みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 13

※ 志保山の戦い
倶利伽羅峠の戦い空前絶後の大勝利を治めた義仲公の元に急を要する一報が入って参りました。それは志保山に向かった源行家率いる源氏軍が平家軍に攻め立てられて敗色濃厚と言う内容でした。其処で義仲公は自ら2万の軍を率いて志保山に向かったのです。其処には何と怪我の回復もままならぬ宮崎太郎や石黒などの北陸軍も加わっておりました。北陸の勇将達、なんと見上げた好漢達でしょうか! 

平家軍優勢の志保山の戦いでしたが『主力部隊の大惨敗』と言う知らせは平家方にも届いていたと思われる事と勢いに乗った鬼神のような新手の源氏軍の参加により平家軍は散々に打ちのめされたのです。この激減の最中で平家軍の大将軍の1人である平知度が討たれました。平知度は武芸に秀でた武将でしたが、義仲軍の源親義. 重義の親子と交戦し親義と相討ちとなったと伝わります。義仲軍にとって源親義を失った事は多いなる痛手でした。因みに平知度というお方は平清盛の末子でした。勢いのある源氏軍の猛攻により平家軍は敗走したのです。

平知度首塚
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赤地錦の直垂にの鎧を纏い黒鹿毛の馬に乗る勇猛な姿で奮戦したと伝わります。津幡町観光ガイドより


平家軍を2度までも打ち破った義仲公は志保山を越え、能登の小田中と言う場所に有る新王の塚の前に陣を張ったと伝わります。此処で今回の合戦に御神威を受けた社へ神領を寄進したと伝わります。更に源氏軍は平家軍を追い詰め、平家軍の北陸進軍の幕引きとなる篠原の合戦に続きます。


篠原の戦い
平家の軍勢は安宅でも刃を交えましたが源氏軍に押され、加賀国篠原まで兵を引いて体制を整えました。義仲軍も加賀まで進軍し、平家軍が陣取った篠原において両軍が再び矛を交えたのです。

義仲軍の先方は勢いの有る今井兼平隊でした。対する平家軍からは、コレまた凄い顔ぶれの武将達が出てまいりました。それも大番役として京都にたまたま居合わせた武将達でした。当然大番役にも平宗盛から合戦に参加する様に命令が出たのでした。その名は畠山重能(兄)、小山田有重(弟)、宇都宮朝綱です。

最初の畠山隊と兼平隊の戦いは熾烈な大激戦となったと伝わっております。後に音に聞こえた豪勇無双の畠山重能ですが此の時の今井兼平とは戦に参加する理由と重みが段違いです。やがて畠山隊は多く死傷者を出して引きました。今度は平家方から高橋判官長綱が500騎を率いて打って出てまいりました。源氏軍は宮崎太郎を筆頭とした北陸武士団と樋口兼光や落合兼行の300騎です。しかし乱戦の中で寄せ集めの平家軍に乱れが出ました。高橋判官長綱個人は古今稀な豪勇の士ですが、長綱と配下の武将達の奮戦を他所目に平家軍は我先にと四散しているのですから長綱は抗しようも有りません。結局は宮崎太郎の嫡子に長綱も討ち取られてしまいました。此の後も幾つかの戦闘がございましたが、本軍が負けた平家軍に真っ向から争う心意気は残って無かったのです。そして北陸武士団の仇である平泉寺斉明も捉えられました。北陸武士団は斉明のおかげで多くの者が討ち取られてしまいましたが、此処で斉明の武運も尽きたのです。



※ 漢の中の漢 斎藤実盛の最後
平家軍は総崩れになりました。ところが我先にと逃げる平家軍の中でただ一人だけ逃げずに奮戦している武者がおりました。見事な葦毛の馬に跨り、赤地に錦の直垂に黒糸威しの兜を被った武将です。不思議な事に大将と思わしき武人ですが、配下の者は周りにおりません。逃すに多くの敵に打ち勝つ其の勇姿は正しく万夫不当の武者姿であり、敵である源氏方も驚嘆しておりました。

芦毛の馬 Wikiより
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直垂(ひたたれ) Wikiより
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負け戦で周囲が離散していく中、傷を負いながらも逃げずに一人残って戦っている威風堂々とした其の武者こそは、武蔵国の住人長井別当斎藤実盛その人でした。しかし此の時点で源氏方は誰なのか分かりません。

斎藤実盛 Wikiより
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其の勇姿を見た義仲軍の諸将は『なんと見事な男だ』と驚嘆したと伝わります。其の中で諏訪下社の金刺盛澄の弟である手塚太郎光盛が其の武者に大音声で呼びかけたのです。因みに手塚光盛の子孫が漫画家の手塚治虫です。

歌川芳晴の手塚光盛斎藤実盛  此処での実盛は既に白髪ですね!  Wikiより
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弓の名手である手塚光盛は一騎打ちの作法通りに自らを名乗りました。其の時のやり取りを私の想像も含めた現代風の言葉だと以下の通りです。『我は信濃国住人諏訪下社祝 手塚太郎光盛なり お手前は誰ぞ』それに対して謎の大将らしき武人は『貴殿を馬鹿にする訳では無いが、故あって名乗らん いざ組もうぞ』と言った具合だと思います。お互いに掛け合った言葉は文献によりかなり異なって表現されておりましたので私の空想でお伝えした次第です。

お互いが馬を進めた時に手塚の郎党が主人を打たせてなるものかと2人の間に割って入りました。謎の武人は郎党を掴んで金剛力を持って馬から引き剥がしました。郎党さんは掴み上げられてブラブラしている状態となったのです。本来は此処から自分の鞍の前の部分に郎党を押しつけて身動き取れない状況とし、腰刀を引き抜いて首を掻き切るのが普通でした。ところが咄嗟に郎党の危機を悟った光盛が謎の武人の大袖に飛び付いたのです。3人とも馬から転げ落ちたところを若さで勝る光盛が謎の武将を腰刀で差し貫きました。そして弱ったところを郎党と力を合わせて首を取ったのです。

光盛は首を義仲公の元に持って行きました。そして此の武将の活躍と自らの名を名乗らなかった事、錦の直垂を着ていた事(通常錦の直垂は総大将が着る)、声は坂東の訛りが有った事などを報告致しました。

『乱世を駆ける』より
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義仲公が首実験を行うなかで樋口兼光が口を開きました。『こ....この方は斎藤実盛殿....あな無惨なお姿に』 しかし恩人の斎藤実盛だとすると70歳を超えた白髪の老人であるはず!此の者は髪が黒いではないか?と義仲公が訪ねました。

横田河原の合戦の前に樋口兼光斎藤実盛公に会っておりました。その時実盛は『六十を超えて戦に出向く時は髪を黒く染めて行こうと思う 白髪頭で若武者と功を争うのも如何なものかと思う 反対に老武者と侮られるのも悔しい』と言っていたと義仲公に涙に咽せながら報告したのです。

謎の武人は幼き駒王丸と母親の小枝御前を木曽の中原兼遠公の元に連れて来た命の恩人の斎藤実盛その人だったのです。義仲公は命の恩人を殺してしまったと斎藤実盛の首を抱いて周囲をかえりみずに号泣したと伝わります。


