みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

趣味の話 古銅の置物

古銅とは銅に錫や鉛などを混ぜて造る合金です。刀装具にも赤銅と言う銅に金や銀を少量混ぜた合金が古来から多く使われております。うちのご先祖様は古銅製品がお気に入りだったのか分かりませんが沢山の品を私に残してくれました。個人的にも3つ程買ってしまって更に増えてしまいました。今回は更科の実家から町田に持って来ているうちの一部を紹介致します。

日本では明〜宋の時代に造られた古銅製品が唐物(カラモノ)とされて茶道などで珍重されたと書物に有りました。最初は花入として伝わった物が多いと言われておりますが、当時の古銅花入は中国の宋〜明の時代に作られた物であったそうです。やがて室町時代の東山文化が花咲く時代には日本でも様々な様式の物が作られる様に成って中国の物と区別がつき難くなったと伝わります。東山文化は銀閣寺が有名ですが『わび』(さび』や能楽の『幽玄』に代表される日本人の美意識の極みですね!古銅は東山文化から継続する床の間を持った座敷などに良く合います。独特の色合いと古雅な味わいが多くの日本人の心を掴んだと言われておりますが、何を隠そう私も掴まれちゃった1人です。

古銅小禽図香炉
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小鳥の種類はわかりませんがオナガ鳥でしょうか? 南瓜の葉にとまって囀っている姿が何とも愛らしくて気に入っております。古銅製品の色合いは独特の雅味が有り場面を選ばず置けで助かります。

顔を拡大しました。
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羽の部分が外れて灰と香木を入れる事が出来ます。小鳥なので容量は少なく長持ちしない事が欠点です。
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南瓜の葉に虫食いの穴が空いており、妙にリアルです! でも何で南瓜なんでしょうか? 南瓜は冬至に食べますが....不勉強で分かりません。
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香道室町時代に始まりましたが香木が日本に入って来たのは仏教と同じ時代であり推古天皇の時だそうです。私は全くの門外漢ですが身内などに何人か嗜む者がおり、諸様式や捉え方など教えて貰った事があります。個人的な感覚です能楽香道に通じる人は古典や書など諸般の知識人が多いと思われます。

古銅鳳凰図香炉
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鳳凰が岩場を闊歩する図柄を現した構図です。鳳凰の卵は不老長寿の霊薬であり霊鳥です。羽の部分に七宝を施した雅な造り込みです。結構大きい品で上手く撮れませんでした。

右を向いて貰いました!
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尾羽の下まで七宝が施してあります。
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此の香炉も背中の部分が外れる仕組みです。
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鳳凰とは雉科なのでしょうか?雉科の鳥の雄に見られる蹴爪(ケヅメ)が有ります。此の蹴爪から見てかなり力の強い雄だと思われます。
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香炉は武家の床の間を飾り香を焚き染め空間を清めたりする道具に使われました。戦陣に立つ前に兜や髪に香を焚き染め興奮しない様に鎮静効果を狙ったり、正々堂々闘い武運拙く兜首を掻かれた場合に見苦しくならない様に焚き染めたとされております。
Wikipediaより
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有名な話は大坂夏の陣で討ち死にした木村重成です。家康公が西軍の武将であった重成の首実検査で兜首を見て2度と兜を脱がない決意でキツく締められた緒と焚き染められた香の匂いを知り、其の覚悟の深さと雅な行いに重成の武者ぶりを満座の中で褒めちぎったとされております。首だけに成った後も誇りと礼節を重んじる覚悟は日本人独特の死生観ですね!

古銅釈迦誕生仏像 天井天下唯我独尊
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釈迦族の王として生まれたお釈迦様は生まれた時に此の様な仕草をされたとの事。独善的で誤解されがちな意味では無く『身分の差や貴賤を問わずどんな人間も目的を果たす為に生まれて来た』と言う意味であると菩提寺の就職が話されておりました。
柔らかいお顔をされております。お生まれに成られたばかりなので額の白毫は有りませんね!
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古銅観音菩薩
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此方は小ぶりな古銅の観音様です。少し変わっているのが左を向いている事です。何故左を向いているかは不勉強である為に意味は分かりません! 観音様とは観自在菩薩さまで有り「観自在菩薩 深般若波羅蜜多』で有名な般若心経の冒頭にに出てくる菩薩さまで有名ですね! 因みに身内のお葬式の時に菩提寺の住職から聞いたのですが仏教では人が他界したら輪廻転生するという考え方なので既に転生している新しい命に栄養を供える目的でお経をあげ、文字通り『供養』すると言う意味でお経をあげるとの事です。

