みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

初釣り

寒くて迷っておりましたが、更科の実家に用事で帰省したついでに近隣の小河川を釣ってみました。妹が作ってくれた昼ごはんを食べた後の出発です。せめて1匹だけでも故郷のイワナの顔さえ見られれば幸いでした。午後の予定も入っており、制限時間は行き帰りも含めて2時間です。オマケに『お兄ちゃん、絶対に〇時迄には帰って来てね』の声を背中で聞きながらの出発でした。

我が家の近くの千曲川は広いのです。本流の左右に流れ込む小河川が多く有ります。此の時期なので当然ですが、人が入った形跡が何一つ有りません。
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今回は何時もキノコ取りをする山に流れる小河川から始めましたが、全く音無の構えでした。数箇所回ってみたのですが、全く反応が有りません。

山の中は大分冷え込んでおり、山を少し下った道路沿いに有る酒屋さんまで車で戻り、軒に併設されていた自動販売機で暖かい缶コーヒーを買いました。酒屋さんの車が駐車してある横に庭があり、其の庭には小さい池が有りました。薄く氷が張っておりましたが、氷の下では緋鯉が元気に泳いでおりました。此の光景を見て、何だか釣れそうな気分になりました。
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それなら....と一山超えた違う沢にある毎年必ず釣れる落ち込みに向かう事に致しました。

目的の場所に到着してみると、何と工事が行われており、土嚢が積まれた悲惨な状態になっておりました。しかし良く土嚢袋を見ると最近のモノでは有りません。ダメ元でブドウ虫の着いた仕掛けを入れてみると、ククンッとアタリが有り、今年初のイワナが釣れてまいりました。その後も同じ場所で次々と天然イワナが釣れてまいりました。氷の下で元気に泳いていた緋鯉さんのおかげです。
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コレだけ釣れればもう満足です。更科の名も無い川の龍神さまに拝礼し納竿しました。
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今回釣ったのは左の支流の上流です。此の写真は2月に帰省した時に我が家のお墓に向かっている私と娘を妹が撮影したモノです。
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帰ってくると家の庭には春を告げる花が可憐に咲いておりました。名前は分かりませんが、此の時期によく庭に咲いている花です。
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仕事の合間に史跡訪問

今日ご案内させて頂く事は、今年の1月中旬頃に私が勤務している横浜の営業所から、お客さまが経営されている鎌倉鶴ヶ丘八幡宮近隣の店舗に向かった時のお話です。

ところがもう少しで鎌倉に入るタイミングで訪問先のお客座から連絡が入り、アポの時間を1時間ほど遅らせて欲しいとの申し出がありました。もう鎌倉に入るところでの連絡で有り関内の営業所に戻る訳にもまいりませんでした。

其処で前々から訪問してみたいと思っていた日本史上無類のNo.2である執権北条一族が最後を迎えた東勝寺跡に行ってみる事に致しました。念の為に申し上げますが、決して最初から狙っていた訳では有りません(笑)。

東勝寺跡は鎌倉市小町3丁目10−1にございます。当日は鎌倉に祖父の実家を持つ若い社員と一緒だったのでスムーズに目的の場所まで到着到達出来ました。

実はこの地で北条一族郎党870余人が自刃し、実質的に鎌倉幕府は滅亡したのです。歴史学的にも一級品の遺構となります。東勝寺は3世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により創建されました。
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跡地にはフェンスが設けられており、北条一族の御霊が眠る聖地への侵入を阻んでおります。季節的に冬という事もあり、凛とした冷気に包まれた厳かな場所でした。
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周辺は背後に鎌倉特有の急峻な山々を持ち、少し降ったところには堀にもなる川床の深い河川が流れ、防御の為の城郭的な機能も保持していたと伝わる事も肯定出来ます。
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少し小道を登ったところに『腹切りやぐら』と書かれた石碑がございました。思わず合掌し北条氏が善政を敷いてくれた信州の地に生まれた人間としての御礼を申し上げたい次第です。
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奥に建てられいた石碑です。此の石碑を読んだ辺りから心の震えが止まりませんでした。詳しくは書きませんが、実は北条一族と我が家は此の時代において関係が有ったのです。
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信州の鎌倉と言われる別所温泉に鎮座する古刹北向観音も戦火で焼失した後に頼朝公が大事にしてくれた事も有り、北条一族が厚く崇敬しておりました。余計な話しとなりますが、信州では善光寺さんが来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすと言われております。
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北条一族と信濃との関係を確り話すと長くなるので簡単にご案内させて頂きます。まさに此の東勝寺において北条一族870余人が自刃する直前に、第14第執権北条高時の次男である亀寿丸を家人の中で特に信任を得ていた諏訪一族の諏訪盛高に預けました。盛高は乳飲子であった亀寿丸を諏訪までお連れし、諏訪大明神の現人神である大祝に託しました。大祝(金刺氏)に託したという事は、当然ですが洩矢一族にも庇護を受けたと言う事になります。そして亀寿丸は成長し元服致します。此れを機に亀寿丸は名前を北条時行と改めました。こうして当時の大祝であった諏訪時継と実父の頼重と共に挙兵したのです。此の戦は後に『中先代の乱』と言われました。此の軍に信濃の名族である滋野一族が剛力し大勢力となりました。更に支族である保科氏や四宮氏も参加して室町幕府の守護所を破却致しました。主力の諏訪勢と滋野一族は武蔵国において足利直義軍を蹴散らし、一気に鎌倉府に襲いかかったのです。鎌倉府は、呆気なく陥落し、北条時行は父祖の地である鎌倉を取り返しました。これを聞いた京在住の足利尊氏が鎌倉に救援に向かいたかったのですが、其の出立を後醍醐天皇が許さなかったのです。しかし尊氏は一族の為に鎌倉に向かいました。側から見ると勅命に従わなかったとなります。此れが後世まで裏切り者の誹りを受ける原因となりました。こうして北条時行軍は数に勝る足利本軍に敗北してしまったのです。此の話からも御理解頂ける様に信濃東勝寺は深い縁がございます。

