みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

義仲公の『微塵丸』と義経の『薄緑』

敬愛する木曽義仲公の佩刀が箱根神社に奉納されている事は以前より知っておりました。木曽源氏に伝わる名刀の一口となります。しかし箱根は近くて遠い存在であり、なかなか伺う機会に恵まれませんでしたが、今回社員旅行で訪問する事が叶ったのです。今回は其のお話しとなります。

箱根神社付近は美しい紅葉が始まっておりました。
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木曽源氏とは即ち木曽次郎源義仲公から始まる系譜の事です。ご存知のように其の系譜の嫡流は頼朝によって嫡男である清水冠者吉高が打ち取られた事により断ち切られました。

木曽次郎源義仲公です。相手の三河守知度とは平知度(たいらのとものり)の事です。知度率いる平家軍は倶利伽羅峠の戦いで義仲公の精兵達によって壊滅的な大敗を喫しました。此の合戦で知度は岡田親義親子と対峙して戦死致しました。清盛公の子のうち最初に打たれた武将となります。
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木曽源氏に伝わった宝刀は次の通りです。

微塵丸(大太刀)、竜王作の長刀(薙刀)、雲落とし(太刀)

諸説有りますが、三つのうち現存している物は義仲公が頼朝に人質として送られる事になった清水冠者義高の無事を祈願して箱根権現に奉納したと言われている微塵丸だけとなります。

一つの説として竜王作の長刀とは巴御前の構えていた薙刀ではないかとの説がございますが、あくまで推測の域は出ておらず、行方は不明のままです。

巴御前です。巴御前はかなりの剛の者として後世に伝わっております。写真の薙刀はかなりの業物に思えますね。義仲公の話になったら多少熱くなりましたので知らない方の為に義仲公の事を少しご案内致します。
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義仲公の旗下には、其の御人徳により、一騎当千の傑物達が多く参集致しました。頼朝が治承4年に石橋山の戦いで平家軍にボロ負けし、平家軍に組していた梶原景時に辛うじて救われ、命からがら安房に渡って在地の有力者を領地拡充を餌に騙くらかして味方にしていた頃の治承5年に保元の乱以降初めて平家の大軍に見事打ち勝ったのが他ならぬ源義仲公なのです。その決戦場は信濃横田河原であると伝わります。

今回ご案内させて頂く『微塵丸』は其の義仲公の佩刀であり、此の世に貫けぬ物無し、全てを微塵に砕く太刀である事から『微塵丸』の名が付いたと言われております。其の後に曽我兄弟の仇討ちの時に箱根権現の別当であった行実が微塵を貸したとかの説が有りますが、立場の有る別当程の方が義仲公奉納の微塵を下士に渡すなんて、何と馬鹿な真似をされたと考えております。

しかし微塵丸は以後も箱根権現に有った事は後世の文献によって証明されております。

例えば備前岡山藩の藩主である池田綱政公が参勤交代の道中を記した『丁未旅行記』と言う書物に『微塵丸』が出て来ます。其処には微塵丸についての説明が有ります。『備前物で有り、鍔元に2ヶ所切込み痕があった』と明記されているのです。 
池田家には過去の当主が贖ったとされる備前刀最高峰の『大包平』と言う天下の名物が存在しており、綱政公も備前物の最高峰である大包平を手に取って観ていたと思われます。従って微塵丸を備前物と判断した事には信憑性が高いと思われます。

写真3 天下の名刀の代表的格である名物大包平です。現在は国宝指定されております。

私にとって近くて遠い箱根でしたが、今回有難い事に会社の仲間と行く機会に恵まれました。まず最初に瓊瓊杵尊木花咲耶姫と火折尊(山幸彦)が御祭神である箱根権現に参拝致しました。霊験あらたかな清けやかな神域は、我が身が引き締まる感じが致しました。世評に違わぬ素晴らしい神社だと感じた次第です。

摂社九頭竜社の入り口にある八大龍王を模した手水舎です。よく見ると一つひとつ表情が微妙に異なり、凝った造りの見事なものでした。
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参拝の後にお目当ての宝物館に入りました。いきなり重要文化財の木彫り像が圧巻でした。年輪をも巧みに使った肉質の表現には舌を巻いた次第です。

やっと長い間夢に見た『微塵丸』との出会いです。ん? あれ? 横置き? 上が微塵で下が薄緑 え? 本当か?
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私が驚いて固まっている姿を見て同僚が『どうしたんですか?』と聞いて来ましたが、『大丈夫だ』と返すことが精一杯でした。確かに太刀姿や品の良い小切先を視ると同時代の太刀の持つ特長を二口とも有しておりますし、池田綱政公の『丁未旅行記』に有るとおり、微塵の鍔元には2ヶ所の切込み痕らしき刃毀れもございます。

しかし....

普通、展示されている刀剣類は、刀身の錆を防ぐ目的で刀掛けとの接点はなるべく小く致します。太刀は刃を下にして展示し、刀は棟を下にして展示します。こうする事で刀掛けとの接点は小さな二箇所のみとなるのです。また此の置き方により、お客さまが地鉄と刃文が鑑賞し易くなります。

ところが二口とも『錆なんか関係無いよ』とばかり、横の平地の部分を下の布地にベタ置きされているのです。百歩譲って近年の大涌谷周辺の想定火口域における微振動を考慮すると文化財を守る為に仕方ないかも知れません。しかし、如何様にしても
譲れないのは次の理由なのです。

神に奉納された太刀(奉納の時点で既に神器となる)には奉納者の強い願いが詰まっております。

義仲公は源氏の同族同士争う事を極力避けておりました。其の証拠が頼朝の難癖に対し、嫡子である義高を鎌倉に送った事です。其の義高の無事を祈願して奉納した太刀が他ならぬ微塵丸なのです。

木曽に有る義仲公館跡の石碑です。
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一方、薄緑は九郎義経の佩刀とされており、此方も義経が神に奉納したと伝わる太刀です。薄緑は京都の大覚寺にも有るそうです。しかし何方の薄緑が本物かは別の話しなのです。大事なところは『其の様に伝わっている奉納刀』であるところなのです。

義仲公は権謀術数の鬼である後白河法皇の命により頼朝が差し向けた義経の軍によって粟津の松原で壮絶な討ち死にを遂げました。

義仲公も武人なれば、武人が戦って戦場で散る事は本望だと思います。しかし....攻めた義経の薄緑と嫡子義高を心配しながら無念の思いで討ち死にを遂げた義仲公愛用の太刀を並べて同じ所に展示するとは一体どの様な歴史認識をお持ちなのか?全く理解出来ません。太刀とは持ち主の魂でもある事を知らないのか?余りに馬鹿げた話しであり、憤りを超えて憤怒の思いを感じます。

『武士の情け』を知らないにも程が有ります。我が子を安否を気遣う古の奉納者の心中を察するどころか、死者の傷に山盛りの塩を塗り込む所業に呆れてしまいました。義仲公を慕って同じ寺への埋葬を願い出た松尾芭蕉も恐らくは草葉の陰で悲しんでいる事だろうと思います。神奈川県を代表する立派な箱根神社だけに残念で仕方有りません。