みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 18

義仲公が出た都では治安がますます悪く成りました。飢饉明けと言う事もあり東海道東山道北陸道から届けられる筈の年貢が不貞の輩によって略奪されて都には届き難い状況でした。其処で後白河院は先に鎌倉に居ながら征夷大将軍に任じた頼朝公に上洛を促したのです。義仲公が次の帝に北陸の宮を推したのが後白河院の勘気に触れました。恐らくは武家が権力を持つと清盛公の様な煩いを行う存在になると思っていたと思います。義仲公の言い分は平家打倒のキッカケは間違いなく以仁王の令旨であり、其の令旨受けて義仲軍は兵を挙げた、其の以仁王の血つながる皇子を帝にしてはどうかと言う内容でした。それも決して上から押し付けたのでは無く、正しく理路整然なる事を言ったまでなのです。また飢饉明けの都には盗賊がはびこり、取り締まっても後から湧いてくる状態だったのも義仲公には不利に働いたと思われます。

しかし変な話なのです、飢饉明けの方策を打ち出さずに放置したのは院側の失策なのです。其れを政治に一言も口を出していない義仲公に全て押し付けた格好になっているのは余りにも不条理です。因みに義仲公をはじめ武家は昇殿すら許されてない立場だったので都の政治には全く無関係だったのです。私が此のシリーズを始めるのに最初はグダグダした宮中の話を長くご案内したのは、此の『グダグダ』に義仲公がやられてしまったので成るべく細かくご案内しようと思ったからなのです。此の一事を見ても時流を読む事が処世術の王道である事は今更ながら感じますが、大和男児には曲げられない事も絶対に存在しますね!

此のような貴族達の考えを頼朝公は流人のうちから乳母の妹を母に持つ三善康信より情報を貰って百も承知でした。其れ故に武家だけの政権を鎌倉に打ち立てたのです。私は義仲公と後白河院が不仲になる過程を何度も何度も読み返し、違う文献に巡り合うと細かい表現を拾い違う史実は無いか探しましたが大雑把ですが記述した内容が主でした(猫間中納言こと藤原光隆との事や牛車の乗り降りの仕方等、他にも義仲公を誹謗した内容は数多くあります)。仕方の無い流れとは言え何時も世の無常さを感じます。また義仲公の一つひとつの行いの積み重ねが全て未来につながってかいる事を思うと、義仲公の様に日常的に正しい悔いのない行動をする事の大切さを感じさせ
られます。(ワタシハクイダラケデス 笑)

三善康信 見事な配役です。 NHK鎌倉どの13人より
f:id:rcenci:20220305093643j:plain

一方で頼朝公は此のタイミングで抜群の政治能力を発揮致します。其れは後白河院の上洛要請を逆手に取り、年貢が滞っている東海道、東山堂、北陸道の支配権を自分に任せてもらう代わりに確りと年貢をお届けしますとの提案でした。後白河院からすれば誰が支配していようが年貢さえ来れば問題は無いのです。しかし後白河院は万が一義仲公が反旗を翻す事を想定し北陸道だけは許しませんでした。しかし東山道こそは信濃がある街道であり、義仲公と四天王の生まれ育った信濃を頼朝公に渡せと言う話につながるのです。

街道と畿内の図
f:id:rcenci:20220305093702j:plain  
見ての通りに東山道は長いのです。北海道(蝦夷ヶ島)は勢力外なのが分かると思います。敗れた義経が逃れたと言われるのも肯定出来ますね!

平家討伐に向かう前に義仲公は行家が院と結び付き何やら怪しい動きをしている事と頼朝公の動きが不自然だった事もあり、信頼する四天王の1人である樋口兼光を都に残しておりました。完全に私の推測ですが、名参謀の今井四郎兼平の進言だと思われます。

一方此の時の平家は勢力を盛り返して拠点を讃岐の屋島に移しておりました。義仲軍は備前の水島に向かい戦船の張達を行いました。この義仲軍の動きを敏感に察知した平家は平知盛、平教経、平重衡等を向かわせて合戦と成ります。此れはアイスホッケーの選手と厳ついラグビーの選手がスケートリンクの上で対抗するように水上戦(船戦)に慣れた平家が断然有利でした。

※ 水島合戦 寿永2年閏10月1日(1183年)
此の戦いは備中國水島(現在の倉敷市)で行われた源平合戦の一つです。義仲軍の矢田義清海野幸行広が率いる軍勢7000騎は浜に待機し500余艘の戦船を用意しておりました。一方船戦を得意とする平家軍は大軍で海上に有りました。