因みに時行は此の後も生き残り南北朝時代になってからは、かつての仇敵だった南朝と手を組み、足利尊氏を討ち果たすべく動きました。北畠顕家新田義貞と共に杉本城の戦いで足利家長を打ち取り再度鎌倉の奪還に成功し、再度敗れるも後に勝利し、都合3回も鎌倉府を陥落せしめました。流石に執権北条一族の御曹司ですね。

道路から入り、川を渡る橋の袂には、小さい公園がありました。公園の名前は東勝寺ひぐらし公園です。強者達が散った跡地に『ひぐらし』の名前は、松尾芭蕉の『夏草や兵どもが夢の跡』の名句を思い起こさせます。
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北条氏滅亡と言えば大河ドラマ太平記』の片岡鶴太郎さんが演じた執権北条高時が思い起こされますね。NHKアーカイブさまより
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此のドラマでは業火につつまれる東勝寺内管領であった長崎円喜が最後に自刃しておりました。
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長崎円喜(ナガサキエンキ)役は名優フランキー堺さんが演じており、聞き迫る名演技だったのを覚えております。NHKアーカイブさまより
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ドラマでは燃え盛る東勝寺で一族の金沢貞頭も最後を迎えておりました。
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滞在時間は40分ほどですが、実に感銘深い史跡訪問となりました。しかし随行した若手社員には申し訳ない事をしてしまいました。

恥ずかしながら、その後の頭の中は遠く鎌倉末期から南北朝時代に飛んでしまっており、地獄の業火から逃げ延びた亀寿丸と勢いづいた新田義貞の軍勢が取り巻く鎌倉から幼子を連れて脱出し、その後も遥か信濃まで落ちのびた諏訪盛高の苦労を思うと中々仕事モードにはなれませんでした。営業職歴32年ですが、まだまだ修行が足りない証拠ですね。

 

因みに東勝寺は焼失後に再建されており、永正9年辺りまでは古文書によって其の存在が確認されておりますが、其の後に何らかの理由で廃滅となりました。東勝寺跡は発掘調査によって其の場所が確認されまております。此の後も貴重な歴史遺構として大事にされていってほしいと切に願った次第です。

鉄鍔の考察

梅の花が綺麗な季節です。晴れの日も雨の日も何とも可憐に目に映りますね。寒い冬が終わりそうな頃に咲く梅の花は春を予感させる花です。今なら手紙を書く時の時候の挨拶は『雨水の候』でしょうか。

昔の話ですが、士族の娘であった祖母がよく手紙を書いているのを横で見ておりました。祖母の名は愛子と言います。筆を取りサラサラと書き出す時の文言を今でも覚えております。意味が分からないモノはその度に祖母に聞いてみると、生真面目な祖母は筆を置いて確り説明してくれました。当時は意味が分からない箇所も有りましたが、今となれば有難い事だと感謝しております。

文字通り雨水(ウスイ)の中で一層美しさを増す紅梅(コウバイ)です。雨水で濡れた樹皮との相まって季節感を感じますね。
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今回は私の持っている鉄鍔の中で梅を題材とした鍔を一つご紹介致します。高額な美術的価値は有りませんが、責金(セメガネ)が残っておりますので、きっと先祖の指し料に付いていた鍔だと思います。

此方が責金と言います。鍔の中心孔(ナガゴアナ)の上と下に小さい銅の板を挟み込んでいるのが分かると思います。こうして刀身と鍔の隙間を責金で埋めて鍔のガタつきを抑えました。
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八艘の構えです。Wikiより
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時代劇などで刀を構えた時にガチャッと音がしておりますが、仮に暗闇での戦闘となった時にいちいちガチャガチャしたら相手に此方の位置がモロバレとなるので心得の有る武家はガタつきの無い様に細心の注意を払っていたそうです。登城時などには刀を入り口で預けますが、もしも其の時にガチャッとなったら問題に成るほど大事な事と書籍に有りました。

本題に戻りますが、此方が私の所属している鍔のうちで梅を題材としたモノです。

図柄は梅と賢人図です。鉄地に槌目仕上げとなっており、周囲の鉄を寄せて逞しい海の太枝で叩き出し、梅の花を銀象眼し、更に賢人の姿も周囲の鉄を寄せて打ち出され、顔に銀象眼が施され、賢人が立つ橋の下には雪解け水が勢い良く流れる降る様子が打ち出され、流れが春の陽光に輝いている様子を金の象眼で表しております。
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裏には隅に小さく枯れ草が打ち出されており、其処にも陽光にキラリと光る水滴が有ったのかは分かりませんが、とても小さい金の点象眼が一つ施されております。此の金色は恐らく色絵と呼ばれる技法だと思います。刀装具は此の様に控えめな意匠が多いのですが、気品のある控えめさが何とも言えずに好きなのです。
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鍔の周囲の部分を『耳』と言いますが、此の鍔は丸く仕上げられており、丸耳と言われる部類に入ります。
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此の鍔の様に縦に長い丸型の鍔は堅丸型鍔と言われる部類に入ります。賢人とはチャイナの魏晉の時代に深山の竹林に集まり、俗世に背を向けて琴を弾いて遊んだと言われている伝説の7人の思想家達のうち何れかの者だと思います。つまり曹操の魏から司馬懿の晉までの時代の方達ですね。

