みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

典厩寺で武田典厩信繁公を偲ぶ 2

前回もご案内させて頂きましたが、信濃国典厩寺には武田典厩信繁公のお墓が有ります。典厩公は戦国最強であった甲州武田軍の副将で有り、古参の家臣団からの信頼は絶大でした。

普段は国主の身内が出しゃばらない様に控えめに過ごし、通常の合戦においても、派手な活躍の場所は他に譲り、自らは地味な兵站(へいたん)を担っておりました。また、様々な古典を学び当代一流の教養人でも有ったのです。

第四次川中島合戦において武田側の啄木鳥戦法を見破った上杉謙信公率いる精兵の猛攻から兄の信玄公を守る為に手勢を率いて奮戦しましたが、惜しくも川中島八幡原で、其の生涯を終えました。此の方が仮に生きていたら信玄公亡き後も武田家は続いたと言う歴史学者は数多おります。

やがて、家康公の時代となり、かつての名門武田家に仕えた真田氏が上田から松代に転封となり、主君の弟君が眠る典厩寺は藩主から手厚い庇護を受けました。

かつて真田氏の居城であった海津城跡です。山本勘助が増改築した堅固な要塞でした。武田四天王の一人である春日虎綱が城代でした。f:id:rcenci:20250119095444j:image

典厩寺の境内は、一面を覆う大枝垂れ桜の枝が垂れ下り、桜の時期には古刹の趣と美しい枝垂れ桜の淡い花で美しいコントラストになるそうです。f:id:rcenci:20250119095458j:image

典厩公の首を洗い清めたと伝わる古井戸です。f:id:rcenci:20250119095510j:image

其れでは、典厩寺記念館所蔵の品々をご案内させて頂きます。尚、刀剣類においては多少くどくなる事を最初にお詫びしておきます。

限られたスペースに所狭しと寺宝が展示されておりました。最初に目についてのは十文字槍一式でした。案内板には『典厩公の槍の柄』と有ります。細かい螺鈿細工が上から下まで施された見事な柄です。f:id:rcenci:20250119095525j:image

十文字槍の穂先です。錆が出ておりますが、黒錆ですから中までは入ってないと思われます。常の十文字槍と違うのは真ん中の槍先の『ふくら』下から刃筋に向かって左右に横手が伸びております。恐らくは強度を増す為の技法かと重いますが、手の込んだ造り込みです。f:id:rcenci:20250119095544j:image

此方が一番驚いたのですが、典厩公愛用の太刀と腰刀(脇差し)です。f:id:rcenci:20250119095601j:image脇差しには豪壮な厚めの鉄地に武田菱透かしの鍔、銀の岩石ハバキ、鮫の黒漆研ぎだしの鞘、柄と鐺(こじり)の鉄金具が付いているところをみると、高位の武将の持ち物だった事が分かります。真ん中から折れた腰反りの太刀は登録証に兼高と有りますので、美濃国の関で活躍した三阿弥派の代表工であった兼高が打ち上げた太刀です。美濃伝は匂本位の折難い性質にも関わらず、名工兼高の豪刀が折れ飛ぶとは相当な激戦だった事が容易に想像出来ます。

典厩公の身につけた物と有ります。具足の下に着る下着との事。胸から鳩尾にかけて左右に残る穴は槍の跡でしょうか。想像しただけで背中に冷や水を流された感覚になりますね。f:id:rcenci:20250119095618j:image

此の武将は柿崎景家です。f:id:rcenci:20250119095638j:image謙信公率いる越軍の中でも屈指の豪傑と評され、合戦においては常に先鋒を務めておりました。柿崎隊の名を聞けば敵は逃げ出したともされております。謙信公をして『景家に分別があれば、越後七郡に匹敵する者はいない』とまで言わしめている強者中の強者です。典厩公は景家の軍に打たれたと伝わります。典厩公の家訓に『戦場で卑怯、未練は禁物である』と有りますが、名門甲斐源氏嫡流の名に恥じぬ見事なご最後だったと伝わります。

典厩公の烏帽子と有ります。しかし、どうも通常の烏帽子では無く『烏帽子兜』の錣(しころ)が取れたモノみたいです。『錣』とは兜の鉢の下左右後ろに備え付けられた鉄板を革紐で数段結び下げたモノで有り、首の左右や後ろを守ります。『吹き返し』の後ろに錣を備え付ける小さい穴が有りますね。f:id:rcenci:20250119095657j:image

此方は矢筒です。一番手前に有る槍の鞘の説明書きには『原大隈守の槍の鞘』と有ります。此れは驚きました....あの原大隈守虎吉の槍の鞘とは。f:id:rcenci:20250119095707j:image

先週ご案内した三太刀七太刀の写真の向かって左手に槍を構えた武者が原大隈守虎吉です。f:id:rcenci:20250119095759j:image言い伝えでは第四次川中島合戦の最中に上杉謙信公が武田本陣に斬り込み、信玄公に向かって馬上から小豆長光の太刀を振い、信玄公は軍配で此の斬撃を受けました。主人の傍に居た原大隈守は謙信公の芦毛の馬に槍を突き込み、其の窮地を救ったのです。武田家滅亡後は徳川に仕え、子孫は八王子千人同心千人頭として大活躍し、現在まで其の名跡を伝えております。

八王子に住み暮らした『千人同心』とは、甲州との国境の防備を主任務としておりました。元武田家の旧臣であり、徳川幕府の旗本なのです。彼等は土地を所有する権利を持っており、半農・半武士の生活をしており、日光勤番をはじめ、蝦夷地の開拓などに派遣され、幕末には長州征伐や戊辰戦争でも大活躍しております。

保存されている八王子千人同心組頭の家です。Wikiよりf:id:rcenci:20250119095809j:image

来週に続きます。

典厩寺で武田典厩信繁公を偲ぶ 1

戦国最強だった武田信玄公は北信の村上義清公に二度もケチョンケチョンに負けましたが、三度目には配下となっていた地元の真田幸隆を介し、豊富な甲州金を使って村上一族を買収した後に攻め掛かって敗走させました。敗走した村上義清公は越後の上杉謙信公を頼りました。義を何もよりも重んじる上杉謙信公は、卑怯を何よりも嫌う村上義清公の願いを聞き届け、義清公の領地奪回の為に北信濃に進出し武田信玄公と対峙したのです。此れが後に川中島合戦と伝わる当時の日本最強軍団同士の激突となりました。

