みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

その後の小笠原家

読者様から小笠原家のその後はどの様になったのかと言うコメントを頂きました。最終回は小笠原長秀が渚城で没したところで終っておりましたが、其の後の信濃守護職と小笠原家について物凄く簡単に御案内させて頂きます。確りご案内すると下手すれば今年いっぱい掛かるので本当に簡単でお許しください。

以前に掲載した小笠原長秀までの信濃守護職です。
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その後はこんな感じと成ります。

幕府の料国   1402年〜1425年
小笠原政康公  1425年〜1442年
政康公の死後に家督争いが起こる
小笠原宗康公  1445年頃〜1446年
小笠原光康公  1446年頃〜1450年
小笠原持長公  1450年頃〜1453年
小笠原光康公  1453年〜1461年
小笠原政秀公  1464年頃〜1493年
※武田氏に小笠原氏が敗れる
※上杉氏と武田氏が争う
※信玄公が没する
木曾義昌穴山梅雪等の裏切りにより
 四郎勝頼が織田と徳川連合軍に敗れる
※小笠原氏は徳川家に仕える

中でも小笠原政康公は次兄の小笠原長秀が大塔合戦で敗れて信濃守護を罷免された後に惣領職を継いだ経緯が有り、失墜した家名再興の為に若くして大変な苦労をされました。政康公が惣領職を継いだのは応永12年に成ります。その後応永23年に起こった上杉禅秀の乱の鎮圧に今川氏や上杉氏と共に出兵し功を上げました。また足利幕府と鎌倉公方との争いに対し、幕府側に立って常陸まで出兵しました。其の折に小笠原政康公は信濃の国人衆を組織して結城城を攻め落とす大戦功を立てました。こうした幕府に対する献身的な行動を認められ、室町幕府四代将軍の足利義持に重用されたのです。そして一連の努力が実って応永32年に改めて信濃守護職に任命されたのです。政康公は小笠原氏の窮地を救った中興の祖と言っても過言ではないと思います。その後も六代将軍の足利義教の弓馬師範に選ばれるなど輝かしい功績をあげております。

小笠原政康は結城合戦での戦功が認められ、足利義教から古備前友成の銘が入った鶯丸と言う天下の名刀を拝領し、以後小笠原家に伝わりました。現在は宮内庁に保管され御物となっております。友成が活躍したのは平安時代中期から後期で有り、古備前と言ばれている刀工集団の初期における代表的な名工です。
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また、信濃では幕府に対抗している村上氏などが鎌倉公方側と結託して抗う動きを見せておりましたが、政康公は何とか此れを退ける事に成功したのです。こうして村上氏は永享9年に幕府に降伏しました。あの村上氏を退けるのですから政康公率いる小笠原軍も強かったのです。

小笠原政康公は遠祖よりの宿願であった信濃支配を見事に達成しました。そうして政康公は見事な生涯を67才で閉じ、長男の宗康に家督を譲ったのです。その後に室町将軍が暗殺されると言う前代未聞の嘉吉の乱が起こり(六代将軍の足利義教が赤松満祐に殺される大事件)、此れを機に畠山持国管領に就任して台頭して来ました。此処で力を持った畠山持国と縁戚関係にあった長兄小笠原長将の子の持長が小笠原の惣領職を主張したのです。宗康と持長はお互いに引かずに信濃を2分する形を取る形になってしまい、やがては漆田原の戦いとなったのです。小笠原持長は将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功を立てた経緯が有って自分こそはと言う思いが強かったのだろうと思います。

中興の祖とも言える信濃守護小笠原政康から惣領職を継いだ宗康は弟である小笠原光康と仮に自分が討ち死にした後は家督を譲ると言う約束を取り交わし、身内の小笠原持長との決戦に挑みました。しかし武運拙く宗康は漆田原の戦いで討ち取られてしまったのです。ところが一族の争いに勝った小笠原持長でしたが、家督相続を幕府が認めませんでした。さぞかし持長は憤慨した事でしょう、此れで話が更にややこしくなって行き、小笠原一族は世代を超えて争う形となるのです。

幕府は信濃守護職と小笠原氏惣領職を弟の光康としました。ところが跡目争いに勝った小笠原持長は引き下がれません。こうして光康と持長は対立を続けました。

その後の小笠原一族はハッキリと持長の系列と光康の系列と討ち死にした宗康自身の系統の3つに分かれてしまったのです。ちょうど時を同じくして世の中は長い応仁の乱に突入して行きましたので対立はエスカレートしました。

其の後の信濃守護は政康の次男で宗康の嗣子となった小笠原政秀が務めておりました。政秀は錫岡城主でした。 

錫岡城跡(現在は鈴岡と表記)
飯田市のホームページより
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※小笠原家康の対立
守護家で鈴岡城主(飯田市)の小笠原政秀、名君であった政康公の孫である小笠原家長(伊那市)、そして本来惣領家にあたる小笠原持長の孫で林城に住む小笠原長朝の府中小笠原家が総領職を巡って三つ巴の対立を続けておりました。

そんな中で明応二年(1493)に事件が起こりました。小笠原家長の嫡男である定基が守護である小笠原政秀を松尾城に誘い出して殺してしまいました。時を経て長朝の孫である長棟と定基が争い定基は長棟に降りました。こうして一族の争いは終わって小笠原家は再び統一されまたのです。此の一連の争いは長過ぎた事が災いして信濃統治の戦国大名として大きく出遅れた形となってしまったのです。