観音様には失礼ですが、お顔のアップです。
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観音さまは厳しい修行を経て全ての事を自由自在に観る事が出来る様に成ったと伝わります。ご先祖さまが仏壇に置いた物でしょうか?何にしても現在は居間の違い棚最上段で家族を見守って頂いております。

まだまだ色々ございますが、これ以上の品を紹介すると長くなってしまうので本日は此処までに致します。

武蔵御嶽神社参拝 社宝『宝寿丸』

妻と結婚する前に2人で此の神社に参拝し、近隣の宿に一泊したのを昨日の様に思い出されます。2人して荘厳な境内と清浄な空間に圧倒された事と初めて経眼した宝寿鍛冶の大太刀が印象深く脳裏に残っております。宝寿は奥州藤原三代を支えた舞草鍛冶に属した鍛冶集団で有り、頼朝公の奥州征伐の後で舞草鍛冶共々全国に散らばりました。此の大太刀の刀身には力強い倶利伽羅などの濃密な彫りが施され奉納者の強い気持ちが伝わってまいります。昨今はコロナ禍で外出を控えておりましたが思う処有って娘2人と足を運びました。

ケーブルカーを降りて鳥居までの歩きますが紅葉がとても綺麗です。
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大根が干してあります。美味しい沢庵になるのでしょう!
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鳥居の前はお土産さんが並び賑わってました。
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此処の野鳥は人懐っこくてカメラを構えても逃げません。ヤマガラをこんなに近くて見たのも始めてです。
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手水舎には赤い紅葉が沈んでおり綺麗な景色となっておりました。
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社伝によると創建は崇神天皇の時代だとされております。第8代孝元天皇の皇子である大彦命の子と伝わる建沼河別命(タケヌナカワケノミコト)が大己貴命少彦名命をお祀りしたのが由来であると説明書きにございました。また天平年間に有名な高僧である行基が東国鎮護を祈願して蔵王権現の像を安置したともございました。盗難避け、魔除、五穀豊穣の神様であると同時に武人からは御嶽蔵王権現として広く崇敬を集め、鎌倉時代の有名な武将である畠山重忠公も鎧や太刀などを奉納しており、宝物館には多くの武具や刀剣などが奉納されております。

大鳥居はとても立派です。
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此処も紅葉真っ盛りです。
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階段も上り坂も結構急で息も絶え絶えでした。階段に石屋さんが粋な細工をしておりました。冥界から鬼が顔を出しております!
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やっと拝殿に着きました! 大己貴命少彦名命と言えば日本の国土を創られた神様ですので日頃の御礼を伝えてまいりました。
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拝殿の前のお賽銭箱には菊の御紋章がございました。
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此処は狛犬ではなく狼です!
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結構色んな狼さんがおります!
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コレは大迫力。
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蔵王大権現です。
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家康公が江戸に転封し江戸幕府を開くに至ると西方における護りの要として重要性を見出され大久保長安により南向きだった社殿を東向きに改められたとありました。因みに武蔵の国の由来は日本武尊(ヤマトタケル)が自分の武具を鎮護の為に此の地に蔵した事から武蔵と地名が付いたとされております。更に此の地における日本武尊の遠征にはもう一つの話が存在します。軍を率いた日本武尊が邪神と戦いで御嶽山中にて道に迷った時に何処からか白狼が現れて正しい道へ導いたとされております。功あった白狼は日本武尊から此の地を守護する様に命じられたとの事です。此の故事は『おいぬ様』として神社に伝わっていると説明書きから知りました。歴史の古い神社だけに多くの言い伝えが存在して興味が尽きません!

