みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

木曽と東洋のストラディバリウス

木曽川水系八沢川の横を通る道路沿いに此のような案内板がございます。実は美しいイワナやアマゴが釣れる木曽の八沢川沿いには亜細亜が誇る巨匠が一時期情熱を費やした場所が有るのです。今日は其の偉人の話となります。
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小学館ビッグコミックに『天空の弦』と言う漫画が連載されておりました。其の天空の弦の主人公は陳昌鉉さんという方です。上の写真は其の陳さんが若い自分に苦労して技術を習得した地への案内板なのです。

此方が天下の弦の第1巻です。陳昌鉉さんと言う在日韓国人の半生を題材として描かれたおります。 
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失礼にあたる言い方でご親族様には申し訳ありませんが、陳昌鉉さんは韓国の貧しい農家のお生まれです。大東亜戦争中に日本に留学し明治大学を卒業され母国の英語の教師を目指しますが、母国は動乱の最中で帰れませんでした。其処で日本で英語の先生になろうとしましたが、国籍条項が存在し陳氏は韓国籍に為に叶いませんでした。

その後信州上田出身であり、日本の宇宙開発の父であり、国内有数のバイオリン研究家でもある糸川英夫博士の公演を聞き、其の中で糸川博士の『名器ストラディバリウスの再現は不可能である』と言う言葉に触発されバイオリンの制作を志したのです。ところが韓国人である陳氏の弟子入りを当時のマスター達は見送りました。此の時に陳氏は露骨な差別や偏見をストラディバリウス再現と言う夢の為に乗り越えてみせると心に誓ったと言われております。

そこで陳氏は当時日本有数の弦楽器生産地であった木曽福島の八沢川沿いに丸太小屋を建てて移住し、バイオリン製造工場への就職を試みましたが叶いませんでした。しかし強い信念の元に木曽川で砂利を取って生計を立てながらバイオリン造りを習得致しました。当時の木曽では弦楽器の各パーツ毎の分業制であった為に其々の工人達から教えて貰ったのです。此の事を思っても木曽の方々の優しい心情が伺えますね。陳氏は木曽で生涯の伴侶である李南伊さんと出逢い結婚したのです。

その後に行商に行った東京で桐朋学園教授でバイオリニストでもある篠崎弘嗣と出会い、其の才能を開花し調布市に工房を構えました。その後も意欲的に研鑽を積み重ね、自らが製作したヴァイオリンなどが『アメリカ国際ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ製作者コンクール』において6部門中5部門で金賞を受賞したこです。此のコンテスト始まって以来の快挙に世界中が湧きました。そして陳氏は東洋のストラディバリウスと称されたのです。

コレが『天空の弦』において、東洋のストラディバリウス誕生の瞬間の1コマです。正直泣けました!
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どちらかと言うと、自他共に認める極右の私ですが、陳昌鉉氏の生き方に大いに共感し心から尊崇の念を抱いております。私の本棚には今でも『天空の弦』全10巻が有ります。 
また陳さんは平成16年に木曽町に自らが製作したバイオリン『木曽号』を贈呈しております。写真は有名演奏家によるバイオリン魂いれの式典です。
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2012年に木曽町は陳昌鉉氏の記念碑を建てました。駐日韓国大使と当時の木曽町町長である田中勝己氏が除幕式を取り行っております。釣り師の皆さんは直ぐにお分かりかと思いますが、行人橋上流の道沿いに足湯の有る場所です。
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其の銘文は『懐かしきかな木曽福島 我が青春の夢のあと 朝な夕なに仰し木曽駒 八沢川のせせらぎに夢をみる 玉石の輝く日を』と有ります。陳氏は川底の玉石を自らに例え、やかては必ず輝けるように努力する事を木曽駒ヶ岳に誓っていたのだろうと思います。
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私の得意ポイントは八沢川出会いからの本流上流部ですので川から上がる際に此の記念碑は良く見かけますが、その度に地元の皆様の温かい御心を感じる次第です。

陳昌鉉氏は平成24年5月13日に調布市の自宅で82歳の生涯を閉じられました。現在の工房は2人の息子さんが後継者として工房を引き継いでおります。改めて偉大な東洋のストラディバリウスに合唱させて頂いた次第です。
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追記
私も天空の弦を読んで知ったのですが『ストラディバリウス』とは父親のアントニオ.ストラディバリと2人の息子が造った弦楽器をさします。単に『ストラディバリ』だとアントニオ.ストラディバリ個人をさします。

能面 最後は蛇に変身!

