名は大天武の御尊名から名付けられております。峠の上に安宮神社が有り、大天武の御霊が鎮座されております。f:id:rcenci:20251228075413j:image

此処の石神と石仏は、普通我々が良く見るものとは明らかに一線を画す物も有ります。また、一部は十王思想(閻魔大王など十名の王)の影響を受けていると思われる物も見受けられます。十王思想とは古来からの民間信仰ですが、死後に受ける地獄の裁判の折に救済を受ける為、生きているうちに多くの功徳を積むと言う考え方です。

昭和生まれの方は見覚えが有りませんか。偕成社さまの書籍です。芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』です。

生前に悪い事ばかりして来た主人公のf:id:rcenci:20251228075424j:image唯一の善行が1匹の蜘蛛を助けた事でした。血の池地獄に居た主人公を助ける為に天国から蜘蛛の糸が降ろされ、主人公は其の糸に捕まりますが、他の亡者も登ってまいりました。主人公は蜘蛛の糸が切れる事を恐れ、其の亡者達を蹴落とすのです。しかし細い蜘蛛の糸は切れてしまうのです。

十王思想は此の物語が其のまま当てはまります。此の小説は『自分さえ良ければ他はお構いなし』と言う現在の支那の様な利己主義を完全否定しております。今でも一部の小学校の教科書にございます。此の事は日本人の根底に有る事だろうと考えております。

最後に一柱だけ石神さまを御案内致します。写真の石神は猿神さまです。猿神は昔から神の使いと言われておりました。一体どんな祈願が成就されたのでしょうか。考察するだけでもワクワクしてまいります。f:id:rcenci:20251228075440j:image

筑北村の案内板です。f:id:rcenci:20251228075723j:image


次回に続きます。

一幅の掛け軸の考察

今日は実家の掛け軸の御案内になります。掛け軸は昨今の洋風建築の波に押され、各家庭から『床の間』が消え去り、ほぼ現代の家庭では掛けられる事はないそうです。f:id:rcenci:20251220135334j:image

銀閣寺の東求堂の中に有る同仁斎(どうじんさい)と言う四畳半の部屋を範とする書院造りの文化は寂しい事では有りますが、既に若人達の意識から消滅しております。

そんな訳で、今回『掛け軸』の趣を少しだけ御案内したく思った次第です。我が家には父や先祖が残した掛け軸が長持に2つ有り、他に私が好みて贖ったモノが十三幅程ございます。

年に一度は四つ有る座敷に、隈無く敷き詰めて陰干ししておりますが、一度では無理なので春と秋の2回行っております。掛け軸の手入れは此の陰干しが主体となるのです。軸本体の素材は紙と絹なので湿気が多いとカビが出てしまうのです。

私の実家に掛け軸が多く残るのは信州更科が四方を山に囲まれた内陸で有り、一年を通して乾燥しているからだと思います。因みに日本で一番海から遠い地域は長野県の佐久地方になります。

此れは、父が購入した比較的新しい掛け軸となります。f:id:rcenci:20251220135349j:image

軸画を拡大致しました。f:id:rcenci:20251220135400j:image

共箱です。共箱とは作者が自ら箱書きを行ない、其の真贋の基準となるものです。テレビでお馴染みの中島誠之助さんが『箱』に拘るのは其の為となります。f:id:rcenci:20251220135414j:image

共箱の画題の通り、軸画は牡丹とニ羽の兎の図です。此の品物は父が祖母に送った物です。祖母は此の掛け軸が気に入っておりました。また、私にとっても兎は野山で見られる愛らしい身近な存在だった事も有り、個人的にも好きでした。

野兎です。環境省のHPよりf:id:rcenci:20251220135430j:image

野兎の毛色は猛禽類から身を守る為に季節で変化致します。冬は雪と同化する為に白くなり、雪が溶けると木々や土色に同化する為に薄茶色っぽくなります。つまり、此の兎は冬毛を纏った兎なのです。そうなると牡丹も『寒牡丹』となりますね。

二羽の兎は、良く見ると手前が少々太々しい感じで有り、奥の兎は後ろを無邪気に振り返り、何となく若く見えると思います。私は此の二羽は親子だと思います。f:id:rcenci:20251220135442j:image

空から飛翔する猛禽類の元に身を晒している情景は、此の地が安全な場所で有る事を意味致します。同じ家に住む親と子の固い絆を現していると私は捉えております。

兎の背中の辺りを見ると、白い体毛が体の線を超えて、フンワリとしている状況が見て取れると思いますが、此れは『隈取り』と言う技法になります。水を含ませた専用の隈取筆を用いてボカしていくのです。