拝殿の後ろは摂社が多くそれぞれに拝礼致しました。
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宝物伝の前には畠山重忠好評の石像がございます。個人的にかなり敬愛している武将のひとりです。
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見たかった宝寿丸黒漆鞘太刀と宝寿丸太刀です。ライトの加減で地鉄が良く見えません。
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25年前ぶりに拝見させて頂きました。刀剣類では他にも武州下原鍛冶の薙刀や太刀が複数展示されておりました。下原鍛冶特有の如輪杢が出た作品が目を引きます。ライトの加減で見えませんでしたが皆焼の様な所作の作品も並べられておりました。

鍍金長覆輪太刀です!(アットウサレマス)
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思わず唸る重要文化財の紫裾濃大鎧です。
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江戸期の当世具足は親しみがございますが大鎧と言うのはまた別格です!小札は皮らしいですが贅沢なものです。父親から聞いた事ですが例えば赤糸縅大鎧などの縅(オドシ)とは甲冑の部品である小さな鉄片や皮片で造られた小札(コザネ)の穴に緒を上下に通して結び合わせる事に由来した漢字であり.『緒を通す』から縅(オドシ)とされた言葉らしいです。因みに軽くて丈夫な皮で小札を作る場合は牛や馬の丈夫な膝の皮を使い、槌で叩き煮るという過程を何回か経て充分に乾燥させた後で漆で何層も塗り固め、雨などの水気から守ったと伝わります。人間の肘の皮をツネっても痛く無いと同様に牛や馬の膝の皮は丈夫な部位だったのだと思います。一頭から少ししか取れない丈夫な皮を使うなんて大変高価な物であった理由が何となく理解出来ます。帰りに鳥居の前の食道でお昼を頂き足が攣りそうになりながら帰路に着きました。

趣味の話  郷里の陶器 松代焼

子供の頃の事ですが更科に住む陶磁器好きの母親が、お正月の料理を盛り付ける為に押し入れの中から箱入りの器を幾つも出しておりました。お手伝いをしていた私は毛筆で書かれている箱書が読めずに何て書かれているのかと母親に聞きました。母親は『これは丹波焼と書いて有るのよ』と教えてくれましたが丹波焼が何かはサッパリ分かりませんでした。やがて社会科の授業で丹波焼を含めて六古窯と言う日本古来の窯が有って、六つの代表的な産地をさしている言葉だと学びました。その時の社会科の先生が陶器に造詣が深く、日本書紀に登場する人物である野見宿禰大麻蹴速を御前試合で打ち負かした事や墳墓に生き埋めにされる人間の代わりに埴輪を造って埋めた事で朝廷から土師臣(はじのおみ)の称号を貰い、埴輪などの土師器(はじき)の制作を行った事を聞いて相撲好きだった私は陶器の歴史に興味を持ちました。社会人に成ってからは安い給料で瀬戸、常滑、越前、信楽丹波備前それぞれの酒器を少しづつ購入し、気に入った一揃いで一杯やるのが楽しみとなり、今でもゴソゴソ取り出して楽しんでおります。瀬戸焼の黄色や瀬戸黒も好きですし、信楽の灰釉や備前焼の力強い土の質感などを感じながら杯を重ねると、徳利がすぐに空に成ってしまいます。磁器も良いですが温かみのある陶器が好みなのです!

今日ご紹介したいのは地元の焼き物で長野県指定伝統工芸品である『松代焼』という焼き物です。松代は真田家が治めた城下町であり、川中島合戦で登場した海津城でも有名です。真田家の統治のもとに焼き物の生産が奨励され山城や近江より陶工を招いて生産が行われましたが藩窯でしたので一般には流通しなかったみたいです。やがて瀬戸物など大量生産された安価な陶器におされて昭和初期までに廃窯となりましたが、時を経て昭和47年頃に廃窯後に残された破片や残された資料から研究がなされて再生産が始まりました。松代焼の復活を志した皆様の努力により現在は地域を代表する焼き物となっております。特徴は鉄分の多い土と自然釉を使い、口元から溶け出した『青流し』と呼ばれる青緑の色です。初見の人は独特の色がファンキーにも見えますが、北信の家には必ず一つ二つは有るので我々から見ると心地良い色なのです。松井窯さんの何処までも柔らかい緑、唐木田窯さんの透明な青に浮かぶ林檎の色の様な淡い赤など製作元で個性が有りますね。何れの工房も松代ないし近隣に店舗を構えて松代焼の作品を求め易い値段で販売しております。