此のブログで何度も書きましたが、私の父は観世流能楽師でした。父と同門会の高弟の皆さまが千駄ヶ谷にある国立能楽堂で公演する際は私もよく一緒に連れて行って貰いました。

幻想的な能舞台の全景です。左から本舞台に通じる通路を橋掛かりと言いますが、此方から主人公のシテ方が出てきます。能楽協会さまのHPより
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子供心に特急(新幹線は未開通)に乗ってお弁当食べて東京に行くのが楽しみだったのです。父の高弟の皆様にも大変可愛がって貰いました。

シテ方です。橋岡会さまのHPより
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父の師でもあった重要無形文化財保持者の橋岡久馬先生にも何回かお会いさせて頂きました。橋岡先生の演じた新作能の『無明の井』は当時何も知らない小学生だった私にとって身体が震える程の迫力でした。

有りし日の橋岡久馬先生。よく我が家の近くに有った稲荷山温泉に来られておりました。食事は何時も橋岡先生オリジナル鍋を食べておられましたが、たまに母の打った更科蕎麦を召し上がっておられました。橋岡会さまのHPより
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知識も何も無い小学生の私が、初めて見た先生の芸に戦慄を覚えた新作能『無明の井』のポスターです。子供の私は時々夢に出て来てうなされました。
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此の面(おもて)は脳死の男の霊を演じたシテ方の橋岡先生がつけた面ですが、もの凄い存在感がごさいます。シテ方は赤頭の下に見える此の面を微妙に動かして表情を付けます。此の様に能面は能囃子と地謡をバックにしたシテ方の繊細な芸と相まって強烈な印象を見物人に及ぼすのです。今日のお話は此の能面についてとなります。

今回は女性の面に的を絞ります。女性の幽霊や老婆の面もございますが本日は品格の高い女性が嫉妬心により徐々に変化するさまをご覧下さい。

『増女』の面です。ゾウオンナと読みます。足利義満同朋衆の1人だった増阿弥(ぞうあみ)が創作した面です。品格の高い女性を現しております。
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『泥眼』の面です。此れは 嫉妬に苦しむ女性を現しております。目と歯に金泥を塗られております。髪の毛が少し乱れている事に注目です。人から妖に変化する途中の姿となりますが、もう人では有りません。
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『橋姫』の面です。橋姫には伝説が存在してます。橋姫ある理由で嫉妬心が深まり、自ら鬼になりたいと祈りながら宇治川の水に沈み、生きながらにして鬼になった方だと言われております。まだ何処となく人の悲しみが感じられますね。其の橋姫は京都宇治橋の近くにある橋姫神社に祀られております。
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『生成』の面です。頭の角はまだ皮に包まれてます。目の感じはとっても悲しげです。口の形や牙などは既に鬼になっております。有る意味一番強烈です。
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『般若』の面です。女性の内に秘める怨念を打ち出した面と言われております。しかし目の上の形は未だ少しの悲しみを持った表現となっているところに注目です。つまり本当の鬼では無いのです。
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『真蛇』の面です。般若から人の心を完全に無くし本当の蛇になったものを真蛇と言います。口が左右に大きく裂けております。そう言えば昔『口裂け女』と言う都市伝説が流行りましたね(笑)。表情も完全にぶっ飛んでおります。何れにしても此方が最終形となります。
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能面の種類はマイナーなもの迄数えると、おおよそ250程も有るといいます。其の中でも室町時代より安土桃山時代に打ちあげられた面を本面と呼び大事に保管されてまいりました。