こうして小笠原長棟の嫡男である小笠原長時が天文十四年頃、小笠原家惣領職に就いたと言われております。しかし長過ぎた一族での争いが災いし、天文年間の信濃においては諏訪頼重、木曽義康、豪勇村上義清などが勢力争いをしており、小笠原家の威光はビックリするくらい寂しいものになっていたのです。

其処に戦国時代最強の呼び声高い武田信玄公が現れて様子は一変致しました。信玄公は豪勇村上義清公に2回も負けましたが、小笠原長時との塩尻峠の戦いでは大勝利を遂げたのです。小笠原長時は此の合戦でケチョンケチョンにやられてしまいました。その後も居城の林城を追われてしまい、信義に厚い豪勇村上義清公を頼って落ちていったのです。その後も何度か機会は有ったもののボコボコに敗れて越後の長尾景虎(上杉謙信公)を頼りました。小笠原長時天正六年に謙信公が欲すると越後から会津の葦名氏を頼り、天正11年に70歳の生涯を閉じたのです。小笠原一族の前途には暗い雲が掛かった状態だったのです。

小笠原長時の三男である貞慶は永禄11年に織田信長足利義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛すると信長に仕えました。小笠原一族はこのあたりが抜け目ないのです。信長公が長篠の戦いで武田軍に大勝利をおさめた後、礼法に長じていた小笠原貞慶は主に織田軍の外交的な役割を行い、信長公の信頼は厚かったと伝わります。此の事は天正9年に行われた信長公の御馬揃えに小笠原貞慶が公家衆の一員として参列していた事をみても明らかです。

信長公が武田勝頼討滅の軍を差し向けると旧領の回復を願った貞慶でしたが、かつての旧領は四郎勝頼公を裏切って武田家滅亡の要因をつくった木曾義昌に与えられました。こうして小笠原貞慶徳川家康公を頼ったのです。余計な話ですが木曽義昌の木曽家は源義仲公から継続する血統では無いと私は考えております。

織田信長公が本能寺で横死した後に小笠原一族の貞種が木曾氏を退けて深志城に入りました。小笠原貞慶は家康の力を借り、一族の貞種を越後に退かせて念願の信濃府中復帰を果たしたのです。此の時に『深志』を『松本』と改めたと伝わります。順風満帆の状態でしたが此の後にとんでも無い事が起こります。

家康公が秀吉公と争う形となった事はご存知の通りですが、家康公が秀吉公に対して臣下の礼を取った理由の一つに重臣石川数正の裏切りがごさいます。数正が秀吉公の元に逐電した時に人質として小笠原貞慶の子秀政を拉致して行ったのです。オマケに貞慶は此れに乗じて秀吉側に着くと言う賭に出ました。ところが天正14年には家康公と秀吉公が和睦してしまい、家康公は関東の支配を任されたのです。

ただ小笠原一族は諦めないのです。小笠原貞慶は家康の配下に逆戻りし、まず小笠原の家督を嫡男の秀政に渡して恭順を示しました。更に自刃した信康の娘を嫡男秀政の正室に迎えたのです。こうして努力を積み重ねて小笠原家は徳川譜代衆に入りました。家康公は実に懐が広い事を今更ながら感じる小笠原家に対する処遇ですね。
 
重要文化財 小笠原秀政公の正恒  此の太刀は小笠原家重大の太刀として秀政公が書譲状にしたためて子孫に伝えました。正恒とは途方も無い価値を持つ古備前鍛冶指折りの名工です。
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その後に小笠原秀政は家康公の関東移封によって下総古河三万石に封じられました。父の小笠原貞慶も古河に移り住み文禄4年に没しました。その後に秀政は大坂の役で嫡男の忠脩とともに戦死したのです。小笠原家は此の軍忠を家康公に認められ、大坂城が落城した後の論功行賞で秀政の次男である忠政を播磨国明石十万石の大名としたのです。やがて豊前小倉十五万石に転封され小倉小笠原氏と成って江戸時代を経て維新を迎えたのです。小笠原一族は誰かが失敗しても必ず復活し血脈を繋げたのです。全く持って凄い一族です。

正に七転び八起きの様相で名門小笠原一族は必ず復活してまいりました。
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だいぶ飛ばし、本当に簡潔に書いただけで申し訳有りませんが、名族小笠原家の流のみをご理解頂かたら幸甚の至りです。遠祖新羅三郎義光から始まる甲斐源氏の流れを汲む一族で有り、加賀美氏遠光の次男である長清が小笠原荘を本拠とし、高倉天皇より小笠原の姓を賜り小笠原長清と名乗った事に始ったのです。小笠原荘一帯は御牧と言う官営の牧場が有りました。名馬の産地と言う事も有り、馬上から騎射する当時の武芸に秀でた武者を多く生んだのです。一族が育んだ武家故実は現在の小笠原流礼法をはじめ、弓術、馬術、兵法、茶道として広く受け継がれております。社会人一年目の方が企業などの研修で最初に習得する挨拶だと思いますが、言葉を発した後に頭を下げる『語先後礼』のやり方は、まず挨拶の言葉を発して相手の敵意が有るか無いかを確認した後に頭を下げると言う武士の嗜みから由来しております。他にも色々ございますが、この辺りでやめておきます。長文にお付き合い頂き、有難うございました。