みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

物に宿る人智

江戸時代までは、全国に存在した各藩の財政の為、独自の焼物が焼かれておりましたが、明治期以降の安価な焼物の流通により、其の殆どが途絶えてしまいました。f:id:rcenci:20260613093813j:image

我が故郷の焼物の代表は、何と言っても故唐木田又三先生が復元された真田家十万石が奨励した『松代焼』となります。

松代焼は途絶えておりましたが、中学校の美術教師をされていた唐木田又三先生が復元されたのです。他に先生の手掛けたものは『青磁』と、独自に編み出された『寂焼』がございます。

唐木田陶苑さんのHPに載る在りし日の唐木田又三先生です。教育者の側面を持つ郷土の偉大な陶芸家です。f:id:rcenci:20260613093814j:image

私は幾度となく二代目の唐木田伊三男さまが営む唐木田陶苑さんを訪問しておりますが、ニ回ほど隣室に有る又三先生の遺品を拝見させて貰いました。

其処には、又三先生が手掛けた何れも傑作と思える作品が多く展示されております。松代焼は勿論ですが、心血を注がれた青磁器など、多岐に渡る名品がございました。

中でも『青磁』の『氷裂文二重貫入』作品には目を奪われました。展示されていたのは二点ですが、二つ共かなりの大きさで有り、一つは姿が美しい大壺、もう一つは松永久秀が抱いて爆死した平蜘蛛にも似る大きな花器でした。

私が唯一保有してついる又三先生の青磁氷裂文二重貫入の酒杯です。此の色を出すには季節に合わせた難しい釉薬の調合が必要となります。f:id:rcenci:20260613093949j:image

二重貫入は杯の底部分と外側の上部に現れております。此れでも当時は購入に際して二の足を踏む金額でした。f:id:rcenci:20260613094008j:image

奥さまに、展示作品は売り物かと聞くと、キッパリと否定されてしまいました(笑)。恐らく先生が限界へ挑戦された作品だと思います。非売品ですが此の大きさですと、買うと致しましたらゼロが6つ程だろうと思います。

何故此の青磁の二重貫入が限界の陵域かは後に御案内させて頂きます。奥さまには、チャンスが有れば購入させて頂きたい旨を、話しましたが、恐らくは難しいだろうと思います。

何故なら先生の遺品もそうですが、他の分野の名品類なども、総じて収まるべき所に収まっているからです。持ち主が他界し、後世に子孫が売りに出した折に初めて世に出てくる流れは名刀と一緒なのです。

焼物は大物になる程、重力により造形が困難になり難易度が増します。更に焼成時には窯内で大きく場所を取り、コストパフォーマンスは最悪です。追い討ちを掛けて青磁は焼物の中で殊更に困難を極めるものであり、独特の翡翠色を出すには熟練の技が必要になります。ましてや二重貫入は、青磁の表現における一つの頂点なのです。

此れは先生の作品では有りませんが、東京国立博物館が収蔵する砧青磁の名品です。青磁は此の様な翡翠を思わせる澄んだ青緑が特徴です。青磁こそは東洋陶磁の頂点と称される焼物となります。f:id:rcenci:20260613094212j:image

其の青磁の中でも最高峰と称される氷裂文(二重貫入)こそは、完璧な迄に均一に造られた素地に釉薬を厚く何層も掛け、最初のヒビ割れの後に、更に他の釉薬層との収縮率の時間差で、違う角度からヒビ割れを生じさせる超絶技法なのです。

よって温度管理にムラがあったら規則正しい二重貫入は絶対に入りません。成功率は極めて低く、唐木田陶苑の別室に展示されている青磁の二重貫入作品は、気の遠くなるような失敗の上に焼かれた正真正銘の傑作である事は明白です。

実を申しますと、今回そんな又三先生の作品を偶然にも売り物が出てまいりまして、他から買い付ける事と相成りました。

其の作品が此方です。供箱の大きさは縦が60cm、横が48cmもございます。箱書きは間違いなく又三先生の揮毫です。購入に当たっては、ブラックライトで時間を掛けて割れが無いか確り確認させてもらいました。f:id:rcenci:20260613094105j:image

作品の方量は縦が47cm、横が39cmの徳大サイズです。全ての面に完璧に規則正しい二重貫入が出現しております。家でゆっくり見た時には鳥肌が立ちました。思うに人の成せる技前を遥かに超えている作品に感じております。f:id:rcenci:20260613094125j:image

此の澄み渡った釉薬の奥底に見える景色こそが、氷裂文と言われる二重貫入です。火の神さまの気まぐれと先生の技法が融合した一大作品でした。f:id:rcenci:20260613094338j:image

此れだけの大物にも関わらず、コントロール不能である二重貫入が均一に施されている事は驚嘆以外の何モノでも有りません。

品物が私の部屋に来たのは先週です。其の夜は又三先生の作品を眺めておりましたら、気が付くと深夜の2時を過ぎており、明日の為に急いで床に着きましたが、興奮して朝まで眠れませんでした。f:id:rcenci:20260613094324j:image

先生は、其の著書である『日記抄』で以下の様に語っておられます。幾つか抜粋しながら御案内させて頂きます。

青磁とはなんと寡黙な表現手段であろうか、単色の単純形に全てを賭ける....。

実現の技術的な困難さは何という酷いものだ。オルガンのー音に全てを委ねようとするのと同じだ....。

火神の偶然の手が夢に描いた材質の片鱗を現出して見た時、作者はそれを遠くから来た物のように驚いて見入るだけだ...。

特に最後の文章は、青磁の二重貫入が、どれほど困難を極める作品であるかを物語っていると思います。『遠くから来た物のように驚いて見入るだけ』の表現には、今でも戦慄を覚えます。