松代焼の大花瓶です。大ぶりで沢山の花が入り、不思議にどの色の花にも相性が良く感じます。柔らかい緑が流れる様が松代焼独特の風合いです。
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大花瓶の裏です。
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松代焼の小ぶりの花瓶です。此の花瓶はブルーハワイの様な透き通る青に独特の模様が入る唐木田窯さん独特の風合いです。 
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裏です。
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こんな物まで写して申し訳有りませんが気に入って使っている松代焼の楊枝立てです!
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松代焼のお皿です。
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透明な青の中に柔らかい緑が浮かび上がる幻想的な景色です。また昔の話で申し訳ありませんが、子供の頃に更科の猿ケ馬場峠という峠までキノコを取りに友人達と行きました。其処で途中にある『猿飛の池』と地元では言われているブルーハワイの様な水色をした池を見ました。

青色を拡大してみました!
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此のお皿に出ている景色は正に猿飛の池の青い水面に木々の緑が映り込む景色です。此のお皿には白身の魚を薄く切ったお刺身を乗せて食材越しに下の色が楽しめる様に盛り付けようとしておりますが、未だかつて上手に盛り付けが出来た事は有りません!

お客様が来た時などに使う大ぶりな松代焼の徳利です。一本で2合以上入る大きな徳利でして写真の2本を飲み切ると朝までの熟睡をお約束出来ます!
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松代焼松井窯の職人さんによる手びねりのぐい呑です。
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角度を変えてもう一枚!
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土の質感が手びねりにより表面に出ており、手持ち感覚も抜群です。欠点は大容量で飲み過ぎてしまう事であります。(コマッタモンデス)

少し小さいぐい呑みで普段使いの品です!
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5客購入して戸棚に残るは3つです。2つは落として割ってしまいました。残念ですが仕方ないのです!松代焼は使う器なのです。

手作りの陶器は火の加減や釉薬の具合により様々に窯変し同じ物は2度と出来ません。松代焼を見ると信州の青くて高い空や峻険な谷筋を流れ下る渓流の深淵に似る青い色、山が淡い緑のベールを纏う風薫る五月の更科などが脳裏に浮かびます。郷里である更科から離れて暮らしている私にとっては高校卒業迄の多感な時代を過ごしていた中で登場する思い出の器であり、現在は大事な癒しの器と成ってあります。

趣味の話  火縄銃について

ご存知の通り鉄砲伝来は天文12年8月25日(1543年)にポルトガルの商船が種子島に漂着し島を治めていた種子島時堯(たねがしまときたか)がポルトガル商人から鉄砲二丁を購入した事が始まりです。同時に種子島時堯は家臣に火薬の調合を学ばせました。当時の種子島は砂鉄が多く産出されていた場所であり製鉄業に携わる職人が数多く存在した事を幸いに多くの刀鍛冶に製法を学ばせたとされております。種子島氏は島津家家臣なので時堯(ときたか)は藩主に鉄砲を献上し、島津家から時の将軍である足利利家に献上されました。種子島の鍛冶職人が製作した複製品から根来寺津田監物や堺から来た技術者に伝法が伝えられたとされてます。優秀な日本の鍛冶職人は瞬く間に製造技術を身に付けて、折しも重なった戦国時代の需要によって戦国大名の間に急速に広がり、長篠の戦い(1575年)で織田と徳川の連合軍が戦国最強武田騎馬軍団を馬房柵と3,000丁の鉄砲で打ち破った事で鉄砲は戦武具として不動の地位を確立致しました。

我が家には一丁のみ伝わっております。不勉強で火縄銃の事はよく分かりませんが、刀と違って割れにくい柔らかな鉄が銃身に使われていると父から聞いた覚えがございます。火縄銃の思い出としては幼少の頃に骨董商の祖父が大砲の様な大筒を手に入れて家に置いてありました。祖父に我儘を言い其の大筒を持ち上げようと思いましたが全く持ち上がらなかった記憶がございます。現在我が家に無いという事は売れてしまったのだと思います。祖父は儲かると冬にはブリを丸々1匹魚屋さんに頼み、家に届くと祖母と母が料理して刺身や煮付けなどにして家族で美味しく食べました。更科は四方山々に囲まれており、幾つも峠を越えて日本海からブリ街道を通って運ばれる寒ブリは現代よりよりずっと高級品だったとの母親の話です。話は外れますが信州人とってブリは特別な魚でして年末の『お歳とり』にブリは欠かせません!今でも大晦日が近づくと近所のスーパーには立派なブリの切り身が所狭しと並びます。


