みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その六

 

都をでた小笠原長秀は一族の大井光矩の元を訪れ、信濃統治の話し合いを行いました。また特別に有力国人である北信濃の村上満信には使者を送りました。そうして小笠原長秀は応永七年(1400年)の八月に信濃国府の後庁である善光寺に政務を行う為に入ったのです。当時の善光寺信濃の政治経済の中心となっておりました。其の善光寺入りの光景は一族二百騎を従え、京風の絢爛雅な出で立ちの大行列であり、守護の威光を示したものだったと伝わります。二百騎と言っても騎馬武者一人に従者が三人から4人ほどの小者が従いますので、総勢は八百人から千人程の大行列だった事に成ります。下に参考になる写真を載せましたのでご覧下さい。

大塔宮護良親王 少しだけ手前に時代はズレますが騎馬武者一人に対して従者三人の姿です。京都大原三千院には護良親王の所持と伝わる薙刀が奉納されております。
f:id:rcenci:20221203112701j:image

守護である小笠原長秀は御教書と言われている室町将軍の正式な伝達書を持参して信濃入りしております。其の事を知らしめる効果を狙ったものでしょう。

長秀は信濃の国人衆達に守護としての政事を行う事を使者を送って触れ回わりました。最有力な国人である村上氏は信貞以来『信濃惣大将』として幕府に貢献して来ましたが、守護に抜擢しない幕府に対して不信感を抱き、やがては幕府が派遣した守護に敵意を持つ様になり、反守護の旗頭になっていった経緯があります。また長秀の信濃入国に対して戦々恐々であった中小の国人達は同盟を組んで大文字一揆と称しました。


長野県立歴史館に有る『大文字の旗』です。
f:id:rcenci:20221203112716j:image
構成は仁科氏、禰津氏、春日氏、落合氏、小田切氏、窪寺氏、西牧氏等が名を連ねております。大文字一揆は総じて犀川流域の国人領主が多く参加しておりました。此の時代の一揆とは特定の目的の元に集まる事や、集まって行動を起こす事です。後世の百姓一揆とは全く違う性質なのです。

犀川です。Wikiより
f:id:rcenci:20221203112727j:image
犀川槍ヶ岳を水源とし、長野市千曲川と合流し信濃川と名を変えて日本海に流れ込みます。県歌『信濃の国』にも有りますが、信濃では千曲川犀川木曽川天竜川が急峻な山と平を流れ下ります。

信濃では過去に小笠原氏と戦った事がある国人衆が多かったのも長秀に不利に働きました。北条時行を旗頭に諏訪氏が起こした中先代の乱では守護である小笠原貞宗に対して諏訪氏信濃の名門である滋野一族が戦い、観応の擾乱の時も守護の小笠原政長諏訪氏をはじめ信濃の国人達と戦った経緯が有るのです。つまり曽祖父の代よりも前から、反小笠原勢力が信濃に存在していた事になるのです。

さて善光寺で政務についた長秀ですが、国人衆を集めた時に、容儀も整えず、扇も用いず、当時の慣習であった一献の接待も行わなかったと言われてとります。全く持って国人達を見下した態度だったと言う事です。他にも訴えなどの経緯を話に来た国人に対し、当時の慣習を無視した不遜極まる態度で接したと言われておりま
す。

善光寺  善光寺のhpより
f:id:rcenci:20221203112746j:image

武芸に秀でて様々な儀式や礼法に通じた小笠原家当主が何故此のような振る舞いに及んだかは定かでは有りません。私の知る小笠原流礼法の極意は『相手の心を知る』ですが、実に不可解です。

この事を知った大文字一揆の国人達は窪寺と言う寺に集まって話し合ったと言われております。集まった国人達は数代まで遡り小笠原家と戦って来た家柄ですので合議の内容は推して図るべしですが、此の時は穏健派の意見が採用され、一旦は馬や太刀を贈り様子をみる事にしたと伝わります。

1番の強行派である大文字一揆が穏健作を採用した事で一旦は対立が治るかと思われる展開となったのですが、少しして長秀は前置きも無しに守護の権限を行使する暴挙に出てしまったのです。

反守護の盟主である村上満信の治めていた川中島から年貢を徴収し始めたのです。長秀は権限を行使しただけなのですが、よりによって村上満信の領地に行わなくても....と思います。

当然ですが村上満信にとっては許せる事では有りません。同時に他の国人達にとっても、此の一寿を許したら自分の土地が同じ目に遭います。満信は大文字一揆や佐久の有力三家及び各地の国人に事を知らせて、長秀の送った役人を追い出し、逆らう者は討ち取って梟首にしました。そして長秀に反意を示し、合戦の準備に取り掛かムタのです。同時に信濃の国人衆も合戦の準備に入りました。良い事はなかなか伝わりませんが、悪い事は直ぐに伝わる見本の様です。父祖代々から信濃黒人衆と戦って来た小笠原家ですが、長秀の代でも同じように戦う事となりました。それも歴代一位の規模になるとは長秀は想像もしていなかったと思います。

 


追記1�文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にしております。合わせて以前に『〇〇は燃えているか』の言うブログをお書きになり、その内容を引き継ぐ『悠久の風吹く千曲市上山田』さまの内容も参考にさせて頂いております。此方のブログは私の父から聞いていた合戦が大塔合戦と言う名前である事と其の経緯を知った初めてのブログでした。また色々な郷里の歴史を教えて貰ったブログであり、此の場を借りて深く御礼申し上げる次第です。