今宵も又三先生の作品を眺めながら、二代目の伊三男さまが造った特大の酒器で、熱いお酒を頂いております。肴は又三先生が発案された寂焼の皿に乗った静岡名物の炙り黒はんぺんに辛子を添えたものです。

私は唐木田又三先生が哲学的な書物を書いておられた理由が、此の作品を手にして初めて其の片鱗の更に端っこだけ解りかけてまいりました。有難い話です。f:id:rcenci:20260613094355j:image

何年か前に二代目の伊三男先生の作品を買い付けた時の品々です。f:id:rcenci:20260613094411j:image

趣味の話になると、取り止めも無い話となるきらいがございます。どうかお許しください。

天叢雲剣に纏わる話

以下は先週からの続きとなります。f:id:rcenci:20260606100112j:image

天叢雲剣は熱田神宮に奉安されて以来、誰も其の実物を見てはいないとされております。ところが、歴史上一度だけ、人が見た記録が残されているのです。其れは玉籤集(ぎょくせんしゅう)と言う書物に記されております。

此方が玉籤集(ぎょくせんしゅう)です。f:id:rcenci:20260606100130j:image

玉籤集は、江戸中期の神道家あった玉木正英が著した神道書であり、天叢雲剣の具体的な形状を伝える貴重な書物の側面も持ち合わせた貴重な古文献となります。

まるでフィクションの様な話ですが、学生の時に恩師から教えられた時は本当に驚きました。玉籤集は国文学研究資料館に完全な写本か残されております。

江戸初期に熱田神宮の大規模改修が行われ、其の折に不埒な一部の神官達が御神体を盗み見た実話が玉籤集に残されているのです。

其の概要の話しとなりますが、江戸時代の享保年間(1757年頃)に、宝庫である『土用殿』の改修の際に、熱田神宮の神官達が実物の草薙剣をドサクサに紛れて盗み見てしまいました。此れには天照大神さまも、さぞ驚かれた事だと思います。

熱田神宮の土曜殿です。余り馴染みが無いかも知れませんが、宝庫造(ほうこづくり)という神聖なものを奉安する特別な建築物となります。同じ宝車では奈良の正倉院が特に有明です。f:id:rcenci:20260606100143j:image

御神体を盗み見た神管達は次々と死にました。そして、最後の一人の神職が、どうせ死ぬならと宝剣の概要を細かく書き記したのです。以下は玉籤集の裏書に記されている内容を分かり易くしたものです。

草薙剣が安置された土用殿に入った神職たちの行く手には、雲霧が湧き上がって何も見えない状態であったと有ります。扇子であおいで雲霧を払い、御神体を確認しようとすると、五尺ほどの木の箱が有り、木の箱の中には更に石の箱が有って、二つの溝は赤土で埋められていたと有ります。

此方が雲霧ですが、此れの濃いモノが立ち込めていたと有ります。嗚呼、恐ろしや....考えただけでも身震い致します。f:id:rcenci:20260606100201j:image

Wikiにある赤土です。赤土とは酸化鉄を多く含む土となります。f:id:rcenci:20260606100211j:image

石の箱の中には、更に中をくり抜かれた楠の丸木が収められており、石の箱と楠の丸木の間も赤土で確りと埋められていたそうです。

楠という木材には樟脳(しょうのう)が含まれます。古来から防虫剤の役割も担っておりました。とても良い香りが致します。f:id:rcenci:20260606100225j:image

丸木の内側には黄金が敷かれており、その上に御神体が鎮座していたとあります。御神体の長さは二尺七寸〜八寸、剣の先は菖蒲の葉のようだと有ります。中ほどがムクリと膨らんで厚みがあり、手元の方の六寸ばかりは魚の骨のように節があったそうです。色は全体的に白い色をしていたと有ります。

2尺7寸〜2尺8寸とは、約81cm〜85cm程の長さとなります。柄が凡そ6寸と有りますから約18cmとなります。そうすると刃長は63cm〜67cmほどになると思います。此の寸法を考慮致しますと、少し短めの刀の長さになります。

剣の先は『菖蒲の葉のようだ』と有りますが、私のイメージでの剣先は此の様な感じです。中程が『ムクリ膨らむ』とは、左右の刃部分の少し下方が膨らみを持つ姿だと思います。玉籤集に記された草薙剣の概要は以上となります。f:id:rcenci:20260606100242j:image

石、赤土などが幾重にも重なる様子は、放射性物質を閉じ込める形態のような気が致します。記紀には、第十代崇神天皇が天叢雲剣(草薙剣)を宮中から出したと有りますが、もしか致しましたら、宮中から出さざるを得なかったのかも知れませんが、あくまで憶測となります。

勿論、草薙剣の詳細を残された方もお亡くなりになられたそうです。御神宝に対してアレコレ想像する事は不敬に当たりますね。お許しください。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)により、八岐大蛇の尾から切り出された天叢雲剣は、天照大神に渡り、天孫降臨の折に瓊瓊杵尊に授けられ、八尺瓊勾玉と八咫鏡と共に地上に降りてまいりました。