我が家に有る川中島合戦時の三太刀七太刀之図です。f:id:rcenci:20250113102119j:image

中でも最も激戦であったのは川中島の八幡原で行われた第四次川中島合戦だったと伝わる事は皆さまご存知の通りです。死傷者は合わせて2万7千余名にものぼり、日本の戦国史上最大の激戦の一つに数えられております。今回御案内する武田典厩信繁公は、其の第四次川中島合戦において、川中島の露と消えております。典厩信繁公とは戦国最強だった武田信玄公の実弟となります。

川中島典厩寺記念館所蔵の武田典厩信繁公(タケダテンキュウノブシゲコウ)の図です。兄に対して最後まで忠節を貫き、味方は勿論ですが、敵側からも、其の死を惜しまれた人格者でした。信玄公配下の武藤喜兵衛こと真田昌幸公は自らの次男に信繁(後の幸村)と名付けたほど心酔しいた事を思っても、其の威徳が凡そご理解頂けると思います。f:id:rcenci:20250113102228j:image

名将であった武田信玄公に『己のが目』と称された真田昌幸公(当時は武藤喜兵衛)は、三方原の戦いで徳川軍を散々に打ち負かして敗走させ、後には上田城に立て籠もり、何倍もの徳川軍を二度までも打ち負かしております。

典厩寺境内にある閻魔堂に安置されている日本最大の閻魔大王像です。合戦における両軍の戦死者を弔う為に松代藩八代藩主真田幸貫の発願によって建立されました。我が妹も高校生の頃にバレー部に所属していただけ有って大柄な体躯を有しておりますが、此方の閻魔さまは全てを圧倒する大迫力です。閻魔堂の天井には三十三身観音菩薩が描かれています。f:id:rcenci:20250113102254j:image

典厩信繁公は大永5年に武田信虎公の四男として甲斐に生まれ、嫡男であった兄のクーデターの際には板垣信方甘利虎泰等の重臣達と共に兄に従いました。晴信公が国主の座に着いた後は常に兄に従い、若き晴信公のブレーン的な存在だったのです。 

武田信虎公です。どうしても有名な信玄公が表に出ておりますが、室町時代の甲斐は守護の武田信満上杉禅秀の乱に加担した為に滅ぼされ、甲斐は混迷を極めておりました。其の乱れを治め武田宗家を統一したのが信虎公なのです。後に子により追放されましたが、子である信玄公が活躍できる土台を苦労の末に築き上げた大功労者なのです。f:id:rcenci:20250113102307j:image

典厩信繁公は其の後の合戦でも数々の武功を残しました。最後の戦いとなった第四次川中島の戦いでは、武田側のキツツキ戦法が敗れ、濃い朝霧の晴れた八幡原において、武田軍の眼前に妻女山に居た筈の上杉軍の大軍が出現した時、典厩信繁公は兄を守る為に鶴翼の陣の左翼隊を率い、上杉軍最強の柿崎景家率いる先手組300騎に突撃致しました。典厩信繁隊は美濃の名工である兼高が打ち上げた二尺五寸の太刀を奮って勇猛果敢に善戦致しましたが、奮戦虚しく典厩軍は其の数を減らしていき、大激戦の最中で最後を遂げたのです。享年37歳の若さでした。

武田典厩信繁公が埋葬された典厩寺(当時は鶴巣寺)です。信繁公は此処に陣を置いたと伝わります。f:id:rcenci:20250113102322j:imagef:id:rcenci:20250113102328j:image

典厩信繁公は強いだけでは無く、99ヶ条に渡る『武田信繁家訓』を残した他、古典の論語をおさめた教養人の側面も合せ持ち、正に文武両道の武人であったのです。『武田信繁家訓』は江戸時代の武士の心得として広く読み継がれました。多くの武家から信繁公こそは「まことの武将」と評され、死してもなお崇敬を集めておりました。

此処で典厩信繁公の書き記した家訓を5ツほど案内致します。尚、当時の表現は修正して分かり易くしてあります。

『急ぎ慌ただしい時も、危急の時も、仁に違わず、仁を忘れてはならない』

『自分の力量に達しない事に発言をしない事』

『愚痴や文句を周りの者と雑談しない事』

『働く意欲がある部下が困ったり窮したりしていれば助けてやる事 人を育てるのは1年どころではなく長い年月がかかる』

 『あらゆる人に対して、不作法な振舞いをしてはいけない 僧侶、女子供、貧しい者に対してはいっそう丁重に接する事』

何れも現代にも通ずる素晴らしい教えだと思いますが、如何でしょうか。

話を本題に戻します。八幡原の合戦では戦死した信繁公の遺体を前に、兄の武田信玄公は、誰はばかる事無く弟の遺体を掻き抱いて号泣したと伝えられております。また、敵からも典厩信繁公の死は惜しまれたと敵側の記録にも残っております。

武田家の家臣達は『惜しみても尚惜しむべし』と信繁公の死を悼みました。遺骸は現地の鶴巣寺(かくそうじ)に埋葬されました。其の後、時を経て徳川の御世になり、徳川側に付いた真田信之公が上田から松代に転封となりました。松代の地は、かつての主家である武田家が上杉家と激戦を繰り広げた場所だったのです。其処で元主君の弟君である武田典厩信繁公が埋葬されている寺を知り、其の名を『鶴巣寺』から『典厩寺』と改めさせたと伝わります。

典厩寺に有る典厩信繁公の墓碑です。巨大な自然石に『松操院殿鶴山巣月大居士』と戒名が彫られております。此方には典厩信繁公の御身体が葬られております。f:id:rcenci:20250113102357j:image

御首は家臣の山寺佐五左衛門により当時典厩公の嫡子である武田信豊が城主であった小諸城まで運ばれ、然るべき地に陣中で使う陣鍋におさめられ埋葬されました。忠臣の山寺佐五左衛門の末裔は武田家滅亡後に真田家に仕えております。