乱世を駆けるより
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今回の戦が始まる前に実盛は総大将の平宗盛に対して以下のように願い出ました。『富士川の合戦で水鳥の羽音に驚いて一矢も放つ事なく退却したのは末代までの恥辱、今度の北陸での合戦で私は討ち死にします。また私は越前生まれであり、故郷には錦を着て帰りたい どうか錦の直垂を着る事をお許し頂きたい』。平宗盛斎藤実盛の健気さに感激し、実盛が合戦におて錦の直垂を着用する事を許したのです。死ぬ時は故郷の土の上で立派に生を全うして死んでいきたいと言う武人らしい願いでした。斎藤実盛ほど周囲の豪族から信頼されていた武人なら勝ち馬の源氏に乗る事も容易であったと思われますが、脈々と受け継がれた高潔な武人の魂が、受けた恩に対して命懸けで応える事を選んだのだろうと推測致します。斎藤実盛は正に漢の中の男でした。義仲公は斎藤実盛の首級を厚く弔ったと伝わります。そして斎藤実盛の兜は石川県小松市に鎮座する多太神社に奉納致しました。

多太神社です。
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此の神社には実盛の兜のレリーフがごさいます。
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実盛の首を洗ったとされる首洗い池 『乱世を駆ける』より
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実盛塚という塚があるみたいですが、ぜひ訪れたいものです。『乱世を駆ける』より
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それから519年後に松尾芭蕉が現在の石川県小松市に鎮座する多太神社を訪れます。此処には斎藤実盛の兜が残されており、現在は国指定の重要文化財となっております。現在の兜は補修されておりますが元禄15年に芭蕉が多太神社を訪れた時はもっと生々しい状態だったと思います。この兜は源義朝公から実盛が拝領した名品だと言われております。芭蕉斎藤実盛の兜を視て詠んだ句が下記です。

『むざんやな甲の下のきりぎりす』

句碑です。
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篠原の戦いから時はかなり過ぎ去っている。秋の気配が迫っている多太神社の神域において、伝説の兜の下にキリギリスが短い命を振り絞って懸命に鳴いている光景が私には思い起こされます。武人の鑑よような斎藤実盛が故郷で見事に散った姿を連想させる事と時の移ろいが心に染みる名句です。

たまたま松尾芭蕉の話をしましたのでついでに御案内すると、実は松尾芭蕉こそ義仲公に特別な思いを抱いていた人物なのです。平家軍と北陸武将連合軍が戦った燧ヶ城跡に訪問して『義仲の 寝覚めの山か 月悲し』とよんだ句もございます。また芭蕉は元禄3年頃に何度か義仲公の墓所がある近江国粟津の義仲寺を訪れ、義仲公の塚の横に自分の遺骸を埋葬することを弟子に遺言しました。現在でも実際に分骨した芭蕉のお墓が義仲公のお墓の隣にごさいます。また芭蕉と同じ様に芥川龍之介も熱烈な義仲公ファンでした。著者に『木曽義仲論』と言う本がござきます。其処には『彼は彼が熱望せる功名よりも更に深く彼の臣下を愛せし也』とか、『彼の一生は失敗の一生也 彼の歴史は蹉跌の歴史也 彼の一代は薄幸の一代也 然れども彼の生涯は男らしき生涯也』とも書き連ねており、文豪ならではの強い表現で義仲公を他の誰よりも絶賛しております。

義仲寺(ぎちゅうじ)
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一連の合戦で平家の北陸侵攻部隊の10万騎は3万騎になって都に引き返しました。水鳥の羽音に驚いて一目散に戦わずに逃げた富士川の闘いと違って平家総力をあげた戦いに源氏である源義仲公の軍が勝利したのです。平家は名だたる武将達も討ち取られてしまい大損害を受けたのです。


次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 番外編

一旦義仲公の物語とは外れますが、源平合戦という全国的な大戦で武勇の誉を受けた武将が合戦の後に過ごした半生を御紹介致します。倶利伽羅峠の合戦後に活躍した武将も含めて日本人なら誰でも知ってる有名な方々について御案内しようと思います。以下に御案内する内容は2017年に発行された『信州往来もののふ列伝』と言う書籍からの内容も多く含まれてます。

『信州もののふ列伝』 とても簡潔に記されおりますが、書き手の熱意が伝わる面白い書籍です。
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合戦に参加したマイナーな武将の半生も興味深いものが多いのですが、沢山の武将を御案内すると膨大な文書に成るので今回は3人とプラス1人の御紹介とさせて頂きます。

まずは屋島の戦いで平家の軍船に掲げられた扇の的を見事に射抜いた那須与一。2人目は同じく屋島の戦いで図らずも敦盛を討ち取った熊谷直実。3人目は同じ源氏一族でも運命的に頼朝軍に身を置いて宇治川の合戦で一番乗りを果たした佐々木高綱についてです。実はこの源氏の3人については戦後の身の処し方に共通点があるのです。先週に『日本人の死生観』という事柄について触れました。その中で人間の良心についても少し触れました。私は宗教家では無いので変な言い回しは避けますが、生まれ持った高潔な良心の導きにより此の三人は武人としての自分を捨てたのです。(私の師匠は己が良心の事を内なる神、つまり内在神と表現しておりました)

那須与一屋島の合戦で扇の的を射て義経公から古備前成高の太刀を拝領致して家名を轟かせました。与一は11男であり10男の兄と源氏に与したのです。他の9人の兄は平家に着きました。合戦では10男の兄と八面六臂の活躍をしたと伝わる剛の者です。しかし武家の習いとは言え合戦の後に討ち死にした者達への想いが徐々に与一を襲ったのです。やがて居た堪れなくなった与一は出家をして仏門に入り、名を源蓮と称して源平合戦の戦死者を弔う旅をしたと伝わります。合戦で敵を討ち取る事は武門の誉ではあるが、ふっと我に帰ればこれ程虚しい事はないと悟ったのだと伝わります。与一は9人の兄達の赦免を取り付け、自分の領地を兄達に譲り、家名を轟かせた英雄にもかかわらず当主の地位を捨てたのです。その子孫は830年経った今でも健在で37代を数えております。勿論現在でも地元の英雄であり、栃木県大田原市では毎年『与一弓道大会』なるものが開催されております。

時代は違いますが明治時代の日本海海戦で世界最強ロシアバルチック艦隊を撃破すると言う偉業を成し遂げた東郷平八郎元帥は艦隊戦略の全てを参謀の秋山真之に一任しておりました。秋山真之はかつて村上水軍が用いた丁字戦法を戦術に使って連合艦隊を大勝利に導いたのは有名な話です。しかし秋山真之は多くの命が失われた事を強く悔やんだと言われております。坂の上の雲でも『坊さんになりたい』と言って思い悩んでいた事が表現されております。同時はそんな弱音を許す風潮は無く、海軍に勤務し続けますが実際に49歳で早死にしてしまったのも与一と同じように良心の呵責に耐えられなかったからだと思われます。日本人の精神に存在する内在神(良心)は時代が変わっても高潔であるのです。恐らく現在に生きる我々も時代は変われど一人ひとり高潔な良心を持っている事は同じだと思います。

