みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 19

冒頭に11年前の東日本大震災尊い命を無くされた方とご家族に哀悼の意を捧げます。


頼朝公は後白河院が発した寿永2年10月の宣旨により東海道東山道の支配権を得ました。これにより御家人達に分配していた所領が公的に認められた事になると同時に官軍としての地位を得たのです。一方義仲公は水島合戦による人生初の敗北の後に都に戻っておりました。頼朝公を都に呼んでいた後白河院は義仲公を早く追い出そうと再三再四平家追討を命じて来ました。しかし騙された義仲公はもう動かなかったのです。そして業を煮やした後白河院が先に動いたのです。後白河院の裏切りに対して黙っていた義仲公でしたが、其の後白河院の取った行動を見て堪忍袋の緒が切れました。


まもなく義仲公は此処から同族の頼朝公と争う事になります。華々しい活躍と相反して一転悲壮感渦巻く展開となります。どうしてこうなったのか?運命の悪戯なのか? 答えの半分は鎌倉殿の13人で『イヤじゃ』と連発していた老獪な誰かさんに振り回されたのですが、振り回らせた側にも様々な『思い』が存在して居たに違いありません。義仲公と頼朝公の宿怨を再度簡単にお伝えすると、義仲公のお父さんと頼朝公のお父さんは兄弟です。そして頼朝公のお父さんの方がお兄ちゃんであり、其々にお母さんは違うのです。ところが頼朝公のお父さんの一番上の息子さん(今で言えば親戚)が領地争いで義仲公のお父さんと赤ちゃんだった義仲公を襲いました。結果的に義仲公は木曽まで逃げおおせましたが、お父さんとお爺ちゃんは殺されてしまいました。そもそも義仲公を討伐すると決めた頼朝公の思いはどうだったのでしょう? そんな簡単に親戚を襲えるモノなのでしょうか? 時代が違うの一言ではどうも片付けられません!私は此処がどうしても若い頃から得心しておりませんでした。

平安時代の武者
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私の読んで来た木曽義仲公に関する多くの書籍は史実に基づいて記されており、その史実から色々な推察を私の感覚を元にアレやコレや考えます(ソレガタノシイノデス)。義仲公を深く考察され、其の生き様に美しさを感じた人で歴史上有名なのが松尾芭蕉芥川龍之介さんです。また世の中には他にも多くの義仲公ファンの方々がお見えになると思います。そんな中で長野県上田市出身の西川かおりさんを今回ご紹介致します。来歴として社会科教諭を経て漫画家として活躍され、長年義仲公の研究をされて多方面で御活躍されている方です。木曽の日義にある義仲館は西川さんのプロデュースでリニューアルオープン致しました。

西川かおりさんが描く義仲公です。私の思い描いた義仲公とはだいぶ違いますが、正直カッコいいです。 『乱世を駆ける』より
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同じく巴御前です。
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義仲公配下の弓の名手である手塚太郎金刺光盛の末裔も漫画家の手塚治虫さんですので面白い偶然です。私が読んでいた挿絵なしで字だけの本では無く、娘達に信濃の英雄である義仲公を簡略に知ってもらう為に木曽日義の義仲館で購入した『乱世を駆ける』には西川さんが史実に基づき、女性ならではの柔らかい感性で表現された文章が多く載っております。内容に私はとても共感して娘達に読ませる本に選びました。しかし親の押し付けだったのか、数年経過しても下の娘の部屋の本棚に全く読んでない状態でコヤシ化してましたので召し上げました(ンナロ〜デス 笑)。その中で頼朝公が後白河院からの上洛を要請された時における『思い』が記述されている文章が有ります。コチラも史実に基づき『思い』で書かれた文章ですが、物凄く的を得ている考察だと考えますので失礼ながら御案内させて頂きます。

以下抜粋
鎌倉の頼朝は義仲の北陸進軍と都での様子を冷静に見つめていた。平治の乱で伊豆に配流されるまで都で暮らしていた頼朝には都の情報が伝わるネットワークが存在していたからだ。義仲が入京する際、ぞくぞくと表れた源氏の武将達、自軍の敗北は棚に上げ、義仲と同じ旗を掲げて勝利者の気分に酔いしれていた。これまでの北陸の戦いで平家を破ってきたのはだれなのか。大きな兵力を持つ延暦寺を味方に付けたのはだれなのか。すべての勝利は義仲だけのものではないか。それを分け与える必要など何一つない。
頼朝は義高が大姫と庭で楽しく遊ぶ姿を眺めた。こうなることは、分かりきっていた。義仲は源氏に対して情が厚すぎた。『同族』ほど自分の地位を脅かす危険な存在は他にはないと、なぜ気づかなかったのだろうか。弟にすら臣下の礼をとらせている頼朝は、自分の考えが正しかったことを確信した。ただそれと同時に、一抹の寂しさもこみ上げた。頼朝が義仲と刃を交えなかったのは、自分とは違う方法をとる義仲が、どんな道をたどるのか見定めたかったからだった。頼朝は義仲から受け取った書状を懐から出してしみじみと眺めた。そこには『平家は一族が思い合っているから反映したが、源氏は一族が殺し合ったから衰退した』とあった。しかし今都に集まった源氏達はどうだ。義仲に従う気などないうえに都の治安が乱れている責任を、全て義仲に押し付けて知らぬ顔だ。朝廷にとり行って、自分がうまい汁を吸うことしか考えていないではないか。この混乱をおさめるためには、だれかが混乱する源氏の上に立つしかない。義朝は決意した。使者の往来を通じ、後白河院から北陸道東山道北陸道の支配権を認めさせ、義仲追討の軍勢を送ることを約束したのだ。頼朝は弟の範頼、義経に兵を与え、都へ向かわせた。自分は決して鎌倉を動こうとはしなかった。それは東国の武士らに静止されたからとも、奥州藤原氏ら、北方の脅威に備えるためとも言われている。しかし、それだけだろうか。同じ目標を違う道でかなえようとした義仲の最後を自分の目で見たくなかったとも考えられる。

以上が西川かおりさんの考察であると思われます。数年前に此の書籍を娘達に読ませようと購入し、ザッと目を通した時に色々な考察の的確さに感じ入りました。端的な史実のみを学んで来た私には衝撃的でした。生意気に20代の頃は地元の英雄である義仲公をよくもやりやがったな 頼朝〜コンナロ〜って思ってました! その後に歳を重ねると勝者の歴史だから仕方ないと思っておりました。しかし釣りの合間に立ち寄る事の多かった義仲館で、たまたま買った『乱世を駆ける』に先に紹介した文章が掲載されており、特に最後の文面が私の心に響いたのです。日本最初の武家政権を打ち立てた頼朝公も実際のところは義仲公の最後は見たくなかったと言う考察に私は正直救われた気分でした。此の場を借りて思いの隙間を埋めて頂いた西川先生に御礼申し上げます。

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