小諸城は現在懐古園と名を変えて其の形を残しております。f:id:rcenci:20250113102414j:image

其の後、千曲川の大氾濫によって五輪塔は流失致しましたが、其の後発見され、現在は自然石の墓碑が据えられております。布引山釈尊寺の管理がなされているとの事です。

次に続きます。

令和七年を迎えて

昨年中は大変お世話になり、有難うございました。本年も趣味の渓流釣りや刀剣類、あと史跡訪問などをご案内させて頂きます。渓流釣りの世界は奥深く、まるで大河の深淵の様です。また、刀剣の鉄の煌めきと其の歴史も極めて奥深く、注文主と作者の強い思いを現代に伝えております。本年も少なからず皆さまのお役に立てる内容を目指して取り組んでまいりますので、どうか宜しくお願い致します。

今年の元旦は娘と初日の出を見に行きました。氷点下7°の朝方に神山より昇った初日は神々しく美しい光景でした。f:id:rcenci:20250103085916j:image

更科には戸倉上山田温泉という名湯がありまして、帰りに若湯に浸かってまいりました。身を清めてからは、氏神さまである武水分神社八幡宮に参拝し家に帰りました。f:id:rcenci:20250103085926j:image

帰ったら、早速元旦の儀式です。写真の御神酒徳利は五号も入る特注サイズです。2つで約一升となりますね! 何時も通り屠蘇を頂いた後に神棚から徳利を下ろし、神に捧げた御酒を家族で頂きます。f:id:rcenci:20250103085937j:image

令和七年、世の中ではロシアとウクライナの戦争に北朝鮮も参戦し、広がりを見せてまいりました。ウクライナは武器供与国の賛同を得て、ロシア本土への攻撃を始めました。今後ロシアの姿勢によっては禁断の武器の使用が始まるかも知れませんし、アメリカを中心としたNATO軍とトンバチを始めれば、真っ先に攻撃対象となるのは日本の米軍基地と自衛隊の基地となります。また、中東でも強国ニ国が相変わらずやり合っており、日本への原油供給が危ぶまれます。日本国内でも与党の求心力に陰りが見え、今までベールに包まれていた財務省の政策が曝け出されてまいりました。一方で天体の配置は昨年の11月20日頃に、破壊と再生の象徴である冥王星水瓶座に入ってまいりました。つまり荒れ狂う破壊王水瓶座に包まれたのです。

冥界などに例えられる冥王星です。Wikiよりf:id:rcenci:20250103085947j:image

水瓶座の心は『愛情』です。今年は人だけでなくモノなどの物体は勿論、大自然に対しても今まで以上に愛情が大切になりそうです。水瓶座の愛情に一番反する行動は、周囲や環境のせいにして自らの仕事や勉学を疎かにする事や、相手や自然を裏切る行為です。しかし、家族の為や愛する人の為、または天地自然を守る為、そして広く世間の為なら先陣切って困難に向かう必要が有ります。特に最後の『世の中の為』は1番大事になりそうです。故郷の父母の為に祈る、遠くで働いている我が子の為に祈る、先祖に感謝して祈る、天地自然に感謝して祈るなどの祈りも重要になりそうです。逆に言えば愛情の無いものは破壊神により破壊されてしまうそうです。

写真は信州出身の人形師である⾼橋まゆみさん制作の人形ですが、おばあちゃんが祈る姿は其のまま水瓶座に当てはまりそうです。私も真っ先に此の人形の姿を思い起こしました。f:id:rcenci:20250103085955j:image

皆さにとって今年が良い歳になるように心からお祈り致します。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 驚天動地の大事件

天邪鬼(アマノシャク)です。古来より天の理(コトワリ)の邪魔をする小鬼として扱われてまいりました。今回ご案内する大事件を起こした人物を若い頃の私は天邪鬼と重ねておりました。つまり、文字通り『天』の理の邪魔(偽り)を行ったのです。f:id:rcenci:20241229093316j:image

今までは、一通り相沢忠洋先生の半生を中心にご案内させて頂きました。また、相沢先生の良き理解者として芹沢長介先生のお話も触れさせて頂きました。芹沢先生は相沢先生が他界された後、其の生涯を中期〜前期旧石器時代(約三万年前以前)の探究に向けられていらしたのです。

有りし日の芹沢先生です。相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241229093328j:image

此の時の時代区分として、後期旧石器時代が約三万八千年前から縄文時代の始まりの一万六千年前迄の期間を指します。此の後期旧石器時代において、日本列島に人が住んでいた事は、既に相沢忠洋先生が確認されており、世の中も同様に認め、更に天津御祖の後裔である天皇陛下も御認めにならておられます。

芹沢先生は更に三万八千年前以前の中期旧石器時代、更に其の前となる前期旧石器時代と言う期間が有った事を証明しようとされていたのです。其れは相沢先生と共に歩んだ途方もなく壮大な夢だったと思います。

芹沢先生は東北大学を退官された後、東北福祉大学の教授となりました。東北大学では門下生だった文学部助手の岡村道雄氏が其の意思を引き継ぎ、同大学の考古学研究室を牽引されておりました。此の岡村氏は後に文化庁文化財主任調査官になられた御方ですが、事件の渦中に巻き込まれてしまいます。

村道雄氏です。f:id:rcenci:20241229093348j:image

此処から今日の本題に入ります。本来ならかるく本一冊程になる内容ですが、要点のみをご案内致します。晩年の芹沢先生を奈落の底へ落とし込めた大事件とは、平成12年11月5日に発覚した『旧石器捏造事件』です。此の事件のおかげで今迄築き上げられて来た旧石器時代の研究の信憑性が一気に吹っ飛んだのです。其れだけで無く、海外にも大きな反響を与え、更に日本の旧石器時代研究に途方もない修復不可能とも思える多大な損害を出してしまいました。

毎日新聞のスクープ記事です。f:id:rcenci:20241229093403j:image

此の事件が起こった頃の私は30歳半ばの働き盛りでした。毎日ほぼ始発に近い通勤電車を利用しておりましたが、日経新聞を電車内で読み込む事が習慣でした。そして社会面を見て愕然としたのです。記事の見出しを見て、思わず『え?』と大声をあげてしまいました。驚きの余り、暫く声も出ませんでした。

