みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 21

義仲公は法住寺合戦後の戦後処理を藤原基房と一緒に進めておりました。如何なる理由があろうと院に弓引いた義仲公は益々孤立し、付き従った将兵は離散し、数万の義仲軍は約一千騎にまで減っておりました。義仲公は院を伴い北陸道に向かうつもりでしたが、その前に散々擁護したにも関わらず義仲公を裏切り続けた獅子身中の虫である行家に対して強い憤りを感じ、樋口兼光に一軍を率いさせ討伐に向かわせました。そして自らも頼朝軍が直ぐ其処まで迫って来ましたので都で迎え打つ事としたのです。都に攻め上って来た鎌倉軍は想像を遥かに超える大軍でした。

※ 宇治.勢多の戦い  寿永3年1月20日
此の合戦は5万を超える鎌倉軍と1千の義仲軍との戦いです。実質的に1人で50人と戦う事になり、ご理解頂ける様に勝敗は明らかですね! 頼朝軍は弟の範頼に都から北陸道へ向かう為の要所である勢多に3万騎を進軍させて北陸への逃げ道を塞ぎました。そして搦手軍として義経を宇治に2万5千騎で向かわせました。西には平家が虎視眈々と上洛を狙っている状態ですので義仲軍は袋の鼠でした。対する義仲軍は今井兼平と叔父である志田義広が500騎で勢多に向かい、楯親忠と根井小弥太に250騎を与えて宇治橋に向かわせたのです。義仲公は残る兵で後白河院の警護に向かいました。今井兼平楯親忠も根井小弥太も一騎当千の強者です。義仲公には長刀を振るわせたら天下無双の女武者である巴が付き従いました。

巴御前』につきましては敢えて今回のシリーズには詳しいご紹介を省いたのですが、その理由として鎌倉幕府の公式編纂書である『吾妻鏡』に名前が上がっていないのです。しかし軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』には確りと明記されております。現在は男女雇用機会均等法が有って男も女も平等に仕事をしましょうとされておりますが、義仲公の時代はずっと人口が少なくて人的資源が乏しく、女性でも普通に活躍の場が有ったのです。因みに鎌倉幕府が成立した頃の日本の人口は約757万人で、江戸幕府成立時には約1227万人、明治維新には3330万人、2020年の日本における人口が1.258億人なので比べようも有りませんね。(参考にロシアは1.441億です)

文献として残る資料を見ても鎌倉時代には女性も男性と平等に財産分与が行われております。当時は実際に軍事訓練を受けた女武将が大活躍した史実も多く残っているのです。話を戻しますが女性としての巴御前と武将としての巴御前を合わせて考えると、其の生涯が余りにも現代の女性とはかけ離れており、心意気を思うと健気過ぎて涙腺が緩みっぱなしになります。

巴御前  Wikiより
f:id:rcenci:20220326112958j:plain
巴御前の話をすると現在放映されているNHKの鎌倉殿13人に出ている北条政子役の小池栄子さんは、同じく大河ドラマ義経』では巴御前を演じておられました。私の勝手な思いですが、義経巴御前役が本当に素晴らしかったので、今回の北条政子役に対して最初は少し違和感が有りました。しかし流石に名優だけあって北条政子役を見事に演じておりますね!

鎌倉殿の13人での小池栄子さん NHKのHPより
f:id:rcenci:20220326113022j:plain

NHK大河ドラマ義経での巴御前を演じる小池栄子さんです。とても清純で高貴な雰囲気を出しており、私の巴御前像とピッタリでした。
f:id:rcenci:20220326113041j:plain

話しを元に戻します! 
義経についてはヒーローになっている反面で、目的の為には手段を選ばない蛮行が後世に残ります。その一つが今回の宇治川を挟んで繰り広げられた合戦前の行動です。義仲軍によって宇治の橋は板を外されて渡れないように防備が成されておりました。宇治川の河原はとても狭く、小さい民家が立ち並び、其処には合戦から避難した都人が隠れておりました。其の一般人が避難していた民家の多くに義経は火を付けたのです。阿鼻叫喚の光景に対岸の義仲軍は呆れて見ていた事だと思います。兵を配置する為だけに罪もない人々を民家ごと焼き払う此の蛮行の為に多くの関係ない一般人がその身を焼かれて死にました。そして義経は燃え落ちた場所を片付け、其処に軍勢を配備したのです。此の様な義経の蛮行は通常はドラマなので表現しない事ですが、現在の鎌倉殿の13人において三谷幸喜監督は確りと義経の人となりを表現されておりますね。