三国志を読まれた方は御理解頂けると思いますが、劉備の蜀、曹操の魏、司馬懿の晉までは、長い殺し合いの連鎖を誇るチャイナの中でも激動の時代でした。そんな俗世を生き抜いた高齢の賢人は、寒い冬が終わりを告げる様に咲いた梅の花を仰いで何を思ったのでしょうか。自国が滅ぼされた賢人なら、廃墟となった故郷の梅や家族と共に過ごした懐かしい時を回想しているかも知れません。一方で苦しくても必ず梅の花が咲く様に、明日に向かっての活力を梅の花から貰っているかも知れませんね。

梅の花です。
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米粒ほどの大きさに彫られた賢人の顔です。
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ご存知の様に3月は弥生です。弥は『あまねく』と言う意味が有り、生は『生きる』ですので、結びつけると『あまねく生きる』ですね。立派に生き生きとした梅の花は弥生の月に相応しい花であると感じながら、鍔の梅の花と賢人の顔を見て色々妄想しておりました。

此の話を名古屋から仕事で帰って来た次女に朝ごはんの食卓を囲みながら話したら『ふ〜ん、お爺ちゃんの顔が可愛いね』で終わり、長女も『へ〜』で終わってしまいました(笑)。明日で五十路を4つ超える父親のつまらない話でした。

別系統の神器 十種神宝 神仏習合 最終回

物部連氏が滅び、日本初の女性天皇である推古天皇は甥の厩戸皇子と叔父の蘇我馬子によって政治を行っておりました。推古天皇の父は欽明天皇です。

推古天皇 Wikiより
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少し時間を戻しますが、推古天皇の即位の前には押坂彦人大兄皇子厩戸皇子が候補に上がっておりました。押坂彦人大兄皇子は病弱で崇峻天皇が暗殺された頃に没してしまいました。その後は弟の竹田皇子と厩戸皇子皇位継承の表にたちますが、何方とも蘇我氏の血を引く者であり中々決まらずにおり、結局は馬子の姪である推古天皇が即位した流れです。

敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノオウジ)の子は推古天皇の後の舒明天皇(ジョメイテンノウ)となっております。

馬堀法眼喜孝画伯の舒明天皇です。
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因みに現在の皇室は此方の押坂彦人大兄皇子の男系子孫となっております。また押坂彦人大兄皇子舒明天皇中大兄皇子(天智天皇)となり、乙巳の変中臣鎌足蘇我氏を滅ぼす事になる系譜となっております。

乙巳の変、首を飛ばされているのが蘇我入鹿です。
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推古天皇の話が出たので、本文とは直接関係有りませんが、女性天皇女系天皇の違いをご案内致します。現在は声高らかに女性天皇でも良いじゃないかと言っている罰当たりもおります。

男系の連なりが必要な理由を少しお伝えします。此の話は天照大神素戔嗚尊の誓約(ウケイ)まで遡ります。高天原で対峙した二神は、其々神を産む事でお互いの潔白を証明したのです。

対峙する兄弟神です。
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天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から宗像三女神を産み、素戔嗚尊天照大神の勾玉を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から男の神様を5柱産みました。

天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕いて産んだ宗像三女神です。
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素戔嗚尊が産んだ5柱の神々の長男が天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)で有り、天照大神素戔嗚尊の遺伝子、つまり日の御子(ミコ)の遺伝子を持った神が誕生された事になります。そうして其の日の御子を受け継いだのが瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)であり、其の次が山幸彦(彦火火出見尊)であり、次が鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)であり、其の次がイワレビコです。当たり前ですが、日の御子の遺伝子を受け継いだ人物のみが天皇になる資格を持ちます。つまり天皇の子供でないと継げないのです。此の日の御子の遺伝子は女性からでは引き続ぐ事が不可能なのは皆様の知っている通りなのです。f:id:rcenci:20240223142303j:image

不敬を承知で例を上げますと、A天皇にお子さまが2人生まれました。此の2人が女性だとします。当然此の2人は日の御子の遺伝子を受け継いでおりますので天皇になれます。しかし仮に長女が天皇となり、何処かの馬の骨と結婚し男子を産んでも、其の男子は天皇には成れません。何故なら馬の骨氏の遺伝子から産まれた子だからです。もし馬の骨が中〇人なら、中〇人の子供を国民は絶対に天皇と認めず皇室の権威は崩れてしまい、先人達が2681年もの長きに渡り命を賭して守り抜いた日本は終焉を迎えてしまうからです。そうなると我々は黄泉の国に行っても先達の御霊に永遠に苛まれ続けるる事になりますね。絶対的な権威の臣民である日本国民は古来より大御宝(オウミタカラ)として扱われ、実際に政治を司る権力者は天皇の大御宝に対し、安心安全に暮らせる様に政治を行なうと言う日本独特のスタイルなのです。もし権力者が舵取りを間違ったら逆賊となってしまうのです。絶対的な権威が存在しない国では権力者が人民から搾取のみを行います。此れは北〇鮮、中〇人〇共〇国を見れば明白な事ですね。此の国体護持を維持する為に何十万もの同胞が命を落としました。国が有るから働く事が可能となり、日々の糧を得て子供を養えるのです。未来の子孫の為にこそ日本人は戦って来た事を忘れては成りませんね。
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また、此れは余り知られて無い事ですが、現在の天皇陛下は次の天皇を決める事は出来ません。決めるのは皇室会議と言われる会議のメンバーなのです。自分の後継を自分で決められない不自由さを想像してみて下さい。更に陛下は週に何時間も国民の為に祈りを捧げておられます。不敬を承知で申し上げると、プライベートは一切無い本当に御不自由な御身なのです。女性天皇を容認する方々は2681年もの長きに渡り自らの先祖が敬ってきた皇室を葬りさろうとしている事と同じ思想を持っている事になるのです。学校教育がどうのと言う話ではなく、親が子に教えるべき日本人の心得だと感じております。