英雄秋山兄弟の次男である秋山真之です。
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兄の秋山好古日露戦争において騎馬隊を率い、当時世界最強といわれたコサック騎兵団を世界で始めて打ち破った名将です。Wikiより
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世界最強だったコサックの戦士です。彼等の余興だったコサックダンスは有名ですね。Wikiより
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次は屋島の戦いで図らずも平家の公達である平敦盛を討ち取った熊谷直実についてご案内致します。熊谷直実平敦盛の父である平経盛に仕えていた時代がございました。しかし其の後の合戦は源氏方として参陣していたのです。平経盛とは敵味方に別れたとは言え、其の子供である平敦盛を討ち取ってしまった事を直実は心底悔やんだと伝わります。合戦は決して平家を憎んでの戦では無く、家名を守る為に選んだ道であり、裏切りと言う言葉とは無縁の『武家の習い』でした。直実は敦盛を討ち取った後に痛恨の情を連綿と書面にしたためて敦盛の首級と死ぬまで肌身離さず持っていた小枝の笛を一緒に平経盛に送りました。其処には『落涙しながら御頸を給わり畢んぬ 恨めし哉 痛ましき哉....云々』と書かれていたと伝わります。この書状は後世に『熊谷状』と名前が付けられております。この書状に対して平経盛咎めるどころか直実に深く感謝して礼の返書を送りました。この変書は『経盛返状』として伝わっております。学生の頃に文化人類学の先生が授業で此の話をされ『かつて自分に仕えていた配下の者が敵に回り、息子を討ち取り、首と赦免の手紙が送られて来て、其の相手に感謝の手紙を送るなんて事が出来ますか?』と学生達に問われました。私は驚愕して何も答えられなかった事を今でも覚えております。武家の習いで敵味方に別れはしたが、経盛と直実の間にはかつての主従関係が存在しており、配下は主人の徳を敬い、逆に主人は配下の心情を汲み取る度量が無いと決して出来ない事であり、決して他国には存在しない日本人独特の礼節だと思います。

熊谷直実 Wikiより
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熊谷直実は合戦が終わると余りの自責の念から出家し、浄土真宗法然に弟子入りしました。そして法然から『蓮生』の名前を貰って一日六万遍の念仏を生涯守り通したと言われております。蓮生は高野山で敦盛の七回忌法要を盛大に行った後に多くの寺を開基しました。そのうちの一つは信州若里にある熊谷山仏道寺です。

此の仏道寺には悲話が残されております、直実は出家で家を出たのですから家族は熊谷に残しておりました。父がいなく成って寂しがった幼い娘の玉鶴姫は難路の碓氷峠を経て、父に会いに遥々信濃国にやってまいりました。しかし父が居る善光寺まであと少しの綱島と言う集落に差し掛かった時に病気を患い進退極まってしまったのです。その時に善光寺如来が父の蓮生(直実)の元に降臨され、姫のいる場所に導いてるくれました。蓮生は善光寺如来のお告げで娘と再会出来ましたが、愛娘の玉鶴姫は既に息絶えておりました。そして娘を不憫に思って開基したのが仏道寺なのです。現在仏道寺には可愛らしい玉鶴姫の像が安置されております。当時の人々は平安時代後期に生きた熊谷直実の情熱と優しさを野の花の名前にしたのがクマガイ草です。

クマガイ草 花弁が騎馬武者が矢避けに付けた母衣に似ていると言われております。
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f:id:rcenci:20220122190646j:plain因みに此方はアツモリ草です。

里の住民は玉鶴姫の死を哀れんで塚を築いて手厚く供養したと伝わります。此の塚は信州大学キャンバス西側にそびえる樹齢数百年の大欅の下にございます。そして塚の名前は姫塚として現在でも伝わります。長野観光コンベンションビューローより
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樹齢数百年の大欅です。
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最後の一人は義仲公にとっては敵でしたが、宇治川の合戦に梶原景季と共に先陣を争った佐々木高綱です。近江源氏の高綱は宇治川の合戦で敵陣に一番乗りを遂げた英雄です。高綱の名前はあまり出ては来ませんが頼朝公の旗挙げに真っ先に駆けつけ、初戦の石橋山の敗戦では殿を引き受けて頼朝公を守り通した大功の武将なのです。後には長門.備前守護職を任されるほどの出世を致しました。しかし高綱程の剛の者が突然に息子に家督を譲り自分は高野山に向かったのです。そして当時越後国に居た高僧の親鸞上人に弟子入りして名前を了智と名乗りました。

高綱は親鸞上人の元で修行の日々をおくりました。修行を終えた高綱は親類縁者が長野県松本市島立周辺に居た事から親鸞上人に信濃における布教を任されたと伝わります。

松本市に戻った高綱(了智)は土地の民衆と共に汗を流して働き布教を行い、民衆から厚い崇敬を受けたと言われております。この高綱が開基した寺が正行寺であり、『信州往来もののふ列伝』には27代目の子孫である住職さまのコメントが載っておりました。更に驚くべき事は現在も正行寺の近くに中学校が有るのですが、此の中学校の名前は松本市立高綱中学校なのです。学校要覧には昭和24年の設立時に校名を広く募集したところ『高綱』の希望が最も多かった事から名付けられたと書かれたおります。信州人としても驚きの事例です!高綱の功績は800年を経た現在でも土地に語り継がれていると言う事ですね。

親鸞上人 Wikiより
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正行寺 松本市観光情報より
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高綱中学校 松本市HPより
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因みに佐々木高綱の末裔で有名なのが乃木希典陸軍元帥です。高綱が長門国守護の時代の子孫であるのと事で信州まで何度も墓参りに訪れており、松本市に有る高綱こ墓の横に分骨された乃木の墓所が立てられております。恐らく明治天皇崩御時に殉死した乃木希典の遺言だったのではないかと推察致します。 

乃木希典 Wikiより
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日本人の死生観について源平合戦で活躍した武将のその後をご案内しようと思ったのですが、文章表現力の無い私には到底無理でした。昔の話ですが父から『お天とうさまが見てるぞ』とよく言われました。お天とうさまは己が体内に居たんだと51歳にして強く思う情けない昨今です。

次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 12

倶利伽羅峠の戦い
義仲公は埴生に於いて兵を指揮するうち、森の中に神気を溢れる社伝を見い出しました。其処で越中の住人である池田次郎忠康を呼び、何の神をお祀りしているのか尋ねたところ、忠康は『八幡大菩薩を祀り 埴生八幡と称す』と答えたと埴生護国八幡宮の資料にございます。

埴生護国八幡宮 HPより 
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倶利伽羅県定公園の埴生口にございます。義仲公が戦勝を祈願した祈願文が今も残っております。此の八幡宮はなんと1,300余年もの歴史を持つ国指定重要文化財です。先週友人が訪ねてくれました。

義仲公の雄々しい像が建てられおります。
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さて本文に戻りますが、義仲公は越中の住人池田次郎忠康から源氏の守り神である八幡大菩薩をお祀りする社があると聞いて大いに喜びました。其処で覚明を読んで以下の様に指示したと伝わります。『当国八幡宮の御前に於いて合戦するは味方の戦勝疑いなし 然れども一つは後代の為 一つは祈願の為に願文を捧げたし 汝宜しきに計らえよ』

加賀に住んでいる友人が送ってくれた埴生護国八幡宮御朱印です。有り難くて額に飾りました。
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覚明は矢立を取り出し、その場でスラスラと願文を書いた伝わります。その願分に十三本の上刺しの矢を添えて神前に奉ったと伝わります。此の矢と願文は現在でも埴生護国八幡宮に伝わっております。義仲公の赤心が八幡大菩薩に伝わったのか、3羽の白鳩が飛来して源氏の白旗の上を飛び回ったと社伝に残されております。其の光景をを見て義仲公は馬上から下りて甲を脱いで一同と共に地に頭をつけて拝礼したと伝わります。

義仲公と覚明
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義仲公が奉納したと伝わる矢です。
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此の願文を現代風に分かり易くしたモノが埴生護国八幡宮の出している冊子に載っておりますので以下に紹介致します。

信心を捧げる八幡宮の大前に申し上げます この頃 平家なるものが表れて 国を乱しているのは仏法にも王法にも反する無道の極みであります。義仲は武家に生まれた以上 その暴悪を黙ってみているわけにはいきません よって運を天に任せ 神明を捧げて義兵を上げることにしました ところが計らずも八幡宮の大前を拝する機会を得ました かくては凶徒達の惨敗は確実と思われます 我が曽祖父が八幡太郎義家と名乗って以来 一門の末に至るまで八幡宮を深く崇敬しております 今戦いを起こすは一身 一家の為でなく 国民を救う為であります どうな神威をお加え頂き凶敵を四散させてくださいますよう赤心を捧げてお祈りいたします 何卒御神助を賜りますよう謹んで申し上げます 寿永二年五月十一日 源義仲 敬白