牡丹は古い時代に支那から伝わりました。『百花の王』の王と考えられ、『繁栄』を意味致します。また、今正に花弁を広げている牡丹と、ふっくら丸い蕾の牡丹を二つ描いております。つまり家が長く継続する事を願った構図となります。f:id:rcenci:20251220135453j:image

牡丹を良く見ると、白くて薄いベールを纏った様に瑞々しく描かれているのが分かると思います。此れは日本画独特の技法で有り、胡粉と言う牡蠣などの貝殻を細かく砕いた顔料を使っております。胡粉の淡い色彩は、まるで牡丹が周囲から浮き上がる様な表現になりますね。

此方が胡粉です。f:id:rcenci:20251220135508j:image

今回の軸画とは関係有りませんが、私が今まで観た中において、此の胡粉を活かした日本画の傑作は、信州産まれの天才絵師である菱田春草が描いた羅浮仙(らふせん)です。此の絵は春草が産み出した朦朧体と言う技法も使われております。羅浮仙とは『梅の精』の事です。人離れした怪しくも美しく描かれておりますね。f:id:rcenci:20251220135520j:image

ニ羽の兎で親子の固い絆を現し、満開の牡丹と其の蕾で家の弥栄を現しておりますが、更なる極め付けがございます。

其れは此の小さなドクダミの花なのです。元々薬草の代名詞の様な存在で有り、無病息災を願う意味と合わせ『自己犠牲』の意味が有ります。父は祖母に自らが何らかの矢面に立つ覚悟を示したのかも知れません。f:id:rcenci:20251220135528j:image

軸画や軸装には、刀装具同様に一つひとつに意味が込められているのです。また、掛け軸を買う側も数有る中から、意に沿う軸画を探し求める事が楽しいのです。私が贖った品物も其の様に選んだ次第です。

実家の付書院です。f:id:rcenci:20251220135536j:image

床の間の掛け軸とは、本来その家の家風を示し、同じ軸画を家族が見る事で自ずと心が一つになる存在なのです。床の間と言う一段高い位置に信念を置くと言う意味合いも考慮すれば、今の日本に欠けた大事なモノが、其処に有るように思えますが、如何でしょうか。

今回は此れから冬が来ると言う時期でしたので、数有る中から『冬掛け』を選びました。他にも『春掛け』『夏掛け』『秋掛け』など季節に合わせて掛けます。家の中でも奥座敷と神棚だけは、凛とした空気と共に家主の気風が宿る空間なのです。

私みたいな鼻垂れ小僧が生意気を申し上げました。ご気分を悪くされたかも知れません。どうかご容赦下さい。

中原兼遠公の墓所を訪ねて 2

先週は木曽次郎義仲公が何故に木曽に来訪したのかを御案内させて頂きました。幼い駒王丸を抱いた小枝御前を伴い、埼玉の熊谷から数多の峠を超えて木曽谷までの強行軍は相当に骨が折れたと思います。f:id:rcenci:20251213205129j:image

此方は木曽町出身の田屋幸男画伯が描いた中原兼遠公です。側に佇む童は後に義仲公の四天王となる今井四郎兼平か樋口次郎兼光でしょうか。私は粟津で最後まで義仲公の傍にて勇戦した今井兼平に感じます。f:id:rcenci:20251213205140j:image

兼遠公の墓参に話を戻します。毎年必ずお参りする御寺は木曽町日義にある林昌寺さまです。

立派な山門です。山門沿いに幅四尺程の小川が流れるのは、往時における合戦時の折に堀りの役目をしたものでしょうか。f:id:rcenci:20251213205157j:image

入って直ぐ左に此の供養塔がございます。『𩵋』とは魚の異体字で『魚』と同じ意味です。私が真っ先にお参りするべき供養塔なのです。今年も感謝の気持ちを込めてお参り致しました。f:id:rcenci:20251213205209j:image

境内にも立派な松の木がございます。松は古来より神が宿る御神木と伝わる霊木です。古刹には立派なものが多いのですが、林昌寺さまの松は特に雄々しく感じます。f:id:rcenci:20251213205221j:image

本堂に向かって右手側の斜面には、お墓が下を見下ろすように建てられております。

斜面を見上げると此の様な感じです。結構な斜面ですが、小道は確りと整備されており、歩き易くなっております。f:id:rcenci:20251213205232j:image