記者会見の様子です。f:id:rcenci:20241229093450j:image

実行犯である藤村新一氏です。f:id:rcenci:20241229093502j:image

まず当事者である藤村新一氏の事を簡単にご案内致します。宮城県加美郡中新田町に生まれ、有名な仙台育英高校を卒業し、東北計器工業と言う会社へ就職しました。やがて相沢忠洋先生に憧れ、休みの日に石器収集を始めたそうです。其の頃に芹沢先生の門下であった岡村道雄氏をリーダーとした石器文化談話会が創設され、藤村氏も此の会に加わり、遺跡の発掘を行っておりました。

やがて藤村氏は前期〜中期旧石器時代の石器を次々と発見し、其の後は石器文化談話会が設立した東北旧石器文化研究所と言う組織に設立当初から参加したのです。2つの会共に藤村氏の活動拠点でした。其の後、発掘の名人としてもてはやされ、ゴットハンド(神の手)の異名を馳せました。やがて更に名声は高まり、アマチュアを対象にしていた第一回相沢忠洋賞を受賞致したのです。その後も秩父原人を発見した功績により埼玉県知事賞も受賞しました。東北旧石器文化研究所は特定非営利活動法人に認証され、藤村新一氏は副理事に選任されております。天国の相沢忠洋先生はどんな思いで一連の流れを見ていたかと思うと胸が締め付けられます。

世の中は原人ブームに沸きました。当時の秩父原人のマスコットキャラクターです。f:id:rcenci:20241229093544j:image

東北石器文化研究所はアマチュア藤村新一氏や鎌田俊明氏(宮城県の不磷寺住職)が居り、指導者として梶原洋氏(東北福祉大学 芹沢先生の門下生)が居りました。談話会の岡村道雄氏と梶原洋氏は2人とも芹沢先生の門下生なのです。飛ぶ鳥を落とす勢いの藤村氏でしたが、一方で発見の数の余りの多さと不自然さから発掘に疑いの目を向ける者も出てまいりました。

後で報道された事ですが、藤村氏達は発掘だけに傾倒し、出土品に対して本来行われる発掘後の研究を行なっていなかったと言います。更に不思議な事に旧東北旧石器文化研究所の発掘におきましては、調査報告書が作られることは無かったようです。もはや考古学と言う学問では有りませんね。自浄作用を持つ組織では、此の場面で大鉈が振るわれる場合が多く有るものだと思います。

1973年から藤村氏は発掘を始め、捏造発覚が2000年なので実質25年間に藤村氏が関わった発掘品を日本考古学会では学術的資料には認めないと致しました。つまり、全てただの石ころとされて白紙に戻されたのです。

恐らく其の中には藤村氏が他から持ち込んだ縄文あたりの本物も混じっていたと思われます。また該当地域の経済にも大きく響きました。原人ブームに乗った各地の観光業が大打撃を喰らったのは想像に難くありません。

朝日新聞が藤村氏が他から持って来た縄文石器を発掘現場に埋めている姿を写真撮影した時の話ですが、やるなら当然『夜にやるだろう』と考え、赤外線カメラを用意し夜通し待機したそうです。ところが、夜には行われず、なんと白昼に堂々と埋めていたといいます。呆れて声も出ませんね!

罪状を白状した藤村氏は自らが解離性人格障害である事を訴え『誰かが俺に囁いたんだ』と言い始めたと言いいます。其の後、何と自らの指を鉈で切り落とす暴挙に出たと言います。時が経過すると彼は精神障害者として扱われました。韓国やチャイナからは『日本人が歴史を歪曲しているのが証明された』と罵られました。

考古学学会は大きな衝撃を受け、アマチュアを排除していく方向に舵を切ったのです。つまり考古学には確りとした学びのバックボーンは必要だとされました。

こうして、世間の矛先は精神障害者藤村新一氏から、一緒に発掘を行った者達に向けられたのです。まず、捏造に『同調』したのが東北旧石器研究所の鎌田俊昭氏(不磷寺の住職)、捏造を『見逃した』のが東北福祉大学の梶原洋氏、更に其の発見した『偽物を権威付けた』のが文化庁の岡村道雄氏だとされました。此処に梶原洋氏と岡村道雄氏という芹沢先生のお弟子さんが2人も入っていたのです。

更に此の風潮が悲劇をもたらせた事件が起こってしまいました。週刊文春が大分の聖嶽洞穴についても捏造の疑い有りとしたのです。此の事に関し、地元での信任が厚い考古学者の賀川光夫氏が抗議の自決を遂げたのです。此の事件は遺族側が週刊文春に対し訴訟を起こし、裁判では文春側の取材体制のずさんさが多く指摘され、原告側が勝訴致しました。正にKHAOS状態です。

賀川光夫先生です。氏は別府大学文学部教授で有り、大分の文化人として大分に大きく地域に貢献された方と報道されております。旧石器捏造事件の余波を受け尊い命を地元の名誉の為に投げ打った古の武人のような御方だと推測致します。別府大学さま賀川光夫先生の足跡よりf:id:rcenci:20241229093744j:image

此の後の流れはご想像にお任せ致します。私は一連の不祥事の重荷で芹沢先生が人生の最後に辛い経験をされた事に対し、強い憤りを禁じ得ませんでした。芹沢先生は86歳で胸部大動脈瘤破裂の為に仙台市の病院で帰らぬ人となられました。

毎日新聞が動いた背景には竹岡俊樹と言う考古学者が疑念を持った事が発端です。竹岡氏は捏造事件の発覚前から藤村氏の発掘に疑問を持っていたので、確認しようと致しましたが、発掘現場から締め出されたと後に説明しております。此の方は明治大学で考古学を専攻され、パリ第六大学で博士号を取得し、当時は共立女子大の非常勤講師をされていた孤高の考古学者です。

藤村氏の事件以来、日本における中期旧石器・前期旧石器の研究は下火どころか、殆どが其の価値を失ってしまったのです。日本の前・中期旧石器遺跡のうち162ヶ所もの遺跡が認定を取り消されました。其れ等を真剣に発掘されていた学者達の落胆は計り知れませんね。

認定を取り消された上高森遺跡の跡はメガソーラーになっているみたいです。 朝日新聞ざまよりf:id:rcenci:20241229093803j:image

今回のシリーズの冒頭に相沢先生の奥様が『相沢忠洋 その生涯と研究』と言う書籍に寄せた文書に『私の永い間心に抱き続けて来たわだかまりも変化し全面的に協力する....』と有った言葉に私は感動しました。『わだかまり』の背景には本当に深くて暗い意味が存在していたのです。

