平家が都落ちして行く一部始終を義仲公はただ見守っておりました。横田河原の戦いは援軍を要請されて戦いに挑み、北陸での連戦は平家が義仲討伐軍を差し向けた為に此れに応じて世の中を変える為に戦ったのです。そして義仲公は鞍馬から比叡山に逃げこんでいた後白河院を報じ奉り都に入りました。
平家物語には多くの武将が都落ちする場面が表現されております。ご存知の通り此の後に大きな合戦を経て頼朝公によって鎌倉幕府が成立されますが、何故に朝敵となった平家がこれ程までに世の中に受け入れられたのか、私は若い頃にずっと不思議に思っておりました。通常は勝利した源氏側の物語が流行るはずであり、鎌倉幕府も盲目の琵琶法師が平家物語を伝え歩く事を許すはずが有りません。
平家最強の武将と思われる平教経 Wikiより
其の理由として源平合戦に勝ったのは源氏である頼朝公の軍ではありますが、頼朝公の軍に参加した有力武将は大部分が平氏の血筋だったからです。其れは現在放映されている鎌倉殿の13人を見ても分かりますね!北条も平氏を名乗り(注1)、三浦氏も千葉氏も秩父氏もバリバリの平氏です。その平氏の中でも清盛公の一門を平家と言いますが、同じ一族で一番活躍した清盛一族の話を『憐憫の情』を持って記した軍記が『平家物語』だったのです。敵となったとは其れは自分の一族が生き延びる為に選んだ道だったのです!日本の武家は往古より正々堂々と戦って負けた相手を決して辱めたりする事は有りません!此の事はずっと先に起こった日露戦争や大東亜戦争になっても同じであり、敢えて表現するすると『武士の情け』なのです。湊川神社に祀られている楠木正成公は赤坂・千早の合戦の戦死者を弔う為の慰霊塔を建立しておりますが、敵を『寄手』と表現し塚を築き、身方の慰霊の為の『身方塚』と合わせて建立しております。それも『寄手塚』の方が『身方塚』より大きいのです。此れは敵にも敬意を持って接しており、敗者を辱める事は絶対しないという気持ちの現れですね。此の様な事は半島からチャイナは勿論ですが白人の国では絶対有りません!
もっとも日本においても清盛公から始まった武家の台頭以前は少し違いました!桓武天皇の命令により行われた蝦夷征伐での戦後処理を見ても其れは明白です。8世紀末まで東北の北上川流域を『日高見国』と云い、大和朝廷の勢力圏の外でした。彼等は狩猟などで独自の文化を形成し幸せに暮しておりました。朝廷は服従しない民を蝦夷と呼んで蔑視し、従わない彼等を攻める為に軍隊を送ったのです。日高見国の部族の頭領である阿弖流為(アテルイ)は近隣の部族と共闘し派遣された朝廷軍の数回に及ぶ侵略を見事に阻止しました。『蝦夷』と言う文字を崩すと理解できますが蝦(えび)に夷は弓と人です。誰もがわかる様に此れは正しく縄文の血を受け継いでる方々ですね。
度重なる朝廷軍の敗北を苦慮した桓武天皇は当時最強の武人であった坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に送りました。智謀に優れた坂上田村麻呂は巧みな戦略で有利に事を進めました。そして追い詰められた阿弖流為はついに屈したのです。武人である田村麻呂は勇敢に戦った阿弖流為に対して礼を持って接しました。そして阿弖流為と副将の母礼(モレ)を伴って京都に帰還したのです。坂上田村麻呂は此の時に両雄の武勇と器量を惜しんで東北の地を経営する事に対して大事な人物であるとして都まで同行したのです。此れは現場で命を懸けて戦った者が肌で感じた事だと思います。都に着いた田村麻呂は早速朝廷に二人の助命嘆願を理由を伝えて行いました。しかし一部の公家達が苦労した田村麻呂の気持ちを踏みにじり、助命を拒んで英雄2人は処刑される事に成ってしまいました。其れも都の地を獣の血で汚すとまで言い捨てられ、河内まで2人を連行して処刑したのです。立派に戦った末に帰順した2人を死なせてしまった田村麻呂は大いに落胆したと伝わります。色々な理由は有りますが後の頼朝公は此の様な民心を知らない公家社会を嫌いました。其れ故に武家だけの政権を都から離れた鎌倉に打ち立て、都の公家達との距離を取ったのです。公家化した平家も此の為に打ち滅ぼした事になります。念の為に申し上げますが此の時の朝廷とは陛下の事では無く、周囲の民の暮らしを顧みない公家達の事をさします。再度重ねて申し上げますが公家にも和気清麻呂や北畠家のような立派な方々も数多くおります!
