みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その八  

坂西長国の奮戦で一息ついた小笠原軍に対して、今度は村上満信の軍団と小笠原一族で有りながら国人側に着いた伴野氏や新羅三郎義光から続く名門の平賀氏、他にも田口氏の軍が襲いかかりました。

写真は残念ながら坂西長国では有りませんが、大塔合戦から170年後の姉川の戦いて大活躍した朝倉方の真柄十郎左衛門直隆が大太刀を振るう場面です。驚くべき事に鍔の大きさが直隆の顔と同じです。姉川合戦図屏風より
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此方は太刀の全体像を切り抜いた図です。大太刀の物打ち辺りに血糊がべったり付き如何にも恐ろしげですね。私はてっきり突くのかと思ってましたが、実際には切りつけたと言う事です。坂西長国も同じ様に国人軍団の脅威となっていた事は想像に難くありませんね。
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数に勝る村上氏などの国人衆ですが、またしても手痛い反撃に遭いました。統制の取れた小笠原軍は見事な戦いぶりを見せて村上氏の大軍を押し返したのです。もう驚くしか有りません!流石に義満公肝入りの中央軍です。正に無類の強さを見せました。あくまでも私の推測ですが、小笠原一族には騎射の上手が多く、弓は遠間からの攻撃性に優れていたので当時の戦いも有利に進んだのでは無いかと思います。此れには流石の村上満信も一旦は引いたと伝わります。

手痛い反撃を喰らった国人軍団ですが、此のままでは終わりません。次は体制を立て直した海野幸義率いる小県軍団300騎が猛然と襲いかかりました。此の突進を今度は長秀の親衛隊である曼荼羅一揆が対抗したのです。長秀の親衛隊でもある曼荼羅一揆は小笠原軍の中でも精鋭中の精鋭です。強弓から一撃必中の矢を敵に何本も射込んで、相手が怯んだところを騎乗で切り込むのです。

海野氏は名門滋野一族の本流です。海野氏から後世の真田氏が出ました。小県に本拠地を持ち強い勢力を持っていた国人領主なのです。

海野氏の家紋の六連星 『むつらぼし』と読みます。
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今度こそは長秀を打ち取る覚悟で仕掛けた海野幸義軍ですが、応永の乱などで強大な大内義弘と戦って来た小笠原軍は強すぎました。兵力は国人衆の軍には遠く及びませんでしたが、またしても見事に押し返えされてしまったのです。恐らくこの辺りでは連戦戦勝で小笠原軍の士気は最高潮だったと思われます。

しかし連戦戦勝の小笠原軍も無傷では有りませんでした。度重なる攻撃で100名程の兵が討ち取られ、指揮を取る長秀自身も手傷を負っていたのです。今度は北信の強者である高梨友尊と井上氏、須田氏、島津氏の軍が小笠原軍に襲いかかりました。

高梨友尊や井上氏の軍は敵が少なくなって来たので、此処は仕掛けどころと判断して猛攻を掛けたのではなかろうかと思います。其の猛攻を前に今度は大太刀金同丸を自在に操る坂西次郎長国が立ち塞がったのです。坂西長国は高梨友尊の子と伝わる樟原次郎(クヌギハラジロウ)と激しい一騎討ちを繰り広げ、激戦の末に此れを討ち取りました。

此処までは小笠原軍の強さに押された国人軍団でしたが、今度は体制を立て直して力攻めに出ました。万を辞していた大文字一揆衆と村上満信の軍、海野氏、望月氏、須田氏、高梨氏の其々が一気に総攻撃を仕掛けたのです。何故最初から力攻めを行わなかったのかと言うと、合戦にも昔からの作法が存在していたからです(作法の説明は省きます)。室町時代後半は合戦の様式が一騎打ちから集団での戦いに移行した時期だったとも言われております。総掛かりに及んだのは戦況に進まぬ戦況に業を煮やしていた状態での止むを得ない判断だったと思われます。何故なら此処で負けたら一族が衰退するか、最悪は滅亡する可能性が有るからです。

こうなってしまうと多勢に無勢、多くの小笠原軍の将兵が討ち取られて行き、遂に小笠原軍は二分されてしまいました。先頭の小笠原長秀は命からがら塩崎城に入る事が出来ました。しかし二分されたもう一つの一隊は大軍に押し込まれて進む事が叶わず、大塔の古城と言われていた古要害へ逃れたのです。押し込まれた200余騎(300人ほど)の小笠原軍は急いで鹿垣(ししがき)や急拵え塀や堀などを造って防備を固めました。咄嗟の事だとは言え坂西長国、櫛置清忠、常葉入道、古米入道等の長秀側の有力武将が居りましたので、此の辺りも流石だと思います。

