みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その十一

大塔の古要害の小笠原軍を殲滅した信濃国人衆は全軍を持って小笠原長秀が立て籠もる塩崎城に向かいました。あの天下の坂西次郎長国を筆頭に名だたる武将達を討ち取ったのですから、さぞかし士気が上がった状態であっただろうと推測します。塩崎城攻城戦に対する気構えは並々ならぬものが有ったと思われます。

国人衆は気合い充分だったと思われます。
f:id:rcenci:20230114155014j:image

城内には小笠原長秀をはじめ150騎がおりましたが、前回の総攻撃で傷を負っておりました。良く事務作業で紙で指を軽く切る事が有ると思いますが、ほんのちょっとの傷でも物を触るのに痛みが走って不便だと思います。其の傷が深い矢傷であったり、刀槍の傷であったりした場合の苦痛は御想像の通りです。とてもまともに戦える状況では無かったのだろうと推察致します。此の時点で小笠原長秀の命運は尽きたかと思われる状態でした。

しかし、小笠原長秀の命運も此処までと思われた此の場面で、其れ迄様子を見ていた小笠原一族の大井光矩が動いたのです。

龍雲寺 11代目の大井家の当主である大井美作守玄慶が開基したと伝わる寺院です。以後は大井氏の菩提寺として庇護を受けました。佐久市のホームページより
f:id:rcenci:20230114155027j:image
大井光矩は長秀が善光寺に入る前に訪れて信濃統治について相談した小笠原一族の国人領主でした。長秀が国人衆と戦闘を開始した後も丸子に軍を留めて合戦の様子を伺っていたのです。長秀に味方すると周囲の反小笠原として参戦していた国人達の敵になってしまい、そうかと言っても同じ小笠原家の総領を見捨てる事は出来ないと言う実に微妙な立場でした。しかし大井光矩は長秀にとって此れ以上無い場面で登場したのです。

大井光矩は国人側の盟主である村上満信と対面し、此処で引く事の利を解いて塩崎城攻めを思い止まらせました。此処で軍を引く利とは幕府が派遣した守護を殺めてしまうと、其れはひとえに幕府に対する反逆となってしまい、国人側が幕府の討伐の対象となってしまうと言う内容であったと推察致します。村上満信も他の国人領主達の手前、振り上げた拳の落とし所を探っていたかも知れません。

他の国人衆や大文字一揆衆も全て此の事に納得したかどうかは分かりませんがこの太刀を納めて軍を引いたのです。
f:id:rcenci:20230115093119j:image

戦死が最高の軍忠とされていた此の時代で、大井光矩の取った此れ迄の行動は賛否が分かれるところです。現代に生きる私の思うに大井光矩と言う人物は流れを見定める洞察力と咄嗟の行動力と軍事力を合わせ持った傑物だったと感じる次第ですが、皆様はどうお考えでしょうか。こうして小笠原長秀は命を長らえて京都に逃げ帰りました。

合戦が終わった後に国人衆は幕府に対して自らの正当性を示す為、小笠原長秀の横暴により合戦に及んだが、幕府に逆らう意思は無い旨をしたためた連署注進状を送ったと伝わります。

其の後の長秀は次の年の応永8年2月には幕府から信濃守護を罷免され、新たに斯波義将が任命されたのです。守護代として島田常栄が信濃入りしましたが、此れでは同じ事となると判断した幕府は、翌年の応永9年に信濃国を直轄地と致しました。当初は幕府からは奉行人として依田左衛門等を派遣致されましたが、その後は細川慈忠を代官として信濃に改めて派遣致しました。此の一事を持っても信濃国に対する幕府の杞憂が伺えますね。

しかし細川慈忠は土地の横領を阻止しようと強硬に出た為、再度応永10年に村上満信、大井光矩(今度は登場)、井上光頼、小笠原為経や伴野氏、須田氏が反発して守護所に攻め込もうと致しました。

細川慈忠は此れに対して市河氏貞等と合力し、段の原(篠ノ井の段の原)で合戦と成ったのです。此の戦いでは国人衆が押されて敗走致しました。国人側も先に行われた小笠原との戦いで疲弊していたと思われます。細川慈忠は追撃を行って生仁城や塩崎城で合戦が行われました。此の戦いは国人衆の負けでした。

現在の段の原は一面りんご畑です。住所は現在の小松原と言う場所ですが一帯のりんごは『共和のりんご』として出荷されます。『共和のりんご』は信州で一番美味しいと個人的には思います。共和のりんごのホームページより
f:id:rcenci:20230114160115j:image

更に翌年に高梨左馬助による強い反発があった為、桐原や若槻城を攻める為に軍を派遣致しました。そうして応永22年には最後まで反発していた須田為雄を鎮圧したのです。小笠原長秀との合戦で疲弊したかも知れませんが、信濃国人衆は幕府の統治下に置かれて行きました。此処が次々に新手を送る事が出来る天下の幕府軍と小さな国人領主達との差です。

さて....その後の小笠原長秀ですが、応永12年に弟である小笠原政康に小笠原家の家督と所領を渡しました。その後は応永19年に再び信濃に入り、長秀自身が築城したと言われている『渚城』にて59歳の生涯を閉じたのです。渚城は長野県松本市にある曹洞宗寺院の常徳寺境内に有ったと言われております。渚とは

常徳寺の近くには渚駅が有ります。渚駅とは現在アルピコ交通上高地線の駅の一つです。Wikiより
f:id:rcenci:20230114155110j:image