みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 11

※ 盤若野の戦い
今井兼平越中軍は固い決意の元に親不知を超えて神通川を渡り平盛俊が通るであろう場所に相手の行動を先読みして向かいました。今回の兼平隊には北陸武士団も加わっていたので、兼平隊の先読みには土地に明るい北陸諸将の進言が有った事は想像に難くごさまいません。

今井兼平が陣を構えた場所は呉羽山と呼ばれていた場所だと言われております。平家の先遣隊である平盛俊倶利伽羅峠を越えて越中に入り、小矢部川を渡り庄川右岸の盤若野に至った時に既に源氏軍が目の前の呉羽山を占領している事に気が付きました。そして一旦は軍を般若野に止めざるを得なかったのです。兼平は此処に敵軍が陣を置く事が狙いだったと思われます。思えば生まれ故郷の木曽で山から谷の様子を見ながら狩りをしていたからでしょうか? 有利な地形を瞬時に見出し、戦いの場を決するのは流石に名将今井兼平です。

兼平好きの私が表現すると平盛俊がメッチャ弱く考える方もいらっしゃると思いますので、盛俊の事も紹介致します。盛俊は伊勢国一志郡須賀郷を基盤とする伊勢平氏に連なる有力家人だったと伝わります。盛俊は『彼の家、第一の勇士』と称えられた程の武人でした。そんな強い盛俊だったので平家軍の総大将から重要な任務を任されたのです。

今井兼平の目的は平家軍を加賀まで敗走させる事です。此の先行部隊をやっつけないと平家軍の越中侵略阻止はおろか義仲公の軍が親不知を通れず平家軍に越後まで攻め入られてしまう可能性が有ったと思われます。双六に例えると『振り出しに戻る』です!それも『振り出しに戻る』だけでは無くて、義仲公に付き従っていた勇将達も離れていく危険性がございました。此処で兼平が負けたら即アウトにつながる非常に重要な一戦だったのです。因みにこの盤若野では約320年後に再び越後守護代長尾能景と越中一向一揆勢との戦いである盤若野の戦いが行われました。横田河原の戦い川中島の合戦がほぼ同じ場所で繰り広げられたように歴史は繰り返されているのが解りますね。

現在の盤若野 乱世を駆けるより
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平家軍が盤若野に野営している事を知った兼平と越中軍は夜半になるのを待って夜襲をかけたのです。越中軍としても仲間を大勢討ち取られた平家軍に対する敵討ちでした。今と違って照明は火と月明かりだけです!相打ちも想定される夜襲は双刃の剣ですが、恐らく兼平は今この時に勝機を見出したのでしょう。勿論ですが平家軍も夜襲に備えていたと思われます。兼平は相打ちを避ける為に小規模攻撃隊を編成し、繰り返し平家軍を攻撃しました。未明になると勇猛果敢な越中勢を先頭に平家軍に一気に襲いかかったのです。平家軍も盛俊を中心に見事に防戦しましたが、兼平と越中勢の意志の方が圧倒的に優っておりました。やがて平家軍は多くの死傷者を出して敗走し、倶利伽羅峠を超えて加賀に退却して行ったのです。信濃武士団と北陸の武将達の勝鬨が盤若野に響き渡りました。 エイ エイ オ〜! 

ここで平家の名誉の為に一言付け加えます。此の時代の合戦には作法が存在しておりました。其れは『矢合わせ』です。軍の大将か或いは大将に命じられた武人が相手の陣に鏑矢を打ち込みます。此の矢は敵を射る為のものでは無く、射るとヒュ〜っと大きな音を出す合図の矢なのです。其れに応えるように相手の陣からも鏑矢が放たれてから始めて戦闘開始なのです。此れは名誉を守る為にも必要な行為でした。これが室町時代には名誉よりも生き残りを掛けた戦いとなり、此の作法は廃れて行ったのです。夜襲を受けた時の平盛俊が叫んだ声が聞こえて来そうです『おのれ、戦の作法も知らずに夜襲とは卑怯なり』と。

平盛俊が陣を敷いた時伝わる場所 乱世を駆けるより
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こうして今井兼平は義仲公の期待に見事応えました。そして義仲公の本軍は盤若野に到着して大活躍の兼平隊と合流したのです。其処には幼き頃より一緒に生まれ育ち、一緒に挙兵して苦楽を共にして来た義仲公と兼平の感動的な対面があったと思われます。また一番最初に平家の大軍と戦った北陸武士団も此の合戦で一矢報いました。合流した義仲軍は次の合戦に備えて兵馬を整えたのです。