鉄砲の全景です。
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後ろから見た姿です。
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口薬入です。
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火縄銃に使う火薬は筒先から入れる発射薬と火蓋から入れる口薬と二種類有ります。粒状か粉末かの差ですが粒状は直ぐに着火しないそうです。粉末は空気を含んでる分だけ着火が早いみたいです。口薬入れ自体は細竹で瓢箪を編み込み黒漆で固めており、根付には割れた透かし鍔が付いております。エコロジーな時代らしいてすね!

此の栓の内側が一回分の口薬となります。
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此れは火縄ですが何の繊維で編まれているのでしょうか?
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照星です。当時の言い方は前目当
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照門です。
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当時言い方は先目当! 
コレは『目星を付ける』の語源です。

小禽(小鳥の事)の彫り物が有ります。
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竹藪の意匠が有りますが小禽との関連性が不勉強で分かりません。
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手持ちには桜花があしらわれております。
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口薬を入れる火皿と火蓋です。
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通常は火縄の火の粉が落ちても着火しない様に火蓋は閉じられ、打ち放つ前に安全装置の役目をしていた火蓋をずらします。此の一連の動作は『火蓋を切る』の語源です。

火蓋が切られている状況。
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ラクリ部分です。
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槊状(さくじょう)と言われる玉を詰め込んだり、筒内の掃除をする為の道具です。
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銃床にある穴に差し込む仕組みです。
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掃除の為のボロ布を通す穴が有りますね!
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鉄砲は足軽が弓や槍と比べて技の練度をあまり必要としない為に容易に扱うことが出来て威力が抜群である事から戦国時代後半から安土桃山時代を経て江戸初期までに隆盛を極めました。しかし火薬の調合材である硝石や玉を造る鉛は最初明国から輸入しておりましたので費用はそれなりに掛かったと思われます。その後は一部の地域で硝石が産出出来る様になりました。加賀国前田家の領地である五箇山は日本有数の産地でした。何でも人が長年の用を足している土壌に様々な草を混ぜて攪拌し数年かけて発酵させる製法であるとの事です。この事を発見した当時は宝物を見つけた状態であった事だと思います。因みに現在の五箇山世界遺産の合掌造り集落として有名です。

しかし鉄砲は雑兵が使う武器であった為に高位の武士は初期において使わなかったみたいですが、時代が進むにつれて高位の武士も士筒(サムライヅツ)と言われる口径の大きめな火縄銃を使用しました。江戸時代以降は争いも無くなりましたので昔から高い精神性が重んじられた刀剣が専ら武士の表道具となりました。鉄砲の様な先進的な武器では無く、一時代下がった刀に高い精神性を求め続けたのは日本刀には霊力が宿るとした日本人らしい感性だと思います。刀剣と鉄砲は同じ様に鉄を使った武器ですが、主君より拝領する品はあくまで刀剣で有り、敵を殺すだけの鉄砲では無かった事は日本刀が単なる武器で無く、持ち主を守る霊器で有り、神が宿る神器で有ったからだと思います。

鉄砲は江戸期に入っても徳川家御用鍛冶である近江國友鍛冶等によって製造されておりおりました。幕府統治の元で泰平の時代が継続する事によって生産も減りましたが國友鍛冶同様に全国で鉄砲の生産は続いていたとの事です。江戸後期になると有名な堺の鉄砲鍛冶であった井上家で10代目関右衛門寿次(ひさつぐ)が自らが御抱え鍛冶を務める伊予大洲藩をはじめ北は福島から南は鹿児島まで60藩に出入りする日本一の鉄砲鍛冶となりました。しかし西洋式の最新の銃が入るように成りますと西洋式の銃は銃身内部にライフリングが施されていた為に射程距離や命中精度が格段に優れておりました。其の為に日本の鉄砲生産は急速に廃れて行ってしまいました。