義仲公が己が人生を掛けた戦いに挑むにあたり『国民を救う』を第一の目的としていた事が歴史的に証明されている大変貴重な文書です。その文と伝承が今日まで残っている事に対し信州人の一人として、また日本人の一人として埴生護国八幡宮の歴代の神職の皆さま方と代を重ねて奉仕を続ける氏子の皆さまに感謝したい気持ちで一杯です。

倶利伽羅の戦い配置図  埴生護国八幡宮で友人が授与された源平倶利伽羅合戦紀より
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倶利伽羅峠の隘路口を先立って押さえる命を受けた仁科党は蓮沼の日埜宮林に到着し、白旗三十を立てあたかも大軍のように敵を欺きました。義仲軍の各部隊は明け方より前進して埴生、道林寺、蓮沼西、松永付近に隊を潜ませたと伝わります。私の私感ですが源氏における戦上手は一に義仲公、二に義経公の順番です。義経公は鞍馬山で幼少期を過ごし、義仲公は木曽谷で育ちましたので何か共通点があるのでしょうか。

義仲公の狙いは平家軍が平野に出る前に山中に留め置き、隘路を抑える事と後ろの逃げ道にも兵を回り込ませ平家軍を谷に追いやる事です。そして夜になるのを待って夜襲を掛ける事で地理に疎い平家軍の混乱を狙ったのです。私のイメージ的には巻き狩りの夜襲バージョンの様な感じだと思われます。

平家軍の主力部隊は倶利伽羅峠を通って山頂の猿ヶ馬場に到着しておりました。平家軍から見ると此処は四方とも岩山であり、しかも西の方角は全て味方、東は道がとても狭いので源氏軍も大掛かりな攻撃は出来ないだろうと考えていたと思われます。平気の大軍は山頂ヶ馬場〜倶利伽羅堂や国見辺りに布陣していたとされております。

周りの山麓には源氏の白旗が多くひるがえっております。源氏軍の第一陣はの後に矢立山と言われる山を既に占領しており、平家軍との距離は谷を隔てて数百メートルだったと言われております。矢立山は平家の矢が多く突き立った事が名称の由来説明書きにございました。

戦いは最初に少人数での矢合戦から始まりました。此れは例えば源氏軍が10人の射手を出すと、合戦の作法を重んじる平家軍は同じ数の射手を用意して戦います。1人でも多いと卑怯なのです!次に20人だと向こうも20人という具合です。当時の戦には合戦においての定石が存在しておりました。平家軍はこの時において天下の軍なので作法を破る事は有りませんでした。思えば義経の『ひよどり越えの逆落とし』や『壇ノ浦の戦い』において戦船の漕ぎ手を射た行為などは本来の常道では無いのです。後の一ノ谷の戦いで散った平敦盛熊谷直実に呼び止められて浜に取って返した行為などを思うと流石は誇り高い清盛公の一門だと心底思います。一対一で戦って負ける事は確かに敗北ですが、武人としては名誉の死なのです。此の死生観は日本人で無いと分かりません。

土地に明るくない平家軍は周りの源氏軍がどの位の大軍であるか分からない為に攻めあぐねている状態となっておりました。義仲軍は暗くなるまで時間稼ぎをする事が狙いです。そして時間稼ぎをしている間に夜討ちの準備を行っていたのです。話は変わりますが、私は営業職なので若い頃に夜討ち朝駆けは当たり前の行動でした。『夜討ち朝駆け』が戦の様式から来ている言葉とは知ったのは色々な書籍を読んでからです。

以下は源氏軍の夜襲陣容です。
第一隊 樋口兼光 三千
第二隊 余田次郎 三千
※上の2隊は迂回して退路を塞ぐ役目です
第三隊 今井兼平 二千
第三隊 巴 一千
第四隊 根井小弥太 二千
第五隊 義仲公本隊

日が暮れると同時に源氏の各隊は予定とする地点まで進軍致しました。樋口隊と余田隊も予定の地点に達しました。対する平家軍は最初は夜襲を警戒しておりましたが、都からの長い行軍と度重なる合戦の疲れが出ました。夜半に至っては段々と気が緩み、ついには将卒共々鎧を脱ぎ、鎧袖を枕に敵が迫ったのも知らなかったと伝わります。そして夜半に合図の鏑矢が放たれるのでした。

山中の険しい道なき道を進んで回り込み、時を待っていた樋口隊が午後10時を過ぎた頃に一斉に太鼓や法螺貝を鳴らして鏑矢を放ちました! ドンドン ドンドン ヴォ〜オ〜オ〜 ヒュ〜ン ヒュ〜ン そして源氏軍の勇ましい鬨の声が夜も更けた倶利伽羅の山中に響き渡り、源氏軍の精鋭部隊が平家軍を目掛けて突撃したのす。暗闇に音も無く飛んでくる強弓から放たれた矢が平家軍を襲います。

分かりやすい図が『乱世を駆ける』に載っておりましたのでご紹介致します。
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合図と同時に今井隊、巴隊、余田隊、根井隊が呼応しました。源氏軍の鬨の声は山彦と化して全山に鳴動し、寝ている平家軍に襲い掛かったのです。静寂な露営地は一瞬にして修羅場と化しました。其れと同時に源氏軍は数百の牛の角に松明を付けて暗闇に放ったのです。平家軍は三方向から敵を受けて大混乱致しました。逃げようにも退路からも樋口兼光隊が平家陣を襲ったのです。もうどうしょうも有りません! 

道の駅倶利伽羅にある火牛の像、こんなのが暗闇から松明を着けて突進されたら対抗出来るのは源為朝公くらいです。 Wikiより
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大混乱に陥った平家軍は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先にと向かいますが、其処は深い谷でした。この時に伝説では白装束を着た三十騎ばかりが南黒坂の谷に向かって平家軍を導いたと伝わります。平家軍は次々と深い谷へ滑落し、馳せ重なって深い谷である倶利伽羅谷を埋めてしまいました。倶利伽羅谷を称して馳せ込谷とか地獄谷と言われておりますが、此の事が由来すると伝わります。 

人馬共に山と重なった平家軍の骸から出た血と膿が谷間の川に流れ出たので此の川を膿川と言うと伝わります。平家軍は義仲追討軍の大半を失ってしまい、総大将の平維盛は命からがら撤退しました。

倶利伽羅神社の源平倶利伽羅合戦図です。
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平家物語の『倶利伽羅落とし』では以下の様に表現しております。
馬には人 人には馬 
落ち重なり 落ち重なり
さばかり深き谷ひとつ
平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける
巌泉血を流し
死骸岳をなせり

五畿七道で見ると山城国から北陸は本当に近いのです。この後の戦いでも敗北した平家軍総大将維盛は大変な思いをして帰って行ったのです。
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義仲公は合戦に勝利した後に平家軍の無残な光景を見て人として悔やんだと伝わります。しかしそんな悔む時間も無い程に次の戦いが待っておりました。

ずっとずっと後の事ですが武田家に仕えていた原昌俊は合戦での陣形や陣を敷くための場所を決定する陣馬奉行を務めて信玄公の信頼が厚かったと言われております。陣馬奉行と言う役職は、此のような色々な失敗例の元に発案された役職かも知れませんね。