宮内庁庁舎での皇室会議 平成29年12月1日  宮内庁のHPより
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言葉が過ぎました。どうかお許し下さい。
話を戻します。

593年に推古天皇が即位し、厩戸皇子は摂政となりました。推古天皇厩戸皇子は人々が安心して安全に暮らせる平和な世の中を目指し、最初に仏教を広めようと致しました。そこで594年に『三宝興隆の詔』が発布されたのです。

三宝を興して栄えさせよ」との詔です。諸々のに臣下達は其々の先祖の恩の為に、競って仏を祀る建物を作りました。此の建物を後に『寺』と言うようになったのです。三宝とは仏法僧の事であり、仏法僧とは『はとけ』と『ほとけの教え』と『ほとけの教えを奉ずる僧』の事です。こうして日本に後に飛鳥文化と言われる仏教芸術が花開きました。其々の寺は荘園を保有しており、僧侶が暮らしていく為の食糧は確保されて行ったたのです。

信州の田圃の畦に咲く水仙の花です。
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そして....

更に推古天皇は607年2月に『敬神の詔』を発布されました。以下が其の内容です。

古来わが皇祖の天皇達が世を治めたもうに、謹んで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても神祇の祭祀を怠る事があってはならぬ、群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。

此の詔を持って大王家は古来の神道を歩む事が明確に示されたました。此の二つの詔をもって日本は神仏習合の道を進む事になったのです。

此れはまさに酷い争いの後に見えた朝日の様だったに違いありません。
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此の様に仏教が人々の暮らしに有って不自然な状態では無くなった頃に改めて日本古来の天神地祇を厚く敬う事も奨励したのです。饒速日命から連なる大一族であった物部連氏が滅ぶ程に血みどろの戦いを行ったのですが、仏道に味方した勢力も寺を中心に生活が成り立ち、古来からの天神地祇を祀って来た勢力も大王(オオキミ)家が天神地祇を祀る事で安心して祭祀を行えるようになり、争うのでは無く、お互いに安心して日々の生活を営める様に取られた日本の大王(オオキミ)の勅命でした。勿論其の影には厩戸皇子の働きがあった事は言うまでもありません。厩戸皇子は天王家を敬う政策を取る事により蘇我馬子とは袂を分つ事になったようですが、此のところをご案内するには後3回は必要なのでやめておきます。

日本の凄いところは、良いモノは受け入れる包容力を有しながら、古来から伝わる大事なモノと確り共存させる事ですね。他の国なら血みどろの宗教戦争が何世紀も続くところですが、日本は此の時代から違っていた事になりますね。国歌にもある『...さざれ石の巌となりて 苔のむすまで』は『様々な種類の岩石が混じり合い一つの巌となってはじめて長く継続する国家と成する』と言う意味と解釈しているのですが、今の日本国を取り巻くきな臭い状況を鑑みますと今こそ一つの巌となる必要を強く感じる次第です。

木曽の南宮神社に鎮座する『さざれ石』です。左上から日の光が差し込む写真ですが私の理想図です。今回のシリーズは此れで終わりとさせて頂きます。毎回稚拙な長文にも関わらず、お付き合いの程、心から御礼申し上げます。
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別系統の神器 十種神宝 その後 9

お詫び
先週は寝る前に布団の上に置いた携帯を思いっきり踏んづけてしまい、携帯が微塵に砕けアップ出来ませんでした。お許し下さい。

さて、今回ご案内したいのは物部守屋大連が打たれた後の話です。元々物部連氏の祖先は饒速日命長髄彦の妹の間に生まれた宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)から連なる家系の事です。饒速日命がカムヤマトイワレビコに服属した後に、義理の兄にあたる長髄彦饒速日命に殺されたとも、北へ逃げたとも言われておりますが、其の後の系譜も極簡単に御伝えしようと思います。

此方が守屋大連の墓と言われております。

玉垣に刻まれた名跡を見ると全国の有名神社が寄進しているのが分かります。物部氏は軍事的な特色が強い反面、天の神と地の神を奉斎する神祇を司る一族でもある事が起因していると思います。物部連氏一族は日本神道の為に命を賭した尊い人物なのです。寄進しているのは石上神宮を始め春日大社住吉大社諏訪大社宗像大社、木曽の御岳神社、伊勢の猿田彦神社など凄い顔ぶれです。近くには秦氏の棟梁である秦河勝が守屋大連の御首を洗った池も存在しております。

此のお墓は江戸時代の絵図では小さい丘の上に松がボツん立って居ただけだったみたいですが、明治期に新政府下の堺県知事である小河一敏さんという方が、『物部守屋大連墳』の碑を建て、其の周囲に玉垣を巡らし石鳥居を建てました。

