信濃国(長野県)と越国(新潟県)の境に野尻湖と言う信濃では2番目に大きい湖がございます。周辺は信濃町と言う地名であり、信州でも指折りの豪雪地帯です。
周辺は驚く程の降雪量です。大概の住宅には2階にも出入り口が有ります。写真は信濃町柏原に残る小林一茶終焉の地として有名な土蔵です。全国を旅して此処で生涯を閉じようとした一茶は次のような句を残してます。
『これがまあ終の栖か雪五尺』、読み方は『こらがまあ ついのすみかか ゆきごしゃく』となり、当時も相当に雪深い土地だった事が想像に難くありません。
野尻湖の呼称について、古くは信濃国の尻に有る事から信濃尻湖と呼ばれてました。その後は時代を重ねて野尻湖になりました。現在では周辺の山々と合わせて妙高戸隠連山国立公園となっております。
周囲はこんな感じで、スキーヤーなら誰でも知ってる名峰が周囲に連なっております。
上の写真を拡大すると左手前に戸隠連峰がごさいます。此の戸隠山の頂上付近では、6,000万年前の貝の化石やクジラの化石が発見されました。実は数百万年前に此の周辺は広く海だったのです。天津の神々が日本に降臨するずっと前の話ですね。
日本列島はユーラシア大陸から分離し、やがて真ん中から2つに折れました。折れた箇所に海流が流れ込み、長年の堆積物や周辺の活火山から流れ出た火山噴出物により割れ目が埋められたのです。
伊弉諾命(イザナギノミコト)の持つ天沼矛(あめのぬぼこ)から滴り落ちた大八州国(日本国土)の成り立ちには興味が尽きません。
其の大地の割れ目を発見したのはドイツ人の若き地質学者であるハインリッヒ.エドモンド.ナウマン氏です。割れ目の名前は有名なフォッサマグナです。思えば大森貝塚を発見したのもアメリカ人のモース博士ですね。ナウマン氏は其の後に東京帝国大学の地質学の教授として研究を続けました。
ナウマン氏です。実は日本において太古の研究は神代の時代の秘事とされており、本格的な調査が行われ始めたのは大東亜戦争後の事なのです。皇紀以前の研究にナウマン青年が及ぼした影響は大きいものが有ったそうです。
オレンジ色の箇所がフォッサマグナです。赤色の線が中央構造線です。
野尻湖は昔から冬のワカサギ釣りが盛んで、小さい頃から父に連れて行って貰っておりました。しかし全国でも稀な氷河期の遺物が湖底から発掘されている事に私が注目したのは、歴史に興味を持った大学生の頃からでした。昔は野尻湖の湖底に残された数万年前の遺物の重要性が、お馬鹿な私には理解出来なかったのです。
そんな野尻湖の湖底の地層から発掘された氷河期の遺物のうち、代表的なモノが此方の化石です。
一見しても何だか分かりませんね。
大分昔から同類の化石が数多く発見されておりましたが、地域の方々は『湯たんぽ』の古いヤツを投げ捨てたと思っていたみたいです(笑)。写真は寒い地域ではお馴染みの湯たんぽです。
ところが、多く見つかっていた湯たんぽに似た不思議なモノは、湯たんぽでは無く、ナウマン象の臼歯だったのです。ナウマン象は約1万5000年前までの日本列島に広く生息していた象さんです。
国道18号線「野尻湖」信号の交差点にあるナウマンゾウ親子像です。ナウマン象は頭骨の上がベレー帽を被っている様な形になっている事が特徴です。
北海道から九州まで広く生息していた可愛らしい象さんなのです。色々な地域から出土したナウマン象の化石は帝国大学地質学教授のナウマン氏により研究され発表された経緯から和名を『ナウマン象』と名付けられております。
ナウマン象の骨は野尻湖の湖底の地層と言う特殊な環境下で万年を超えて眠っていたのです。聖武天皇の宝物を保管した正倉院にも実はナウマン象の臼歯が宝物として保管されてます。果たして其の宝物が象の臼歯と分かっていたかは不明ですが、日本とナウマン象は古来から深い結びつきが有った事は間違いないですね。
ナウマン象やマンモスの話になると思い出すのが此方です。正に此の時代の遺物なのです。