みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その二

前回は簡単に大塔合戦の前段階における世の中の状況について簡単に御案させて頂きました。今回は信濃に入って来た守護側である小笠原氏について書きたいと思います。小笠原氏は源平合戦から戊辰戦争までを生き抜いて華族に列せられ、尚且つ現在まで其の血脈を維持している数少ない名族です。

小笠原流流鏑馬 Wikiより
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小笠原氏は武家故実有職故実に通じた家柄であり時の武家政権に重用されました。武家故実とは武家政権が古くからの公家文化などを手本にして独自に築き上げた生活全般にあたる仕来りの事を言います。有職故実とは古より朝廷などで行われている行事や慣習全廃の事をさし、其処に官職の事や様々な儀式における装束なども含んだ全般の知識の事です。特に室町時代中期以降において小笠原氏が武家社会における故実の指導的存在となった事は疑いようも無い事実です。合わせて現在における企業の新人研修などで行われる礼法などは全て『小笠原流礼法』から来ております。

小笠原氏の家紋は三階菱です。
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小笠原氏の出自は清和源氏となります。有名な八幡太郎義家公の弟で有る新羅三郎義満か甲斐国を与えられ、義満の孫である清光の四男と言われている遠光が甲斐国巨摩郡加賀美に住して加賀美遠光と名乗りました。そして遠光の子として生まれたのが加賀美小次郎長清と言う人物です。この長清が父の遠光から所領の一部である甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称しました。因みに長清の弟は南部氏の祖と言われている南部光行です。こうして小笠原長清が小笠原氏の初代となったのです。こう思うと加賀美遠光は後世まで続く武田氏、小笠原氏、南部氏の祖を育成した偉大な父君になりますね。

加賀美遠光公  Wikiより
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関係を図に書くとこんな感じです。
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遠光の右にいる秋山光朝は甲斐源氏の隆盛を恐れる頼朝公により殺されてしまいました。遠光の左にある信義の16代後が武田信玄公となります。手書きの極めて稚拙なモノで申し訳有りませんが、こんな図一つでも錚々たる面々である事が分かると思います。

遠光は戦功により信濃守となり、子である長清は其の職を引き継ぎました。小笠原長清は頼朝公の信任受け、鎌倉幕府御家人としての地位を確立致して行きました。そして長清の子は長経と言いますが、此の長経は運の悪い事に比企能員の乱に連座つしてしまって処罰されてしまうのです。しかし其の後の承久の乱にて再び戦功を立て、今度は阿波国の守護に任じられました。此の後は霜月騒動などに巻き込まれますが系譜は続きます。鎌倉殿の13人でも解るように滅亡する一族が多い中で生き残るのは『天意』としか言い様がごさいません。

小笠原氏だけで本数冊にも及ぶ来歴がありますので以後は案内を割愛しますが、信濃小笠原の他に幡豆小笠原、阿波小笠原、石見小笠原、京都小笠原、遠江小笠原など有ります。やがては大一族に変貌する小笠原氏ですが、それまでの道のりは平坦では無く、嘉吉二年には一族の内乱が起こって三家に分裂してしまいました。その後90年ほど経過し、やっと府中小笠原家が一族をまとめあげたたのです。小笠原一族の凄いところは必ず復活するところが他の一族には無い一面です。恐らくは受け継がれた血の中に『諦めない強い心』が宿っているのでしょう。

其の他にも庶流を数えれば途轍もない数になります。しかし庶流とは言えど三好氏などは室町時代管領細川氏に従って勢力を養い、やがては細川氏を滅ぼして四国の一部と畿内の大部分を手中にし実質的に天下を取った豪の者もおりました。

三好長慶が有名な三好家の家紋です。
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此の家紋は三階菱に五つ釘抜と言う家紋です。釘抜きとは『九城を抜く』に通じると、されております。一つの城を落とすだけでも大変なのに九つも城を落とすなんて強烈ですね。此の三好家からも多くの庶流が出ております。