趣味の話 小さな美術品 根付の話

根付(ねつけ)とは日本における江戸期に使用された和服着用時の留め具です。印籠や煙草入れや小型の巾着袋などを帯に留めるための道具なのです。明治以降に洋服が主流になり廃れていったとの事ですが、一昔前の携帯に付けたストラップも此の名残りです。大きさは小さい物だと1cm程で大きいと4cmを超える物もございます。当時は3Dプリンターなと当然のことながら無いので全て専門の職人の手造りです。材料は象牙や黒檀が高級品で動物の骨やイチイ、他には黄楊なども使われたみたいです。

応仁の乱から継続した戦乱が治り、元和偃武以降は世の中が落ち着き、ご存知の様に徳川家の治世が始まります。家康公は早くから薬の効力を重視して平和な世の中になっても配下の者に薬の携帯を奨励致しました。その為に配下の武士は傷薬や腹痛止めなどを印籠に入れて持ち歩く様になったと言われております。其の印籠を帯に留める為にどうしても留め具か必要だった訳です。この小さな芸術品は日本国内は元より海外にも熱烈なコレクターが存在し、日本の皇室におきましても高円宮憲仁親王殿下夫妻のコレクションが特に有名で国立博物館に寄贈されております。上野の国立博物館に足を運ばれた方は特別ブースに並べられている根付をご覧になった方も多いと思います。私も何度か慧眼させて頂きましたが全て名品ばかりで堪能させて頂きました。

玉抱獅子根付
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 獅子とライオンを一緒にお考えの方もいらっしゃると思いますが別でごさいます。獅子は麒麟と同じで空想上の生き物です。父から聞いた話ですが獅子は一説に貔貅(ひきゅう)という神獣で別名避邪とも言われ魔を払う意味を含む意味があるとの事でした。また貔貅は天帝の愛獣で食べ物は財宝を食し、お尻の穴が存在しないので財宝はお腹に貯まるだけであり、金運の守り神でも有るとの事でした。此の事を観世流能楽師範である父から聞いた時は、さぞかし貔貅さんはお腹が苦しそうだな...と子供心に思いました。

恥ずかしながら私はゴジラの映画に出て来たキングシーサが連想されます。
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時代を経て材質に味が出ております。
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裏はこんな感じ!
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福禄寿根付
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此れは印籠に付いていたと思われる大きいタイプの根付です。時代を経て象牙に良い色が付いております。帯に下から上へ通して帯の前に下ろした状態で目立つ様な意匠となっております。象牙が良い色合いに成り、意匠は宝船に乗る福禄寿と従者が楽しげにしている光景で有り、鑑賞していて何だか楽しくなる意匠です。

裏です。
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福禄寿様は遠くを見ている表情です。
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従者は宝物を納めた袋を抱えております。
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家の先祖が使用した印籠です。
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四種類の薬が収められる様です。
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印籠の左右に付いている紐を止める物です。此れも入念な彫りが施されておりますが、お恥ずかしいですが彫りが何だか不勉強で分かりません。本当に小さい物です!
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アイヌ人目貫 一対
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アイヌの方の姿を彫った根付で左右一対で仕上げられた物です。左の方は鮭を抱えております。

銘は正之と有りますが全く誰だか分かりません。アイヌの歴史は古く江戸時代には松前藩と争った経緯がございます。
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江戸時代の人口構成は武家が8%で武家以外が92%との資料が残っているのと事ですが、武家から始まった根付文化も次第に町人にも浸透しました。特に裕福な商人は贅を凝らした逸品を職人に注文し、技を競った職人達の技術も向上したとの事です。しかし最初から根付が有った訳ではなく根付の代わりとして江戸初期はそれまでに明国から伝わった糸印(イトイン)と言われる銅製の印鑑が根付の代わりに使われたいたみたいです。糸印は豊臣秀吉が朱印状に押印した事で有名ですが、明国が滅亡してからは糸印が日本に来なくなりました。代わりに日本人の職工に糸印を作らせたのが根付文化の始まりとされております。その後は前述した様に徳川家康公が薬を携帯する事を奨励した事につながってまいります。根付について記した書籍を15年程前に数冊読みましたが様々な説もあるみたいですね! 拙い見識しか持ち合わせていない私の個人的な『思い』ですが、日本の工芸品は根付にしても刀装具にしても品が良く纏められており、一つひとつに意味が存在し、製作者或いは注文主の思いがギュッと詰まった世界に誇れる美術品だと思いますので刀剣女子の出現などは喜ばしい事だと思います。今の若い女性が10年もすれば御子様を持つ様に成り、お母さんが好きだと子供さんも嫌いには成らないと考える事と価値観は親から子に引き継がれます。親が大事にしていた物を例え手放したとしても仕方有りませんが価値観のみは残る筈です。其れが例え一世代としても素晴らしい事だと思います。