神仏画師の持田大輔先生の八岐大蛇です。f:id:rcenci:20260606100252j:image

其の後は前述の通り、崇神天皇により、宮中から出され、伊勢の神宮に奉安され、初代斎王として伊勢へ派遣されていた倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊へ渡りました。

駿河国の草薙の地で日本武尊により振るわれた後に、尾張の地で宮簀媛の手により祀られた事を思いますと、其の由来を熟知していた神官達の所業は恐れ多過ぎて、思うだけでも震えがまいります。

まだまだ、天叢雲剣については、色々な伝説が有りますが、記紀と現存している書物に記された内容を御案内させて頂いた次第となります。

草薙剣ゆかりの地

私の34年間における社歴と致しましては、八王子→横浜→大森→池袋→渋谷→柏→浅草→大手町→三重県松阪→2回目の横浜→静岡と多く赴任しておりますが、今回の静岡では思わぬ遭遇がございました。今日は其の話となります。f:id:rcenci:20260531112921j:image

静岡には、三種の神器の一つである草薙剣(天叢雲剣)の名前の由来となった土地が有り、尚且つ其の古事を残す神社が存在していたのです。驚きました!

其の神社は此方です。f:id:rcenci:20260531112939j:image

第十二代景行天皇の皇子である日本武尊が、駿河国で敵に計られ、四方から火を放たれた折に、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から授かった天叢雲剣を抜き、足元の草を刈り払い、迎火を持って火攻めを防ぎ、無事に脱出した古事に由来する土地が正に此処だったのです。

全く知らなかった小生は、恥ずかしながら仕事中である事を忘れ、気が付くと2時間ほど立ち寄ってしまいました。

県社草薙神社と有ります。社伝によりますと、父君である景行天皇が御創建されたとございます。f:id:rcenci:20260531112958j:image

石垣の上の左側に、立派な日本武尊の石像がございました。此の像を前に致しましたら、気持ちは最高潮に達しておりました。f:id:rcenci:20260531113011j:image

境内の御神木が神々しさを感じさせます。諏訪大社にも此のような括れた御神木が有りますが、日本を横に分断する中央構造線の影響と聞いております。対して此の地は日本列島を縦一文字に分断している糸魚川静岡構造線の端っこに当たると考えますが詳細は分かりません。f:id:rcenci:20260531113024j:image

神門には立派な随神さまが御鎮座されておられました。f:id:rcenci:20260531113035j:image

随神さまは、宮中を警護する近衛府の舎人が『随身』と呼ばれ、『身』が『神』になった者と聞き及んでおります。f:id:rcenci:20260531113054j:image

本殿です。心を込めて参拝させて頂きました。f:id:rcenci:20260531113102j:image

草薙剣は現在熱田神宮の御神体として鎮座されております。せっかくなので、熱田神宮の御神体となった経緯も本日は合わせて御案内させて頂きます。

日本武尊です。歌川国芳画f:id:rcenci:20260531113112j:image

伊吹山の荒ぶる神を討ち取りに出かけた日本武尊は、現地で尾張国造の娘である宮簀媛(みやずひめ)と御結婚されました。其の後、満を辞して伊吹山に向う折に、留守中の妻を守る為にと、天叢雲剣を置いて出陣されたのです。

伊吹山です。f:id:rcenci:20260531113127j:image

日本武尊は山中でいきなり白猪に遭遇致しましたが、『これは荒ぶる神の使者であろう 今は殺さず帰る時に殺そう』と仰り、その場を通り過ぎました。しかし、実は其の白猪が正に敵であり、其の毒気にやられて命を落とされてしまいました。

一番の武具を置いて戦いに出掛けた事、敵と遭遇しても油断されていた事などは、後世に様々な教訓を残す事となりました。中でも『言挙げ』による『慢心』と言う教訓が色濃く残ったのです。

現在で言うところの『言挙げ』とは、周囲の状況を慮らず、自らの主張のみを声高に主張する事を指します。日本人は自己主張しない民族と揶揄されますが、実は英雄の失敗談から学んだ教訓の一つなのです。

万葉集にも『言挙げせぬ国」と言うくだりがございます。日本では、言葉に『言霊』と言う神の力が宿ると考えられていた為、むやみやたらに、調和を壊す一方的な自己主張は古来からの禁忌となって今日まで伝わっております。

大和民族の『大和』は大きな調和です。つまり本当の『大和魂』とは、人々の心が通じ合う平和な世の中を現す意味だと知識人が綴ったもので知りました。実に尊い事だと感じ入った次第です。

宮簀媛と日本武尊です。f:id:rcenci:20260531113141j:image

話を戻します。残された宮簀媛(みやずひめ)は、日本武尊の草薙剣を祀る社を建てました。此れが現在の熱田神宮となります。

父君から死地に何度も送られ、やっと心通じ合う御令室を得た日本武尊です。1人残す妻を気遣い、天叢雲剣を妻の元に置いて行かれた事も、不敬な言い方ですが、充分に理解出来ます。心優しい日本武尊を思い浮かべながら、草薙神社に参拝させて頂いた次第です。

さて、熱田神宮に収めらた草薙剣ですが、世の中には罰当たりが居りまして、飛鳥時代に一度盗難に遭いました。日本書紀には『道行』と言う半島出身の僧侶が天叢雲剣を持ち出し、海を超えて故郷の新羅に逃げようとしたと有ります。最近の事例は仏像でしたね(笑)。