木曽馬は山岳戦に強く粘り強いと伝わります。
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その時に兵たちがあまりに喉の渇きを訴えました。見かねた義仲公は地元の松原大助と称する農夫に水はないかと尋ねたところ、松原大助は義仲の馬の前にひざまずき『ここに清き水がございます』と答えたと伝わります。義仲公は馬を降りて弓を持ち『私が平家の賊軍を滅ぼす事が出来るなら、泉よ湧き出でよ』と弓で地面を突いたところ、突然その場所から清水が湧き出たと言う伝承が残ります。其の光景を見た義仲軍は大いに士気が上がったと伝わります。此の泉は現在でも富山県高岡市に史跡『弓の清水』として残っております。配下を大事にした義仲公らしい伝承ですね。

弓の清水 『乱世を駆ける』より
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義仲公が弓で地を突いている像  『乱世を駆ける』より
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此処で義仲公は平家軍の情報を得ました。倶利伽羅峠に向かった敵の主力部隊は総数7万、其の先頭は10日程遅く竹橋付近に到着し、本隊は竹橋〜森下の間に宿営していると言うものでした。

そして義仲公率いる本軍は越中国府に入ります。此の時の兵数は5万騎だったと伝わります。北陸といえば白山妙理権現のお膝元ですので、義仲公は幕下に加わった諸事に通じている覚明に指示し、白山妙理権現に対して願書をしたため、諸将が居並ぶ前で読み上げました。此れで白山の神は義仲公の味方となったのです。

越中国府があったとされる勝興寺  『乱世を駆ける』より
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祈願を済ませた義仲公は雄神川(庄川)の御河端という場所に諸将を集めて合議したと伝わります。合議の席には傷を負った宮崎太郎などの北陸の武将達も同席してました。深手を負っても痛みを堪えて甲冑を付け合議に列席した事に義仲公は大いに感激しました。其処で義仲公は土地に明るい宮崎太郎に戦略を尋ねたのです。宮崎は次の様に進言致しました。砺波山には南黒坂、中黒坂、北黒坂と三つの道が有ります。平家軍を山頂の猿ヶ馬場付近に押し込めて三方向から攻め上がり、平家軍を包囲して奇襲すれば勝利は間違いない!

友人が埴生護国八幡宮参拝時に頂いた小冊子に出ている源平倶利伽羅合戦両軍配置図です。
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此れが埴生護国八幡宮から友人が授与さらた小冊子です。私にも送って頂きました!
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北陸の英雄である宮崎太郎の進言を義仲公は取り入れました。義仲公は以下のように諸将に伝えたと言われております。『敵は我らの数倍の兵力を持ち、此の優勢な敵が倶利伽羅を超えて広い越中平野に入ってしまえば平野での戦いと成り、我らに不利である。我らは機先を制して倶利伽羅の隘路を占領し敵を迎え撃つ』(乱世をかけるより)。そして倶利伽羅に向けて義仲公は軍を進めました。軍の隊列は下記の通りでした。源義仲公も旗上げ以来の大軍勢での進軍です。

◉義仲公の軍
右縦隊 大将樋口次郎兼光 副将余田次郎 七千
左縦隊 大将根井小弥太 副将は巴  七千
中央縦隊 大将今井四郎兼平 六千
本隊 総大将木曽次郎源義仲 二万
別働隊 志雄山 新宮十郎源行家 一万  

一方平家は先方戦の盤若野の戦いで一敗地にまみれた後に陣形を立て直しました。

◉平家の軍
左縦隊 志雄山〜氷見
大将 平道盛
副将 平知度
副将 平盛俊    合計兵数3万 
志雄山の戦いに此の3万の軍は向かいました。

右縦隊(本隊) 津幡〜倶利伽羅
総大将 平維盛
副将  平行盛 
副将  平忠度   合計倍数七万
倶利伽羅峠の戦いに向かったのは此の主力7万騎の軍のです。

此処から木曽次郎源義仲公の一世一代の大戦が始まろうとしております。後の戦国時代になってから三増峠の戦いなどの山岳戦は多く有りましたが、此の時代の倶利伽羅峠の戦いに比肩する大規模な山岳戦を私は知りません。




次回に続きます。