次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 11

※ 盤若野の戦い
今井兼平越中軍は固い決意の元に親不知を超えて神通川を渡り平盛俊が通るであろう場所に相手の行動を先読みして向かいました。今回の兼平隊には北陸武士団も加わっていたので、兼平隊の先読みには土地に明るい北陸諸将の進言が有った事は想像に難くごさまいません。

今井兼平が陣を構えた場所は呉羽山と呼ばれていた場所だと言われております。平家の先遣隊である平盛俊倶利伽羅峠を越えて越中に入り、小矢部川を渡り庄川右岸の盤若野に至った時に既に源氏軍が目の前の呉羽山を占領している事に気が付きました。そして一旦は軍を般若野に止めざるを得なかったのです。兼平は此処に敵軍が陣を置く事が狙いだったと思われます。思えば生まれ故郷の木曽で山から谷の様子を見ながら狩りをしていたからでしょうか? 有利な地形を瞬時に見出し、戦いの場を決するのは流石に名将今井兼平です。

兼平好きの私が表現すると平盛俊がメッチャ弱く考える方もいらっしゃると思いますので、盛俊の事も紹介致します。盛俊は伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人だったと伝わります。盛俊は『彼の家、第一の勇士』と称えられた程の武人でした。そんな強い盛俊だったので平家軍の総大将から重要な任務を任されたのです。

今井兼平の目的は平家軍を加賀まで敗走させる事です。此の先行部隊をやっつけないと平家軍の越中侵略阻止はおろか義仲公の軍が親不知を通れず平家軍に越後まで攻め入られてしまう可能性が有ったと思われます。双六に例えると『振り出しに戻る』です!それも『振り出しに戻る』だけでは無くて、義仲公に付き従っていた勇将達も離れていく危険性がございました。此処で兼平が負けたら即アウトにつながる非常に重要な一戦だったのです。因みにこの盤若野では約320年後に再び越後守護代長尾能景と越中一向一揆勢との戦いである盤若野の戦いが行われました。横田河原の戦い川中島の合戦がほぼ同じ場所で繰り広げられたように歴史は繰り返されているのが解りますね。

現在の盤若野 乱世を駆けるより
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平家軍が盤若野に野営している事を知った兼平と越中軍は夜半になるのを待って夜襲をかけたのです。越中軍としても仲間を大勢討ち取られた平家軍に対する敵討ちでした。今と違って照明は火と月明かりだけです!相打ちも想定される夜襲は双刃の剣ですが、恐らく兼平は今この時に勝機を見出したのでしょう。勿論ですが平家軍も夜襲に備えていたと思われます。兼平は相打ちを避ける為に小規模攻撃隊を編成し、繰り返し平家軍を攻撃しました。未明になると勇猛果敢な越中勢を先頭に平家軍に一気に襲いかかったのです。平家軍も盛俊を中心に見事に防戦しましたが、兼平と越中勢の意志の方が圧倒的に優っておりました。やがて平家軍は多くの死傷者を出して敗走し、倶利伽羅峠を超えて加賀に退却して行ったのです。信濃武士団と北陸の武将達の勝鬨が盤若野に響き渡りました。 エイ エイ オ〜! 

ここで平家の名誉の為に一言付け加えます。此の時代の合戦には作法が存在しておりました。其れは『矢合わせ』です。軍の大将か或いは大将に命じられた武人が相手の陣に鏑矢を打ち込みます。此の矢は敵を射る為のものでは無く、射るとヒュ〜っと大きな音を出す合図の矢なのです。其れに応えるように相手の陣からも鏑矢が放たれてから始めて戦闘開始なのです。此れは名誉を守る為にも必要な行為でした。これが室町時代には名誉よりも生き残りを掛けた戦いとなり、此の作法は廃れて行ったのです。夜襲を受けた時の平盛俊が叫んだ声が聞こえて来そうです『おのれ、戦の作法も知らずに夜襲とは卑怯なり』と。

平盛俊が陣を敷いた時伝わる場所 乱世を駆けるより
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こうして今井兼平は義仲公の期待に見事応えました。そして義仲公の本軍は盤若野に到着して大活躍の兼平隊と合流したのです。其処には幼き頃より一緒に生まれ育ち、一緒に挙兵して苦楽を共にして来た義仲公と兼平の感動的な対面があったと思われます。また一番最初に平家の大軍と戦った北陸武士団も此の合戦で一矢報いました。合流した義仲軍は次の合戦に備えて兵馬を整えたのです。

木曽馬は山岳戦に強く粘り強いと伝わります。
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その時に兵たちがあまりに喉の渇きを訴えました。見かねた義仲公は地元の松原大助と称する農夫に水はないかと尋ねたところ、松原大助は義仲の馬の前にひざまずき『ここに清き水がございます』と答えたと伝わります。義仲公は馬を降りて弓を持ち『私が平家の賊軍を滅ぼす事が出来るなら、泉よ湧き出でよ』と弓で地面を突いたところ、突然その場所から清水が湧き出たと言う伝承が残ります。其の光景を見た義仲軍は大いに士気が上がったと伝わります。此の泉は現在でも富山県高岡市に史跡『弓の清水』として残っております。配下を大事にした義仲公らしい伝承ですね。

弓の清水 『乱世を駆ける』より
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義仲公が弓で地を突いている像  『乱世を駆ける』より
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此処で義仲公は平家軍の情報を得ました。倶利伽羅峠に向かった敵の主力部隊は総数7万、其の先頭は10日程遅く竹橋付近に到着し、本隊は竹橋〜森下の間に宿営していると言うものでした。

そして義仲公率いる本軍は越中国府に入ります。此の時の兵数は5万騎だったと伝わります。北陸といえば白山妙理権現のお膝元ですので、義仲公は幕下に加わった諸事に通じている覚明に指示し、白山妙理権現に対して願書をしたため、諸将が居並ぶ前で読み上げました。此れで白山の神は義仲公の味方となったのです。

越中国府があったとされる勝興寺  『乱世を駆ける』より
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祈願を済ませた義仲公は雄神川(庄川)の御河端という場所に諸将を集めて合議したと伝わります。合議の席には傷を負った宮崎太郎などの北陸の武将達も同席してました。深手を負っても痛みを堪えて甲冑を付け合議に列席した事に義仲公は大いに感激しました。其処で義仲公は土地に明るい宮崎太郎に戦略を尋ねたのです。宮崎は次の様に進言致しました。砺波山には南黒坂、中黒坂、北黒坂と三つの道が有ります。平家軍を山頂の猿ヶ馬場付近に押し込めて三方向から攻め上がり、平家軍を包囲して奇襲すれば勝利は間違いない!

