みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 17

義仲公は左馬頭になると同時に後白河院より旭将軍という院宣を受けました。また義仲公は拝領した大国の越後は恐れ多いと願い出た為に他の領地を賜ったのです。義仲公との格差に行家叔父は憤慨しておりました。そして院からの任官の使いを門前払いした事は前回ご案内いした通りです。義仲公に擦り寄る公家もおりましたが清廉潔白な義仲公から利が得られないと分かると逆恨みして田舎者となじりました。いつの時代にも存在する嫌なヤロ〜達です。

もう1人の源氏頭領である頼朝公の先見性の一つは十郎源行家を追い出した事だと思います。義仲公は自分を頼って来た叔父を追い出すなんて人倫の道にも悖る(もとる)と考えたのだと思います。結果が良かった方が正解と一言で言える程に運命の歯車は単純ではありませんね!思うと一つひとつの行動が未来を決めている事が分かります。

一方都落ちした平家一門は福原にも止まらず、筑前大宰府に到着しておりました。ここで平貞能に鎮圧されてから平家に従って来た菊池高直が肥後にある自分の城に向かい自領からしばらく出て来ませんでした。肥後菊池一族は藤原北家の出自と言われており、此の一族は刀伊の入寇の時に大活躍して大宰府官に任命された歴史を持つ一大勢力です。また南北朝時代には南朝の大勢力として活躍した忠義心厚い一族です。

菊池高直 Wikiより
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鎧櫃に記されている並び鷹の羽の御紋は肥後の菊池軍を本拠とした菊池一族の象徴です。有名な蒙古襲来絵詞(注1)を残した竹崎季長も菊池一族であり、後の維新の功労者である西郷隆盛も菊池一族です。

更に平家にとって悪い事が起こりました。それは九州と壱岐対馬など豪族が味方するとの書状を送って来たのにも関わらず、なんと一人も参上しなかったのです。

そんな情勢のなかで後白河院から平家に安徳天皇三種の神器を都に戻すように何度も催促が有りました。しかし平家も安徳帝三種の神器を渡してしまうと賊軍朝敵とされてしまうので渡せる訳がありません。更に後白河院はダメ押しの強烈な一手を打ちました。寿永2年の8月20日高倉上皇の4番目の宮である尊成親王皇位に付けさせて後鳥羽天皇としたのです。此の知らせは平家は勿論ですが、太宰府の武者達をはじめ全国に伝わったのです。日本の歴史上は2人の天皇が同時に存在しないので平家は帝を要する正規の官軍では無くなった事になります。オマケに院より追討の院宣が発せられているのです。

また後白河院は義仲公や行家をこのまま都に置いたら余計な口出しをされると判断しました。そして義仲公を都から遠ざける為に呼び出して、西国の平家を追討せよと御剣を下賜されたのです。此のように出陣にあたって宝剣を授けられる事を『節刀』と言います。分かりやすく言うと任命の証として遣わされる印しの事です。節刀を下賜された義仲公は疲弊しきった体に鞭打ち平家追討の準備を行いました。

日本で最初の節刀は527年に起こった筑紫磐井の乱の鎮圧に向かった物部鹿比(もののべのあらかび)が継体天皇より金の斧を授けられた事例です。また前回ご案内した坂上田村麻呂蝦夷征伐の折に桓武天皇から授けられた太刀も有名です。


鞍馬寺が所蔵する坂上田村麻呂桓武天皇から授けられたと伝わる太刀です。鉄は人が死んでもずっと残りますので生き証人である此の太刀は歴史を具現化した宝物です。(生き証刀かな?)
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さて頼朝公の事ですが鎌倉で地番固めを行っておりました。頼朝公に対しては平家を追い払った1番の功労者で有ると後白河院も認めており、鎌倉に居ながら征夷大将軍院宣が下ったのです。院宣を受け取った場所は鶴ヶ丘八幡宮で有り、名誉ある院宣の受け取り役は三浦義澄(みうらのよしずみ)です。一方朝廷からの使者は中原泰定でありました。義澄は旗揚げからの功労者ですから大役を任されたのですね。

