みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その五

室町幕府は体制を新たにし、小笠原長秀を信濃守護にする事で国人領主達による土地の横領を阻止し、中央の意に沿う形に直そうと致しました。

『中央の意に沿う....』と書きましたが、再度国人領主と守護の相反する状況を簡単に御案内致します。元々国人領主とは在地し、荘園などの年貢を所有者に変わって徴収して納める事が元々の仕事で、代々直接国々の土地を支配しておりました。鎌倉幕府滅亡後は管理者もコロコロ変わるし、オマケに南北朝時代の争乱は半世紀以上も続いたので、治めていた荘園を押領?して半ば自領としていたと言うのが室町幕府側の見解です。国人領主達から見ると先祖代々治めていた土地なので当たり前に管理しているのです。この事が南北朝時代はウザウザのまま過ぎ去りましたが、困った事に南北朝合一が行われ、貧乏だった室町幕府が義満公の色々な改革や日明貿易によって力を付けてしまったのです。力を付けた義満公は幕府に合力し戦功をあげた武家への褒賞として特権を付けた守護職と言うカードを使って来たのです。独立性の強い信濃国人衆が警戒するのも当然なのです。

日明貿易舩旗 Wikiより
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世の中は幕府中心に動く健全な状態に成り、守護は新たに手にした刈田狼藉を取り締まる権利、裁判の判決を執行する権利などの使節遵行、実質的な軍事費調達の半済令や守護請などの新制度を盾に国人を取り締まろうとしたのです。今風に言うと政府から任命された県知事が直属の軍隊を持ち、合わせて警察と司法の権利と税金を徴収する権利を同時に持った事になります。国人領主側にとっては困った状態になったのです。権益を捨てて守護に従うのか、先祖が切り開いた土地と権益を守る為に一族の存亡をかけて守護と戦うかの選択が迫られました。強い守護が任命された国なら大半は従うのでしょうが、小笠原氏はかつて合力して守護である斯波氏に立ち向かった一族なのです。其の息子如きが我が物顔で信濃に入って来ても従う気にはなれない状態だったかも知れません。

当時の信濃における国人達は不測の事態に備えて武具の手入れをしていたモノと思われます。

話を戻します。信濃では此の場面で有力な国人領主である島津国忠が兵を挙げました。此の島津国忠は勇猛果敢な薩摩島津氏の一族です。此れは鎌倉時代に遡りますが、島津氏の始祖である惟宗忠久承久の乱の恩賞として信濃国水内郡太田荘地頭職に任じられた事が始まりです。

惟宗忠久(島津忠久) 惟宗忠久の母は比企尼の長女の丹後内侍(たんごのないし)です。
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忠久は文治元年(1185)に近衛家所有の島津荘の下司職に任じられてから島津姓を名乗りました。忠久は建久8年(1197)に薩摩と大隅両国の守護職に成り、その後に日向国の守護にも任じられたのです。此処から猛虎となぞられる薩摩島津氏の歴史が始まるのです。

さて信濃島津氏の話に戻ります。鎌倉幕府が滅び南北朝の騒乱を経て信濃島津氏は独立性を高めて信濃に土着して行きました。小笠原長秀に反旗を翻した島津国忠が合戦に及んだ経緯は定かでは有りませんが、恐らくは先に案内した様な内容だと推察致します。

此れに対して小笠原長秀は一族の赤澤秀国と櫛置清忠を差し向け、水内郡石渡近辺で合戦となりました。赤澤秀国は塩崎城を居城としており、この城に長秀は助けられるのです。塩崎城は現在も遺構が残り、下には有名な金峯山長谷寺がございます。地元では長谷寺の観音様と言われて崇敬を集めております。

長谷寺の御住職さまは、高校時代に所属していた陸上部の大先輩なのです。
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此の時に高井郡志久見郷の市河頼房も小笠原郡に加わったとされております。合戦の場所は善光寺の近くになります。面白い事に更級の実家周辺には市河姓の方も赤澤姓の方も居ります。

水内郡石渡とは現在の長野市朝陽と言う場所です。長野県の地区だと此の辺りになります。Wikiより
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激戦だっとは思いますが、此の時は信濃島津氏が敗れたのです。更に長秀は合戦後に島津氏の領家職をも没収致しました。

小笠原長秀の守護守就任には村上氏や伴野氏などの有力国人領主達も反対しており、小笠原長秀の信濃統治は問題山積みとなったと思われます。島津氏は強い氏族だが、一族のみで戦ったので負けた....次に戦うなら国人同士纏まろうと思うのは当然ですね。

とうとう応永七年7月3日に小笠原長秀は京の都を出発して信濃に向かいました。信濃に入るにあたり、まず同じ小笠原一族である大井光矩(オオイ ミツノリ)の館に出向きました。光矩と難しい信濃の統治について相談する為です。その後に北信濃の有力な国人である村上満信に使者を送って協力を求めました。反対側の旗頭が村上氏なので、満信はどの様に使者と対峙したかは分かりません。

光矩の館は現在の佐久市岩村田に有りした。当時の大井氏は小笠原長清の七男である朝光が大井荘の地頭となって土着した以来、連綿と続く一大勢力でした。此の国人領主の一人である大井光矩が最後に此れ以上無いタイミングで長秀を助けます。

次回はいよいよ小笠原長秀が善光寺に入ります。国人領主達の動向も一味同心となるのです。


追記1
文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にしております。合わせて以前に『〇〇は燃えているか』の言うブログをお書きになり、その内容を引き継ぐ『悠久の風吹く千曲市上山田』さまの内容も参考にさせて頂いております。

追記2
余談ですが、食いしん坊な私は一族の長である長秀が大井館を訪れた時にどの様な料理でもてなしたのかと考えてしまいます。鎌倉時代の終わりまでは1日2食が主流で、室町時代の中頃からは蝋燭や油が広まった事により、現在のような1日3食になったと言われております。また室町時代から醤油や味噌も一部に流通し(大陸との貿易で砂糖も来た)、食卓には味噌汁も加わって行ったみたいです。また同時期から米も蒸したものから、現在の様な炊いた物へ変化したと言われております。出汁を取る昆布や鰹も室町時代から普及して行きました。この時代は『式三献』の後に本善料理が出てくるなど現在にも通じている決まり事が出来ました。お正月明けに食べられる七草粥室町時代から始まったのです。キリが無いのでやめますが、現在の食卓と習慣は室町時代から始まったと思うと感慨深いものが有りますね。

一汁一菜 Wikiより
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