ところが、道行の船は途中酷い嵐に遭遇し、日本に戻ってまいりました。道行の逃亡劇は直ぐに終わり、天叢雲剣は宮中に戻った後に、天武天皇の時代に再び熱田神宮に戻されました。

誤解の無いようにお伝え致しますが、神器には形代(かたしろ)と言うものが必ず存在致します。つまり、御霊分け(みたまわけ)された物となります。安徳天皇と壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣も形代となります。

Wikiに掲載されている三種の神器の想像図です。f:id:rcenci:20260531113155j:image

因みに三種の神器の本体は下記の通りに安置されております。

※ 八尺瓊勾玉は、本体が皇居の宮中三殿の賢所に奉安されております。

※ 八咫鏡本体は本体が伊勢の神宮に御神体として祀られ、皇居には形代が奉安されております。

※ 天叢雲剣は本体が熱田神宮に祀られ、皇居には形代が奉安されております。

刀剣の趣味を持つ者にとって天叢雲剣を知らない方は居ないと思われます。私も御多分に漏れず色々な文献を読みました。中には日本国際情報学会誌に発表されたフランクリン・ルーズベルト大統領の呪詛説などの恐ろしい論文もございます。

憶測の域は別と致しましても、天叢雲剣には確りと其の形状が記されている文献が残っております。内容は極めて罰当たりな話しとなりますが、次回其の話をさせて頂ます。

鰻好きな母

 

更科の自宅から千曲川の本流迄は指呼の間となります。当時の千曲川は水量も多く、様々な川魚が豊富に生息しでおりました。川漁師の方も多く居り、アカシアの花の咲く頃には風物詩の『つけば小屋』が河原に立ち並んだものです。f:id:rcenci:20260523092456j:image

そんな川の幸が豊富な環境下におきまして、我が父と母は特に鰻に目がなく、何かの記念日には、母が地域に有る加藤鯉屋と言う川魚専門の鮮魚店から鰻を買って蒲焼にしておりました。f:id:rcenci:20260523092516j:image

私の鰻捌きも母直伝となります。そんな訳で帰郷の折、母に何か食べたい物があるかと聞いた折は、決まって鰻と答えてまいります。

今年も帰郷した5月の連休に、母、小生、次女、妹夫婦の5人でドライブを兼ねて飯山市の『うなぎの本多』さんへ向かいました。過去も本多さんの記事を掲載致しましたが、此度も重複する事をお許しください。

本多家は有名な本多正純(ほんだ まさずみ)の家計に連なる一族です。本多正純は家康公の頭脳として活躍していた知将でした。写真は懐かしの真田丸に本多正純役で出演されていた名優の近藤正臣さんです。f:id:rcenci:20260523092530j:image

近藤正臣さんは、アマゴ釣りの聖地である郡上八幡町に40年以上通い詰める釣り師でして、同じ趣味を持つ者として大いに好感を抱き続けております。f:id:rcenci:20260523092609j:image

宮田釣具店の郡上竿や、郡上ダモ、または其の自然な釣り姿を見れば自ずと氏の技量が分かります。

飯山藩の重役となっておられた本多家は、廃藩置県の後で飯山の皆さまに美味しいものを食べて元気になって欲しいとの願いで此の店を始めたとの由来がホームページに載っておりました。私が贔屓にしない理由は見当たりません。

運転は妹が致しましたので、私は地酒で一杯やらせて頂きました。青釉の小皿に乗っている物は、季節の山椒の若芽を擦り合わせ、信州味噌と和えたものです。冷酒が止まらなくて困りました!f:id:rcenci:20260523092558j:image

肝心の鰻重です。本多さんは割とあっさりした味付けとなります。勿論ご飯大盛りでした!f:id:rcenci:20260523092829j:image

母と妹夫婦の喜ぶ顔を見ていると、此の後の会計の不安も消え去りました(笑)。次女も生意気にペロっと平らげておりました。

鰻の後は妹が歩いていける距離に有る地元の名店パティスリーヒラノに行きたいとの事でした。確かに此処のケーキは美味しいのですが、ほろ酔いの小生には、甘い物の想像さえも難しく、第二ラウンドは別行動となりました。

パティスリーヒラノは休日ともなれば、こんな山奥にも関わらず行列が出来る超有名店です。f:id:rcenci:20260523092851j:image

名物のバナナボードです。f:id:rcenci:20260523092906j:image

私は地元の地酒店に立ち寄りました。此方の田中屋酒造店は、銘酒『水尾』を醸す県内指折りの名店です。f:id:rcenci:20260523093005j:image

特に幻の金紋錦と言う酒米で醸した純米酒は芳醇であり、尚且つ切れかある飽きの来ない飲み口となります。今宵は義弟とやろうと一升瓶を購入させて頂きました。f:id:rcenci:20260523093032j:image

母と妹夫婦と次女は、美味しいケーキを食べてご満悦で車に戻ってまいりました。母も86歳になりましたが、可能なら後10年は連休に連れて来たいと願った次第です。

奥信濃である飯山は少し行くと有名な野沢温泉がございます。特に春は信州でも指折りの絶景が周囲を取り囲んでおります。お近くまでお越しの際は是非お立ち寄り下さい。f:id:rcenci:20260523093051j:image

信濃秦氏の話  3

渓友会の名誉会長から難波の空に輝く素敵な日輪の写真を送って頂きましたので、此の場にて御披露させて頂きます。f:id:rcenci:20260516103630j:image