岩宿遺跡が1946年に相沢忠洋先生によって発見されてから、長い年月が経過しました。其れも、ただの長い年月では無く旧石器時代の研究に携わった皆さまの悲喜交々の感情が入り乱れる波乱の背景が其処には存在していた事は明白です。

2024年になって相沢忠洋先生が発掘された多くの石器が国の有形文化財となった事と、みどり市が相沢先生を主人公とした映画の制作に入ったという報道に対し、1人の旧石器時代ファンとして本当に嬉しかったのです。関係者の皆さまにおける長年の弛まぬ努力に対して深く敬意を抱く次第であります。

 

追記

本文中でご紹介させて頂いた岡村道雄氏は、其の後も活動を継続されております。捏造事件につきましては『研究の方法が不十分だったので私が失敗した。教訓として、あの捏造事件を生かしていきたい』と語り、後世の研究者の礎となられております。此のようなご経験をされた方は通常ニ度と表に出て来ない事が大半の中、自らの信念のもとに色々なテレビ番組にも出演し、捏造事件について語られております。
此れこそ考古学を愛する真の研究者が失敗の後に取る本当の行動だと私は心から賛辞を送りたいと思います。

また、藤村新一氏は、考古学会に対し、妨害する意図を持っていた証拠が見つからず、実際に刑事罰は科されていないのです。従って事件後も普通に一般市民として暮らしております。其の後の報道機関からの取材に対し、捏造に関する記憶は精神疾患により残っていないと述べているとの事です。私は此れを天の理に反すると考えております。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 4

相沢忠洋先生についてのお話は、学生時代に恩師から学んだ事と合わせ、自宅に有る書籍の内容と今年11月に岩宿博物館を訪問した際に学芸員と思われる方とお話した内容を基にご案内しております。

思い出せば、私が社会人8年目に空前絶後の大事件が起きる迄は熱意を持って関係書籍を読み漁っておりましたが、事件以降はすっかり熱が冷めてしまっておりました。其処から実に24年の歳月か経過しております。其の事件につきましては、次回にご案内させて頂くとして、今回は其の後の相沢忠洋先生のお話をさせて頂きます。

相沢先生が石山遺跡で発掘された石器の数々です。先人達の道具だと思いながら見つめていると、まるで其の時代に向かうような実に不思議な気分になります。f:id:rcenci:20241222085226j:image

私の持っている『岩宿』の発見と言う自伝書とも思える書籍は、昭和44年に講談社から発行されておりますが、此の『岩宿』の発見を執筆するに際しても、相沢先生は深く悩まれていた様子が綴られております。其処には1人の人間としての苦悩と葛藤が感じられるのです。此処に其の原文をご案内致します。

山を歩く写真 相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241222085236j:image

以下引用
思えば私は人間嫌悪を長く心の奥底に秘めて今日まできた。それは私の生いたちの環境から生まれてきたものであろうか。いけないことと自省自戒しながらも、人間嫌悪の情を捨て去ることはできなかった。人間の好意を率直に受け人れられない自分のふがいなさには、時として、みすから腹立たしさを覚えることもたびたびあった。

しかし、そのような私に、近年人間としての真の友愛の手をさしのべ、教えてくれた何人かの人びとがあらわれてきた。私はこの人びとから人間としての広がりと深みの世界を教えられた。

この本を世に送りだすことについても、私はためらいつづけた。どうしても気がすすまなかった。その気のすすまぬものを決心させてくれたのは、じつは人間のあたたかみと友情によってのことであった。 

途中省略

もし、この1冊の本が、読者のみなさまの何らかのお役に立つところがあるとするならば、人間としての友情を、身をもって与えてくださった多くの方がたのおかげにほかならない。
引用終わり

『朝の来ない夜はない』を机に書き込んで気丈に頑張っていた相沢氏ですが、いくら不撓不屈の漢でも、やはり生身の人間であり、内面では苦悩されていた事が分かりますね。此の文章は本当に真っ正直な方しか書けない文脈だと思います。

相沢先生は此の書籍の発行の少し前となる昭和42年に、第一回吉川英治文化賞を受賞されております。 此の賞は日本の文化活動に著しく貢献した人物及びグループに対して贈呈される特別な賞です。写真は相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085302j:image

吉川英治文化賞の表彰状です。相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085317j:image

昭和46年には夏井戸遺跡に『赤城人類文化研究所』を設立され、尚も研鑽を続け、翌年には国立宇都宮大学の講師となられました。

一方で悲しい事も有りました。昭和47年には奥さまのきみさんが、43歳の若さで胃がんの為にお亡くなりになられました。

開設当初の赤城人類文化研究所の全景。相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241222085357j:image

此の後に相沢氏は芹沢先生の推薦により、晴れて日本考古学協会員となられたのです。そして其の約5年後の相沢先生が51歳の時に群馬大学名誉教授七条小次郎先生ご夫妻のご媒酌により、久保田千恵子さんと結婚されました。

此の期間にも数冊の書籍を手掛け.精力的に活動されておられましたが、長年の無理がたたり何度か体調を崩されておりました。そして相沢先生が57歳の時、桐生厚生病院に脳内出血で長期入院されたのです。此の後の相沢先生は亡くなられるまで病院暮らしが続いたといいます。

相沢先生のご体調に反し、更なる『お天道さま』からの贈り物がまいります。天照大神が自らの後裔である陛下に語りかけられたのかは定かではありませんが、相沢氏の著書が天皇陛下の知るところとなり、勲五等瑞宝章の受賞が決まったのです。まさに日本人として最高の栄誉となります。

しかし、授賞式が迫るなかで相沢氏の余命も残り少なくなって行くのです。

瑞宝章の勲章です。饒速日命が降臨された折に天照大神から授かった十種神宝がデザインに使われていると言われております。写真は相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085406j:image

相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085414j:image

世間も支援者の皆さまも心より晴れの受賞式を楽しみにさらておられたと思います。ところが此処で運命の悪戯が起きてしまうのです。

勲五等瑞宝章の授賞式当日の朝午前7時38分、相沢忠洋先生は死去されてしまうのです。日本の歴史を変えた一代の英傑は此処に63歳の御生涯を真っ当されました。

葬儀での弔辞は芹沢先生が務められたと岩宿博物館の学芸員の方は仰っておりました。また、其の内容につきましてもご教授頂きましたが、此のブログでのご案内は控えておきます。

