みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その十

人は水さえ飲んでいれば何も食べなくても3週間程は生きていられると言われております。二柳城が坂西長国が立て籠った大塔の古要害だとしたら、城には必ず古井戸が有る筈です。また平地にあったとしても周囲は湿地帯だっと言われておりますので、水質は別として少量の水は飲めていたと思います。何にしても古要害に取り残された小笠原軍は何も無い古城に立て籠って20日程経過していた事を思うと、人としての限界を迎えていたと思います。

そして大塔物語には此の状態の中で坂西長国の言い放った言葉が記されてとります。そのままだと分かり難いので現代風に案内すると次の様になります。『このまま最後を迎えるよりは、潔く打って出て討死しようではないか』

長国の呼び掛けに奮い立った小笠原軍は10月17日に討死を覚悟し、大手口よりの出撃を敢行したのです。

大塔の古城の正面には禰津氏、三村氏、桜井氏、別府氏、小田中氏、真田氏などの軍が陣取っており、出撃した小笠原勢と激戦を展開致しました。その時に諏訪一党の有賀氏などの奮戦により、多くの小笠原軍が討ち取られてしまいました。精鋭を誇る小笠原軍ですが、飢えと寒さと脱水症状で意識朦朧のなかで武士らしく戦場の露と消えていったのです。

此の時代では有りませんが、敵の首を取る武将図です。
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余りにも激しい激闘に長国をはじめとした小笠原軍も一旦は退きました。国人衆達が一息に古城に乗り込んで殲滅しなかったのは、追い詰められた小笠原軍の力を侮らず、窮鼠猫を噛むの故事に肖ったのだと思われます。国人衆達も流石は歴戦の猛者達ですね!

自軍の多くが討ち取られ、追い詰められた坂西次郎長国等は最後の出撃を今度は搦手から行いました。砦の外には誰が長国を討ち果たすかと言う手柄争奪戦の様相を呈していたと個人的には想像致します。

搦手な前に陣取っていたのは桓武平氏の名族である剛勇仁科盛房(注1)が率いる200騎が布陣しておりました。ボロボロの坂西長国等はそんな中に攻め入ったのです。相手の大将である仁科盛房も大太刀を振るう豪の者でした。長国と豪傑同士の戦いは1時間程にも及んだと伝わります。此の場面を思うと大太刀を扱う2人の戦いは想像を絶する激しい戦いで有ったと思われます。

此方も此の時代ではありませんが、私が此の場面をイメージする猛者達です。
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両軍激しくぶつかり合う乱戦の中で、多くの兵士が次々に斃れていった事でしょう。そんなかで長国は自分の舅であるる飯田入道の死を配下から聞いたのです。

舅である飯田入道の死を知った長国は、自分だけ生きながらえる事を潔しとは致しませんでした。長国は砦に戻り、そして飯田入道の傍で腹を切り裂いて果てたのです。小笠原軍で其の名を轟かせた豪勇坂西次郎長国は大塔の地で21歳の短い一生を終えました。

大太刀では腹を切れません。長国は腰刀で割腹したものだと思います(合掌)。義父の傍らで自刃とは何とも言えない強い哀愁を感じます。
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こうして大塔の古要害に立て籠った300人超の小笠原軍は全滅してしまいました。その中には小笠原一族の他にも守護方についた国人衆も多く居たと言われております。正月で更級に帰った時も行き帰り篠ノ井を通りましたが、心の中で必ず合掌する様にしております。
 
其れにしても、中世の合戦において全滅と言う結末は殆ど無い事であり、普通は戦死者が極端に少ない事が常なのです。従って此の大塔の古要害での戦死者の数は全国的に見ても極めて稀な結果だと思われます。

武将以外の兵は通常ならば自領の田畑で農作業に従事しておりました。其の為に兵士が死亡すると田畑を耕作する人が少なくなる事を意味するのです。従いまして、ある程度の被害が出ていると判断した武将達は自らの判断で撤退する事が常でした。此の事はずっと後に織田信長公が兵農分離を行うまで継続致したのです。

大塔での合戦で多くの人々が戦死した事を聞いて、善光寺の妻戸衆や十念寺の聖たちは急いで合戦の場に来たと伝わります。此の善光寺の妻戸衆も十念寺聖達も有名な一遍上人の末裔であり、一般には『時衆』と呼ばれている集団でした。

一遍上人 Wikiより
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時衆が現地に到着すると其処は死屍累々の目も当てられない惨状であったと伝わります。時衆達は周囲に散乱する屍をいちいち取り納め、焼いたり、塚を築いて卒塔婆を立て、それぞれに十念を与えたと伝わります。また形見の品々はこれを取り集め、妻子方に送ったとも伝わります。此の時衆達は合戦の様子を遺族に伝える役目も果たしていたと言われております。大塔物語も其の様な話が元で創られていったと思います。

善光寺に居た頃に長国と契りを結んだ遊女の
玉菊と花寿は長国を弔う為に大塔の地に来ました。そして長国の死に直面し泣き暮れたと言われております。そして遊女達は尼さんになって長国の弔いを続けたと言われております。思うに坂西次郎長国は武勇だけの猪武者では無かったのでしょう。

戦死者の弔いは現在の篠ノ井御幣川にある宝昌寺で行われました。写真は大塔合戦の戦死者を葬ったと言われている薬師堂がある宝昌寺の本堂です。
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宝昌寺さんの御紋は珍しい蟹紋です。村上氏の庶流である屋代氏が蟹紋を使用しておりましたので、宝昌寺の蟹紋も其の関係でしょうか。蟹紋には川蟹紋や踊り蟹紋などユーモラスな図柄が有ります。
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敷地内に有る薬師堂の由来を書いた立て看板です。鬼女紅葉伝説(鬼無里村の地名由来)から横田河原の戦い大塔合戦川中島の戦いに至るまで戦死者の合葬を行った事が明記されております。
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古い祠も敷地内にございます。此の祠にお参りした時は夏真っ盛りにも関わらず、少々感じるモノが有りました。
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さて長国等を斃した信濃国人軍は敵軍の大将首を目指し、小笠原長秀と配下の150騎が逃げ込んだ塩崎城に全軍で向かったのです。

※注1について
仁科の地について信州人として一言ご案内申したげたい事が有ります。此の地には『仁科濫觴記』と言う古文献が伝わっております。白馬に中央自動車道経由で行かれた方は通った事があると思いますが、中央道を安曇野インターチェンジから降りた後に大町市を通り、仁科三湖を抜けて白馬に至ります。此の大町市を古代は王町と呼ばれていた事や信州の様々な地名の由来、『魏石鬼八面大王』の故事など様々な事が記されいる文献です。崇神天皇の皇子が此の地に来てから約1000年も続く古代仁科(仁品)の歴史や当時の中央政権の事などが記されております。現代語訳も出ておりますので興味のある方は是非お調べ下さい。
 
 追記
文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にしております。合わせて以前に『〇〇は燃えているか』の言うブログをお書きになり、その内容を引き継ぐ『悠久の風吹く千曲市上山田』さまの内容も参考にさせて頂いております。此方のブログは私の父から聞いていた合戦が大塔合戦と言う名前である事と其の経緯を知った初めてのブログでした。また色々な郷里の歴史を教えて貰ったブログであり、故郷を離れている私の癒しでした。此の場を借りて深く御礼申し上げる次第です。