小河一敏翁です。幕末に討幕に尽力し維新後には初代堺県知事として活躍した方です。丁未の乱から約1300年経過した後に守屋大連の御霊を鎮めてくれた方とも言えますね。

日本書紀の記述によると物部守屋大連が打たれた事は恐らく間違いないと思います。しかし記紀には其の後『大連の児息と眷属、葦原に逃げかくれて、姓を改め名をかえる者あり』と有ります。元々物部氏は全国の物部を統治する立場であったので氏族が多かったと思われます。しかし自分の立場に置いたらどうでしょう、同じ物部を名乗る者でも寝返っている者も少なからず居たと私なら思います。

因みに記紀の記述に有る葦原とは葦の野原の事では無く、日本全体の事をさしております。日本は古くから豊葦原之瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)と言われており、古代より葦原が広がっていたのです。また海洋民族の日本人は其の豊富な葦を利用し葦船を造り世界に進出しておりました。

日本葦船協会会長の石川仁さんの葦船です。コレで倭人たちは遥か南米西海岸のエクアドルまで到達してインカ帝国を築いたのです。間違いなく当時最先端の航海技術だったと思います。

話を戻します。守屋大連の子は私の知るところによると子供が3人おりました。一番の長兄は吉備氏に預けられ、其処で生涯を全うしたと伝わります。次兄は信州諏訪に縄文時代から続く洩矢氏(守屋氏)を頼りました。其の次兄の名は武麿君と言います。三男は秋田に逃げて現在まで続く秋田物部氏となっております。三男の名は那加世(ナカヨ)と言います。

此処て少し洩矢(モリヤ)一族についてご案内します。諏訪のシャーマンである洩矢一族はミシャグジ様と言う神を奉斎しておりました。洩矢一族はミシャグジ様を降ろす霊力を持っていたのです。其の一族が朝晩と必ず祈りを捧げたのが守屋山中腹に鎮座する高さ11mもある巨大な小袋石と言う磐座です。磐座とは神が降臨する石の事を言います。

此方が諏訪の小袋石です。驚くべき事に此の磐座の下には3つのプレートが重なっております。北米プレートとユーラシアプレートが攻めぎ合う接点にフィリピン海プレートが潜り込んでおり、地質学的にも奇跡に近いピンポイントなのです。小袋石は世界に10枚しかない大陸プレートのうちの3つの接点に鎮座しているのです。洩矢一族が何千年も奉斎しているおかげで日本の国土は此の磐座によって守られております。また諏訪は九州から続く中央構造線フォッサマグナの接点でも有るのです。フォッサマグナとは約6000mの深度を持つ日本の割れ目です。

ブレートの位置は図的にこんな感じです。フィリピン海プレートが細くなって潜り込んでいるのが分かりますね。つくば産業技術総合研究所 地質調査総合センター様より

磐座の上はこんな感じで中央構造線が地上からも見る事が出来ます。実際に此の光景を見ると少し冷たいモノを背中に感じます。

此の磐座から諏訪湖を挟んで反対側の八ヶ岳山麓からは国宝縄文のビーナスや国宝の仮面のビーナスが発掘されてます。つまりそれだけ古くら人々が暮らしていた事になりますね。此の様な日本における要の土地に根付く洩矢一族と『神祇を司る物部氏』とは何らかの繋がりが有っても不思議では有りません。守屋大連も洩矢一族も読み方は同じ『モリヤ』なのです。

まずは此の洩矢一族の系譜をご覧下さい。

洩矢神から76代継続する洩矢一族の現当主は守屋早苗さんです。写真の右から数えて三行目の上から六人目の当主に武麿君(弟君)と記された名前が有りますが、此の代27代の当主の武麿君こそ守屋大連の2番目の息子さんなのです。此の秘事は神長官洩矢一族の伝承に残っていると聞きます。

恐らくはボロボロになりながら長旅をして来た事だと思います。先にも書きましたが、丁未の乱で偉大な父を失った武麿君と其の眷属達は信頼出来る知り合い以外は間違っても頼らないと思いますので、やはり物部本家と洩矢一族は何らかのつながりが有ったのでしょう。諏訪信仰の事は私のブログで2023年2月23日から3回シリーズで綴りましたので興味のある方はご覧下さい。

武麿君と一緒に来た一族が創建したと言われる守屋神社は茅野市伊那市をつなぐ国道152号線沿いに鎮座しております。此の里宮ち対し、守屋山の山頂にも守屋神社奥社があります。


守屋神社里宮です。守屋大連は河内より遥か離れた信濃の地で神となっているのです。Skima信州ー長野県のローカルメディアさまから

守屋神社奥宮です。小さい祠が有ります。大ファンである八ヶ岳原人さまのHPより 

武麿君を連れて逃げて来た物部の縁者達が何も無いのに神社を建てる筈も無く、また物部守屋大連の本拠地と遠く離れた信州には本来は何も関係ない筈です。一族の長を祀る社を建てたのも武麿君が洩矢一族の養子に入ったからだと考えている次第です。信州でも此の辺りは古くから馬刺しを食べる文化が有るのですが、此の事はどうも怨敵である蘇我馬子につながるような気がしております。もっとも古代の信濃は朝廷の御牧が多く点在していた事も有りますね。

美味しそうな馬刺しです。Wikiより

大阪の八尾市から諏訪市迄の距離は高速道路を使って約365kmですが、当時はそんな便利なものは無く、山々も迂回するしかなく大変だったと思います。氏族の助けを借り、海路を通っても諏訪は内陸なので途方もない距離になります。ましてや親を亡くし落ち延びた武麿君と其の配下の者達は何の準備もされていなかった事を思うと切なくなりますね。