また、能とは歴史上の故実を元にしており、志半ばでこの世を去った者や、男女関係のもつれで鬼と化した者などの不幸な魂魄を能を通して演じる事で、時が流れて人々から忘れ去られた魂魄が心安らかに天に昇ると考えられたのではないかと父から聞きました。

また、能と狂言は源を同じとしており、狂言は人が普段垣間見せる人間味や滑稽な行動に対する笑いの面を受持っておりました。私が国立能楽堂に父と同伴した複数回の公演でも必ず狂言が行われておりました。狂言師の芸に見物の皆さんと笑ったのを昨日の様に覚えております。

木曽の不思議

 

我が家の栗の木にも立派な実が付いてまいりました。秋に収穫して栗ご飯にするのが今から楽しみです。
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思うところ有って暫く遠征釣りは控えて家で土日を過ごす予定です。久しぶりの自宅で過ごす2日間なので色々家の仕事をしております。

さて、今日は何時も釣りに出掛けている木曽の七不思議の一つをご案内致します。決してスピリチュアル的な話では無く、なんで此処に?的な話しなのです。

渓流釣り自体が人の居ない山に入り込む特性上仕方の無い事ですが、木曽では色々な体験をしております。波長が合うのかどうかは定かでは有りませんが、此の地に来ると普段は感じないモノまで感じてしまうのです。しかし本日ご案内するものは、其の存在自体が『?』となった場所です。最後に私なりの考察を添えさせて頂きます。

其れが此方です。場所は型の良いアマゴやイワナが釣れる黒川沿いにございます。像自体は比較的新しいモノですが、前に対をなしている五輪塔は古いモノです。
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此方はお墓なのですが、従四位下天文博士の官職を持った安倍晴明の墓なのです。私が安倍晴明を知ったのは夢枕獏さんの『陰陽師』と言う本でした。以外と昭和中頃生まれ迄の先輩諸氏より、昭和後半から平成生まれの皆様の方が知名度が高く感じますね。

晴明は当時の律令制で申し上げますと、中務省に有る陰陽寮と言う団体に勤務しており、今で言えば文科省の役人の様な存在です。勿論此の時代の科学とは天文や暦などが主体ですが、 平安時代の中頃には物忌(ものいみ)や方位など陰陽道の禁忌が確立致しました。写真はコトバンクさまより
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安倍晴明が実際に活躍したのは50歳を過ぎた頃でした。天文や陰陽道の技を駆使して国益を狙っていた御方なのです。時の権力者である藤原道長に重用され、彼は85歳まで生きました。普段テレビで観る晴明は若い美男子ですが、活躍した頃は当時の平均寿命からしてかなり高齢でした。

小倉百人一首の一枚です。安倍晴明のお父さんは安倍益材であり、お母さんは『葛ノ葉』と名乗る白ギツネの化身であったと伝わります。此の絵は、お母さんの『葛ノ葉』と幼い晴明が描かれておりますね。白狐さんとは思えない美しい女性です。怪我をした白ギツネを益材が救った事が発端だと伝わりますが、天体や暦などの吉凶によって国の方向性を定める大事な政府機関に半妖の輩を召し抱えていたとは考え難いです。
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また、師匠は賀茂忠行と言います。此の忠行が凄い方でして、何と彼の家系は八咫烏にまで遡る名門の出自なのです。晴明は本当に良い師匠に教えを受け陰陽道を確立したのです。陰陽道とは陰陽五行思想から発生したモノとなります。

太極図です。
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実は安倍晴明のお墓は京都嵐山にも存在しております。此処には私も興味本位で晴明神社と合わせて訪問した事がございます。しかし此の他にも数箇所存在するのです。

像のみ拡大すると五芒星が確り黒印されてますね!
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直ぐ横に設置されている説明書きです。最後に木曽町と有ります。
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此の像は角度を変えて見ると、お母さんが白ギツネだったとう伝説が残っているだけに狐に見えます。道路側から写した方がより狐に見えたのですが、下手なボケ写真になってしまい、此の写真でお許し下さい。
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安倍晴明のお墓が多く存在しているのには、当時の深い理由が有ると思います。力のある陰陽師も怖い鬼も両方とも人外の力を持つモノとして、死後も同様に力を持っていると当時は捉えられておりました。