征夷大将軍任官 平家物語より
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北条氏による仁義なき殺戮から逃れて天寿を全うした三浦義澄 74歳で病没 Wikiより
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鎌倉殿の13人では佐藤B作さんが演じておりますね!  NHKのHPより
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任官の式典が終わり頼朝公の館を訪れた使者の中原泰定に頼朝公は自分に従わない陸奥藤原秀衡常陸守佐竹隆義、平家追討の手柄を横取りした源義仲源行家を追討する院宣を賜りたいと伝えました。さすがは同族でも従わない者なら皆殺しの源氏嫡流です!泰定は一度都に立ち帰った後に再訪すると告げたと伝わります。頼朝公は使者の泰定に多くの貢物を持たせました。(ヌケメナイデス)

鶴ヶ丘八幡 HPより
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話は目まぐるしく変わりますが平家はこの短い期間で勢力を見事に盛り返します。拠点を屋島に置いて山陽道8か国、南海道6か国を従えたのです。この辺りは流石に隆盛を極めていた平家一門ですね。個人的な私観として申し上げますと義仲公や義仲四天王は郷土の誇りであり憧れです。一方で源氏と平家(平氏デハナクテ)を思うと身内で殺し合った源氏(一族を残す為に仕方ないとも思える)より身内を庇いあった平家は滅んでしまいましたが身内の温もりを感じます。この辺りも平家物語が諸国に受け入れられた理由ですね。

義仲公は歴戦の疲労の蓄積と慣れない都での生活で西国の平家追討の院宣を受けながら都にとどまっておりましたが、平家が勢力を盛り返したと言う報を聞いて動いたのです。猛将矢田義清を大将軍として侍大将に海野弥平四郎行広を任命して山陽道に向かわせました。其の軍勢は7000騎と伝わります。軍を動かす時には必ず兵糧が必要になりますが朝廷からは何の沙汰も無く、都の周囲から礼を持って調達しました。しかし此の時に義仲軍を名乗って強盗を働く不貞の輩が多く現れて都の民家に押し入りました。不貞の輩は取り締まっても取り締まったも次から次へと現れて収拾がつかなかったと言われております。都を出た義仲軍を尻目に後白河院は義仲追討の院宣を頼朝公に下したのです(ヒドイ)。この後に平家軍が水軍の強さを見せた水島合戦となり、いよいよ次に頼朝公と義仲公は争うのです。ずっと以前に義仲公と頼朝公は一触即発状態となりましたが義仲公が嫡子である義高を鎌倉に渡す事で決着が着いております。其れ迄は嫡子の義高公も義朝公の娘である大姫と仲睦まじく過ごしておりました。此の義高公と大姫の話は悲しい話で長くなりますので後にご案内致します。



※ 注釈 蒙古襲来絵詞について少しご案内します。

まず蒙古襲来は教科書に出ていた文永の役弘安の役という2回の国家存亡の危機の事です。その蒙古襲来で活躍した竹崎季長が子孫に自分の活躍を伝える為に残したのものが蒙古襲来絵詞なのです。人類史上最も広い領土を有した最強のモンゴル軍を鎌倉幕府執権北条時宗が大将となって退けたのは日本の歴史上において本当に偉業中の偉業ですね。

『蒙古襲来』と言う言葉は鎌倉時代からある呼称です。『元寇』は江戸時代に『蒙古って元って言うんだ』みたいな情報が日本にもたらせられてからの呼称なのです。色々なご意見は有ると思いますが個人的な考えとして正式な表現は『蒙古襲来』だと思います。この2度の蒙古襲来に抜群の働きをしたのが九州の御家人達なのです。其の中に蒙古襲来絵詞の製作を命じた菊池一族の猛将竹崎季長(すえなが)が居たのです。竹崎季長は同族内の争いに敗れて辛酸をなめておりましたが元軍との戦いに侍従たった5騎で参加して一番乗りの武功を上げました。しかしその後論功行賞に漏れてしまったのです。面白くない竹崎季長は馬を売って鎌倉までの旅費を捻出し、鎌倉幕府に談判したのです。そして季長は談判の甲斐あって肥後国海東郷の地頭に任じられました。