友人が埴生護国八幡宮参拝時に頂いた小冊子に出ている源平倶利伽羅合戦両軍配置図です。
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此れが埴生護国八幡宮から友人が授与さらた小冊子です。私にも送って頂きました!
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北陸の英雄である宮崎太郎の進言を義仲公は取り入れました。義仲公は以下のように諸将に伝えたと言われております。『敵は我らの数倍の兵力を持ち、此の優勢な敵が倶利伽羅を超えて広い越中平野に入ってしまえば平野での戦いと成り、我らに不利である。我らは機先を制して倶利伽羅の隘路を占領し敵を迎え撃つ』(乱世をかけるより)。そして倶利伽羅に向けて義仲公は軍を進めました。軍の隊列は下記の通りでした。源義仲公も旗上げ以来の大軍勢での進軍です。

◉義仲公の軍
右縦隊 大将樋口次郎兼光 副将余田次郎 七千
左縦隊 大将根井小弥太 副将は巴  七千
中央縦隊 大将今井四郎兼平 六千
本隊 総大将木曽次郎源義仲 二万
別働隊 志雄山 新宮十郎源行家 一万  

一方平家は先方戦の盤若野の戦いで一敗地にまみれた後に陣形を立て直しました。

◉平家の軍
左縦隊 志雄山〜氷見
大将 平道盛
副将 平知度
副将 平盛俊    合計兵数3万 
志雄山の戦いに此の3万の軍は向かいました。

右縦隊(本隊) 津幡〜倶利伽羅
総大将 平維盛
副将  平行盛 
副将  平忠度   合計倍数七万
倶利伽羅峠の戦いに向かったのは此の主力7万騎の軍のです。

此処から木曽次郎源義仲公の一世一代の大戦が始まろうとしております。後の戦国時代になってから三増峠の戦いなどの山岳戦は多く有りましたが、此の時代の倶利伽羅峠の戦いに比肩する大規模な山岳戦を私は知りません。




次回に続きます。

更級の年の瀬

オミクロン株の事は心配でしたが、感染対策を万全にして娘2人と東京駅で待ち合わせして更級に帰郷致しました。松阪から近鉄特急で名古屋まで行き、名古屋から新幹線で東京駅に行って娘達と待ち合わせ致しました。娘2人と会うのも3ヶ月ぶりでした。そして新幹線で上田駅に行って信濃鉄道で屋代駅です。時計の針が31日になる頃に屋代駅に到着し、改札から出てみると更級は夜の雪景色でした。暫く見惚れておりましたが、刺すような冷気に我にかえりました。自宅まで先にタクシー待ちして居た隣町のお姉さんとタクシーを相乗りし、自宅に到着したのは31日の0時半。三重県松阪市より4回電車を乗り継ぎ、待ち時間も含めて合計6時間の長旅となったのです。

信州の住人にとって大晦日は大事な特別なの日なのです。『お歳取り』と言って家族がご馳走を囲んで年の瀬を迎えます。そして深夜0時に合わせて氏神様へ深夜の参詣を致します。この参詣を『二年参り』と言います。しかし参詣する人でごった返す事を思うと昨今の諸事情を考慮して31日の午前中に参拝して参りました。

我が氏神さまは武水分大神と八幡神をお祀りしている武水分神社八幡宮です。雪の本殿は荘厳な神気が満ちておりました。若い我が娘2人は雪でも元気です。
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摂社も雪の中です。
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この神社は木曽義仲公が横田河原の合戦の前に戦勝を祈願しました。そして勝利を得た後に神領を寄進した事で有名です。このお八幡さまは我が故郷更級の守り神さまなのです。
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あまり知られて無い事ですが八幡の地は川中島の戦いの初戦があった場所なのです。
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神功皇后三韓征伐の図が奉納されております。武内宿禰の御顔が特徴的でした。八幡神(応神天皇)と息長帯姫(おきながたらしひめ)はお母さんと息子なので何故か温かい印象を受けるのは私だけでしょうか? 
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そい言えば最近は神功皇后が実在して居ないと言っている某歴史学の先生がお見えですが、日本人が日本民族の歴史を否定するのは悲しい事です。最初のヤマトは『倭』と表現されてました。またヤマトタケル日本武尊の書くので『日本』もヤマトですね。


三韓征伐について少しだけ記述させて貰います。発端は神功皇后に神託があり、直ちに新羅に出兵するようにと言う内容でした。皇后はその事を夫である仲哀天皇に奏上したのですが、おりしも仲哀天皇熊襲討伐に出向く直前だったので御神託に背いて熊襲に出兵したのです。ところが途中で元気な仲哀天皇が突然病にかかり崩御してしまうのです。悲しみに暮れていた神功皇后は自分が新羅へ出兵する事を決断致しました。でも神功皇后は身重の体だったのです。皇后は冷やして出産を遅らせる様にお腹に石を結びつけて出兵し、新羅を瞬く間に制圧しました。その攻めが疾風のように見事だった為に戦ってない高句麗百済も日本に臣従しちゃったのです。百済は日本が大好きで自分達は日本人だと思うように成りました。高句麗は途中で朝貢をやめましたのが、倭国に頼らずに自分の力で国を護る道を選びました。少しして大陸に超大国の隋が誕生し、何度か高句麗に攻め込んだのです。ところが高句麗軍は見事に此れを防いだのです。隋も意地になって何度も侵攻しましが、その都度高句麗は隋の最強軍を追い払いました。そのおかげで結果的に隋は経済的に破綻し滅んでしまったのです。この三韓征伐のおかげで日本は今日までの長い期間を大陸の大軍に攻め込まれる事なく平和に過ごせたのです。半島が大陸の領土となった元の時代だけは元軍が日本に攻めてまいりました。攻めて来た元軍を最強鎌倉武士団が見事に打ち負かし、更に日本国土の神様が神風を起こして元の船団を海の藻屑としたのです。そして元は14世紀に大流行したペストで大打撃を受けて崩壊の道を辿りました。その後の半島には高麗王朝が発足しました。ついつい本題から外れましたが神功皇后は神のお告げを持って日本を守った偉い皇后なのです。日本に帰国した神功皇后男児を出産し、その男児応神天皇と成りました。


最後にもう一言だけお許し下さい。
私は趣味が渓流釣りですので、良い魚が釣れた時は川の神様に感謝し、良い魚を育んた自然に感謝します。最近特に思うのですが家族をはじめ周囲の人や周りの物に感謝する事の大切さを改めて実感しております。私の拙い文章をお読み頂き、有難うございました。令和4年が皆様にとって良い年になるように心からの祈念致します。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 10

※ 北陸での戦い

平家の軍は北陸道に進軍している途中に民家だけでは飽き足らず、公家及び寺社の荘園から多くの物を税として略奪しておりました。踏み荒らされた荘園を管理する公家からは平家の棟梁である平宗盛に大クレームが入りましたが、宗盛は軍規を正す迄には至りませんでした。何故かと言うと此の大軍は総大将こそ平維盛でしたが、多くが平家と結び付きが強い武士では無かったのです。

其の進軍も統率は取れておらずにバラバラであったと伝わります。大将軍である維盛と通盛は順調に進軍しておりましたが平忠度、経正など次に控える副将軍はかなり進軍が遅れていたと伝わります。中でも副将軍の一人であった平経正は進軍途中に琵琶湖の竹生島に上陸し、配下の事や留まる事による兵糧の消費、又は進軍の遅れを顧みず、霧に煙る竹生島の余りの美しさに得意の琵琶を用いて『上玄』と『石上』と言う二曲を奏でて奉納したと伝わります。平経正の琵琶は稀有な名器で『青山』と言う名前が付いてました。雅な行動と捉えれば或いはそうかも知れませんが、平家の命運を掛けた副将軍の取る行動では有りませんね。古より上に立つ人間に『私心』は厳禁であり、全ては『公』の為に動くものです。もう其処には民の生活を守る武人の配慮は無く、貴族化してバラバラな平家の姿があったと言われております。

竹生島 確かに綺麗です! Wikiより
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平経正と名器『青山』 Wikiより 琵琶の音色を聞かれた方も多いと思いますが、身体の芯奥に響く音であり心が揺さぶられますね。
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義仲公自身は越中国府に有りましたが、今井兼平や根井行親の子である根井小弥太を加賀国に派遣して色々な備えを行いました。最初に平家の大軍を迎え打つのは北陸の諸将でした。諸将の中では今まで平家に組みしてましたが周囲の豪族が義仲公に合力しているので、取り敢えず味方した者も混じっておりました。此れは平家も源氏も戦闘貴族と言う性質上で仕方ない事だと思われます。