例えば信濃では魏石鬼八面大王 (ぎしき はちめんだいおう)、西国では京都大江山酒呑童子などに鬼退治に伝説がごさいますが、人ならぬものは死後に再び復活する伝承が有ったのです。魏石鬼八面大王は復活を恐れて身体をバラバラにされて各地に埋葬されました。此れは復活を恐れての事なのです。

切られた酒呑童子の首が源頼光を襲う光景です。此の時も晴明は陰陽道の秘技により酒呑童子の霊力を抑えたと伝説が残ります。此の様に首だけになっても鬼の霊力は消えないと考えらておりました。
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此れは私の推測ですが、有名な陰陽師である安倍晴明の身体や骨には特別な霊力が備わっており、其れを利用する良からぬ輩がおるやも知れぬ....と言う事で、恐らくは多くの墓を造り、其の所在を分からなくしていたのではないかと思います。

でもどうでしょう?京都に住んでいた安倍晴明を分かり易い同じ京都の嵐山に葬るでしょうか? 残された家族は恐らく安らかな鎮魂を願っていた筈なのです。

お墓が本物であった場合としての推測ですが、お墓が荒らされると分かっていながら近い嵐山には葬らなかったかも知れませんね。むしろ都から遠く離れた木曽谷にひっそりと葬ったかも知れません。此のお墓の有る土地は古くから晴墓士(せいばかせ)と呼ばれているそうですが、明治七年に清博士と改められて現在も残っております。ご興味の有る方は是非行ってみて下さい。あと3ヶ月もすれば広葉樹の素晴らしい紅葉に美味しい新蕎麦が味わえて最高の季節となります。

お盆と菩提寺の門の不思議  

今年はお盆の週にお休みを貰いました。信州人にとってお盆は年末の年越しと並んで特別な日なのです。特に我が家は本家にあたります。此処では紹介致しませんが色々な風習が存在しており、長男の私は忙しい日々を送ります。

床の間にお盆の盆棚を飾ります。31代まで遡り、ご先祖さまの戒名を書いた杉板を飾ります。我が家の由来は次の通りです。
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古来より更科の地に鎮座していた武水別神社という古社に、安和年間(968~970)において京都の石清水八幡宮より八幡神が勧請されましたが、我が先祖は京都より八幡神と一緒に更科の地に来た神職だったと伝わります。

お盆用の銀屏風を飾りご先祖様に楽しんで貰います。
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ご先祖さまにご飯とお酒と天ぷらなどの料理をお供えし、家族もその前で食事を行います。此れは我が家のご先祖さまの長旅の疲れを末裔の我々と一緒にご飯を食べて頂く事で癒す目的がございます。何故か何時も天ぷらが付いております。
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送り盆にはご先祖さまはお帰りになります。カンバの樹皮を玄関で燃やし、其の火と提灯の灯りでご先祖さまをお送り致します。

前置きが長くなりましたが、今回の主題は菩提寺の山門についての話です。

我が家の菩提寺である高円寺さんです。此方は中門です。
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参道には六地蔵さんがございます。
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此方が表門となります。此の造り込みは『高麗門』と言います。
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高麗門とは二本の本柱の上に切妻の屋根を乗せ、本柱の後ろ(内側)に其々の控柱を建て、本柱と控柱の間に小さい切妻の屋根を乗せた形式をさします。お城の城門や大寺院の門として用いられました。江戸城の外桜田門などが同じ造りですね。

正面からの撮影です。
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内側からの撮影です。門を支える四本の柱は全て正方形であり、一辺の長さが40cm弱も有る木材です。屋根や瓦など含めると相当な重量になる事は安易に想像出来ます。
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驚くのは此処からです。何と此の表門は四つの『敷石に置いてあるだけ』なのです。門の創建年代から考察すると関東大震災の頃には既に有りました。子供の頃は此の柱に登って遊んでおりました。何という罰当たりな子供だったのだろうと反省しております。