故郷を守った阿弖流為と母礼の碑 岩手県の英雄です。アテルイを顕彰する会のHPより
蝦夷の武器は騎馬と弓、もう一つが此の『蕨手刀』です。
持ち手の上でくの字に反る独特の形状で柄の下が蕨の穂の様にクルッと丸くなるのが特徴です。男性の方なら経験が有ると思いますが、金属バットはコンクリートなどの固い物に当てると手がジーンと痺れますね、其の痺れを柄と刃に角度を付けることにより軽減しているのです。不思議な事に蕨手刀は北海道〜東北地方が主体で北関東までの出土です。此の蕨手刀が湾曲した反りを持つ日本刀の原型に成ったと伝わります。此の合戦後に蝦夷の人達の一部は全国35カ所に造られた郷へ強制移住させられました。この人たちを『俘囚』と読びます。朝廷は此の俘囚の方に定住先で生計が立てられるようになるまで住居をはじめ食糧や衣服を支給しました。其の中に鍛刀に携わる者達もおり、刀造り技術も全国に伝わったと思われます。
最近なんとなく脱線ネタが多くて申し訳有りません、反省して本文に戻ります! 義仲公の入京に伴い甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏も同時期に入京し其の数は六万騎と伝わっております。源行家は数千騎で宇治橋を渡って都に入りました。矢田義清は大江山をへて上洛しました。ほぼ20年もの間見られなかった源氏の白旗が都に翻り、都は源氏の武者でごった返しました。ところが此の時の都は飢饉明けで少ない食糧しか無かった事と平家が都落ちで大部分の食糧を持って行った事も有り、コレだけの人間に間に合う食べものは有りませんでした。コレも後の義仲公にとっては結果的に良くない事に結び付きました。
入京した義仲公の元に中納言の藤原経房と検非違使の別当左衛門督である藤原実家の両人が使者として訪れ、義仲公と行家を院の殿上に召し出したのです。
義仲公は四天王と手塚光盛と巴を引き連れ行家と共に参上しました。此処で後白河院からは平家追討の命が下ったのです。其の時に行家はズカズカと前に進み院宣を受取り、義仲公は深く頭を垂れて静かに受け取ったと『乱世を駆ける』には明記されております。此の時の行家は義仲公を差し置いて自分が頭領の様に振る舞ったと色々な文献で伝わっております。都での2人の館として義仲公は平成忠の六条西洞院を賜り、行家は法住寺殿の南殿を賜りました。
乱世を駆けるより
後白河法皇は安徳天皇が平家に連れられて当てもない旅路に向かった事を哀れむのと同時に、皇統の継承に欠かせない三種の神器が持ち去られた事に憂慮されておりました。しかし一番大事にすべきは皇統の継続だったのです。高倉上皇の皇子は安徳天皇の他に三人おりましたが二の宮である守貞親王は平家が皇太子に立てようと西国へ連れて落ちていました。しかし三番目と四番目の皇子は都におわしたのです。2人とも後白河院の孫ですが伝わる話によると3番目の皇子は院の前に座ると泣いてむずかり、4番目の皇子は後白河院に直ぐになつき、膝の上に乗ったと言われております。この4番目の皇子こそ後の後鳥羽天皇です。
義仲公の思いとしては源氏が平家打倒の為に戦った直接のキッカケは以仁王の令旨です。しかし其の功労者で有る以仁王は平家に打たれております。唯一以仁王の血脈を継いでいた宮様が『北陸の宮』なので北陸の宮が正当な帝となるべきで人あると考えていたのです。全く持って正論だと思いますが、後白河院や公家にとっては帝とは自分達の権力の象徴で有り、仮に北陸の宮を帝位に付けたら義仲公が平家と同じ様に振る舞うのではないかと疑心暗鬼だったのです。ヘンテコリンですけど此れが実態でした!
そんな状態の中で行家がやらかしたのです。何と源行家は院が使わした任官の伝令を門も開けずに追い払ったのです。後白河院の考える挙兵からの功績で言うと頼朝→義仲→行家の序列でした。此の序列は誰が見ても公正な序列ですね!因みに此の時は義仲公は従五位下左馬頭兼越後守で行家は従五位下備後守でした。行家は以仁王の令旨を全国に配ったのは自分であるのに義仲公より自分が下の評価とは納得がいかなかったのです。如何なる存念が在ろうと院からの使者を門外で追い払う事はとんでもない暴挙でした。また行家は義仲軍に身を置いておりました為に、此処からは清廉潔白な義仲公を取り巻く情勢が一変してしまうのです。
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注釈
北条家は桓武平氏と名乗ってはおりますが現在の研究では分からないというのが現実みたいです。また別の言い方をすれば北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しております。北条家の家紋は三つ鱗紋ですが、此れには逸話が伝わります。
三つ鱗紋
此れは北条時政が江ノ島に参籠した際に目の前に弁財天が出現したと伝わります。弁財天は『もし非道を行なえば家が滅びる』と告げて蛇に変化して海中に消え、その時に3枚の鱗を残したと伝わります。それ以来北条家は三つ鱗紋を使用しておりました。弁財天との盟約を犯したので滅んでしまったのかは謎ですが、何にしても日本最強のNo.2として君臨した一族である事は間違い有りません。