みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その三

鎌倉幕府の北条一族が滅亡した後、新しい建武政権から小笠原貞宗信濃守護に任命されました。小笠原貞宗信濃国松尾荘(飯田市)に本拠が有り、同時代に生きた『中先代の乱』の中心的存在である諏訪頼重とは領地が隣のだけに争いが絶えませんでした。

小笠原貞宗公 Wikiより
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恐らく当時において大八島国では並ぶ者が居ない強弓使いでした。現在も続く小笠原総領家では貞宗小笠原流礼法の中興の祖としております。この方だけで軽く数冊の本が出来ます。元々は北条に恩顧を受けた武将でしたが、尊氏公が幕府から離反すると早々に尊氏公に味方致しました。コレが北条恩顧の武人達にとって裏切りと見なされたのです。当時に於いて一族を継続させる事は当然の武家の習いです。個人的には極めて凄いお方であると敬愛しております。

本題に戻ります。しかし小笠原貞宗信濃守護になった事に対して反発する勢力が信濃では多く有りました。諏訪頼重の様な北条恩顧の武家が多い中で貞宗に従う国人衆は少なく、更に反発が強くなると尊氏は抑えのために一門の吉良時衡を守護代として任命したのです。中先代の乱(北条の遺児である時行を旗頭に諏訪頼重が旗上げし、鎌倉府を二十日間ほど占領した合戦)の後は、有力な国人領主に統治をしてもらう為に信濃国総大将として村上信貞を任命しました。此の村上信貞の後裔が武田信玄公を2度迄も打ち負かした村上義清公です。村上氏は武に優れた河内源氏の流れを汲む武家集団です。少し前の大河ドラマ真田丸のワンシーンで真田信之に対して『黙れ!小童〜』と一喝した室賀正武(西村雅彦さん)は村上氏の庶流になります。

NHKアーカイブスより
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信濃村上氏家紋 何と言う分かり易い家紋でしょう!
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コチラは村上水軍村上武吉です。
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家紋は全く同じですね!伊予村上氏信濃村上氏と同族であると言う説も有ります。しかし信濃村上氏が間違い無く河内源氏出身と言う疑いようもない事実が存在する事に対して、伊予村上氏の出自は今のところ賛否が別れております。何れにしても強い一族だと言う事が御理解頂けると思います。

つい脱線致しましたが本題に戻ります。混乱のなかで信濃では軍事に対する親分が並立していた事になります。更に観応の擾乱が起こると直義派に諏訪直頼や禰津行貞なとの諏訪一門が賛同し勢力を伸ばして行きました。慌てた足利尊氏公は劣勢になっていた小笠原家の守護を貞宗の子である小笠原政長に改めて任せたのです。しかし既に信濃における両国の半分は直義派の上杉に抑えられておりました。ところが尊氏公が南朝と和睦し、更に一方の旗頭である弟の直義を毒殺したことにより、信濃における直義派は勢力を失い、尊氏が任命した小笠原政長が改めて守護としての力を得たのです。しかし村上氏の様な強い国人領主が点在する信濃では小笠原某が守護でも何でも関係ない状態でした。この後の信濃は12年間ほど鎌倉府の直轄管理になりました。そして何故か鎌倉府からは関東管領上杉朝房がが守護として任命されたのです。あくまでも私感ですが、有力な信濃の国人領主にとっては目まぐるしく変わる守護に相当難儀していたと思われます。全くいい加減な何でも有りの中央だったのです!

そして尊氏公が決めた守護と鎌倉府の決めた守護が名目上でも両立している状態はしばらく続いたのです。加えて一時期でも信濃国総大将に任命された村上氏の威光も残りました。一時期において小笠原は守護職を解かれ、斯波氏が守護になった時も有りましたが、再度小笠原正秀が守護に任命されております。全く持って中央の気まぐれに信濃国国人領主は翻弄されていたのです。鎌倉府の管轄は関八州、甲斐、伊豆を含めた十カ国でしたが、東山道信濃はちょうど幕府管轄地との境目にあったので幕府側と鎌倉府側の力関係が如実に出てしまった国とも言えます。因みに室町幕府の支配体制として東は駿河国、西は長門国を将軍家が管理下に置いており、九州は九州探題が掌握し、東国においては鎌倉府が管轄していたのです。

法螺貝 Wikiより
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こんな混乱を極めた状態のなかで、とうとう信濃で合戦の法螺貝が鳴ります。

貞治六年に10歳の足利義満公が3代将軍に就任すると幕府の実権は管領である細川頼之が握りました。細川頼之は色々な改革を推進し10年ほど管領職を務めましたが、次第にこれを不服とする有力な守護が増えていきました。そんな状態の中で前の管領だった斯波義将が、まだ幼い義満の屋敷を大軍で包囲して細川頼之の罷免を迫り、自分が再び管領になる様に脅しを掛けたのです。余りに突然な事なので幕府側は此れを呑みました(康暦の政変)。

ちょっと強面な斯波義将 Wikiより
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直ぐに幕府が任命した信濃国守護であった小笠原長基は解任され、斯波義将の弟である義種が信濃守護になったのです。そして義種の守護代として同族の二宮氏康が信濃に派遣されました。当然ですが信濃国の事など何も知らないで鼻息も荒い二宮氏康は国人領主達の権利を蔑ろにしてしまったのです。さあ大変な事になりました! 知らない事とは言え屈強な信濃国人領主達に喧嘩を売ってしまったのです!

信濃総大将の家系である村上頼圀や島津長沼太郎(信濃島津)、高梨朝高などの有力国人が前守護の小笠原長基と共に、二宮氏泰の子である二宮種氏が籠っていた守護所に怒濤の如く襲いかかったのです。どんなに二宮氏の力が強くても此の強力な連合では勝負に成りません。ワニ園の中に他の動物が住み着いた様なイメージです。恐らくは酷い惨状になったと思われます(添田原の戦い)。

南北朝時代は日本刀一千年の歴史の中で一番長大な大太刀が製作されていた時代です。写真は熱田神宮の大太刀と我が部下です。
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信濃守護である小笠原長基は今回の主題である大塔合戦の発端になった小笠原長秀のお父さんです。

二宮種氏の守護所を襲った後、時を置いて小笠原長基は諏訪頼継とも戦いました。勇猛な村上頼圀も二宮氏泰が篭城した横山城を攻めて激戦の末にこれを陥落させました。そして敗走する守護方の市川氏を追撃し生仁城(現千曲市生萱にございます)を攻める合戦に至っております。

もう火のついた国人領主達は止まりません。この事を心配した幕府は斯波義将本人を信濃に向かわせて治めたのです。....でも治っておりませんでした(笑)。

管領を力ずくで奪った斯波義将にとっての大誤算は、若き三代将軍の足利義満が成長するに従い、ずば抜けた政事の才能を発揮して行った事でした。義満公はやがて南北朝の合一を成し遂げ、日明貿易で財を成し、都に煌びやかな北山文化を花開かせました。また清和源氏で初の太政大臣になる程の人物だったのです。

 

追記
�文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にさせて貰っております。