其の斜面を少し登った所に此の標識がございます。ご住職さまの話だと兼遠公のお墓には、毎年多くの参拝者が墓参に来られるそうです。f:id:rcenci:20251213205250j:image

案内板の通りに進めば斜面の一番上に有る中原兼遠公のお墓に辿り着きます。持参した線香に火を灯し献納致しました。そして静かに古の英雄に手を合わせた次第です。f:id:rcenci:20251213205345j:image

お墓の横にも立派な目印代わりの柱がごさいます。住職さまの揮毫でしょうか、誠実さが現れる書体です。f:id:rcenci:20251213205356j:image

献納した一束の線香の煙は、山の中に吸い込まれる様に入って行きました。山門をくぐったのは朝方の6時頃でしたが、何か柔らかくも神秘的な空気を感じました。古い社に参拝する折、稀に感じる独特の空気です。f:id:rcenci:20251213205403j:image

兼遠公がお墓から見下ろしておられる景色です。秋の空は澄み、雲はたなびき、山の稜線の向こうから陽の光が差し込む間際でした。f:id:rcenci:20251213205410j:image

見惚れているうちに朝日が昇りました。其の折に脳裏に浮かんだ事が、『朝日将軍木曽義仲公』を養育された兼遠公が義仲公と重ねた木曽の景色かも知れないと言う事です。

同行した渓友は後に、此の写真の左上の雲が、まるで龍神さまが鉤爪を出して朝日を掴もうとしている光景に見えると言っておりました。木曽の龍神さまに最後にしてお会い出来ていた事を知り、我が身の幸運に感謝致しました。

此の時は釣り仲間と2人での御墓参りでしたが、2人とも義仲公を崇敬しております。思いは遠く平安末期に向かっておりました。

 


追記 
林昌寺さまのホームページより

木曽義仲公養父、中原兼遠菩提所。兼遠は濃権守(時の国司長官)にも任ぜられた人物で、父義賢を討たれた駒王丸を庇護した。義仲挙兵の翌年、治承5年(1181)入寂。=『円光』と号した。

久寿年間(1154~1155)の開創時は寺号を「洗林寺」と称し真言宗高野山地蔵院の末であった。応永13年(1406) 駒ケ岳の蛇抜け(大規模土石流)により流出。その後長らく未復興。

慶安2年、大通寺2世・北傳祖宗和尚により再中興。同5年に現在の山号寺号に改め、以来臨済宗妙心寺派に属す。本尊は釈迦如来坐像(室町時代)。脇侍立像(摩訶迦葉尊者、阿難者)とともに木曽町指定有形文化財

中原兼遠公の墓所を訪ねて 1

私が木曽川本流で釣りを行う区間は、殆どが木曽福島から宮ノ越までとなります。また、其の区間には尊崇する木曽次郎義仲公ゆかりの地が多く存在しております。f:id:rcenci:20251207142532j:image

正沢川、天神沢、木曽川本流に囲まれた台地は、かつて中原兼遠公の居館が存在した土地です。中原兼遠公こそは義仲公を教育した養父なのです。

兼遠公が幼い駒王丸(義仲公)の学問成就の為に創建した手習天神社です。f:id:rcenci:20251207142538j:image

仮に兼遠公が幼い義仲公の養育を断ったと致しましたら、平家最大の大軍を倶利伽羅峠の戦いで打ち破った義仲公は幼いままで没しておられた事だと思います。

手習天神社の前には天然イワナが泳ぐ天神沢が流れており、更に其の向こうには公民館が有ります。そして其処には此の様な表示がございます。地域の皆様の御心が伝わる素晴らしい案内板ですね。f:id:rcenci:20251207142604j:image

身内と仲間を大事にされた義仲公の御人柄は兼遠公の教えが有ってこそだと思われます。更に其のまま木曽の皆様の御人柄に通じている気がするのです。

お墓参りをした折は、彼岸花が咲く頃でした。f:id:rcenci:20251207142624j:image

木曽次郎源義仲公の話は過去のブログで連載させて頂きました。養父である木曾中三権頭中原兼遠公の墓参りは、渓流釣りシーズン中に必ず行う大事な行事となります。一部繰り返しとなりますが、歴史背景と合わせて御案内させて頂きます。