敷石です。
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此方の敷石には明らかにズレた跡が有ります。門に向かって手前側です。
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柱の下の部分には結構な厚みの銅板が装着され鋲(びょう)で止められております。恐らくは雨水や雪によ木材の腐食を防ぐ為でしょう。
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此の工法を『石場建て』と言います。門だけではなく、普通に一般住宅にも用いられておりました。一般住宅は敷石に組み込みで仕上げられた建物を乗せ、土に藁を混ぜ練り上げて土壁とし、其の上に重い瓦屋根を乗せて造られております。地震が来ると揺れますが、最初に重い瓦が落ちて建物を軽くし、其の後は泥壁の外側が落ちます。そうする事で地震から建物を守る仕組なのです。滅多に外れませんが、仮に敷石から柱が外れた場合は古来からの技法である曳家(ひきや)の技術で元に戻したと言われております。ただ置いてあるだけの木造建造物が其のままであると言う話は、時期が時期だけに関心を持った次第です。

大事なのは其の基石を置く下地であるとの事です。まず地面を基石よりかなり大きめに四角く深めに掘り、堀った周囲に平べったい石を穴が横に広がらない為に置きます。此れは横の力へのストッパーの役割をするらしいです。其の後土の上に小さめな砕石を敷いて大木槌てならし、今度は子供の拳骨くらいの石で中を埋めます。石同士の隙間が出来ない様に砂を入れ、更にその上に小さな砕石を敷いて、最後に極小の石を敷きます。仕上げは大きく重い木材を三脚で吊るしては落として固めるとの事です。奈良の正倉院などは、柱ではなく建物より広く此の工法を施行してあり、東寺の五重塔に代表される高層木造建築は通常よりかなり深く広く土台を固めているとの事でした。

以上は送り盆の時に住職に教えて貰いました。

お盆で帰郷 年一回の渓

宮崎県で起きた地震により、多くの人が住宅の倒壊などの被害を受けました。記録的な猛暑の中ですので御身体の具合が心配です。被害者の皆様には心からお見舞い申し上げます。

また、『来たか!』と言う感じですが、南海トラフ地震臨時情報巨大地震注意の一報と、連続的に起きた神奈川県西部地震による相模トラフ(大正関東地震M7.9)地震発生の思惑により、3週間程は釣りを自粛しようと思ってます。もしもの時に家に到着せずでは親として情け無いと考えた次第です。

私は全く門外漢ですが、量子力学と言う学問では、皆が心配すると『心配の殆どは実現しない』と言われているみたいです。本当にそう願いたいモノですね。

心配事は此処迄として本題に戻ります。

今回入った渓流には蝉の抜け殻が河原の所々に有りました。土の中で幼虫として3年〜5年も過ごし、地上に這い上がると脱皮し成虫になりますが、短い個体だと1週間の命だと言われております。ミンミンうるさいですが、彼等なりに精一杯生きている証拠ですね。
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毎年の事ですが、今週はお盆の夏休みで更科へ帰省致しました。そして迎え盆の前に今年入りたいと思っていた姫川水系の小沢に向かいました。此処は学生時代に父親の車を借りて、ひたすら彷徨って探し出した小沢の一つです。当時は尺を超える立派なヤマメが多く釣れました。  

白馬は極めて不思議な地域でして、中央構造線がほぼ真ん中に有り、東は飛騨山脈に連なる古代の岩石で、東側はフォッサマグナ(巨大な割れ目)に溜まった積載物となります。今回は東側の谷でした。