鹿垣 福岡市のhpより
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しかし塩崎城に逃げ込んだ小笠原軍は既に兵数も僅かになってしまっている事と負傷兵も多く、大塔の古城に援軍を送る事は難しい状態でした。また大塔の古城は既に廃城になっていたので食料も何も無い状態だったのです。加えて周囲には大文字一揆などの国人衆に包囲されており、補給も叶わず孤立無縁状態になりました。そして孤立した小笠原軍を襲ったのは飢えと信濃の寒さだったのです。救援軍も無く、兵糧も矢などの軍事物資の補給も無いまま一ヶ月近い籠城になるとは誰も思わなかった事だと思います。騎射の名手達も矢が尽きれば戦えません。長秀は佐久の大井光矩に援軍の使者を送っておりましたが、光矩に動く気配は有ませんでした。これは同じ佐久の国人が反小笠原になっていた事も有り、周囲の国人に攻め込まれるのを恐れていたのかも知れません。

此の大塔の古要害が有った場所は幾つか説が有ります。間違いない事は長野市篠ノ井の大当地区に存在していた事です。

まず候補として此方があげられます。
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私の高校時代の通学路にあった大当(大塔)公民館です。塩崎城はまでの距離は然程遠くは有りません。住所の明記は長野市篠ノ井大字大当となります。 

横に流れるのは度々氾濫したと言われている岡田川です。
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大当(大塔)公民館前に有る説明書きです。日本で宛字は通常の慣習でしたので、昔からオウトウと言う呼び名の土地で有る事は間違いないと思います。
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違う説として市河文書という古文書に小笠原一門の櫛置清忠が、小笠原側に付いた市河六郎頼重と共に二柳城で戦った旨が記されおり、此の二柳城は現在二柳神社として残っております。市河文書とは信濃国志久見郷の地頭職であった市河氏及び外戚の中野氏が残した書簡や古文書の総称であり、非常に信憑性が高い歴史資料です。大当地区は平な場所であるのに対して、此の二柳城は見通しが良く、山から続く丘陵の途中なっておりますので守るには適した場所だと思います。また二柳城の近くにある夏目城跡に現在は湯入神社が有り、此方も大塔の古要害であった候補と言われております。

 

今年の夏に娘と義弟の3人で訪問したニ柳神社の赤い鳥居です。道路から入る杣道がとっても狭くて難儀しました。母の車を少し擦りました(笑)。築城したニ柳氏は村上一族であったと伝わります。
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鳥居を過ぎて小さな小川を渡ると斜度のキツイ階段があります。写真は登り終えて上から下を撮影しました。
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寄手が来たら上から岩を落としたり、強弓を射たのでしょうけど、考えただけでもゾッとします。近くに空堀の様なものもございました。

二柳神社の拝殿です。
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本殿には立派な石積みが施工されております。
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車で2分ほど進むと夏目城(湯入神社)がございます。
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二柳神社から500m程の至近距離に鎮座しております。此方も長い石段を登りますが、往時を思い起こしながら楽しい登りでした。夏目氏はニ柳氏の庶流と伝わります。二柳氏も夏目氏も大塔合戦には名前が出て来ないので、合戦時には既に他国へ移っていたと思われます。

別の意味で興味を引く立て看板がございました。私の未知の分野です!
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湯入神社も立派な拝殿がございます。疲れてボケっと歩いているのは上の娘です。
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四野宮から二柳神社間は距離的にも分断された小笠原軍が逃げ込める距離でも有り、市河文書の内容も含めて此処が大塔の古要害であった可能性が一番強いと思われます。一方で此処に逃げ込むという事は同じ方向に布陣した高梨の大軍を押し除けた事に成り、わざわざ追われる身で大軍に立ち向かったのかと思うと、少しばかり再考の余地が有ると思います。また別の説だと現在畑になっている平坦部の大当集落の何処かに存在していたとも言われております。色々な先生方が考察されておりますが、現在まで明確な場所の特定はなされておりません。

次回は大塔の古要害に立て籠った小笠原軍が最後の戦いに挑みます。

追記�文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にしております。合わせて以前に『〇〇は燃えているか』の言うブログをお書きになり、その内容を引き継ぐ『悠久の風吹く千曲市上山田』さまの内容も参考にさせて頂いております。此方のブログは私の父から聞いていた合戦が大塔合戦と言う名前である事と其の経緯を知った初めてのブログでした。また色々な郷里の歴史を教えて貰ったブログであり、故郷を離れている私の癒しでした。此の場を借りて深く御礼申し上げる次第です。