みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国の戦乱 大塔合戦 その一

拙文になってしまう事を承知で今回ご紹介するのは、室町時代の応永年間(1394〜1428)に善光寺平で繰り広げられた大塔合戦と言う戦いです。千曲川犀川の合流する善光寺平は交通の要所でもある為に往古より激しい大戦が何回か行われました。幼少の頃に観世流能楽師である父から色々聞いていた内容と、私の読んだ様々な書籍から知り得た事を合わせて御案内したいと考えております。

善光寺平一帯は巨大な森将軍塚古墳もありますので、古墳時代(4世紀)にも巨大な勢力が有った事は間違いありませんが、室町時代大塔合戦私見の限り信濃国中の国人衆が参加した規模の大きい大戦であり『大塔物語』(注1)と言う戦記も残されております。

大塔物語
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森将軍塚古墳
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左橋に小さく写るのが私達ですので如何に大きなものか御理解頂けると思います。科野国王が埋葬されていた石櫃からは三角縁神獣鏡が出土しており、大和政権下に属していた事が判明しております。

また大塔合戦につきましては、信州人の媚びない意地とでももうしましょうか、十郡十大名と言われて独立性の極めて高い国人達の気質が良く現れております。私の高校時代に通った通学路が戦いの場になっておりました。話せば長くなる話ですが、今回は大塔合戦が起こる少し前の背景から説明させて貰います。

鎌倉時代を通して信濃国は北条氏が守護を務めておりました。つまり鎌倉時代は北条氏の力により他国と比べて治世は極めて良いものだったと言われております。其の北条氏が新田義貞に敗れ、鎌倉東勝寺において一族が自刃して滅ぶ直前に高時の妾である二位局(にいのつぼね)が次男である亀寿丸(後の北条時行)を信濃国諏訪一族の諏訪盛高に託しました。

鎌倉の東勝寺跡です。Wikiより
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諏訪盛高は亀寿丸を連れて信濃国まで落ち延び、大祝である諏訪氏はこれを擁護致しました。成長した亀寿丸は北条時行と改名し若武者となっておりました。そして当時の大祝である諏訪時継と父の頼重は正当な北条の後継者である時行を推して兵をあげだのです。此の軍の勢いは凄まじく、鎌倉府にいた足利直義軍を瞬く間に打ち負かして敗走させ、尊氏は助けに行く行かないで後醍醐天皇と不仲になりました。結局は尊氏が独断で鎌倉に向かって鎮圧したですが、此の乱が建武の新政を瓦解させたのは間違いなく、後に『中先代の乱』と呼ばれる様になりました。

諏訪では現人神(あらひとがみ)として大祝(おおおふり)が選出されます。
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諏訪大明神の加護を受けた北条時行軍は最後に破れはしましたが、大きく日本の行く末を動かしたキッカケとなった事は間違い有りません。元々諏訪は天孫族に国を譲った出雲族の聖地なのです。出雲族である建御名方神天孫族の末裔である皇室を半世紀以上も南北朝時代として二分させた事になりますね。考え方によっては実に恐ろしい話です。

此の中先代の乱を契機に足利尊氏後醍醐天皇からの離反を決意し、天皇側は新田義貞などの討伐軍を送って戦う様になり、尊氏側は別の天皇を擁立して皇室が二分されるという悲劇が起こって南北朝時代が到来するのです。此の時に早くから尊氏側に味方して戦功を挙げていたのが小笠原一族でした。混迷する信濃の守護を尊氏に懇願し許されたのです。因みに出雲族天孫族は長い時を経て高円宮家の次女である典子さまと出雲大社神職である千家国麿(せんげ くにまろ)さんの結婚によって国津神天津神の和解がなされております。


最後は少し脱線致しましたが、次回は信濃守護である小笠原氏について説明致します。此の小笠原氏の1人の傲慢さによって大塔合戦が勃発した事になります。


解説 注1
小笠原軍の有力な武将である坂西次郎長国(バンザイジロウナガクニ)の奮戦ぶりを中心に書かれた戦記です。特徴的な文体で中世後期の文学と考えられております。作者に善光寺の妻戸時衆だとする説が有力とされております。長国をはじめ大塔の古砦に立て籠った小笠原軍が全員討ち死にを遂げた知らせを聞いて、善光寺の妻戸衆と十念寺聖達が駆けつけて弔った経緯があり、此の合戦を後世に残そうとしたと想像致します。