この川は高い堰堤が多く、ピンポイントで釣って、再度林道に戻って上流のポイントに移動しなければなりません。釣りの出来る場所が少ない為か分かりませんが、林道沿いの農作業の方に聞いても釣り人を見た事がないと言っておりました。
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横は左右ともに蕎麦畑です。蕎麦食い人の私は秋の新蕎麦が待ち遠しく感じました。
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最初の堰堤ではいきなり尺イワナが釣れてまいりました。放流のない小沢ですので全て天然モノになります。車に帰らず移動しましたのでタオルの上で撮影致しました。姫川水系は渓石の色と同じで白っぽいイワナが多いのに、何故か此の川のイワナは黒っぽい山のイワナです。
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次の堰堤は25cmと26cmでした。熊さんが怖くてシャネルズの『ランナウェイ』を大声で歌いながらのバカ丸出しの釣りです。曲のサビの部分で竿がブレるのが我ながら情けない醜態でした。
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此の沢は姫川本流からも遡行が出来ず、余りの落差と酷いボサの為に林道から釣れる場所は3ヶ所しか有りません。いよいよ最後の滝壺でしたが、到着してみるも滝壺は跡形も無くなっており、結構早い流れの深瀬になってました。

深瀬を自作の浮き玉釣り釣方で流すとズンッと来る良いアタリが出ました。横走りされたら直ぐに木の枝の餌食です。0.8号と言う太糸の利点を活かして抜き上げました。魚は尺には満たないが太い良いヤマメでした。そして此のポイントでは骨酒用の2匹を追加致しました。渓魚好きな母親のお土産には此れで充分です。
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帰り道には白馬駅周辺に寄り道して白馬三山の山の神に御礼申し上げました。
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白馬には真夏でも溶け出さない『大雪渓』が存在しております。涼しく夏はとても過ごし易い場所です。ザ.ジャパンアルプスさんのHPより
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白馬のお土産は此れです。地酒の『大雪渓』です。信濃のお酒は『旨み』が強く、飲み飽きないので呑兵衛の私には際限なく呑んでしまう魔物でも有ります。一升買っても直ぐに呑んでしまうので、今回は750mmにしました。天然イワナの塩焼きを肴に今晩やらせて頂きます。
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木曽川 イワナとアマゴ釣り 梅雨明け

連日猛暑が続いております。此の時期の釣りは朝方のマズメ時か標高の高いポイントでの釣りになります。今週は急に更科の母の事が気になりまして帰郷する事になり、其のついでに立ち寄りました。

道の駅に朝顔の花が今も盛りに咲いておりました。朝顔の花の紫がかる透き通る青は何時見ても癒されますね。
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今日は吉田洞門横の本流に入りました。此のポイントは川に降りても、護岸の上からも狙える貴重なポイントです。『ズクなし』(注1)の私は楽チンな長靴の釣りです。ただ水面の上から釣ると下流部は魚に丸見えなので釣れません。長竿を使い軽い錘で必ず自分より上流に振り込む必要が有ります。

此の時期の第一投は一番の大物チャンスですから慎重に振り込んでみると、思っていた位置で浮玉目印を吹っ飛ばす派手なアタリと共に28cmの太いアマゴが釣れました。
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此の深瀬では数が出ました。餌は黒川虫さんなので他の川虫より重く、錘は4号をメインに使いました。羽虫が湧きやすい此の時期はイメージ的に底では無く中層の釣りです。
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此の上にはメインポイントの堰堤が有りますので勇んで釣り上がったのですが、何と先行者がおりました。見たところ若いルアーマンです。渓流釣りでは先行者を追い抜いてはいけない鉄の掟が有ります。仕方ないので撤退致しました。

実釣距離はたった200mですが、此処での釣果です。
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今度は仲間と合流し支流の上流部に入りました。水量が減っているので遡行が楽チンです。此処でも此の川らしいイワナが微笑んでくれました。

綺麗なイワナが釣れて先輩もご機嫌です。此の時期の上流部は涼しくて帰りたくなくなるのが辛いところなのです。
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結構型の良いサイズです。
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クーラーの上で失礼致しますが、此処のイワナは本流とは異なり、とってもワイルドです。
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暑いのと前夜寝ていない事も有り、8時30分にはグッタリして釣りを終えました。先輩方が道の駅木曽福島の朝ご飯を食べた事がないとの事でしたので、お腹も減ったし向かう事に致しました。此処の道の駅からの見晴らしは最高です。また販売している地元味噌も絶品でして、うちの会の名誉会長は何時も購入しております。

