前回もご案内させて頂きましたが、信濃国典厩寺には武田典厩信繁公のお墓が有ります。典厩公は戦国最強であった甲州武田軍の副将で有り、古参の家臣団からの信頼は絶大でした。
普段は国主の身内が出しゃばらない様に控えめに過ごし、通常の合戦においても、派手な活躍の場所は他に譲り、自らは地味な兵站(へいたん)を担っておりました。また、様々な古典を学び当代一流の教養人でも有ったのです。
第四次川中島合戦において武田側の啄木鳥戦法を見破った上杉謙信公率いる精兵の猛攻から兄の信玄公を守る為に手勢を率いて奮戦しましたが、惜しくも川中島八幡原で、其の生涯を終えました。此の方が仮に生きていたら信玄公亡き後も武田家は続いたと言う歴史学者は数多おります。
やがて、家康公の時代となり、かつての名門武田家に仕えた真田氏が上田から松代に転封となり、主君の弟君が眠る典厩寺は藩主から手厚い庇護を受けました。
かつて真田氏の居城であった海津城跡です。山本勘助が増改築した堅固な要塞でした。武田四天王の一人である春日虎綱が城代でした。
典厩寺の境内は、一面を覆う大枝垂れ桜の枝が垂れ下り、桜の時期には古刹の趣と美しい枝垂れ桜の淡い花で美しいコントラストになるそうです。
典厩公の首を洗い清めたと伝わる古井戸です。
其れでは、典厩寺記念館所蔵の品々をご案内させて頂きます。尚、刀剣類においては多少くどくなる事を最初にお詫びしておきます。
限られたスペースに所狭しと寺宝が展示されておりました。最初に目についてのは十文字槍一式でした。案内板には『典厩公の槍の柄』と有ります。細かい螺鈿細工が上から下まで施された見事な柄です。
十文字槍の穂先です。錆が出ておりますが、黒錆ですから中までは入ってないと思われます。常の十文字槍と違うのは真ん中の槍先の『ふくら』下から刃筋に向かって左右に横手が伸びております。恐らくは強度を増す為の技法かと重いますが、手の込んだ造り込みです。
此方が一番驚いたのですが、典厩公愛用の太刀と腰刀(脇差し)です。脇差しには豪壮な厚めの鉄地に武田菱透かしの鍔、銀の岩石ハバキ、鮫の黒漆研ぎだしの鞘、柄と鐺(こじり)の鉄金具が付いているところをみると、高位の武将の持ち物だった事が分かります。真ん中から折れた腰反りの太刀は登録証に兼高と有りますので、美濃国の関で活躍した三阿弥派の代表工であった兼高が打ち上げた太刀です。美濃伝は匂本位の折難い性質にも関わらず、名工兼高の豪刀が折れ飛ぶとは相当な激戦だった事が容易に想像出来ます。
典厩公の身につけた物と有ります。具足の下に着る下着との事。胸から鳩尾にかけて左右に残る穴は槍の跡でしょうか。想像しただけで背中に冷や水を流された感覚になりますね。
此の武将は柿崎景家です。謙信公率いる越軍の中でも屈指の豪傑と評され、合戦においては常に先鋒を務めておりました。柿崎隊の名を聞けば敵は逃げ出したともされております。謙信公をして『景家に分別があれば、越後七郡に匹敵する者はいない』とまで言わしめている強者中の強者です。典厩公は景家の軍に打たれたと伝わります。典厩公の家訓に『戦場で卑怯、未練は禁物である』と有りますが、名門甲斐源氏嫡流の名に恥じぬ見事なご最後だったと伝わります。
典厩公の烏帽子と有ります。しかし、どうも通常の烏帽子では無く『烏帽子兜』の錣(しころ)が取れたモノみたいです。『錣』とは兜の鉢の下左右後ろに備え付けられた鉄板を革紐で数段結び下げたモノで有り、首の左右や後ろを守ります。『吹き返し』の後ろに錣を備え付ける小さい穴が有りますね。
此方は矢筒です。一番手前に有る槍の鞘の説明書きには『原大隈守の槍の鞘』と有ります。此れは驚きました....あの原大隈守虎吉の槍の鞘とは。
先週ご案内した三太刀七太刀の写真の向かって左手に槍を構えた武者が原大隈守虎吉です。言い伝えでは第四次川中島合戦の最中に上杉謙信公が武田本陣に斬り込み、信玄公に向かって馬上から小豆長光の太刀を振い、信玄公は軍配で此の斬撃を受けました。主人の傍に居た原大隈守は謙信公の芦毛の馬に槍を突き込み、其の窮地を救ったのです。武田家滅亡後は徳川に仕え、子孫は八王子千人同心の千人頭として大活躍し、現在まで其の名跡を伝えております。
八王子に住み暮らした『千人同心』とは、甲州との国境の防備を主任務としておりました。元武田家の旧臣であり、徳川幕府の旗本なのです。彼等は土地を所有する権利を持っており、半農・半武士の生活をしており、日光勤番をはじめ、蝦夷地の開拓などに派遣され、幕末には長州征伐や戊辰戦争でも大活躍しております。
来週に続きます。