さて、今週は其の後の信濃秦氏の話となります。一族は更科から拠ん所無い事情により、離れる事となりました。まず、其の拠ん所無い事情から御案内させて頂きます。

保元元年に勃発した日本史上稀に見る本格的な内乱と致しまして、『保元の乱』がございます。天皇家の皇位継承争いに複雑な摂関家の内紛が複雑に絡み合い、更に源氏及び平氏が二分し、其の余波は地方に迄及ぶ大戦となりました。

古くは坂東での平将門公の乱の後に、功績の有った武家が歴史上初めて貴族の官位を授かり、更に低く見られて来た武家が此の保元の乱の大活躍により、逆に世の中に台頭して来た歴史の転換点とも言える大乱でした。因みに、初めて昇殿を許された武家はのは八幡太郎義家公です。f:id:rcenci:20260516103657j:image

後白河天皇を筆頭に伊勢平氏の棟梁であった平清盛公、公家では藤原忠通卿、源氏では源義朝が勝ち組となり、崇徳上皇、平忠正、源為義公が負け組なりました。勝利の要因は、正統な皇軍同士にも関わらず、後世に卑怯とも揶揄される後白河天皇側の夜討ちでした。此の夜討ちを提案したのは頼朝の父で有る義朝となります

破れて讃岐に流されてしまった崇徳上皇陛下です。(歌川国芳)f:id:rcenci:20260516103735j:image

今回主題の信濃秦氏は崇徳上皇側の陣営に参戦して大敗北を喫してしまいました。後世に鎌倉幕府崩壊から室町幕府に至った時と同じで、中央の争いは必ず諸国に明暗を分ける戦いを招きます。

白川殿に夜打ちをかける後白河天皇軍の絵が残されております。f:id:rcenci:20260516103820j:image

其の折の信濃秦氏の棟梁は秦能俊(はたよしとし)と言う人物でした。能俊公は配下と共に崇徳上皇のお側に仕えていた為、更科への帰参は叶わず、瀬戸内海を渡って土佐国長岡郡宗我部郷まで落ち延びたのです。秦能俊公は、掃討部隊が一族が住む更科への急襲を恐れ、当然信濃にも急使を走らせた事だと思います。

有名な土佐の桂浜です。秦能俊公も此の景色をご覧になっておられた事だろうと思います。f:id:rcenci:20260516103848j:image

土佐は東西と北の三方が急峻な山々となっており、オマケに南側は海が広がっており、当時は正に陸の孤島てした。また、此の地は古来より流刑の地でもありました。其の地に自ら飛び込むとは、歴戦の秦氏らしい選択だと考えます。

土佐に入った秦氏は、岡豊(おこう)と言う場所に城を築きました。写真は岡豊城跡です。f:id:rcenci:20260516103859j:image

岡豊(おこう)は現在の南国市にあたります。此の地を中心に勢力を広げていった秦氏は、やがて長岡郡宗我部郷の地名に習い、宗我部氏を名乗りますが、近隣に同姓の宗我部氏が居り、揉めた挙句に長岡郡の『長』を用いて長宗我部を名乗るに至りました。

岡豊城は土佐の此の位置に有りました。f:id:rcenci:20260516103910j:image

日本を二分する保元の乱の敗者側となってしまった秦能俊公ですが、後の偉大な長宗我部氏の基を此処に築いたのです。更科において基盤を築いた様に、土佐でも以後二十余代を数える家系の礎となりました。

土佐と其の周辺地域は穏健な信濃国更科とは違い、『土佐七雄』と称される程に強い国人領主達が存在し、歴代の長宗我氏棟梁は苛烈な激戦を繰り広げましたが、次第に両地を広げていきました。紙面の都合で此の辺りの御案内は省きますが、本当に凄い駆け引きと戦いだったのです。

関船です。f:id:rcenci:20260516103932j:image

また、後々の長宗我部氏は地元の海賊であった池頼和(いけよりかず)と言う国人領主に一族の女性を娶らせて味方に引き入れました。此の事が次に大きな飛躍に繋がります。

その後の長宗我部氏は厳しい戦いと共に繁栄を続け、長宗我部元親公の時代となり、天正3年には、最強ともくされた一条氏を打ち破り、日本史上初めて四国全土を統一する偉業を成し遂げたのです。

元親公の像です。大身槍を携えた勇壮な御姿ですね。f:id:rcenci:20260516103945j:image

其の偉業の原動力となったのは、一領具足制度となります。長宗我部家当主は、農民に大事な土地を分け与えました。そうして彼等に自分の土地(領地)を守る気概を持って参陣する事を促したのです。

僅かな給金のみの雇われ農民兵とは明らかに違い、一領具足達の戦いは、小さいながらも自らの領地を守る聖戦いだったのです。当時と致しましては、全く常識外の発想で画期的だと考えます。

ただ....一領具足の兵士達は後々に一部が粛清される事になります。余りにも酷い話なので此のブログでの御案内は控えておきます。

一領具足の碑文です。彼等は普段は農業に従事しながら、合戦の折は鎧一を身に纏い、槍一筋を持って戦いに挑みました。f:id:rcenci:20260516104002j:image

しかし、絶頂だった長宗我部家は、此の後に悲劇の階段を転げ落ちて行く事になります。まず、秀吉の大軍勢が四国征討に出てまいりました。

島津氏との連合軍で秀吉軍に立ち向かった戸次川(へつぎがわ)の戦いの折、長宗我部家嫡男である信親公が討ち死にしてしまいました。此の事が後の長宗我部家にとりまして、とても大きな痛手となりました。秀吉軍が九州に大規模に進出し、長宗我部家は其の如何ともし難い秀吉軍との兵力差に降伏したのです。