※ 燧ヶ城(ひうちがじょう)の戦い
寿永二年四月(1183年)に北陸合戦の初戦が越前国府の近くに有ったこの此の燧ヶ城の戦いです。平家の進軍を阻む為には狭い間道において大軍の利を使えない状態にする必要がございました。其処で根井が発案した策が街道沿いに有った燧ヶ城(ひうちがじょう)に諸将が集結し、地形を利用し川を堰き止め、人造湖を造って平家軍の進軍を阻む戦略でした。

燧ヶ城が有ったと伝わる地区 『乱世を駆ける』より
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参陣した武将は宮崎太郎、平泉寺斉明、石黒氏、林氏、冨樫氏、土田氏、佐美氏など北陸の武将6,000余騎です。其の中には此の作戦立案時に異を唱えた平泉寺長吏という越前斉藤氏の一族がおりました。燧ヶ城は元々山裾に建てられた堅固な城だったと伝わります。地形を簡単に説明すると燧ヶ城の後ろが山、川を挟んで前も山。其の山の周りを2本の川が流れておりました。そこで其の川を堰き止めたのです。城の周りを水で満たしたら街道も水で満たされてしまい、最早誰もこの城を攻める事は誰も叶いません。

いきなり目の前に湖が現れた平家は手前の山に留まるしかございませんでした。しかし平家は大軍である事に対して北陸の武将軍団は6,000余騎です。つまり数的には6,000対100,000と成り圧倒的に不利な状態だったのです。

此の圧倒的兵力差の中で北陸諸将の軍から裏切り者が出たのです。其の名は平泉寺斉明! 平泉寺斉明は此の湖は川を堰き止めて作っただけの急拵えの物で堰を壊せば立ちどころに水は引く事や、堰の有る場所などの軍事機密を記した書簡を矢文にして平家の陣に向かって射込んだのです。平泉寺斉明の裏切りは故郷を守る為に参陣した多くの北陸武士の血を流す結果につながりました。

戦闘用の矢は太い雌竹が使われておりました。
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日本の矢は育ちの良い真っ直ぐな竹の中から更にねじれの無い良い物を選び、火入れと溜め木で職人が曲がりを矯正し、木賊(とくさ)で削り混むなど数々の工程を得て完成されます。単純な矢として精度的に恐らく世界一だと考えます。

すみません! 脱線致しましたので話を戻します。平泉寺斉明は越前斎藤氏の一族です。越前の斎藤氏は代々強い勢力を持っていた平泉寺に子供を差し向け、其れにより勢力を保っておりました。平泉寺とは福井県勝山市に有る由緒ある寺院です。斉明は元々平家に与しておりましたが、回りが義仲軍になって行ったので仕方なく義仲軍に合力してました。しかし此の兵力差では平家の大軍に敵わないと考えての裏切りでした。

平泉寺の現在は平泉寺白山神社として残ります。 Wikiより
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責め手を欠いていた平家は此の情報を聞いて大喜びです。平泉寺斉明は50騎を率いて平家に寝返ったと伝わります。平家は堰を破壊し水を抜いて軍を進めました。こうなると他勢に無勢です!北陸の諸将達は敗走し燧ヶ城は落ちたのです。善戦した北陸の諸将ですが、転戦しながら落ち延びて加賀の篠原に準備してあった城に入ったと伝わります。このまま義仲公がいる越後国府に向かう道もございましたが、誇り高い北陸の諸将は越後には向かわず敵に一矢報いる厳しい道を選びました。私は此処の場面に来ると誇り高い北陸諸将の心意気に何時もぐっと込み上げるモノが有ります。

武者押しの光景
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越中長畝城で休息した平家軍は北陸諸将の居る篠原に押し寄せてまいりました。誇り高い北陸の武人である宮崎太郎、林光明、冨樫入道、倉光氏などが此れに応戦致しました。ところが平家軍には此方の戦力を熟知した裏切り者の平泉寺斉明がおります。腹が立つ話ですが、合戦用に造られた小城の位置は平家方に全て知られておりました。それでも勇猛果敢に北陸の武士達は善戦したのです。しかし時が経過するにつれて持ち堪えられず安宅の湊まで引いて陣形を立て直しました。ところが此処でも圧倒的な数の平家軍に攻め立てられたのです。激戦の中で石黒党の石黒太郎光弘が敵の放った矢によって斃れてしまいました。宮崎太郎を筆頭に結束の強い北陸武士団は石黒の敵討ちと猛烈に平家の軍を押し返したのです。しかし討ち取っても次から次へと雲霞のように攻めてくる平家の大群の前には成す術もなく、多くの死傷者が出ました。そんな激戦の最中にとうとう宮崎太郎にも敵の矢が当ってしまいました。深手を受けた宮崎太郎は落馬したと伝わります。配下の武将は自らを盾として宮崎太郎を守ったと言われております。

武者押しの光景
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流石に精強を誇る北陸武士団も平家の猛攻に疲れ果て、此のままでは全滅になる可能性が有りましたので一旦は軍を引いたのです。石黒党と宮崎党は越中に落ち延び、林六郎光明の隊と冨樫入道の隊は林の居城まで引きました。林の城は天然の要害に守られた堅城であった事と前方の敵には万全の備えを準備していた為に平家の大軍を押し返す守備力を充分に持っておりましたが、平家には此方の備えを知り尽くした裏切り者の平泉寺斉明がおりました。夜陰に紛れて防備の手薄な背後を突かれてしまったのです。止むを得なく林隊と冨樫隊は城を捨てて越中に向かったのです。此の様に北陸の戦いにおける前半戦は裏切り者の平泉寺斉明のおかげで勇将石黒太郎光弘が討ち取られ、宮崎太郎も深手を負うなど多くの死傷者を出して平家軍の優勢に終わったのです。これで平家軍は加賀の国を手中に治めた事になります。

平家軍は連戦連勝で兵の士気も高い状態でした。平家軍の1番の目的は義仲公の討伐です。平家軍は義仲公が越後国府から越中に入る為に必ず親不知(当時は寒原)を通るので、前もって親不知に兵を送り義仲公の進軍を阻む事で、次は越中も手中にする作戦に出たのです。この任は平盛俊が受けました。平盛俊は五千の兵を預かって倶利伽羅峠(砺波山)を越えて越中に進軍致しました。
 
 
義仲公は燧ヶ城が落ちた事と北陸の武将達の大苦戦と言う知らせを冨樫入道の送った伝令から聞きました。そして直ぐさま精鋭を率いて国府を出たのです。叔父の行家には1万騎を与えて能登越中の国境にある志保山(しほざん)へ向かわせまました。そして義仲公は最も信頼する猛将今井四郎兼平に六千の兵を預け、先発隊として自分が到着するまで平家軍を絶対に越中に入れるなと命じて盤若野に向かわせたのです。

今井兼平に託された仕事は平家軍を倶利伽羅峠の向こうに撤退させる事でした。義仲公は少し前に起こった頼朝公との一触即発の場面においての難しい政治駆け引きなどもそうですが、此処一番では必ず兼平に託します!今井兼平という武将は余程に優れた人物だったと推測されます。

さあ猛将今井四郎兼平による盤若野の戦いがいよいよ始まります!連勝に沸く平家軍と決死の覚悟を持って戦いに挑む兼平隊との対決と成ります! 次回にコレからの戦いにおける動きが分かり易い図を載せますのでご参照下さい。

『乱世を駆ける』に当時の武具の紹介があるので拡大して御覧下さい。写真は指で広げれば拡大可能です。
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此の丸いドーナツみたいな物は弦巻(つるまき)です。予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具として左腰に装着しました。弓弦にクセが付かないように丸くして携帯する為に考案された優れ物なのです。電車の吊り輪みたいですね!
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次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 9