木曽町日義に有る法泉山林昌寺は中原兼遠公の菩提寺となります。宮ノ越方面から『道の駅日義』に向かう国道沿いの左手に有り、此の地域を代表する古刹となります。f:id:rcenci:20251207142658j:image

墓所の御案内の前に義仲公が兼遠公の元で養育された背景と事情を簡単にお伝え申し上げます。時は久寿二年(約870年前)に遡りますが御容赦下さい。

河内源氏の棟梁であった源為義には多くの子供が居りました。嫡男の義朝を筆頭に、母は違えど次弟の義賢と続きます。事の成り行きとして、長男の義朝が実父である為義より上位の官位を授かりました。普通の父親なら息子の出世を大いに喜ぶところです。しかし此の源氏親子は争いました。

親子同士の潰し合いを仕組んだ長兄の源義朝です。f:id:rcenci:20251207142757j:image

下野守という高い官位を授かった義朝は相模の有力豪族である三浦氏と婚姻関係を結び、更なる勢力拡大を図りました。此れに対し、父である為義は次男の義賢を関東に送り、名族秩父氏の棟梁であった秩父重隆公の娘と結婚させたのです。

ちょうど秩父氏も内輪揉めの真っ最中でしたので、其処を上手く利用した経緯もございます。因みに三浦氏と秩父氏は同じ先祖を持つ一族となります。

長兄義朝の嫡子である義平の所持と伝わる『石切丸』です。石をも断ち切る名刀と言われております。石切剣箭神社の神宝となっております。f:id:rcenci:20251207142812j:image

父である為義、次男の義賢親子は北関東を中心に大きな勢力基盤を築きました。此れに業を煮やした嫡男の義朝は非道な手段を用います。

自らの子で剛勇無双の義平に秩父氏の拠点であった大蔵館を襲撃させたのです。大蔵館には折しも義賢公と其の妻子も滞在しておりました。勿論ですが鬼畜の義朝父子は其処を狙ったのです。此の戦いを大蔵合戦と言います。

因みに此の義朝の三男が鎌倉幕府を打ち立てた頼朝であり、義平は頼朝の兄に当たります。

分かり易く図でご覧下さい。北日本新聞社『乱世を駆ける』よりf:id:rcenci:20251207142825j:image

義賢公と秩父重隆公は此の襲撃で無惨にも親戚の義平に討ち取られてしまいました。しかし義賢公には幼い嫡子が居たのです。其の嫡子こそ後の木曽義仲公であり、幼名を駒王丸と言いました。当然ですが駒王丸にも殺害命令が出ていたのです。

ところが、義平側についた畠山重能公が当時二歳の駒王丸を抱えた小枝御前を不憫に思い、信頼していた武将の斎藤実盛公に託して逃しました。此の畠山重能公と嫡子の重忠公の男振りは最高です。

斎藤実盛公です。後に義仲公は味方に打たれた首のみの実盛公と対面し、世の無情さに涙致しました。此の故事は、かつて尋常小學校の歌にも歌われていたほど有名な故事なのです。f:id:rcenci:20251207142836j:image

駒王丸の『乳母』は中原兼遠公の奥さまで有り、斎藤実盛公は幼い駒王丸を連れ立って中原兼遠公を頼ったのです。事情を聞いた兼遠公は幼い駒王丸の養育を斎藤実盛公に確約致しました。

斎藤実盛公の案内で兼遠公を訪ねた小枝御前と駒王丸の図です。作者は田屋幸男さんです。f:id:rcenci:20251207142859j:image

実質的に義仲公が平家最強の大軍を2度まで打ち破らなければ、頼朝如きは最終的に勝てなかったと私は考えております。また、頼朝は身内や自分についた有力武将を次々に滅ぼして行きましたが、兼遠公に養育された義仲公は身内や配下を大事にしていた事が歴史的にも際立っております。

此の話より大分後の人物ですが、当時としては驚嘆すべき膨大な歴史的素養を持って史跡を歩んだ松尾芭蕉は、義仲公の御人柄を鑑み、義仲公と同じ場所を自らの墓所とした程なのです。

義仲公と松尾芭蕉のお墓は滋賀県大津市の義仲寺にございます。f:id:rcenci:20251207142914j:image

世界的に宗教に関する戦争が数千年も継続するなか、日本民族は日本の神々と仏教を融合してまいりました。

恐らく松尾芭蕉翁は、古来からの続く日本的な『調和』の精神を義仲公の生き方に垣間見たからだと私は考えております。

                続く