みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その九

大塔の古要害に立て篭もった小笠原軍を秋深まる信濃の寒風が襲っていたと思われます。水も食糧も無い状態での飢えと寒さは、籠城していた武人達に重くのしかかっていたであろうと推
察致します。此れは世界的に見ても南北朝争乱時期頃から江戸時代初期に掛けてはミニ氷河期であったとも言われており、現在よりもずっと気温が低い状態だったと思わらる事も付け加えておきます。また鉄と皮と漆で出来ている甲冑は冷えるのです。

何時攻め込まれるか分からない状態でしたので動ける武人は常に鎧は纏っていたと思われます。生死の狭間に身を置いていたとは言え、さぞかし難儀していた事でしょう。
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籠城した小笠原軍は一族を中心とした部隊と小笠原方についた国人達の部隊とに別れておりました。後世の真田家の様に同じ一族なのに一方は守護側で一方は国人側と別れていた国人衆も見受けられます。しかし小笠原一族を中心とした部隊は武士らしく徹底交戦の構えであったと思います。

古要害内で兵士達は馬の血を啜り肉を食べて飢えを凌いだと伝わります。当時の馬は武家に取って非常に重要な存在でした。ある守護は将軍へ『献馬』を行ったり、武家も主人に馬を送っていた事も史実として多く残っているのです。また現在よりもずっと神仏に対する尊崇の念が強かった当時に於いて、身近な生き物である馬を殺して食べる事は余程の事だったと思います。

大塔の古要害に立て篭もっている将兵から飢えと寒さが体力を捥ぎ取って行きました。そんな中で猛将坂西次郎長国が『皆が自刃する事も出来なくなる前に、家名を残す為に各々の子達を脱出させようではないか』と言いました。長秀の側近でもある古米入道や常葉入道等は自らの子に対して、夜になったら闇夜に紛れて脱出し、何とか塩崎城に入り、長秀公に現状をお伝えして援軍をお願いするようにと伝えたのです。

小笠原一族の嫡子達が闇家に走った塩崎城の鳥瞰図です。幾重にも囲まれた敵の中へ向かったのです。『信濃の古城』より
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更に『其方達のみを逃すのでは無く、砦に立て篭もっている将兵の為に行ってほしいのだ。もし万が一の事が有っても、其方達のみを死なす事は無い、父達も直ぐに後を追うだろう』と付け加えたと伝わります。

話を聞いた小笠原軍の子供達は、親の死を打ち捨てて、自分達のみ助かる事は武人の恥であるから、必ず此処に帰ってくると言い放ったと伝わります。それに対して坂西長国が何とか諭したところ、若武者達は此れに従ったとあります。しかし嫡子は塩崎城に向かいましたが、嫡子で無い子供達は残ったのです。私も子を持つ親として闇夜に敵の囲いにむかった子供達も、砦に残った子供達も、さぞや怖かったろうと思うと強い憐憫の情を抱きます。後世の私達がそう思う事で追善の供養になると良いのですが。

こんなのがウジャウジャいるのです。(因みに月代を剃った頭髪は鎌倉時代から室町時代にかけて下級武士に迄広がりました。兜を被った場合の収まりの良さと、何よりも蒸れない為です。)
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『家名を残す』事こそ武家の絶対厳守すべき事柄でした(今もそうです)。此の伝承からも流石は末代まで家名を継続した名門の小笠原一族です。親も子も当時の武人らしい凄まじい覚悟であった事が伝わります。

原文の大塔物語の作者のしては合戦後に大塔の古要害に来て戦死者の弔いを行った善光寺の妻戸衆や十念寺聖達が合戦の内容を物語として伝えて来た物を文正元年に堯深法師と言う僧が書写したものであると言う説が有力です。今の様な情報化社会で有りませんので、生き残った小笠原一族に直接尋ねた事は無かったと思います。ただ合戦を見ていた人達は必ず居たと思われますので仔細を聞いた事は間違い無く有った事でしょう。

話は戻ります。若武者達は闇夜に紛れ、慣れない夜道を突き進み何とか塩崎城に辿り付き、長秀に事の次第を伝えました。子供達は見事に役目を果たしたのです。話を聞いた長秀は余りの事に感涙に咽んだと伝わります。

無事に子供達が塩崎城に入る事が出来たのかどうかは大塔の古要害に立て篭もった長国達には知る由もありません。しかし援軍が来るなら狼煙など何らかの合図が有る筈ですが、何も起こりませんでした。塩崎城の長秀本軍も傷つき、他の援軍が来ない事にはどうする事も出来ない状態だったのです。

大塔の古要害から命懸けの逃亡を試みた若武者達の話を聞いた長秀は、長年連れ添った小笠原軍主力部隊の絶望を知り、自らも刀を抜き放って自害しようと致しました。其処を配下の塩崎城主である赤澤対馬守秀国が、石橋山での源頼朝公の故事を伝えて何とか諌めたと伝わります。

大塔古要害では飲まず食わず補給なしで20日程籠経過しておりました。小笠原家の重鎮である文武両道の士と伝わる櫛置石見入道は自害して果てたと有ります。櫛置氏とは甲斐源氏である小笠原氏が山梨から信州へ来た時、同じ小笠原一族として同行した古参の配下です。

小笠原家の信濃国主として占めた数を参考までにご覧ください。此の様に小笠原家は必ず復活しているのです。『家名を残す』とは本当に大変な事だったのだと思われます。
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大塔の古要害では最後の決断が成されようとしておりました。もはや此れまでと覚悟した坂西次郎長国は『このままで最後を迎えるよりは、潔く打って出て討死しようではないか』と将兵達に進言致したのです。そして賛同した全軍は思い思いに砦から打って出て行きました。

坂西氏居城の飯田城跡 飯田郷地頭の坂西氏の城館跡が原型となったと伝わります。南と北を松川と谷川の断崖に挟まれた段丘の突端に築城されてます。凄い堅城だと思われます。長国の一族は此処に住んでいたのです。『信州の古城』より
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大塔の要害に立て籠った猛将長国を中心とした小笠原一族による最後の戦いが始まろうとしておりました。

追記
文面の解説は私が今迄に読んだ書籍と合わせて、郷土の誇りである『信濃郷土研究会』さまが発行した異本対照大塔物語の内容を参考にしております。合わせて以前に『〇〇は燃えているか』の言うブログをお書きになり、その内容を引き継ぐ『悠久の風吹く千曲市上山田』さまの内容も参考にさせて頂いております。此方のブログは私の父から聞いていた合戦が大塔合戦と言う名前である事と其の経緯を知った初めてのブログでした。また色々な郷里の歴史を教えて貰ったブログであり、故郷を離れている私の癒しでした。此の場を借りて深く御礼申し上げる次第です。