平成13年に相沢氏の銅像が有志の皆さまにより岩宿遺跡B地点に設置され、其の除幕式をが行われました。台座の銘文は芹沢先生の揮毫との事です。そして長い何月を経て今年の春に相沢先生が発掘された膨大な数の石器が、日本国の有形文化財に指定されたのです。

私は今年の春に此の報道に触れ、とても嬉しい気分になりました。知った時は残念ながら渓流釣りのシーズンに入っておりましたので岩宿博物館を訪ねたのは今年の11月になった次第です。

其れにしても長い....本当に長い時間が経過してからの有形文化財指定です。相沢先生がご他界されてから、先にもご案内した

今思っても忌々しい大事件が起こります。本当に色々な事が過ぎ去ってからの有形文化財指定だったのです。

話は変わります。

現在の日本旧石器学会の集計によれば、日本全国に存在する30,000年前より古い旧石器時代の遺跡の総数は10,150箇所となります。尚、お隣の朝鮮半島には、たった50ヶ所で有り、オマケに日本の様に其の前後の遺跡が発見されておりません。此の事は日本に桁違いの人類が集まっていた事の裏付けとなります。

此れは恐らく人類が全てを育む偉大な太陽を信仰とし、やがて太陽が昇る場所を求めて移動を繰り返し、気の遠くなる年月のなかで代を重ね、『日出る国』に来ていたと言う事が言えると思います。思えば凄い事ですね!

写真は私の兄貴が撮影した今年の初日の出です。f:id:rcenci:20241222085328j:image石器時代の人類は危険を承知で此のような荒まく海を超え、東にある日本を目指したと思うと胸が熱くなりますね。天孫降臨に際して天照大御神が孫神である瓊瓊杵尊に対して下された天壌無窮の神勅が脳裏に浮かんでまいります。

最後に失礼致します。正直申し上げて私は皇国史観の塊のような日本人です。其の皇国史観先の大戦後にGHQによって遮られた事で発展したものが日本の考古学でした。考古学においての学術的な発見は、其のまま皇国史観を少なからず否定する事になったからです。しかし、其れは日本列島に集まった先人達の壮大なる歩みの証拠で有り、相沢先生の発掘された石器は其れを可視化したものと私は捉えております。私は旧石器時代の扉を苦労の末に開かれた相沢忠洋先生に対し、心から畏敬の念を抱いております。先生の御霊が永遠に鎮まらん事を心から祈念致します。

次に続きます。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 3

前回にご案内させて頂いた通り、厳しい生活を送られていた相沢忠洋先生でしたが、自らの活動は確りと継続しておられました。

前回もご紹介させて頂いた相沢氏を最後まで擁護した芹沢長介先生は、大学院を卒業された後、其のまま明治大学の講師となりました。相沢氏を岩宿遺跡の発見者としなかった杉原荘介先生と袂を分ち(旧石器時代の広がりについて学説上の相違も有った)、北の名門である東北大学に移られたのです。其の後、昭和38年に助教授となり、昭和46年に教授に昇進され、数々の業績を残して日本における旧石器研究の第一人者となられました。昭和58年に退官し、翌年より東北福祉大学教授(後に名誉教授)になられたのです。でも華々しい経歴も先生が80歳近くになってから思いっきり足をすくわれてしまいます。今思い出しても忌わしい事件です。

左が相沢氏で向かって右が芹沢先生です。相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241215070806j:image

話を相沢忠弘氏の其の後に戻します。相沢氏は昭和33年頃、笠懸村にある西鹿田遺跡を発掘調査され、旧石器文化から縄文時代草創期文化の層位的確認をされました。氏は赤城山麓の旧石器遺跡の記念すべき最初の『編年』を御制作されたのです。

『編年』とは分かり難い表現ですが、考古資料を其の文様や形態及び機能の変化等によって年代的な経過を示す型式に配列し.遺跡を覆っていた土壌の地層との関係において得られた時間的変遷などを現したものを指します。

他のものですが、此方が編年です。前橋市のHPよりf:id:rcenci:20241215070823j:image

たまたま土中から石器が見つかったとしても、何処かの高い文明を持っていた種族が通りがかりに単純に落とした物かも知れません。しかし近隣の其れ以前や其れ以後の遺跡を調査記録し、編年を制作する事で初めて人類の営みの流れが解る事になります。

そして....長い厳しい冬の後で小さい梅の蕾が少しづつ開花していく過程のように、相沢氏の功績は徐々に世間に認められて行くのです。世の中は捨てたものでは無いのです。

此方は当時人気が有ったフォトアートという雑誌です。此の創刊10周年記念特別号に昭和を代表する写真家である土門拳氏を岩宿遺跡に案内して撮影した写真が掲載されました。土門氏はリアリズム写真で有名な方です。f:id:rcenci:20241215070838j:image

撮影中の土門氏。Wikiよりf:id:rcenci:20241215070854j:image

相沢氏の良き理解者である芹沢先生は、かつて遺跡や発掘品に対しての撮影技術習得の為に土門氏に師事されていた事も有ります。手前勝手な推測ですが、芹沢先生のお導きかも知れませんね。

芹沢長介先生です。写真は芹沢銈介美術工芸館さまのHPより 芹沢銈介氏は芹沢長介先生の御祖父であり、染色工芸家として人間国宝に指定された稀代の芸術家です。f:id:rcenci:20241215071034j:image
  
此の間にも相沢氏は芹沢長介先生と共に長崎の佐世保にある福井洞穴に向けた学術調査団団員として参加されるなど精力的に活動されました。此の他も芹沢先生が赴かれる発掘には必ず参加されておられたといいます。

芹沢先生と相沢先生が学術調査団員として参加された佐世保の福井洞穴です。旧石器時代から縄文時代への過渡期を証明する貴重な遺跡だといいます。其の重要性から国の特別史跡に指定されております。福井洞窟ミュージアムさまのHPよりf:id:rcenci:20241215071048j:image

此のような活動をされているさなか、相沢氏に対して世の中が動きました。まず昭和35年相沢忠洋氏が35才の時に群馬県が動いたのです。

群馬県は相沢氏を岩宿遺跡発見の功労により表彰する事を決めました。群馬県では最高の栄誉となる県功労章は、通常は55歳以上と決まっていたらしいのですが、此の時の相沢氏は35歳でしたので異例の受賞となったと言えます。やはりお天道さまは確りと見ていたのですね!