また秋田へ逃げた物部那加世の方ですが、現在も脈々と其の系譜を繋いでおります。物部守屋大連の子である物部那加世は臣下である捕鳥男速(トトリノオハヤ)に助けられ、長い間各所に隠れ住みながら秋田まで落ち延びました。其の子孫は唐松神社の宮司となっております。此処には秋田物部文章書と言う古文書が伝わっておりますが、此処での詳しい紹介はやめておきます。唐松神社とは神功皇后物部胆咋が創建し、韓(カラノクニ)を服(マツ)ろわせた三韓征伐が語源であるとの事です。神宮皇后は応神天皇をお腹に宿しておりましたが、其のお腹に巻いた腹帯を奉納したと伝わります。

秋田大仙市に鎮座する唐松神社です。

秋田物部氏に伝わる古文書は、唐松神社名誉宮司であった物部長照氏の決断により一部公開され、新藤孝一氏が『秋田 物部文書 伝承』と言う本を出版されました。私も恩師から借り受けて一晩で読んだ記憶がございます。内容をご案内すると長くなるので省略しますが、簡単に説明すると、物部連氏の祖神である饒速日命の降臨は鳥海山が最初で有り、日の宮と言う社を建て十種神宝と天神地祇を祀ったとあります。また、其の後に大和に移ったと有ります。

最後にイワレビコとの戦いで、饒速日命イワレビコとの和解の後に殺されたとも、北に逃げたとも言われている長髄彦のその後をご案内します。

ずっと後世の話となりますが、作者と成立年ともに不詳の軍記物に『蘇我物語』が有ります。最初は盲目の僧侶等による口伝えで有り、それが発展していったものだと伝わります。主題は鎌倉時代における蘇我兄弟の仇討ちなのですが、其処に面白いくだりがあるのです。

長髄彦には兄がおり、其の名は安日彦と言われておりました。戦いの後に遠く青森まで逃げて蝦夷の祖となったと有ります。蘇我物語には『鬼王安日』と有ります。前九年の役源義家率いる朝廷軍に敗れた安倍貞任は鬼王安日の末裔なのです。此れは津軽の名族に安日彦を祖とする系図が伝わっている事からも明らかです。また安倍氏は現代にも連なっております。朝廷軍により安倍貞任は打たれましたが、弟である安倍宗任は生き延びて伊予国へ配流され、其の系譜は続きました。更に末裔は『松浦水軍』となって壇ノ浦の合戦に参戦しましたが、平家が敗れてしまい、その後は長門の国先大津後畑と言う集落に移り、やがて明治になって山口に移り、其の一族から故安倍晋三内閣総理大臣を輩出したのです。

安倍宗任  Wikiより
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安倍晋三元総理は安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしております。我々は知らないうちに長髄彦の血縁となる子孫を見ていた事になりますね。長髄彦は皇室の祖先に敗れたとはいえ、其の後に子孫が2回も総理大臣になるとは凄い話しです。

持田大輔氏の描いた長髄彦です。悲劇の忠臣である長髄彦の系譜が現代に伝わっていると思うと実に感慨深いモノがあります。
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今回は英傑達の其の後をお伝えいたしましたが、次回は日本が神仏習合に至った理由をお伝えし、此のシリーズを終わりたいと思います。


追記
物部氏善光寺如来を巡って蘇我氏と争い、次の子の代で大王家を巻き込む大戦となって物部の棟梁である物部守屋大連が滅ぼされてしまった訳ですが、其の元となった秘仏善光寺如来を本尊とする善光寺には本堂の一番最奥の最も格式が高い内々陣という場所に守屋柱と言う柱が有ります。創建から約1400年もの歴史を持ち、現在でも年間600万人もの人々がお参りにまいりますが、其の参拝者は知らずのうちに物部守屋大連の御霊にも手を合わせているのです。

捕鳥部について

申し訳有りません。2月2日にアップした記事に対して注釈を入れるのを失念しておりました。捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の出自についての話です。

 

捕鳥部の始祖は天湯河板挙(アマノユカワタ)と言う豪族です。垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノミコ)は30歳になり鬚が生えても物を喋らずに子供のように泣いてばかりいたと言われております。ところが誉津別皇子が鵠(クグヒ)を見て『あれは何だ?』と言葉を発したそうです。垂仁天皇は皇子が初めて言葉を喋る事が出来たと大変喜びました。

 

そして天湯河板挙に鵠(クグヒ)を捕まえるように勅命を発したのです。天湯河板挙は出雲まで追いかけて捕獲しました。その後。天湯河板挙は捕獲した鵠(クグヒ)を垂仁天皇に献上したのです。

 

誉津別皇子は其の鵠(クグヒ)と戯れていると、やがて言葉を話す事が出来るようになりました。此れに感謝した垂仁天皇は天湯河板挙に姓(カバネ)を与えられました。こうして天湯河板挙は鳥取部を名乗ったのです。捕鳥部万(トトリベノヨロズ) は此の一族であると言われております。

 

宍道湖の白鳥です。昔から動物セラピーは有ったのですね。山陰中央情報デジタルさまより
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因みに鵠(クグヒ)とは白鳥の古名となり、現在でも鵠沼とかに其の名残がありますね。

別系統の神器 十種神宝 丁未の乱後編 8

こうして蘇我馬子は人事を尽くして物部守屋に戦いを挑みました。用明天皇2年(西暦587年)に豪族の頂点同士が争う『丁未の乱』が始まります。此の日時は今から1436何前となります。以下は両軍の陣容です。