其の際に、多くの血と汗で勝ち得た阿波、讃岐、伊予を召し上げられ、土佐一国のみの領主となりました。
 
嫡男の死は稀代の英傑であった元親公を変えてしまったと、後世の歴史家の多くは其の著書に残しております。様々な凶事も重なり、最強家臣団の結束は乱れていきました。其の後はオキマリの家督継承問題です。家中の反対派が次々に滅ぼされて行く中、有力な家臣の離反が相次いだのです。

リーダーが配下に対して、疑心暗鬼に成ればなる程、自らの組織は乱れて行くものです。此の事は昔も今も全く変わっておりませんね。

長宗我部家の家系図です。弓月君の言う御方は秦氏が日本に来た時の棟梁とされております。

其の後、再起をかけて関ヶ原の戦いに西軍として参戦しましたが、ご存知の通りとなり、家康に改易させられてしまいました。f:id:rcenci:20260516104015j:image

一縷の望みをかけて大阪夏の陣に残った兵力で参戦致しましたが、此方も御存知の通りの結果となり、盛親公の五人の子も斬首され、此処に大名家としての長宗我部家は実質的に滅亡してしまいました。

私も信濃秦氏との繋がりを知ってからは、真田丸などの大河ドラマを見ても、長宗我部家の行く末に一抹の寂しさを感じておりました。

真田丸で長宗我部盛親公役を演じられた阿南健治さまです。f:id:rcenci:20260516104037j:image

其の後、盛親公の叔父である長宗我部親房公の系統などが現在まで其の血脈を繋いでおられ流そうです。更に末裔の方が一族の歴史を書き記した書籍も出版されております。此の書籍は私の探究に大いに役立ち、有り難く思っております。

土佐に秦能俊公が来てからの長宗我部家の歴史は、本来なら数冊の書籍にも及ぶ膨大な内容となります。其れをたった数行の内容で御伝えしてしまいました。長宗我部家の後胤の皆さまから大いにお叱りを受けそうですが、此の場を借りて心からお詫び申し上げます。


追記
私が大学生の頃、更科に帰省した際、父の蔵書をひっくり返して色々調べていたのですが、其の折に初めて信濃秦氏から長宗我部家へと続く系譜を知りました。其れ以来、かつて地域に富みもたらせた大豪族として、長宗我部氏に畏敬の念を抱く様になった次第です。

信濃秦氏の話 2

今週も引き続き信濃秦氏の話となります。今日の主題は秦氏信仰が残る更科の古い神社にまつわる御案内です。f:id:rcenci:20260509100053j:image

先週記載させて頂いた治田町の信号を長野市方面に少し進み、左に曲がりますと此の大きな明神鳥居がございます。f:id:rcenci:20260509100103j:image

神社の名前は延喜式内社の治田神社と言います。地域の皆さまの崇敬が厚い神社であり、読み方は『ハルタ』神社となります。友人の祖父から、昔は『ハタ』神社と言っていたと聞きました。f:id:rcenci:20260509100125j:image

また、多くの神社は南向きが多いなか、治田神社は正面が真東に向いている珍しい神社となります。

社殿の前には男池と女池が有りまして、時期になりますと、周囲を囲むソメイヨシノが更科の春に彩りを添えます。地域でも有数な花見の名所で有り、其の時期には地域の皆さまが集って大いに振るわいます。千曲市観光局さまよりf:id:rcenci:20260509100136j:image

本殿の目の前にも立派な鳥居が有ります。本殿が向いている山の上には東日本有数の規模を誇る森将軍古墳が存在し、何と、古墳の位置と本殿の方向は詳細な地図で見てもピッタリと同じ緯度なのです。此の事は郷土史家に教えて貰いましたが、自ら再度確認してみて本当に驚きました。f:id:rcenci:20260509100205j:image

神社が向いている先に有る森将軍塚古墳です。右側中ほどに小さく友人達が写っておりますので、古墳の規模が凡そ分かると思います。f:id:rcenci:20260509100218j:image

春分と秋分には、本殿前の鳥居中央から太陽が昇ります。太陽が昇る場所は森将軍塚古墳の真上となり、驚く程に幻想的な光景となります。今更ながらですが、天文を知り尽くした古代の叡智には頭が下がります。f:id:rcenci:20260509100231j:image

森将軍塚古墳は、三角縁神獣鏡が発掘されている大和朝廷の影響下にあった古墳となります。残念ながら石棺内は盗掘に遭ってしまい、誰が埋葬されているかは現在まで謎のままです。

此方は治田神社の本殿です。立派な造りの木造建築です。此処からがポイントと考えますが、御祭神は彦坐命(ひこいますのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の三柱となります。此の三柱のうち彦坐命以外の二柱につきましては、大きな意味を持つと考えております。f:id:rcenci:20260509100254j:image

其の前に全国の古い神社の特性ですが、創建時の神さまに、其の後の権力者が奉斎する神々が足されていきます。実は祭神が全く変わってしまっている神社が殆どなのです。此の変遷は其の地を治める時の権力者の変遷と同じ意味を持ちます。

