みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 1

我が国における旧石器時代の扉を開いた偉大な考古学者がおりました。此の話は是非広く知って欲しい事なので今回ご案内致させて頂きます。

其の偉大な考古学者の名は『相沢忠洋』さんと言います。子供の頃から好きだった遺跡からの発掘を通して旧説を覆したアマチュア考古学者なのです。相沢先生の偉業は日本だけでは無く、世界が震撼する程の大発見でした。氏の業績は何事にも変え難い金字塔として今も尚輝きを放っております。

在りし日の相沢忠洋さんです。
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相沢さんは昭和24年に関東ローム層から黒曜石で作られた槍先形尖頭器を発掘し、其れまで否定されて来た日本列島における旧石器次代の存在を世の中に証明したのです。其の遺跡は『岩宿遺跡』と呼ばれております。恐らく学校の授業で聞かれた事が有るのではないでしょうか?

また、相沢氏の発掘した石器類は時を経て今年の3月に国の有形文化財に指定されました。此のニュースを見た私は、再び旧石器時代遺跡の現状を少しづつ探究する様になりましたが、渓流釣りがシーズンインしておりましたのでオフシーズンに改めて岩宿博物館を訪問しようと考えていたのです。

先週土曜日に訪問した岩宿博物館には誇らしく有形文化財に指定された事を祝う垂幕がございました。
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岩宿博物館の看板とも言える相沢忠洋さんが関東ローム層から発見した槍形尖頭器の前で撮影された奥さまの相沢千恵子さんです。上毛新聞社さまより
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博物館には此の様な書籍が有りました。岩宿遺跡発掘70周年特別展⓵とあります。思わず購入してしまいました!
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此の本には奥様の知恵子さんが寄せた文書が冒頭にありました。下から5行目にこうあります....私の永い間心に抱き続けて来た「わだかまり」も変化し全面的に協力する事に....此れも世間が相沢氏に行った事を考えると充分に理解出来ます。此方の『わだかまり』の話は、次回以降に少しだけご案内致します。
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尚、千恵子さんは当時の自宅を『相沢忠洋記念館』に改修し広く公開しておりましたが、2022年に桐生市に相沢氏の発掘した石器類を全て寄附されております。寄付された石器類の一部は岩宿博物館で常設展示されているのです。当日いらした学芸員の方もとても親切で、私の取り止めもない質問に全てお答え頂いた次第です。今更ながら心から御礼申し上げます。

此方が槍先形尖頭器です。私の様な素人が見ると、打製石器の中にには自然に割れた形状と区別つき難いモノも有りますが、此方は間違いなく人が造ったモノである事は一目瞭然ですね。
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今からおおよそ2万年前の旧石器人が造りあげたものです。岩宿遺跡は後に本格的な発掘調査が行われました。関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見されております。少なくとも約35,000年前(岩宿I石器文化と呼ばれております)と約25,000年前(岩宿II石器文化と呼ばれております)の時期がある事が判明しております。岩宿遺跡近辺は旧石器人が暮らし易い環境だったのですね。

岩宿博物館に展示さるている当時の環境を模型にしたものの一部です。凄くリアルに出来ており、見入ってしまいました。
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其れ迄は『皇国史観』により、神武天皇即位から前の歴史を研究するのは憚られておりました。また、特に関東は浅間山榛名山赤城山、反対側の乗鞍岳御嶽山など多くの大火山が存在しており、活発に火山活動を繰り返しておりました。そんな火山灰(極小さなガラス片)が降り注ぐ環境の中で人が暮らせる訳無いと思われていたのです。無理も無い話だと思います。其の時代における火山砂屑物が大量に混入した粘性土地層が関東ローム層なのです。

まずは、人間相沢忠洋さんのプロフィールをご案内致します。学生時代の恩師は毎回のゼミで我々学生に向けて熱弁を振るっておられました。朝練で疲れてボーっとしていた私も、此の時ばかりは気合いを入れて聴いておりました。(かも知れません)

1926(大正15年) に東京の羽田でお生まれになる。父上の一族は長唄三絃家研精会派に属されており、芸人として笛を生業にされておりました。

相沢氏のお父上です。相沢忠洋 その生涯と研究より
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家族は後に鎌倉の浄明寺近辺へ引っ越しされました。完成した新居に妹が3人、弟が1人と1人の7人の大家族であり、一家団欒の幸せな生活を送っておられました。此の時に相沢氏は近くの建設現場から沢山出てくる土器に心惹かれたといいます。