此方が相沢氏の自伝とも言える書籍です。此処に相沢氏の人としての生の声とも思えるべきくだりがございます。此の自伝は私の本棚にボロボロの物と、その後に買い足した物と2冊ございます。何故2冊かと言うと、一時期紛失してしまい、困って新たに古本屋で買い求めた後に娘の部屋から埃にまみれて発掘されました(笑)。娘に読むように渡したのですが、お互いに忘れていたのです。f:id:rcenci:20241215071013j:image

相沢氏の自伝には次の様にあります。此の時、相沢氏の父上は病床に伏しておられました。

以下引用
『山師の様な事はやめて働いて金をためろ』と言い続けた父は、空っ風が吹きはじめた前橋市の一隅で脳血栓で床に臥していた。

そんなとき思いもよらない通知が来た。群馬県では最高という「県功労章」を頂けるという通知であった。55歳以上でなければだめという賞を、特別にオリンピックで活躍した相原信行氏と私にくださるという。私はお受けして良いものがどうか、当惑した。しかし病床の父におくる息子の私の人生日標のただ一つの証(あかし)は此れしかない、と考えてお受けする事にした。

11月23日、群馬県庁の正庁の間で受賞、その式が終わると直ぐ其の足で父の枕べに急いだ。その日いくらか気分が良かったのか、父は口もとをほころばせ、私が、
 『県知事さんからこの賞を頂いて来た』と、大きな賞状と銀盃を手に取らせると、
 『良かったなあ、お前や皆んなに苦労をかけてすまなかった』と言って何度も何度も、やせ細った手で銀盃をなでさするのだった。その5本の指先には、硬いたこが出来ていた。

長い間吹き続けて来た笛の芸一筋に打ち込んだ男の指を、私はこの時はじめてじみじみと眺めやった。だが、私が父と交わす事の出来た数少ない言葉は、此れが最後だった。その夜ふけ、寒気の差し込むなかで昏睡状態に陥り、12月5日、79歳を一期として黄泉の旅に立っていった。
引用終わり

群馬県の昭和庁舎です。f:id:rcenci:20241215071128j:image私の会社でも上州(群馬県)出身の先輩は多くおみえになります。上州の益荒男達は比較的口数少なく、総じて身内をとても大事にし、特に情に深く、此れと決めた知己の為なら身を粉にして頑張る方ばかりです。

今際の際の御尊父さまに良い報告が出来たとはいえ、お父上との別れは辛かったと思われます。

病床の父上も恐らくは心配されていた
嫡男の大躍進を心から喜びながら
黄泉路へ向かわれたと思います。

合唱

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次回に続きます。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 2

前回の続きからご案内させて頂きます。相沢忠洋先生が23才の時に群馬県みどり市笠懸町稲荷山の切通しの崖において、関東ローム層中に埋もれていた槍先形尖頭器を発見された事は前回ご案内した通りです。

此の発見は石剥片どころでは無く、槍形尖頭器という明らかに縄文以前の人類が造った生活の証であった事から、相沢氏は此の発見を専門家に見て貰う事をお考えになられたのです。

相沢氏の生活は納豆の行商で活計を立てておられました。相沢忠洋 その生涯と研究より
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前回も書きましたが、岩宿遺跡の発掘以前の常識として、人類が日本列島に現れた最も古い時期は縄文時代早期と考えられておりました。当然ですが、岩宿の発見前は多くの考古学研究者が其の縄文早期に注目していたといいます。

相澤氏も岩宿遺跡と共に縄文時代早期の調査を精力的に行っておりました。其の為に早期の土器や石器についての教示を受ける目的で南関東で有名な研究者に何度も手紙を出されております。

相沢先生は岩宿遺跡が発掘される頃まで、何とか専門の研究家にお会いしたいと考え、東京や千葉県市川市等へ、自ら発掘した資料を持参し、行商で使っている自転車で何度も往復されたといいます。今みたいなスポーツ自転車では有りません!実際にお使いになられた自転車が岩宿博物館に展示されておりました。私は其の自転車を見た時、魂が揺れる様な感動を覚えました。

此方が其の自転車です。上州は山々を下降する乾燥した強い風が吹き荒れる場所で有名であり、地元の方は『上州の空っ風』と言います。そんな強風が吹き荒れるなかで片道120km以上を此の自転車で往復されていらしたのですから、其の熱意たるや凄まじく、私の想像の遥か上を行く意思の力だと思います。
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其の後、相沢氏は東毛考古学研究所を構え、主に赤城山麓における縄文文化早期初頭遺跡の基礎資料の集成を行い、後期旧石器時代から縄文時代への移行を示す証拠を発見しようとされたのです。世界と比べた時に、日本の遺跡の凄いところは此の連続性に有るのです。

其の後、相沢氏は有る方のすすめで会社務めをされました。そして務め始めた会社が東京の吉祥寺に支店を出すことになり、其処に通われたといいます。

そんな折に世田谷の赤堤町にお住まいの後に慶應義塾大学名誉教授となった江坂輝弥先生を訪ねた時、偶然にも相沢氏の生涯の理解者となる当時明治大学の大学院生だった芹沢長介氏にお会いしました。相沢氏は芹沢先生だけに赤土の崖から出た石器の事を話されたそうです。

芹沢先生と交わされた手紙。相沢忠洋 その生涯と研究より
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此のくだりは『岩宿』の発見と言う自伝のような書籍に書いてあります。『芹沢先生だけに』話されました...とありますが、他の高名な先生方は縄文より前に人が住んでいる訳ないと取り合わなかったかも知れません。実際に否定的な方々も大分お見えだったみたいです。書籍『岩宿の発見』には山洞・山曽野グループは常に岩宿遺跡に対して否定的な見解をお持ちで有ったと有りました。


しばらくして、芹沢先生からのご要望で東京青山に有るご自宅を訪問し、崖から採取した槍先形尖頭器と、石剥片を持参されたといいます。芹沢先生は八幡一郎先生の『満蒙学術調査報告』に記載されていた細石器の写真と比較され、全く同じだと感嘆の声をあげられたと自伝にはございました。