治田神社の創建は開化天皇の第二皇子である彦坐命(ひこいますのみこと)の末裔を名乗る熊田氏が近江国から移住した事から始まります。熊田氏は治水や開墾に優れた技能を発揮し、治田連(田を治める)の姓を賜り、祖神である彦坐命を奉斎致しました。此の神さまが最初の神となります。治田神社は最初の神さまを継続して奉斎している神社です。

二柱めの事代主神は秦氏に縁の有る天高市神社(あめのたけちじんじゃ)の御祭神となります。何故に事代主命が秦氏と縁を持つのかと言う事と合わせて、天高市神社につきましても後に詳しく御案内致します。

三柱めの宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、前回も御案内致しましたが、秦伊呂具(はたいろこ)が一族の守神として祀った神さま有り、秦氏が創建した京都伏見稲荷の御祭神です。此の事からも信濃国更科に定住した秦氏が一時期治田神社を管理運営していた事が色濃く伺えます。

また、私が若い頃から注目していたのは境内の摂社群でした。摂社とは明治政府の神社合祀と言う政策により、地域に広く鎮座していた小さな社(やしろ)や祠(ほこら)を、氏神さまの神社に集めた事により合祀された社の事を言います。

次の写真をご覧下さい。

着目した事は『高市社』の多さとなります。通常はこんなに幾つも高市社が存在するものでは有りません。高市社は『たけちのやしろ』と読みます。f:id:rcenci:20260509100323j:image

小さな神社の規模と同じくらいの立派な高市社が並んでおります。f:id:rcenci:20260509100338j:image

古すぎて埋もれた高市社の石柱です。f:id:rcenci:20260509100350j:image

高市社は、前述した天高市神社(あめのたけちじんじゃ)を総本社として奈良の旧高市郡に鎮座している飛鳥時代以前からの古い神社です。御祭神は事代主神となり、社伝には、大物主神と事代主神が、国譲りの際に八百万の神々を此の地に集めたとございます。つまり国譲りまで遡る古社なのです。

天高市神社です。wikiよりf:id:rcenci:20260509100358j:image

更に壬申の乱の折、高市県主であった高市許梅(たけちのこめ)と言う天尊系の女性が事代主神からの『西から敵が来る』と言う御神託を後の天武天皇となる大海人皇子に伝え、壬申の乱を勝利に導いた古事も語り継がれております。

私めが高市社に着目した訳を説明させて頂きますと、高市郡周辺は過去に『今来郡』とも呼ばれ、秦氏や漢氏などの渡来氏族が最初に住み着いた移住地なのです。彼等が故郷を見限り、大海を渡って苦労の末に住み着いた場所なのです。当時、高市郡の高市社は信仰心の厚い秦一族などの心の支えであったと思われます。

当時、秦氏の命じられた仕事の一部は、神社などの管理と祭祀でした。当然ですが高市社の奉斎も手掛けた事だと思います。秦一族は信濃国更科を安住の地とした後も、霊験あらたかな高市社を奉斎した事は御推察の通りとなります。

秦氏の立派なところは、『郷に入りては郷に従え』を体現しているところで有り、最初の御祭神を無下にしていないところです。

つまり治田神社の三柱の御祭神のうち二柱が秦氏との関係性が強く、時代が経過する度に神社の御祭神が増えるという理由は此のような形態からとなります。

境内には見事な御神木が多くございます。f:id:rcenci:20260509100415j:image

神馬舎(しんめしゃ)です。f:id:rcenci:20260509100422j:image

最後に少し脱線致しますが、高市早苗内閣総理大臣は、奈良県橿原市の御出身です。更に旧高市郡周辺が自らのルーツであると語られております。

壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)は、其れ迄の豪族合議制を廃して天皇中心の強大な中央集権国家を築き、日本と国号を改めた偉大な天皇です。

そして其の勝利に貢献したのが事代主命と高市許梅(たけちのこめ)でした。そして其の地名由来の姓を持つ方が内閣原総理大臣となっているのです。現地では毎年6月頃に田植えが終わった事を神に奏上する早苗饗祭(さなぶりまつり)と言われる祭祀が執り行われるそうです。信濃秦氏の話も去ることながら、此方にも強く興味が湧いてまいります。

最後に話が逸れて申し訳有りませんでした。次週は信濃秦氏に降り注ぐ苦難、そして其れからの復活。此の復活が日本史上初めての偉業となります。また其の大復活から破局的な衰退までの話を御案内させて頂きます。

次に続きます。

信濃秦氏の話

我が故郷の地名は現在千曲市と言います。其の前は更埴市ですが、更埴市は更科郡と埴科郡か合併した自治体で有り、我が故郷は更科に属しております。f:id:rcenci:20260503100523j:image

此方は父の形見ですが、私の郷土史探索の基となる書籍です。古代、近世、近現代の全三巻ございます。f:id:rcenci:20260503100538j:image

更科の名は、古くはの正倉院文書にも記され、更に『古今和歌集』にも数多登場し、菅原道真四世の孫である菅原孝標の子女により編纂された『更科日記』や、時代が下った松尾芭蕉の『更科紀行』など、長い歴史を有しておりました。ところが、平成17年の市町村合併により跡形もなく消え去ってしまったのです。

此方は更に古い書籍ですが、祖父の形見である更科群史です。此の書籍からは様々な事を教えて貰いました。此度は此方に記載されている内容を簡略化して御案内させて頂く予定です。f:id:rcenci:20260503100552j:image

