みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

氷河期の具現化 2

中学や高校の授業では通り一辺倒に理解した気になっていたのですが、私が旧石器時代に惹かれた訳をご説明させて頂きます。其れは学生時代にゼミの恩師に聞いた石器時代の話からです。我が恩師は面白い事に世界中を歩き回って民族の歯垢を集め、其の共通点を見出し、民族の分布を研究されておりました。何故なら口の中に存在する菌は親から子のみ受け継がれるからとの事でした。

そんな風変わりな恩師からお話頂いたのは次の通りです。『旧石器時代は22,000年以上も継続したのです。此の時代に大陸から日本に色々な人が渡って来ました。次の縄文時代は13,000年以上継続し、次の弥生時代は1,300年以上継続してます。ところが其れ以降現代まで年数を合計しても1,700年しか無いのです。其れだけ旧石器時代の日本は豊富な水源をはじめ、石器の原料も大型獣も共に豊富であり、世界中から人類が集まる程に豊かだったのです』との事でした。更に後には次の様な説明も行なって頂きました。此の教えに私は強く心を惹かれました。

旧石器時代の人々の生活は、力を合わせて大型獣を仕留めて皆で分かち合っていた時代なのです。獲物は大きく沢山獲れたので部族同士の争い事も起きなかったと思います。何故なら獲物は定位せず移動するからです。ずっと後の時代となりますが、聖徳太子による十七条憲法の冒頭に、和を以て貴しと為すと有ります。此れは旧石器時代から始まっていたアイデンティティではないかと私は思うのです』 私は此の教え以来旧石器時代への憧れを強く持つ様になって今に至っております。

さて、前置きは此のくらいにして、前回に引き続き、野尻湖の遺跡から見つかった様々な物についてご案内させて頂きます。

野尻湖周辺の遺跡からは、ナウマン象の化石と合わせて、狩りに使った木製の槍と思われるモノが発掘されております。また、大型獣を解体していたと思われる骨器や石器も見つかっております。

高い山々に囲まれた美しい野尻湖です。水深は最深部38.5m有り、面積は約4.45k㎡もごさいます。博物館の説明書きには約7万年前の地殻変動で形成されたと有りました。湖には豊富な種類の魚や貝、エビなのどの甲殻類が生息しており、野尻湖の人達は寒い中でも豊かな生活をしていたと思われます。
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野尻湖ナウマンゾウ博物館のイメージイラストです。本当にギャートルズの世界です。
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骨器です。先の尖った鋭利なモノもございます。ナウマンゾウ博物館より
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勇壮な野尻湖人の勇者達は一族の為に命懸けで巨大なナウマン象に立ち向かったのだろうと思います。想像するだけでワクワク致します。当時の気候は現在のアラスカの様な寒い気候でした。海水面も今よりもずっと低く、一部は大陸と地続きでした。水と食べ物が豊富な日本に多くの人や獣が渡って来たのです。

ナウマンゾウ博物館には発掘されたナイフ型石器が所狭しと展示されております。どれを見ても数万年前に人類が実際に使ったモノなのです。
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野尻湖のナイフ型石器で一番有名な物は杉久保遺跡で多く出土した『杉久保型ナイフ石器』です。両鎬槍の穂先の様な形状となります。
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不思議な事にナイフ型石器は東日本と西日本では違いがあるのです。北海道から関東中部の東北日本では大型で細長い杉久保系

ナイフ形石器と小さめの薮塚系ナイフ石器が使われ、西南日本では黒曜石の薮塚系ナイフ形石器が主に使用されました。

先の尖った尖頭器と言われる石器はこんな感じで使います。野尻湖人は此れを武器に巨大な生き物と戦ったのです。日本には最高の石器の材料が豊富でした。日本旧石器学会さまのHPより
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野尻湖人は骨器や石器で大型獣を解体し、美味しく食べていたと考えられます。また、とっても寒いツンドラ気候でしたので動物の毛皮は大切な防寒具になった筈です。
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ナウマン象の臼歯も沢山有りました。
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ナウマン象の臼歯は此の位置にあるそうです。此の説明書きのセンスは抜群ですね。
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2mを超える長大なナウマン象の切歯です。野尻湖人の勇者達は仕留めるのに苦労されたと思います。
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大小合わせて凄い量の切歯が展示されておりました。万年を遥かに超える遺物です。
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此の地層標本は実際に湖底から実際に切り取った地層標本との事でした。此の地層により年代が判明するのです。此の標本に数万年間の時間が凝縮されていると考えるだけで妄想の世界に旅立ってしまいます。
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丸木船です。電動工具がない時代に石斧を使って中をくり抜いたのです。途方もない時間が必要だったと思われます。ただ船の幅は驚く程狭く感じました。私は間違いなく乗れません!
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野尻湖の遺跡群からは未だに人骨は発見されておりません。彼等は気候変動などで移動したのか、または絶滅したのかは全くの不明です。しかし尖った石器を槍先に付けて勇敢に大型獣に立ち向かった野尻湖人がそう簡単に絶滅するとは思えませんね。今後も色々な調査で判明してくれると思いますが実に楽しみな事です。

さて、日本考古学では1950年近辺まで日本列島に人が出現したのは縄文時代からだと言う通説が有りました。其れ以前は大規模な火山活動があったり、大規模な気候変動も起こったりしており、日本は人が住める環境では無かったとされていたのです。また神武天皇即位より前の時代は神聖な『神代』の時代とされておりました。

ところが、この通説を根底から覆したアマチュア考古学者が居たのです。考古学とは人類の祖先が残した遺跡から出土した遺物などの研究を通し、人類の活動と其の変化を研究する学問です。文献学の方々が色々研究した来た事も、たった一つの発見で大きく覆ってしまいます。何故なら発掘したモノ自体が動かぬ証拠となるからなのです。この偉大な益荒男のお話は何れご案内致します。