もう一つの話として時代は大分降りますが、家康公の命令で南方へ探検に向かった小笠原貞頼が発見した島々が何と小笠原諸島なのです。

小笠原諸島です。行った事は有りませんが東京都小笠原村と言う住所みたいです。
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巨大な勢力を持った一族である事が御理解頂けると思います。信濃の国人銃はこんな凄い一族の親分に喧嘩を仕掛けて勝ちました。仕掛けた当時の小笠原家当主は小笠原長秀と言います。長秀公が小笠原氏のどの辺りの当主であるかを下の略系図を参照して下さい。

小笠原氏略系図 コトバンクより
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私の所蔵している書籍の小笠原家系譜は庶流も全て載っている為に細か過ぎて数枚に及んでしまい掲載をやめました。左から四行目に長秀公の名前がございます。

合戦になった経緯として鎌倉時代から各地に置かれた『守護職』が要因の一つと考えられます。守護が受け持つ仕事は御家人など武家の統率や赴任地の治安維持が主な仕事でした。また大番役の催促権と謀反人や殺害人に対して『検断』を行う権限を持っておりました。これが大犯(だいぼん)三箇条と言います。時代が経過するにつれて守護の権限が増して行き、室町期には刈田狼藉に対する検断権及び使節遵行権は守護が持つ様になったのです。此の二つの権限は非常に大きく、権力を持った各地の守護は守護大名へ変貌して行ったのです。決して大名と言われている『大名主』は、いきなりに出現した訳では無い事を学生時代のゼミの恩師がよく仰っておりました(其の恩師も小笠原庶流の末裔です)。

鎌倉時代初期までの領地の争いは所務沙汰として中央に上がって裁判で解決されておりましたが、領地争いが次第にエスカレートして来たので幕府も侍所などの監督下で検断沙汰として取り扱うようになりました。しかし室町時代には所領に対する紛争を中央政権が判断するのでは無く、地方に配置された守護が解決出来るようになったのです。此の違いは本当に大きな違いとなりました。ただ元々各地に根を張っていた国人側も半済令を盾にして実力行使で権利を主張し、そう簡単に引き下がる事は無いのです。其れに対して幕府は守護に守護請と言う権利を与えました。此れは領国の運営を任せる代わりに年貢を責任持って取り立てると言う約束です。国人が従わない場合には守護の権限の元で対抗勢力を武力で制圧する事が実質出来るようになって行きました。この辺りから有力守護が存在する地域で、多くの国人達は守護に仕える形になっていきまきた。結果として何ヵ国も治める有力な守護大名が出て来たのです。幾つもの国を支配する守護の場合には息子や兄弟などの身内を守護代として現地に向かわせました。しかし世の中の流れと反し、信濃の国人達は『どこ吹く風』状態で全く違ったのです。其れは信濃国の特殊性で周囲にそびえる高い山々に囲まれた盆地で先祖の代より隣国と抗争しながらも土地を守り抜いた独立性の極めて高い武人の意地でした。自分の家にある畑の稲を余所者が勝手に刈り取る様なモノなのですから許せる訳有りまん、父祖の地と一族を守る為に一族を総動員しても戦う事は同じ信州人の私も充分に理解出来ます。

しかし室町幕府は安定した年貢を取る為に守護に絶大な権力を与えてますので守護も超強気なのです。正に水と油の状態です! 通常は一族の安泰を図る為に強い国家権力には靡くモノかも知れませんが、困った事に信州人の気質は良い悪いは別として全く違いました! 大塔合戦は此の流れの中で起こりました。

今回は守護として信濃に入った小笠原長秀公と小笠原家についてと、守護がどのように強い権力を持って行ったのかと言う事をご案内させて頂きました。次回は信濃に守護が2人もいた特殊な時期と室町幕府から任命された信濃総大将について御案内させて頂きます。

名門諏訪一族の一人が着用した大鎧です。
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全国的にも武芸に秀でて気骨あふれる信濃武士が本気になってしまったら実にも恐ろしい事になってしまいます。現に足利直義を敗走させ、鎌倉府を占領したり、甲斐須沢城に立て籠る室町幕府最強武人の一人である高師冬を攻めて自害に追い込んでいるのです。山国の武人は健脚であり、オマケに信濃は当時から日本最大の名馬の産地だったので強い理由も肯定出来ますね。

追記
文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にさせて貰っております。