竹崎季長は自らの活躍を子孫に残す為に蒙古襲来絵詞と言う絵巻物を絵師に描かせました。竹崎季長が自分の活躍を後世に残すための資料なのですが、何故か教科用図書検定調査審議会は精妙なトリミングによりカットされた蒙古襲来絵詞の写真を教科書に載せる事を承認しております。

矢が刺さり血を噴き出した馬に乗っているのが竹崎季長です。如何にも日本の武将がやられてる〜って感じの写真ですが、本当は馬がこんなに暴れても武士にとって不名誉な落馬は無かったと言う表現なのです。  Wikiより
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此れでは何故か蒙古兵に日本の武将が一方的にやられている姿しか想像出来ませんね。また逆に言うと其のように想像させる様に大陸は強いと仕向けた組織が存在していると言う事です(沢山の不思議がございます)。自分の活躍を子孫に残す必要があった竹崎季長がそんな絵を描かせるハズが有りません、次の絵をご覧下さい!

上の写真の少し左を見て見ましょう、なんと鎌倉武士が放った矢が刺さり逃げ惑うモンゴル兵隊が描かれております。
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其の向こうは戸板で日本側の矢を防ぐモンゴル兵です。世界一の精度と破壊力を持った当時の武士が放つ矢に戸板を貫かれ倒れているモンゴル兵も見られます。
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菊池一族に追い立てられるモンゴル兵です。
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こちらも追い立てられて背を向けるモンゴル兵が描かれております。
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モンゴル兵には白人や黒人が混じっている事を描いております。
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以上の写真をご覧になって明らかだと思いますが、弘安の役においての陸戦は日本側の圧勝なのです。日本が外敵からの侵略で国家的危機に成った事例は不勉強な私の知る範囲で大東亜戦争の前に少なくても3回有ったと思います。一つは白村江の戦い(663年)ですが、此れは新羅と唐が争ってくれたおかげで助かりました。二つ目が今回の蒙古襲来です(特に2回目の弘安の役)。そして三つ目が日露戦争における日本海海戦であります。此の時も連合艦隊が勝利したおかげでロシアの植民地に成らずに済みました。どれも国家的危機でしたが三つの中で一番不味い状態が弘安の役だったと思います。旧南宋の江南軍と東路軍という人類の歴史上類を見ない程の大軍を鎌倉武士団は打ち破ったのです。私は鎌倉幕府歴代執権の1番の功労者は第8代執権北条時宗であると思います。

北条時宗 NHKアーカイブス放送史より
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北条時宗は元の大軍を防いで天の使命を全うしたのか、弘安の役が終わった3年後に34歳の若さで没してしまいます。正に此の為に生まれて来たのかと思わせる人生でした。日本を救った名執権なので鎌倉に言ったら是非とも北条時宗のお墓が有る瑞鹿山円覚寺(えんがくじ)を詣でてみて下さい。

また不思議な事に此の後のクビライは戦争に勝てなくなりました。ポーランドに敗れたり、ベトナムに向けては都合上3回も軍を送りましたが押し返されました。またクビライがその後に死ぬ事で元による日本の侵攻は無くなりました。しかし蒙古襲来によって鎌倉幕府もかなり消耗して滅亡を早めた事は否めませんね。


日本へ派遣された元の艦隊は史上例をみない世界史上最大規模のとんでもない艦隊だったのです。 NHKアーカイブス放送史より
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よく言われる様に神風が吹いてモンゴルの船団が遭難した事も有りますが、武力でも日本は歴史上唯一モンゴル帝国に勝利した国なのです。この後はペストの大流行などでモンゴル帝国は衰退して行きます。最後に私の思いを少し明記致させて頂きます。今回の蒙古襲来絵詞のトリミングもそうですが昔から不思議なのが何故か日本を弱く悪い国にしたいと言う力が働いているのが不思議で成りません。口が過ぎましたのでこの辺でやめておきます。

次に続きます