※ 大臣の蘇我馬子
蘇我馬子
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厩戸皇子 聖徳太子の事です。
秦河勝 上宮聖徳太子伝補闕記によると丁未の乱厩戸皇子の配下として参戦している。
泊瀬部皇子 馬子が守屋を窮地に追い込む為に擁立した皇子、後の崇峻天皇、馬子の命を受けた『駒』と言う渡来人に暗殺される。
竹田皇子 敏達天皇の子
難波皇子 敏達天皇の子で恐らくは乱で戦死。
春日皇子 敏達天皇の子で春日臣と共に参陣。
迹見赤檮(トミノイチイ) 舎人の役職の武人、守屋大連を射殺す。姓は首(オビト)。
膳傾子 (カシワデノカタブコ) 食膳を司る一族。
巨勢比良夫(コセノヒラブ) 武内宿禰系。
紀男麻呂(キノオマロ)新羅に大将軍として派遣された程の武人。
平群神手(ヘグリノカムテ)武人達を率いて現地に直接参陣
坂本糠手(サカモトノアラテ)百済に派遣された事情通の役人
大伴咋(オオトモノクイ)任那救援で2万の軍勢を率いる予定だった大将軍。
葛城烏那羅(カツラギノオナラ)新羅討伐時の大将軍の一人。
安倍人(アベノヒト)

此の様に蘇我馬子側は皇子が多数と歴戦の武人と大将軍クラスが多く参戦したのです。其々に配下を率いる訳ですから当時は途方も無い大軍団です。戦いは始まる前の時点で大勢は決まっていると言いますが、この例などを思うと本当にそう思います。

※ 大連の物部守屋
物部守屋
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物部連氏一族 古来からの神祇を司り、軍事を司る最強一族。饒速日命の末裔。
捕鳥部万(トトリベノヨロズ) 鳥を獲る事を職業とした品部の出自で有り、物部氏の忠臣。秋田物部文書に捕鳥男速(トトリノオハヤ)なる人物が出てくるので捕鳥部の一族は守屋大連の家人の様に思えます。
物部八坂(モノノベノオサカ) 同族だか戦闘に参加したかは不明。
漆部兄(ヌリベノアニ) 同じく戦いに参加したかは不明。


実質的に物部本家と捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の軍が主力ですね。丁未の乱の陣容はザッとこんな感じになります。物部連氏ほどの大豪族でも朝廷に味方してくれる皇子が居ないと此処まで差がつくのかと思います。記紀には稲城という城を築き守りを固めたとあります。

後世に描かれた稲城です。全体を俯瞰した図は残されておりません。
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大阪府八尾市に有る稲城跡の石碑です。大阪再発見さまのHPより
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両軍は物部守屋の館で激突致します(諸説有り)。何倍もの連合軍を相手に戦闘部族の物部軍は強く、三度に渡り馬子軍を蹴散らしました。両軍の激しい戦いにより河内の野辺と石川の河原は血で赤く染まったと伝わります。此の戦いが行われた季節は田んぼの稲穂が黄金色に色づいた季節だったと言われております。

写真の上から2枚目に物部守屋の傍に立つ衛士が携えている矛は鉤付きの矛(ホコ)と言って、此の鉤で馬上の武人を引っ掛けて引き摺りおろし、落ちたところを矛先で仕留める為の武器です。正倉院に納めされている数種類の矛の一つです。何とまあ恐ろしい武器でしょうか。後世には矛から槍や薙刀に改良されて行きました。
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物部守屋大連は自身も弓の名手でもあり、屋敷内に有る塀を超える朴の木に登り、敵将を狙い撃ちしました。百発百中で敵兵は射殺されたと伝わります。物部守屋軍の猛攻を受け、流石の連合軍の猛者達も怖気付き退却を余儀なくされたと伝わります。此の時代の弓は丸木弓と言って弾力のある梓の木や檀(マユミ)の木を利用しておりました。

此処で大活躍をしたのが兵100人を率いて物部守屋邸の守りを固めていた捕鳥部万(トトリベノヨロズ)です。主人不在の間に館を守っていたので後世の城代のような存在だったと思われます。先にもご紹介したように『鳥を獲る事を生業とした一族』の中で一番の剛の者でした。(注1)

四方から飛んでくる敵の矢を捕鳥部万(トトリベノヨロズ)が剣で打ち払う姿が描かれております。物部守屋大連も木の上から万の勇姿を見て頼もしく思っていた事でしょう。ただ此の後に守屋大連は弓の名手だった事が仇になります。
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NHKのドラマスべシャルだった聖徳太子では本木さんが主演されておりました。此の写真は丁度守屋大連の稲城に攻め込んでいる時の画像です。NHKアーカイブより
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蘇我馬子の軍勢には若き日の聖徳太子(厩戸皇子)がおりました。厩戸皇子は此の形勢の不利に対して椋の木から四天王像を彫り出して額に巻き、此の戦いに勝利した暁には四天王を安置する大寺院を建立する事を誓い、寄手の皆を鼓舞したのです。宗教がかった集団は強くなるのは昨今の戦争の経緯を見てもご理解頂けると思います。果敢に攻め込む連合軍と物部守屋軍の激しい戦いが繰り広げられました。

そんな最中に厩戸皇子の舎人である迹見赤檮(トミノイチイ)が物部守屋の登っている大木の下に忍び寄り守屋大連を射落としたのです。権勢を誇った物部守屋大連は迹見赤檮(トミノイチイ)の一矢によって落命致しました。