宇治橋 京都宇治観光マップより
f:id:rcenci:20220326113057j:plain

そして宇治川の戦いが始まりました。季節は春の陽光が眩しい冬晴れの日であり、上流から流れ出た雪解け水は宇治川を増水させておりました。川を渡る事を躊躇していた義経でしたが畠山重忠以仁王が令旨を出した時の合戦で平家の武者は宇治川を渡った事を伝えて自軍で試そうとしたのです。ところが畠山軍の機先を制して2人の武者が川を渡り始めました。先陣の功を逃してはならないと飛び出したのは頼朝公より拝領した名馬生食(いけづき)に跨る佐々木高綱と同じく頼朝公より名馬の磨墨(するすみ)を拝領した梶原景季でした。やがて宇治川を渡り切った2人を見た義経軍は増水した宇治川を次々に渡ったのです。こうして真っ向から義仲軍と義経軍は戦いました。ここで義仲軍きっての剛の者である根井行親の活躍を源平盛衰記からお伝え致します。

根井行親は次々と押し寄せる鎌倉勢を前に信州滋野一族の名誉を掛けて一歩も引かずに戦い抜きました。突っ込んできた二人の敵を左右の脇に捕まえて、『一人は鎧の上帯を取りて、ムズと引き上げ、深田へ向かって投げたれば死にけり、もう一人は投げられまいと鎧を馬の腹に踏見る回して堪えていたが、主を馬ごと深田へエイと投げたれば、泥の中にて馬に敷かれて死にけり』と有ります。次から次へと押し寄せる鎌倉勢に対して無双の強さを見せた根井行親と子供の楯親忠ですが多勢に無勢で力尽きてしまいました。此処に義仲公の旗挙げから付き従った英雄2人は清廉潔白な信濃武士らしい見事な最後を遂げたのです(合掌)。因みに此の宇治川の戦いで散った楯親忠の末裔は我が社に現在もお見えになります。

根井行親と楯親忠親子 『乱世を駆ける』より
f:id:rcenci:20220326113110j:plain

一方義仲公は宇治橋を突破した義経軍の前に市街戦にて打ち負かされ、後白河院義経に奪取されてしまいました。鎌倉勢と一戦交えた義仲公は付き従う者7騎のみの状態でした。もう逃れる道は北方向に向かうしか無かったのです。或いは北方向に向かったら光明が見えたかも知れませんが、義仲公は戦っている兵を置き去りにして逃げる様な方ではございません。もう一方の戦場である勢多では幼い頃より一緒に育った今井兼平が戦って居たのです。義仲公と兼平とは『死ぬの時は同じ場所で死のう』と子供の頃からお互いに誓い合っていたのです。義仲公は迷わず東へ向かいました。そして兼平と合流する道を選んだのです。兼平は大軍に勢多を突破され、一旦軍を引いて大津まで戻っており、此処で2人は奇跡の先会をしたのです。現在と違って通信手段のない此の時代に2人が再会出来た事は八幡様のお導きとしか考えられません。此処で兼平の兵を合わせて300近い軍勢が揃った事になります。こうして義仲公の軍は因縁の有る甲斐の武田信義の嫡男である甲斐の一条忠頼の軍と交戦致しました。義仲軍は300騎弱で忠頼の軍は6000騎です。義仲軍は善戦致しましたが、忠頼の軍を二手に割って後方に抜けた時には300騎が50騎に減っていたと伝わります。甲斐源氏と言えば武田信玄公を輩出した名族です。20倍の幾重にも重なった敵の備えを錐揉み状に駆け抜けた事になります。恐らくは凄惨な激戦だった事は想像に難くは有りません。

甲斐の一条忠頼 なんて恐ろしげな御顔立ちでしょう。 Wikiより
f:id:rcenci:20220326113124j:plain

やっと20倍の敵陣を抜け出たところで、今度は猛将である土肥実平が率いる2千の軍勢が待ち受けておりました。此の実平軍は波居る坂東武者達の中でも殊更に強い軍でした。

土肥実平 NHK鎌倉殿の13人より
f:id:rcenci:20220326113138j:plain

此処でも義仲軍は真っ向から戦ったのです。此の戦いでも弓馬の道に長けた信濃武士軍団は善戦し、なんと今回も実平軍を真っ二つに割りました。しかし後方に抜けた時の義仲軍は殆どが討ち取られしてしまい、生き残った者は義仲公を含めて5騎のみとなっていたのです。挙兵以来付き従った信濃武士達は身を挺して大軍から義仲公を守り抜き、見事に武(もののふ)の本懐を遂げた事になります(合掌)。たった5騎と成った義仲公達は敵の追手を逃れて進んでおりました。

次に続きます