みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

仕事の合間に史跡訪問

今日ご案内させて頂く事は、今年の1月中旬頃に私が勤務している横浜の営業所から、お客さまが経営されている鎌倉鶴ヶ丘八幡宮近隣の店舗に向かった時のお話です。

ところがもう少しで鎌倉に入るタイミングで訪問先のお客座から連絡が入り、アポの時間を1時間ほど遅らせて欲しいとの申し出がありました。もう鎌倉に入るところでの連絡で有り関内の営業所に戻る訳にもまいりませんでした。

其処で前々から訪問してみたいと思っていた日本史上無類のNo.2である執権北条一族が最後を迎えた東勝寺跡に行ってみる事に致しました。念の為に申し上げますが、決して最初から狙っていた訳では有りません(笑)。

東勝寺跡は鎌倉市小町3丁目10−1にございます。当日は鎌倉に祖父の実家を持つ若い社員と一緒だったのでスムーズに目的の場所まで到着到達出来ました。

実はこの地で北条一族郎党870余人が自刃し、実質的に鎌倉幕府は滅亡したのです。歴史学的にも一級品の遺構となります。東勝寺は3世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により創建されました。
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跡地にはフェンスが設けられており、北条一族の御霊が眠る聖地への侵入を阻んでおります。季節的に冬という事もあり、凛とした冷気に包まれた厳かな場所でした。
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周辺は背後に鎌倉特有の急峻な山々を持ち、少し降ったところには堀にもなる川床の深い河川が流れ、防御の為の城郭的な機能も保持していたと伝わる事も肯定出来ます。
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少し小道を登ったところに『腹切りやぐら』と書かれた石碑がございました。思わず合掌し北条氏が善政を敷いてくれた信州の地に生まれた人間としての御礼を申し上げたい次第です。
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奥に建てられいた石碑です。此の石碑を読んだ辺りから心の震えが止まりませんでした。詳しくは書きませんが、実は北条一族と我が家は此の時代において関係が有ったのです。
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信州の鎌倉と言われる別所温泉に鎮座する古刹北向観音も戦火で焼失した後に頼朝公が大事にしてくれた事も有り、北条一族が厚く崇敬しておりました。余計な話しとなりますが、信州では善光寺さんが来世の利益、北向観音が現世の利益をもたらすと言われております。
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北条一族と信濃との関係を確り話すと長くなるので簡単にご案内させて頂きます。まさに此の東勝寺において北条一族870余人が自刃する直前に、第14第執権北条高時の次男である亀寿丸を家人の中で特に信任を得ていた諏訪一族の諏訪盛高に預けました。盛高は乳飲子であった亀寿丸を諏訪までお連れし、諏訪大明神の現人神である大祝に託しました。大祝(金刺氏)に託したという事は、当然ですが洩矢一族にも庇護を受けたと言う事になります。そして亀寿丸は成長し元服致します。此れを機に亀寿丸は名前を北条時行と改めました。こうして当時の大祝であった諏訪時継と実父の頼重と共に挙兵したのです。此の戦は後に『中先代の乱』と言われました。此の軍に信濃の名族である滋野一族が剛力し大勢力となりました。更に支族である保科氏や四宮氏も参加して室町幕府の守護所を破却致しました。主力の諏訪勢と滋野一族は武蔵国において足利直義軍を蹴散らし、一気に鎌倉府に襲いかかったのです。鎌倉府は、呆気なく陥落し、北条時行は父祖の地である鎌倉を取り返しました。これを聞いた京在住の足利尊氏が鎌倉に救援に向かいたかったのですが、其の出立を後醍醐天皇が許さなかったのです。しかし尊氏は一族の為に鎌倉に向かいました。側から見ると勅命に従わなかったとなります。此れが後世まで裏切り者の誹りを受ける原因となりました。こうして北条時行軍は数に勝る足利本軍に敗北してしまったのです。此の話からも御理解頂ける様に信濃東勝寺は深い縁がございます。

因みに時行は此の後も生き残り南北朝時代になってからは、かつての仇敵だった南朝と手を組み、足利尊氏を討ち果たすべく動きました。北畠顕家新田義貞と共に杉本城の戦いで足利家長を打ち取り再度鎌倉の奪還に成功し、再度敗れるも後に勝利し、都合3回も鎌倉府を陥落せしめました。流石に執権北条一族の御曹司ですね。

道路から入り、川を渡る橋の袂には、小さい公園がありました。公園の名前は東勝寺ひぐらし公園です。強者達が散った跡地に『ひぐらし』の名前は、松尾芭蕉の『夏草や兵どもが夢の跡』の名句を思い起こさせます。
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北条氏滅亡と言えば大河ドラマ太平記』の片岡鶴太郎さんが演じた執権北条高時が思い起こされますね。NHKアーカイブさまより
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此のドラマでは業火につつまれる東勝寺内管領であった長崎円喜が最後に自刃しておりました。
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長崎円喜(ナガサキエンキ)役は名優フランキー堺さんが演じており、聞き迫る名演技だったのを覚えております。NHKアーカイブさまより
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ドラマでは燃え盛る東勝寺で一族の金沢貞頭も最後を迎えておりました。
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滞在時間は40分ほどですが、実に感銘深い史跡訪問となりました。しかし随行した若手社員には申し訳ない事をしてしまいました。

恥ずかしながら、その後の頭の中は遠く鎌倉末期から南北朝時代に飛んでしまっており、地獄の業火から逃げ延びた亀寿丸と勢いづいた新田義貞の軍勢が取り巻く鎌倉から幼子を連れて脱出し、その後も遥か信濃まで落ちのびた諏訪盛高の苦労を思うと中々仕事モードにはなれませんでした。営業職歴32年ですが、まだまだ修行が足りない証拠ですね。

 

因みに東勝寺は焼失後に再建されており、永正9年辺りまでは古文書によって其の存在が確認されておりますが、其の後に何らかの理由で廃滅となりました。東勝寺跡は発掘調査によって其の場所が確認されまております。此の後も貴重な歴史遺構として大事にされていってほしいと切に願った次第です。