此処から『乱世を駆ける』に出ている描写を交えてご案内致します。両軍睨み合いの最中に一艘の小船が浜に向かってまいりました。義仲軍は地元の船かと思ってボーっと見ていると其の小船は平家軍を乗せた船だったのです。驚いた義仲軍の大将2人は用意した船に乗り込み、矢田勢と海野勢に別れて海上に漕ぎ出したのです。気合い充分の義仲軍でしたが平家方の狙い通りに得意な海上戦に持ち込まれてしまった事になります。義仲軍は慣れない船の上で満足に立つ事も出来ず、統制の取れてない船団はユラユラ浮かんでいるだけの状態だったと伝わります。漁師から調達した船と平家の合戦仕様に造られた船では構造自体が違います!また義仲軍は通常の大鎧を纏い、平家軍は大将を除き大鎧を纏う武者は殆どおらず、大半の将士は『腹当』という簡易的な甲冑を身に付けておりました。大鎧の重さは兜を入れると25kgは有ります! 対して『腹当』は最も軽い防具なので不安定な船上で体の負担が少ないのです。ご想像下さい! 25kgの鉄を背に背負って手漕ぎボートに立っている状態が此の時の源氏武者だったのです。

腹当 Wikiより
f:id:rcenci:20220305093735j:plain
直垂に腹当を付けた武者姿 Wikiより
f:id:rcenci:20220305093750j:plain
大鎧 
f:id:rcenci:20220305093812j:plain

そんな義仲軍の船団を尻目に平家の船団は意のままに立ち位置を変え、矢を射掛けたり義仲軍の船に乗り込んで太刀を奮って切り結び有利に戦を展開しました。義仲軍の兵船が一箇所に集まると平家軍は船同士をつなげて板を敷き、安定した板の上から強力な矢を放って来ました。想像しただけでも空恐ろしい状態です。

かなりの窮地でしたが義仲軍は連戦の猛者揃いでした。オマケに信濃の峻険な山々で鍛えられた勇猛果敢な信濃武士達は的を射止めるだけの弓術にあらず、皆が山野で野生の獣を仕留める事が出来る実践的な弓術の持ち主達です。敵が横に並んだ事で的がハッキリした平家軍を強弓から放たれる強力な矢で次々に倒して行きました。あわや形勢逆転かと思われた其の時、両軍の武者達を暗闇が包み出しました。そして義仲軍諸将の眼にはあらぬ物が映ったのです。『なんじゃ〜有れは?』

にわかに空が暗くなり、背後の山から鳥達が一斉に飛び立ち、周囲が暗闇に閉ざさました。そして今迄は太陽が有った場所に丸い明るい輪が出来ていたのです。暫しの沈黙の後に次第に其の光の輪が横に広がって太陽が顔を出したのです。現在まで伝わるこの自然現象は『日食』です。貴族の仕事をしていた平家は暦(太陰太陽暦)を創る仕事を任されていた為に日食が起こる日と刻限を知っていたとされます。

金環日食 茨城県鹿島市2012年5月21日
Wikiより
f:id:rcenci:20220305093846j:plain

義仲軍が天空を見上げていた視線を前に向けた時、既に平家の軍船が目の前に来ていたのです。勝敗はあっという間につきました!矢田義清海野幸広を始め高梨高信、仁科盛家などの歴戦の勇将も討ち取られてしまい義仲軍は敗走しました。勝利した平家は勢力を盛り返して摂津の福原まで進軍したのです。此の水島の戦いは平家が最初から最後まで水軍の利を用いた大勝利となりました。平家は福原で都へ登る機会をうかがいながら此の後に起きる『一ノ谷の戦い』へ進みます。実は平家軍がブイブイいわせて挑んだのが『一ノ谷の戦い』だったのです。

敗北の知らせは義仲公に直ちに伝わり、義仲公は矢田義清海野幸広を死なせてしまった事と信濃から付き従ったくれた多くの武将達の死に対して悲しんだと伝わります。ところがそんな義仲公の元に平家から和平の申し入れを告げる書状が届いたのです。討ち死にした仲間の顔がチラつくなかで思い悩んでいた義仲公に更に最悪の知らせが届きます。

其れは都に居た義仲四天王樋口兼光からでした。後白河院が手を返して義朝公に対して直ちに上洛して義仲を打つように院宣を下したのと内容だったのです。後白河院は義仲公が都には帰ってからを思うと色々面倒くさいので頼朝公に殺させてしまおうと考えたのでしょうか! 何にしても理不尽極まりない話なのです。

後白河院 西田敏行さんは好きな俳優だけに微妙です。  NHK鎌倉殿の13人より
f:id:rcenci:20220305093926j:plain

次に続きます