一家団欒も束の間に妹が病死されてしまいました。その後に両親が離婚されたといいます。父上は一座の公演と共に家を空ける時が多く、忠洋少年は鎌倉市内の杉本寺に独り預けらたのです。今思うと、小学3年生の男の子が1人で寺に預けられたのですから、其れは悲嘆の日々だったのだろうと推測致します。

1937(昭和12)年に父上と一緒に群馬県桐生市に転居されました。此の頃に近くの雷電山という低い山で石鏃を発見した事が初めての石器採集であったといいます。

お父上の仕事は遠征の連続です。忠洋少年は其の後直ぐに東京の浅草に店を構える履物店に小僧として住み込み奉公に出ました。日中は働き通し、夜間に正徳尋常小学校の夜間部に通ったそうです。

しかし、浅草で小僧としての奉公が考古学者相沢忠洋を形成した礎となったと言います。初めて奉公先から頂いた10銭のお金を握り締め、浅草寺近くの露天商から30銭だった石斧を特別にまけてもらい手に入れました。相沢氏は此の石斧を生涯の宝物としておられたといいます。

此方が其の石斧です。相沢忠洋 その生涯と研究より
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また、上野にある帝室博物館に通って土器や石器を度々観察していたそうです。そんな子供が当時の守衛を務めた数野甚造氏の目に留まり、遺跡や遺物について教えを受けたそうです。忠洋少年は此の事で古代の人々の生活や考古学への憧れを深く抱いて、其の研究方法を学んだと言われております。

其の後、正徳尋常小学校夜間部を卒業され、浅草の富士青年学校へ入学されました。しかし折しも時代は大東亜戦争の終盤の厳しい時期でもあり、相沢氏も志願兵として横須賀武山海兵団に入団され、駆逐艦『蔦』の水兵長として任官されたのです。

蔦は横須賀を出撃し、山口県の阿月にて偽装接岸を行って特攻出撃を待っておられましたが、艦上で玉音放送を聞く事となりました。

駆逐艦『蔦』です。Wikiより
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其の後は桐生に復員され、納豆などの日用品の行商をする傍ら、周辺の調査を行い始めました。此の行動が世界を震撼させる偉大な発見につながるのです。

此処までは相沢氏が19歳までのプロフィールとなります。20歳から本格的な桐生市での生活になります。また、幼少期から興味を持っていた発掘に対し、確り取り組める環境が整った事になります。住まいは桐生市横山町の長屋であり、4畳1部屋のみでしたが相沢さんの気持ちは初めて独立独歩の人生が始まった事への喜びの方が大きかったと自伝にあります。

 1946(昭和21年) 、相沢氏は20才となり、群馬県新田郡笠懸村稲荷山前の切通しで関東ローム層中に石剥片を発見されました。此方は後の岩宿遺跡となる場所でした。


翌年の1947(昭和22年) に『東毛考古学研究所』を設立されました。参加メンバーには堀越靖久氏や加藤義正氏がおられたと有ります。

1948(昭和23年) には勢多郡新里村にある不二山遺跡を発見されました。

そして1949年7月(昭和24年) 、相沢氏が23才の時に運命の発見をされたのです。笠懸村岩宿の稲荷山前切通しに於いて黒曜石で造られた槍先形尖頭器を発見されたのです。

岩宿遺跡の入り口に有る相沢忠洋さんの銅像です。定説を覆す大発見に対し、どの様な気持ちで半透明の黒曜石製槍形尖頭器を見つめたのでしょうか。
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相沢氏の著者である『岩宿の発見』には次の様に書かれております。尚、文章は其のまま引用させて頂いております。

赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前で見たとき、私は危く声をだすところだった。

じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。

「ついに見つけた!定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」

私は、その石を手におどりあがった。そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔にくっつけるようにして観察した。

たしかに後からそこにもぐりこんだものではないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。

それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。

もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。

写真の相沢氏が持つ石器は槍形尖頭器では有りませんが、相沢さんは発掘された遺物を通して、子供の頃に経験された家族団欒を思い浮かべておられるかも知れません。
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現在なら此のまま世紀の大発見となりますが、此の時代はそうではないのです。

来週に続きます。