話の内容と致しまして、古代の渡来一族である信濃秦氏の話となります。秦一族の歴史は古く、更に謎が多く、私のブログ如きでは語り尽くす事が困難を極める為、出自に対する御案内は省きますが、今回は比較的資料が残る信濃秦氏の話となります。

秦一族における時の棟梁であった秦広国が、我が郷里の更科郡を所領とし、東筑摩郡の波田(秦)町(松本市と合弁済み)や、小県郡長和町及び北信の飯山市木島平などに庶流を広げました。

因みに羽田孜元内閣総理大臣の父親である羽田武嗣郎さんは其の小県郡長和町の出身となります。つまり羽田→秦なのです。f:id:rcenci:20260503100611j:image

所領を賜った経緯は、聖徳太子に仕えた秦河勝(はたかわかつ)が、587年の丁未の乱の功績により拝領したと資料にございます。秦広国は河勝の子と伝わっておりますが、此の辺りは諸説ございます。f:id:rcenci:20260503101114j:image

秦氏と同じ時代に漢氏(あやうじ)と言う戦闘に特化した民族も渡来致しました。漢氏は大和漢氏(やまとあやうじ)とも言われ蘇我氏に付きましたが、丁未の乱で蘇我氏は滅ぼされ、大和漢氏も大きく衰退し、細々と其の系譜を繋いだ流れとなります。

因みにずっと後に征夷大将軍となる坂上田村麻呂は其の漢氏の出自となります。当時の日本を実質的に差配していたのは藤原一族です。私の推測ですが、蘇我(漢氏)と中臣(藤原)と言う過去の因縁もあって漢氏の田村麻呂を死地であった戦場に差し向けたのかも知れませんね。

話は前後致しますが、大きく衰退した漢氏に反し、秦氏は特殊技能を駆使して繁栄致しました。漢氏は戦闘が得意で、秦氏は鉱山開発や製鉄、更に建築や土木技術などの国造りに欠かせない技術を持っておりました。

オマケに養蚕や酒造りと言う金の卵を産む技術も持ち合わせていたのです。養蚕や酒造りは、其の地域の民衆に恩恵をもたらした事は想像に難くありません。

秦氏は、当初は主に山城国(京都周辺)を拠点としておりました。特に京都の太秦は本拠地となった土地柄となります。

鎌倉時代初期〜中期に山城国松尾社の神官の長を務めた秦相頼(はたすけより)が残した古文献には、更級郡の記載が極めて多く残り、かなりの期間におきまして、秦氏の利権が更科に存在していた事が裏付けられております。

太秦の地名は当時秦氏の棟梁であった秦酒公(はたさけのきみ)が、朝廷に絹織物を渦高く積み上げて献上した事が起因とされております。f:id:rcenci:20260503101122j:image

さて、信濃に赴いた秦広国は、国司等の職責を担って古代信濃の政事に大きな影響力を持っていたと考えられております。特に養蚕、土木、農耕、機織物などの発展に大きく貢献したと文献にございました。

其の様な所以で更科には多くの秦氏の足跡が残っております。此の石神さまの『蠶』の字は『蚕』の旧字体です。つまり蚕の神さまなのです。場所は千曲市の塩崎地区であり、塩崎は養蚕が非常に盛んな地域でした。f:id:rcenci:20260503101136j:image

此方は蚕の餌となる桑が一面に茂っていた地域だと思われますが、現在でも『桑原』の地名が残る宿場町です。一面なだらかな丘陵地となり、桑畑には最高の環境であったと思われます。f:id:rcenci:20260503101308j:image

信濃秦氏の一族も桑の実の甘酸っぱい味を噛み締めながら、蚕の健やかな育成を願っていたと思われます。f:id:rcenci:20260503101159j:image

写真9 此方は西京街道道標です。北国西往還道から京や伊勢方面へ向かう分岐点を示しております。古来更科は西と東を結ぶ重要な交通の要所でした。前述の桑原宿は難所の猿ヶ馬場峠の手前にある重要な宿場町として栄えた経緯がございます。今でも立派な家ばかりです。f:id:rcenci:20260503101323j:image

一帯の町名は治田町となっております。此の信号は実家から数百メートルの位置にございます(治田→秦 此れは諸説有り)。f:id:rcenci:20260503101334j:image

何故『秦』でなく、『治田』なのかと言いますと、和銅開珎で有名な和銅年間(西暦713年)に発布された好字二字令(こうじにじれい)による可能性も有ります。地方行政区の地名は、縁起の良い二字で現すようにと言う命令の為だと考えられます。

また、ご存知の様に秦氏の守り神さまは伏見稲荷である事は周知の事実であります。なんと前述の治田町の正式な住所は『千曲市稲荷山治田町』なのです。

秦氏が信仰した稲荷社の祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)です。稲の精霊として崇敬されており、更に食物を司る女神さまとなります。f:id:rcenci:20260503101445j:image

此の地域の駅名も稲荷山です。f:id:rcenci:20260503101512j:image

キリが無いので此の辺りでやめておきます。令和の現代でも確りと残っている信濃秦氏の足跡を何点かご紹介致しました。来週は秦氏の縁が深い治田町の神社を御案内致します。

信濃秦氏の歩んだ道も、其の後の波乱も後々御案内させて頂く予定です。

其の波乱で信濃秦氏は所領を追われます。敗者側の伝承は、何れの時代でも、何れの地域でもそうですが、段々に消えて行く運命なのです。実際に我々の世代には殆ど語り継がれてはおりません。


次に続きます。