成長した室町幕府三代将軍の足利義満は、幕府の政権を安定させる為の戦略を進めて行きました。
当時の室町幕府の体制として管領が力を握っていたのですが、管領とは鎌倉幕府で言うところの執権と概ね同じです。義満は鎌倉幕府が執権北条氏によって乗っ取られた事を学んでおり、まずは管領の権限を減らしていったのです。当時において管領職になる家格を持つ家は畠山、細川、斯波の三家であり、次に力を持つ『侍所』には京極、山名、赤松、一色の四家から専任される事となっておりました。また婆娑羅大名として名高い尊氏公の盟友てある佐々木道誉の家系も強い力を持っておりました。
赤松則村 JMMAポータブル様より
私の好きな武将の1人です。大河ドラマ太平記でも大活躍しましたね。しかし少々ですが粗野になり過ぎの感もございます。
足利幕府は、そもそも幕府設立時の経緯が後醍醐天皇に叛いている為、広義で朝敵の汚名を受けており、戦功として配下に官位などを送れていなかったのです。そうなると恩賞は土地しか無く、味方した武家に土地を惜しみなく与えていたのでした。そんな事もあって各地の有力守護大名は領国を多く持っており、其の経済力と武力が幕府を脅かす勢力になる事を義満公は恐れていたのです。
義満公は雅楽の笙(しょう)の訓練を積み重ねるなどして公家の世界に入り、新派を増やす事で宮中にも入り込み、宮中を味方に付けて自分の官位を上げて統治力を高めようとしておりました。本当に先を見据えた凄い動きですね! 一言に笙を習うと言っても生半可な努力では有りませんし、笙とはそんな簡単なモノでは無いのです(私は挫折しました 笑)。
笙です。 Wikiより
後世に足利幕府の絶頂期と言わしめる義満公の行った事をご案内致します。まず義満公は奉公衆と言って将軍の身の回りの警護や、合戦時には後世の旗本の様に直属の軍隊となる集団を開設致しました。これは守護大名の軍事力に対抗する為の将軍直属の常備軍です。
謀略と武力による凄まじい戦いで有ったと思われます。
そして基盤ができた後で有力守護大名の力を削って行ったのです。まずターゲットになったのは都に近く、肥沃な美濃と伊勢を治める土岐康行でした。義満公は弟の土岐満貞と接触し、尾張の守護職を与えました。加えて満貞に土岐氏の家督を継がせようと画策したのです。怒った兄の土岐康行は美濃で兵をあげたのですが、これを待っていた義満が討伐軍を差し向けて合戦となり、体制が出来ていなかった土岐康行は呆気なく敗れました。土岐氏は尾張と伊勢の2ヶ国を召し上げられ、美濃の守護は叔父で土岐頼忠が任命されました。後世の毛利元就の様な見事な迄の謀略です。
次のターゲットは日本の6分の一を治めていた大族である山名氏です。山名は領国が広いだけに一族の中には不満を持つ者も多く、義満公は其処を利用致しました。まず一族同士で領国をかけて争わせました。そして挑発を繰り返す事で山名氏清と満幸を挙兵させ、此れを大軍を持って打ち破ったのです。そうこうしている間に山名氏の所領十一カ国から三カ国に減ってしまったのです(コレは説明が長くなるので大分渇愛してます)。最後はもう一つの有力守護大名である大内義弘です。さんざんにを挑発し、義弘が堺において挙兵したのを機に討伐しました(応永の乱)。これで西日本で義満公に対抗できる勢力は無くなったのです。簡単に書きましたが、とんでも無い規模の戦いでした。
これで一段落した義満公は生涯の大仕事である南北朝の合一に取り組んで成功させるのです。此の一事を持って義満公は皇室を元の状態に戻した事になりました。足利家の中興の祖である尊氏公が割ってしまった皇室を元の形に戻したのです。此の一事を持って義満公は天意を持った人間であったと私は思います。
南朝代4代天皇である後亀山天皇 Wikiより
室町幕府は後亀山天皇との間で『明徳の和約』を結んだ事により56年にも及ぶ皇室の分裂が修正され、実質的に南北朝合一が行われました。西暦で表現すると1392年の事でした。
時は前後して申し訳有りませんが、義満公は強権を誇り斯波一族の全盛期を創った管領斯波義将と対立致しました。もはや対抗する手段の無い斯波義将は管領を辞任したのです。そして領国の讃岐に戻って居た若き日の養育者である細川頼之を入京させたのでした。義満公は父とも思っている頼之に管領になって欲しいと思ったのですが、出家していた事もあり、息子の頼元を管領とし、頼之はこれを補佐することと成りました。
此の騒乱は信濃にも大きな影響を及ぼしました。斯波家が任命した守護は新しい体制により更迭されていったのです。当然信濃でも同様な事が起こりました。
信濃國10郡 シャンクワードドットコムさまより
そして斯波派の武家が勢力を落とす反面、信濃では逆に名声を高めた者もおりました。此の場面で今回の主題である信濃国最大の戦乱であった大塔合戦を巻き起こした一人が任命されたのです。
盤石の基盤を構築した足利義満公が信濃守護として派遣したのは、信濃国人領主達と一緒に幕府側と戦った小笠原長基の子である小笠原長秀だったのです。小笠原長秀は山名氏討伐で軍功をあげ、義満公が創建した相国寺の落慶供養において先陣随兵を務める程に気に入られていたのです。長秀は義満公に信濃守護を嘆願しており、此の願いが聞き届けられた形となったのです。恐らく既に此の時には父である小笠原長基と形上で袂を分けていたと思われます。長基と長秀は親子でありますので、仲が悪いとかでは無く、幕府に逆らった親とは違う道をいく事で一族の安泰を図ったのではないかと思います。武家は幼い頃から父を尊敬する様に徹底養育されますので、後世の真田家の様に何方の方向に世の中が動いても一族が生き残る様にした武家の習いであると推察致します。
しかし長秀の就任早々に信濃では大塔合戦の前哨戦の様な戦いが起こりました。そして長秀はまもなく気の荒い信濃国人領主達の触れては生けない逆鱗に触れる事になるのです。怒った信州人ほど怖いモノは有りません。平野の兵など物ともしない健脚の持ち主達です(馬もです)。
信濃の秋 米村氏提供 信濃は深い山に囲まれた土地だけに、生まれ育った人も馬も足腰が強くて我慢強いのです。
本日はここまでと致します。
次回は此の時代においては小さな勢力てしたが、幕末には徳川幕府をやっつけた最強一族が守護側に喧嘩をふっかけます。
追記
文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にさせて貰っております。