ちょっと欲張り過ぎました!
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2人の先輩方も満足されてらっしゃいました。
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帰りには何時もの南宮神社に参詣し、身を清めて更科への帰路につきました。

空には美しい吉兆を呼ぶ『彩雲』が見えます。実に有難い事です。
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注釈

『ずくなし』とは信州の方言です。実は此の方言は当てはまる類語が無いのですが深い意味があるのです。私のブログの名前にも有る『みすゞかる』とは信濃の枕詞となります。湿地の葦の根元に水際を浮遊する鉄バクテリアが付着し、其れを葦ごと刈り取り、根元に付着した鉄の部分だけ集めている事を現しております。此の付着した鉄を渇鉄鋼と言いますが、分かり易く言うと天然の錆です。長くなるので途中は省きますが、此れを熱して鉄を造る過程で溶けやすい鉄分の多い鉄が先に溶け出し、此の鉄分の多い鉄を銑(ズク)と言います。此の銑は本来造りたい鉧(ケラ)と混ざれば不純物が多過ぎますので、土の炉に穴を開けて外に出します。実際に粘度が薄くサラサラと流れ出します。此処まで葦の刈り込みから本当に大変な労力を使うのです。銑が流れ出せば鉧は概ね完成しているイメージなのです。

従って本文中の『ずくなし』と言う信州の方言は『大変だから其の事に向かう事に躊躇してしまう』のような微妙な意味合いなのです。因みに信州諏訪地方では縄文時代から渇鉄鋼による製鐵が行われておりました。

山浦真雄研ぎ上がり 1年2ヶ月ぶりの対面

昨年の5月連休中に研ぎに出した山浦真雄の長巻直し刀が研ぎ上がってまいりました(皇紀2683年5月20日掲載)。研ぎ師は府中に工房を構える春藤秀樹先生です。今回は通常の研磨では無く上研磨でお願い致しました。刀は長巻直し刀で有り『正雄』銘となります。『正雄』の銘は嘉永元年から嘉永3年くらい迄の上田打ちで有り、嘉永4年8には『真雄』に変わっております。

代金は既に振り込みました。金額は265,000円です。恐らく皆様は高額に感じると思います。此の代金には白鞘の制作代金も含まれております。

研磨の工程をこのブログで書くと膨大な文章になりますので省きますが、簡単にご説明させて頂きます。まず下地研ぎが金剛砥→ 備水砥→ 改正名倉砥→ 中名倉砥→ 細名倉砥まで研磨し、この後に鞘師に白鞘制作に回します。その後の仕上げ研ぎは 内曇地砥→内曇刃砥→刃艶→地艶→拭い→刃取り→磨き→ナルメ→流し入れとなります。此れが上研磨となると内曇砥から刃艶及び地艶などの各工程に費やす時間が更に多くなるのです。実は実際に研磨の仕事を見ると期間及び金額とも充分に納得出来る内容となります。つまり研師が居ないと刀は出来ないのです。

此方は研磨に出す前の正雄です。所々に錆が出て、地も刃も白くボヤけてます。
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此方が研ぎ上がりの正雄です。写真が下手で申し訳ありません。
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出す前はハバキが錆が酷くて外せませんでした。
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此の様に黒錆になり帰ってまいりました。
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では此処から研ぎ上がりの地刃を片面のみご案内致します。

刃中に走る金筋や平地に重なる鉄が粘る感じが見て取れます。
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此の写真は地鉄が良く見てとれます。
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刃縁が冴えて見えます。
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少しづつ上にずらして撮影しております。
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鉄質が下から上まで均一の鍛えに見えます。
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切先です。光って見えておりませんが帽子は尖っており、かなり深くまで焼き下げております。
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春藤先生のお話では『久しぶりに正雄を研ぎました。兄の清麿もそうですが新々刀なのに此の兄弟の刀は鉄が柔らかく研ぎ易いのです』との事でした。

家に正雄を持ち帰り撮影しながら鑑賞しておりましたら、4時間が経過しておりました。今後は我が家の守刀になって頂きたく正雄に拝礼した次第です。