此の写真の左側中央辺りに矢が当たった物部守屋大連の姿が描かれております。握っている弓も自然素材である事が分かりますね。しかし此の絵についてですが、挂甲も何も付けてないまま戦いに挑む事は有りませんね。
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此方は日本服飾史さんのHPにのる古代の挂甲を帯びている武人です。国宝の埴輪にも挂甲武人の完全体がございますね。
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群馬県太田市飯塚町出土の国宝挂甲武人埴輪です。恐らく大半の方は御記憶があろうかと思います。
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此の古事は迹見赤檮が物部守屋を射た矢を埋めたとされる鏑矢塚が存在し、少し南西に進んだところに弓を埋めたとされる弓代塚が存在している事により間違いないと思われます。

八尾市観光データベースさまより
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八尾市観光データベースさまより
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旗印である守屋大連を失った物部軍はその後総崩れとなり、勢い付いた馬子軍に打たれる者甚だ多く、逃げ出した者も有れば捕虜として捕縛される者もおりました。

主人であった守屋大連の戦死を聞いた捕鳥部万(トトリベノヨロズ) は、その場で自軍を解散し配下には何とか逃げるように説き伏せたと伝わります。自らは馬にに跨り、茅渟県(チヌノアガタ)の有真香村(アリマカムラ)に向かいました。此の村には万(ヨロズ)が心を寄せた女性が居たからです。なんともロマンチックな捕鳥部万さんです。そして一夜を過ごした後に山に入ったのです。捕鳥部万は愛犬の白犬と共に此処で死ぬつもりでした。

山に入る前に一夜を過ごした女性に自分は此処にいると役人に伝えるように言っておりました。女性は泣く泣く承知したそうです。早速河内の国司は数百人のの兵士を送って山を取り囲みました。しかし捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の凄いところは此処からです。

国司の送った兵士たちは雄たけびをあげて殺到しました。万(ヨロズ)は矢を放ち応戦しました。万(ヨロズ)の一族は鳥を捕る事に長けた一族で有り、当然弓の腕も一流だったと思われます。万(ヨロズ)の放ったいずれの矢も兵士の突進を止めたと伝わります。しかし万(ヨロズ)も満身に傷を負っておりました。そして矢が尽きた万(ヨロズ)は弓を折り、剣を抜いて尚も戦ったのです。先に紹介した万(ヨロズ)の絵は恐らく其の時のものだと思います。

愛犬と一緒に戦う万(ヨロズ)。岸和田市のHPより
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やがて力尽きた万(ヨロズ)は叫びました。『お前達、よく聞け、俺は大連(おおむらじ)の従者として今まで大王(オオキミ)のためには身を粉にして働いて来たのだ。それを、悪臣、逆臣とは何なのだ、誰が逆臣だ』 此れは稀代の忠臣捕鳥部万(トトリベノヨロズ)だから出た言葉であり、捕鳥部万だから後世まで残った言葉だと思います。恐らくは万(ヨロズ)の奮闘ぶりに敬意を抱いた将卒も多かったと思います。潔く最後まで戦い抜き力尽きた万(ヨロズ)は剣を折り、そして自らの喉を切り裂き息絶えました。見事なり捕鳥部万(トトリベノヨロズ)。

役人は命令により鬼のように強かった万(ヨロズ)の体を8つに切り裂きました。此の行為は現代の常識に例えると頭がおかしいと思えるかも知れませんが、鬼のように強い者は必ず復活してしまうから、復活しても体が何処に有るのか分からないように行なう古代のやり方なのです。それだけ捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の強さを認めていた事にもなります。

何処からともなく万(ヨロズ)に寄り添っていたの白犬が現れ、晒し場から万(ヨロズ)の頭を咥えて去って行きました。そして主人の首を古塚に埋めたそうです。万の愛犬はその場で臥して横たわり、やがて飢死したと伝わります。

やがて此の事は朝廷の知るところとなりましま。朝廷は万(ヨロズ)と其の愛犬を哀れに思い、万(ヨロズ)の同族の者に命じ、万(ヨロズ)と白犬の墓を有真香邑に並べて作らせたのです。この墓は岸和田市に今も残る天神山古墳です。一号古墳が犬の墓、2号古墳が万(ヨロズ)の墓と伝わります。此の話は学生の頃に先生に教えてもらいました。先生が身振り手振りを交えて話された捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の話に大きく心動いた事を覚えております。

さて物部守屋大連を失った物部の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったのです。厩戸皇子は誓い通り四天王寺を創建しました。物部連氏の領国は蘇我馬子の妻が物部守屋大連の妹だった事から相続権を主張して半分は蘇我氏(ナンデ?)、もう半分は四天王寺に寄進さました。捉えられた一族の多くは四天王寺の奴婢となったと伝わります。簡単に言ったら馬子と厩戸皇子で山分けとなったのです。そして伝わった仏教は日本に飛鳥文化をもたらせました。

復元された玉虫厨子です。本物は法隆寺に有り国宝に指定さらております。国立科学博物館さまのHPより
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此の結末ををお読み頂き、不思議に思った方もいらっしゃると思いますが、では何故に日本が仏教一本になっていないのか、此処までの大乱を後に導き出した日本人の結論とは何かを『詔』を介して次回ご案内致します。

物部守屋大連の子供が信濃の名族を頼りました。またもう一人の子は各地を転々として秋田に落ち延びました。この辺りも系譜を交えてご案内致します。