岩宿遺跡を発掘する相沢氏。相沢忠洋 その生涯と研究より
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芹沢先生は此れを重要だと断定する二つの理由をあげられました。一つ目は細石器様のグループが北関東に有る事。もう一つは関東ローム層の中に土器を伴わずに存在したという事だと仰られたそうです。


其の後、芹沢先生から葉書が送られて来て、同じ明治大学の人文科学研究所長である杉原荘介先生が登呂遺跡の発掘から戻られるので、明大の研究室に案内したいと申し出が有ったそうです。

後に相沢氏は芹沢長介先生の矢出川遺跡発掘調査に何回も。参加されております。此の芹沢先生とは後に筋金入りの考古学者となる方で有り、遺跡の撮影技術を磨く為に有名な写真家の土門拳氏に師事して撮影技術を学ばれたそうです。矢出川とは川上村を流れる千曲川の支流であり、天然イワナの魚影が濃い小規模河川です。また、此の頃に相沢氏は三浦きみさんと再婚されました。

矢出川遺跡です。私は近くを流れる矢出川でイワナを釣ると旧石器人の食べていたイワナの末裔を釣った様な不思議な感覚を覚えます。日本旧石器学会さまのHPより
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相沢氏は芹沢先生と一緒に明大の研究室に杉原先生を訪ねたところ、現地に行ってみたいという要望を受けたそうです。日を改めて皆で岩宿に行き、皆で掘り始めたところ、辺りも薄暗くなった夕方に杉原先生が青色の石器を掘り当てたとあります。

相沢忠洋 その生涯と研究より
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翌日、杉原先生は前橋を訪問し、県庁に寄り一連の話をしたそうです。更に桐生に戻って村長さんや地主さん等と面会し、学術目的の発掘の意義を説明し、発掘の下交渉をしたそうです。そして翌日も終日調査を行ったと有ります。立場の有る方が本格的に動いたらこんなにもスムーズに事が運ぶのですね。

関東ローム層は1万年前のものから4〜3万年前のものまで存在しており、其処には人類や動物は住んで居なかったとされて来ましたが、夢を追い求めるアマチュア考古学者の執念の追求によって常識が覆ったのです。其の後は大々的な発掘調査が行われ岩宿遺跡が公に確認されたのです。

此の話は学生時代にゼミの先生が題材とした話ですが、学生時代の20代前半で感じる印象と今の様な五十路半ばで改めて見つめ直して感じる印象は雲泥の差があります。
 

相沢氏は其の著書で『岩宿は青春の日の輝かしい思い出であり、人生の記念碑であります』と語っております。

明治大学の杉原先生は岩宿遺跡に対して昭和24年9月11日から13日の3日間を予備調査とし、一連の成果を9月20日に新聞発表すると話して東京に戻ったと言います。

相沢氏は一日千秋の思いで其の日を待ちわびました。発表の翌日である20日の夜明けに相沢氏は桐生駅売店へ向かい、新聞売りのお婆さんが、店に並べる前に朝日新聞、読売新聞、毎日新聞等を購入されたと有ります。

現代の桐生駅北口です。其の頃はどの様な造りだったのでしょうか。Wikiより
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其処には『旧石器時代の遺物――桐生市近郊から発掘――』の見出しや、杉原先生が自ら掘り当てた握槌の石器を手にしている写真などの記事が大きく取り上げられていたそうです。

自伝では次の様に有ります。

『私の胸は高鳴った。さっそく買い求めて、新聞を小脇にかかえこむようにして家へ帰っていく道で、『ついに岩宿文化は誕生したぞ』と心で叫んでいた。そして家へ帰っても、私は何度も何度も各紙の記事をあくことなく読みかえした』

実に臨場感のある文章です。世の中は恐らく大反響の渦だったであろう事と相沢氏の感激も直に伝わってまいりますね。  

しかし、この後に相沢氏の周囲の方々が異変に気が付きます。遺跡の発見者としての相沢忠洋さんの名前が何処にもないのです。旧石器の発見者である相沢氏を「発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた」とだけ記し、また芹沢先生に関しても写真撮影を担当したと述べるにとどまったのです。

ハッキリ言うと明治大学の杉原荘介氏による手柄の横取りなのです。事実として杉原荘介氏は文部省での会見において、相沢氏が発見した日本最古の黒曜石の槍先形尖頭器を『私が発見した』と発表しております。此れに対して同じ明治大学の芹沢先生が猛抗議しましたが、にべもなく揉み消されてしまったといいます。

嘘の様な話ですが、杉原荘介氏 のWikiにも載っている本当の話しなのです。通常、研究室での成果は其れを指揮した教授の成果になるのは理解出来ますが、今回は相沢氏が発見した槍形尖頭器が発端になった話しなので事実と異なるのは明白です。

以前から重ね重ね思うのですが、杉原先生は此の一点のを除けば真に立派な功績を残しているだけに何故此のような嘘をついたのか不思議で成りません。

しかし世間は冷たいものなのです。高名な考古学の先生が語る内容と、納豆売りのアマチュアでは比べモノにならなかったのです。次第に相沢忠洋に対して嘘つきなどと、あらぬ話も流されるようになってしまったのです。

此の事は相沢氏の生活を直撃しました。周囲の人から嘘つき呼ばわりされ、家に石を投げ込まれたり、行商で納豆が売れなくなったり散々だったとの話もございます。

相沢氏は赤貧の状態に置かれ、自らの布団に入っている綿さえも、石器の標本の下敷に使ってしまい、苦しい生活を送られていたとの事でした。

しかし、古来日本人の諺にも有りますが、お天道さまは確り見ているのです。

相沢氏の座右の銘は『朝の来ない夜はない』です。相沢氏は、そんじょそこらの人では無く、強くて慎ましい帝国海軍の軍人さんだった御方なのです。

群馬県みどり市は、相澤忠洋氏の功績を称え、相澤忠洋氏生誕100周年と岩宿遺跡発見80周年及びみどり市市制施行20周年が重なる令和8年を目指して一連の事象を題材とした映画化に着手すると2024年8月5日に発表しております。どんな作品になるか楽しみです。
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稀代の英雄はどんなに逆境でも

常に前向きなのです!

次に続きます。