趣味の話 武者絵ニ幅

最近は和室が減ってしまい掛け軸が行き場を失っており、軸装された日本画が少々不憫に思います。日本画は全く門外漢で生前の父親から岩絵具の事を聞き、鉱物から絵具を作り日本画が描かれている事を知ってビックリした事を今も覚えております。 
更科に居る母親は特に美人画が好みで帰省すると何時も違う一幅を掛けて楽しんでおります。正月は高砂図、梅雨は杜若(かきつばた)図、秋は秋草図など季節感がある日本画は素人の私が観ても心が和みます。展覧会で伊藤深水の美人画を見た時や3時間並んで若冲を見た時、木島櫻谷の描いた猪などを見た時もそうでしたが、名作は何かこう吸い込まれるような不思議な感覚を覚えました。

当然そんな名作は我が家とは無縁の存在ですが、個人的に武者絵が好きで実家の納戸からニ幅程こちらの家に持って来て楽しんでおります。

大矢大響 義家公察伏図
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作者の大矢大響は伊藤深水や矢澤幻月に師事した明治の日本画家です。八幡太郎義家公が武装して逞しい青毛の馬に跨り、行軍している時に雁が飛び立ち、其の事で茂みに隠れている伏兵を察して周囲に睨みを利かせている様子です。前九年の役後三年の役なのかは分かりませんが、義家公が戦場に在る事は間違い無いですね! 父親曰く此の時代の戦闘は主に馬上の武者同士の争いとなり、弓矢を使用する時には身体が自在となるように工夫されたのが此の絵に在る大鎧と言われている鎧だそうです。当時は大変高価な物で小さな領国を買えるほどなので、大鎧一式の数え方は一領(いちりょう)と数えるんだよ...と亡父より聞いた記憶がございます。
青毛の馬が嘶く様子や筋肉の躍動感が気に入っております。
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義家公が鋭い目つきで戦闘に備えてます。
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此れは箙(えびら)では無く、空穂(うつぼ)と言われる矢を収納する道具です。
f:id:rcenci:20201017130524j:plain箙は上から矢を抜き取りますが、空穂は下の蓋を開けて矢を取り出します。因みに空穂の下部に四つ割菱の家紋が有ります。この家紋は武田家の武田菱として有名ですが、元々は天皇家の紋で有り、清和天皇から続いている源氏の棟梁が使用していても至極当然なのです。もっと言うと義家公の弟である新羅三郎義光甲斐源氏の始祖です。

雁の飛び立つ姿が描かれておりますが、雁が飛び立った事で伏兵に気がついたのでしょうか? それにしても約1cmくらいの大きさで雁が描かれておりますが細部まで確り表現されております。
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同じく雁です よく見ると義家公の空穂には羊歯(しだ)の蒔絵が施されているみたいです。
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もう一幅も武者絵です。作者の名前を見ても私には分からない御名前です。
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此方も大鎧なので時代は平安期でしょうか?
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此方もひょっとしたら義家公かも知れません。此方の絵では従者を従えております。赤糸威大鎧の武者は四つ白の馬で、紺糸威大鎧の武者は配下の武者でしょうか? 配下にしては立派な身なりです! 

二人とも戦支度で尻鞘の太刀を佩き弦巻(弓の替蔓です)を付けておりますね! 
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しかし馬の目が滑稽です。此方は大将の馬
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此方は従者の馬!!!
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雁の書き方も少々....
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此方の武者二騎は空穂ではなく箙を携えておりますね! 矢が露出しておりますので取り出し易い利点がございますが、逆に矢自体が他の物とぶつかり破損し易い面もあります。
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今日は陰干しの意味もふくめて家に有った軸装された日本画を細かく長女と観ました! 私が生前の父に教えて貰った様に娘にも当時の武者が身に付ける物を知る範囲で教えましたが『ふ〜ん』と言う感じで『糠に釘』状態です! トホホ...