北陸の諸将と出会い、勇将である宮崎太郎を介して『北陸の宮』と巡り会った義仲公は越後国府に有りました。其処に同じ源氏の頼朝公が率いる10万の大軍が迫っております。先週もご案内致しましたが、この頃の義仲公は頼朝公との戦いを避けるために依田城から越後国府に移っておりました。

宮崎城からの日本海の展望 『乱世を駆ける』より
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頼朝公に義仲公を打つように仕向けたのは武田五朗信光という甲斐武田家5代目当主でした。武田信光は以前に義仲公と親睦が有りましたが、義高を婿にしたいと言い出しました。此れに対して義仲公が義高が年端もない年齢だっただけに色良い返事をしなかった事を根に持っていたのです。そこで頼朝公に義仲は平宗盛の娘を義高に娶って一緒に鎌倉を打つ算段であると諫言したのです。以後は私の私感ですが、頭の良い頼朝公は信光の進言を取り繕いであると知っていながら、源氏の棟梁は2人は要らないと考え、義仲討伐の兵を進めたのだろうと推測致します。

武田家の祖である新羅三郎義光 Wikiより
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頼朝公が軍勢を差し向けたのは寿永2年3月でした。当時と暦が変わっていると言っても信濃国はまだ雪が残る時期です。此の両雄の間には親の代からの凄まじい因縁が存在しております。義仲公は三千余騎で信濃と越後の国境にある熊坂山に陣を敷きました。対する頼朝公は信濃国善光寺に陣を敷いたとあります。

善光寺 Wikiより
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義仲公は同じ源氏同士で争うのは、平家方に有利に運びこそすれ源氏に利点は無いと考えました。其処で義仲公は書状をしたため、乳母子の今井四郎兼平を使者として頼朝公の陣へ送ったのです。書状の内容は源氏同士が争う愚、頼朝公に対して恨みを抱いていない事、頼朝公が総大将で自分は其の下でも問題無いとまで記してあったと伝わります。

今井四郎兼平 乱世を駆けるより
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佩いている太刀拵えは豪華な兵庫鎖太刀拵えです。それも柄の鮫皮には俵鋲が付いておりますね! 生家である中原家は宮中の外記を勤めた家柄なので兵庫鎖太刀が有っても不思議ではありません。

ゴメンなさい!話が脱線しましたので元に戻します。兼平から書状を受け取って一読した頼朝公は義仲公の気持ちを深く理解し、少し拍子抜けした事だろうとおもいます。しかし一度軍を率いて来たからには軍を引く理由が必要です。軍全員が頼朝公の臣下では無く、恩賞目当てで参陣した武将が多く、軍を引くには其れ相応の印が必要なのです。其処で頼朝公は義仲公の元に居る志田義広と行家を差し出せば軍を引き上げると今井兼平に伝えました。そして兼平は義仲公に伝える為に自陣に戻ったのです。

義仲公の陣では兼平が持ち帰った頼朝公の条件について話し合いが行われました。2人を鎌倉に渡しても義仲軍には全く問題が無いという意見や、一度懐に飛び込んで来た弱き者を敵に送るのは道に反すると言う意見が飛び交いました。其の軍議の中で今井四郎兼平は『いつか必ず頼朝とは戦うことになるのだから、やるなら今戦うべきである』と主張したと伝わります。

最終的な義仲公の判断として『叔父達は私を頼って我が軍に来たのだたら、其れをむざむざと殺されるであろう場所に渡す事は出来ない』と言う結論でした。兼平は其の返答を持って再び頼朝公の陣に向かいました。兼平から次第を聞いた頼朝公は『さもあらん』と思ったと推測致します。此処で頼朝公から代案が出されました。代案の中身は義仲公の嫡子である高寿丸を頼朝公の息女である大姫と婚姻させたいと言う内容でした。兼平は再び自陣に戻り、頼朝公より聞いた高寿丸を大姫の婿にする話を義仲公と満座の諸将の前で話しました。

源義高   Wikiより
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義仲四天王をはじめ列席した武将からは、嫡男高寿丸様と2人とを比べたら其の重さは比べ物にならない! 何故御嫡男をむざむざ人質同様に鎌倉に送らねばならないのか〜! などと怒りにも似た意見が飛び交いました。

満座の諸将の意見を全て聞いた義仲公は静かに決断致しました。決断は『叔父達の代わりに嫡男高寿丸を鎌倉へ送る』でした。義仲公にとっては『私』より『公』の方が優先だったのです。私も子を持つ親なので、此の決断の重さは想像の域を遥かに超えております。

この決断は義仲公の『公』を重んじる高潔な人柄が出た決断でした。自分から負けを選び配下の者達の命を守ったのです。信濃国の武将達も北陸の諸将も身内を犠牲にして配下を守った義仲公に深い感銘を受けました。

古い時代の様式を持つ甲冑をご紹介致します。此れは信濃国筑摩郡赤木郷の武将であった赤木忠長所用の大鎧(国宝)です。信濃の甲冑と刀剣より

陣を訪れた兼平から仔細を聞いた頼朝公は満足して鎌倉へ引き上げました。此の後に義仲公は高寿丸を元服ささせ『源義高』と名乗らせました。

義高は旅立ちの日に皆の前で見事な『笠懸』の業前を披露して出立したと伝わります。此の時の的と矢は現在の上田市丸子町に有る安良居神社に納められたと伝わりますが、残念ながら現存しておりません。源義高に付き従ったのは海野小太郎幸氏と望月重隆だったと伝わります。此の時が正しく当時11歳の義高が見た古郷の最後の情景となりました。鎌倉に到着した義高は頼朝公に拝謁しました。頼朝公は義高の顔が余りに自分に似ている事に対して喜んだと色々な文献に出ております。

後々の事では有りますが義高に近習として付き従った海野幸氏と望月重隆は、鎌倉幕府に忠義ぶりを評価されて御家人に列しました。鎌倉に着いてからの義高の話は、余りに悲し過ぎて私は胸が痛く、後の機会にご案内しようと思います。
  
笠懸 Wikiより
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笠懸とは走る馬上から標的を射る技の事です。儀礼的な側面が強い流鏑馬とは違い、笠懸は実践的で有り独自の発展を遂げたと伝わります。

一方都では飢饉の影響が薄れて次第に通常に戻って来た事により、いよいよ平家が源氏軍討伐の準備を始めておりました。北陸道は都への食糧を運ぶ大事な街道なので、まず北陸道にいる義仲公を打ち滅ぼし、其の後に頼朝公を倒そうという計画です。起死回生を狙う平家の軍は平維盛が率いる10万の大軍でした。特に平家の地盤である山陰道山陽道南海道西海道の兵たちが集まりました。`東山道も近江、美濃、飛騨の兵が来ました。ところが東海道遠江より東の兵は1人も集まらず、北陸道に至っては若狭より北の兵が一人も来てない状態だったと伝わります。

都を発った平家軍ですが、なんと此の討伐軍は行軍の費用に充てる物資が足りておらず、道中における徴収権を与えられていたのです。通常の軍勢は足りない物資を地域の民から通常の3倍程の値段で買い付ける事が慣例でしたが今回は『徴収』でした。

平家軍は滋賀県大津市に有った逢坂関(おうさかのせき)を越えてからは、街道筋に点在する裕福そうな家に押し入って食料などのを軍事物資として略奪致しました。平家軍が街道に沿って略奪と乱暴狼藉を繰り返して行軍しましたので、地域の人々は堪らずに山野に逃げてしまったと伝わります。


次に続きます。