刀の手入れ

我が家には大小合わせて8口の刀剣類が有り、定期的に数口づつ分けて『手入れ』を行います。

今日は3口の日本刀の手入れを行いました。
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手入れと言っても何も難しい話では無く、刀身の古い油を落として新しい油を塗るだけです。何故手入れをするのか?と言うと刀は鉄であり、そのままにしておけば錆びるからです。仮に錆させてしまうと研師に出さないといけません!
10万〜30万の研磨料金が掛かるのは良しとして、数百年も歴代の所有者が守って来た大事な文化財が多少なりとも減ってしまいます。つまり刀を錆びさせる=文化財の破壊なのです!

手入れでは刀身に付いた古い油を拭った後に姿や地鉄及び刃文などを光源を工夫して鑑賞致します。この時間が愛刀家の楽しみであり、時には一口を小一時間程鑑賞する場合もございます。

虎斑の白鞘と言われる物です。
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刀身の写真は本当に難しくて思う様に撮れません。
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帽子(鋒の刃文)を上手く撮ろうと思ったのですがダメでした!地鉄の地景といわれる筋が見えますでしょうか?
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ウネウネしているのが地景です。コレは現代刀なので地鉄に潤いがありませんね!
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然し中途半端な気持ちでは日本刀に向かえないのです。刀は武器ですので疲れている時などは鞘から抜く事を躊躇われます。ある程度ですが構える気持ちを持ってから初めて柄に手を掛けます。手入れが終わるとふ〜っと一息ついてしまいます。

コレはハバキという金具を下から写したモノです。
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鞘に納刀した時に直接刀身が鞘に触れない様にする為と鞘から刀身が抜け落ちなくする為の大事な金具です。此の様に下から見ると摩訶不思議な構造をしており、一説には斬撃の衝撃を和らげる構造であるとの事です。

ハバキの中をベンジンを染み込ませたティッシュを通して拭いますと結構汚れております。
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刀が白鞘に治った状態で車で移動する時などは車の振動で白鞘の中の刀身が揺れて白鞘が少し削れる時がございますので、中の微細な屑を吹き飛ばすためにキーボードの隙間などのゴミを吹き飛ばすコレを使います。ノズルを鯉口に差し込んでプシューとひと吹きして木屑を飛ばします。スプレーの成分で刀身が錆びた事は今迄ございません。
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刀身に塗る油は丁子油が独特の香りと趣がございますが、油のノビで選ぶと断然コレが素晴らしく長年使っております。
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信じられないかも知れませんが私達が暮らしている地球の重量の3分の1は鉄なのです。地球の中心部であるコアは5000°以上ある趙高温の鉄です。日本では其の鉄を黒金と表現します。日本刀は元々は武器として生まれ、日本人の感性により黒金の推を尽くして鎌倉時代には既に隆盛を極め天下一の美術品に変貌を遂げました。

更科で刀剣商をしていた祖父が埴科郡坂城町に鍛刀場を持つ人間国宝宮入昭平刀匠と懇意にしていた事が幸いし、張り詰めた空気の中で仕事をされていた一門の方の姿を見学させて頂いた経験が有り、子供の頃の私は其の雰囲気に体が硬直致しました。刀剣の制作においても刀匠の鍛冶場には〆縄が張られ、鍛冶場には神棚が据えられて刀匠は白の装束で鍛刀されております。刀匠は数々の製作工程を経て数え切れない程に槌を振り下ろし黒金を鍛え上げます。刀鍛冶が火と水の力を借りて己が技前を持って刀身に魂を入れた後は研磨師の技をもって刀身が完成し、鞘師、白金師、鍔工、塗師、柄巻師などの手仕事を経て一振りの刀剣がやっと出来上がります(白鞘の場合は研師を経て鞘師と白金師)。しかし同世代はおろか周囲の方々は全く日本刀をただ恐ろしい物と捉えふ傾向が強く、大事な文化遺産への理解が乏しい事と名刀が日本人の忘られた心と一緒に海外に流失し、展示会にも海の外より借り受けている現状は本当に寂しい限りなのです。