みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 14

比叡山延暦寺を味方につける
今週は地味なのですが義仲公が今日の都に上るに際して決定打とも言える同盟を組む事に成功した経緯をご案内致します。倶利伽羅の戦いなどの派手な内容では無く、物凄く文章映えしない内容なので恐らくは『鎌倉殿の13人』でも絶対取り上げられない1人の文官が成し得た功績なのです。

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北陸での敗戦で都の平家公達は落胆の真っ最中でした。院御所では北陸の義仲軍に対して如何なる策を講じるか連日話し合いが行われておりました。都では義仲軍が北陸道東山道の両方から攻め上っており、もう直ぐ近くまで来ているなどの現在で言うフェイクニュースが飛び交っておりました。しかも義仲軍のみでは無く、勝ち馬に乗りたい各地の勢力が都の周囲を固める動きを取っていたのです。棟梁である平宗盛公は都を捨てるか否かの決断に迫られでおりました。平家が総力を結集して送り込んだ北陸追討軍は倶利伽羅峠の戦いで惨敗しているだけに兵の数も儘ならない状態であり、軍事的な均衡は完全に崩壊していたのです。此の時の平家にとって最後の頼みの綱が延暦寺だったのでした。宗盛公は延暦寺に対して公卿十人の連名で『延暦寺平氏の氏寺にしたい 日吉社を氏社とします』という起請文を出したのです。

平宗盛 Wikiより
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義仲公は越前国府にとどまり重臣達と協議をしておりました。都に入京するにあたり最初の障害は通り道に有る比叡山延暦寺だったのです。普通に入京するとまず敵対勢力に成ってしまいますので何とか味方に付けようと画策していたのです。結論的に平家も源氏も延暦寺を味方に付けようとしておりました。

しかし平家にはバツが悪い事がありました。此の時から少し前の話には成りますが、平清盛公が生前に南都焼き打ちと言う大変な事を行っていたのです。此の騒動で平家は多くの寺院を滅ぼし僧侶を多く殺害する悪行を行っておりました。其れに対して義仲軍は神仏に対する崇敬があつく、仏敵である平家を滅ぼす為に入京すると言う理由で延暦寺を味方につけようとしてました。其れにしても『仏敵』って事は平家にとってマイナスの要因にの極みですね! 後で説明しますが平家にも南都焼き打ちを行なう理由があったのです。

当時の延暦寺は膨大な数の衆徒を保持した一大勢力でした。越中国府に有った義仲軍の軍議の議題も比叡山延暦寺との融和です。軍議の中で声を上げたのが大夫坊覚明でした。覚明とは平清盛に対して『武家の塵芥』と文中で罵って清盛公を怒らせた程の男です。義仲公に惚れて配下となり、此の時は義仲軍の祐筆を務めておりました。
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文才に優れた覚明は延暦寺の大僧正に牒状を書いて送り、まずは向こうの出方を見たらどうかと進言したのです。当時最高峰の寺院に対して自分が牒状を書いて相手に送り、一軍の進退を占うなんて全く持って並の男ではありませんね! この牒状は『木曽山門牒状』と言います。此の時は文官である大夫坊覚明が源平合戦で最も輝いた場面です。

大夫坊覚明 Wikiより
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義仲公は覚明の進言を用いて牒状を延暦寺に送りました。内容はとっても長くなるので割愛しますが一言一句に至るまで納得できる名文です。牒状を受け取った延暦寺では賛否両論でした。しかし寺院という性格上ですが今迄平家には多くの寄進を受けて恩義も有ったのです。僧侶が人の恩義に反するなんて事は民衆の模範と成るべき立場の寺院として出来ません、尚且つ延暦寺天皇家を守護する役目を持っており、平家一門は現在の安徳天皇外戚にあたる家柄です。オマケに平家は『延暦寺平氏の氏寺にしたい』と言って来ているのです。古来仏門は弱き者の味方で有り、此の時は平家が紛う事無く弱き者だったのです。

Wikiより
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牒状を執筆した覚明は俗名を藤原道広と言って藤原家の出自でありながら儒学を学び出家した変わり種です。そして以前は比叡山や南都にも籍を置いた事があるのです。従って覚明を知っている僧侶も延暦寺には多く在籍して居たと思われます。覚明の学問における見識の高さを知っている者達は義仲軍と手を結ぶように働きかけました。困った延暦寺の高僧達は此の難問を連日審議したのです。

そして導き出した延暦寺の結論として、平家は天皇外戚でもあるので本来は守護する事が定石だが昨今の平家の悪行を見て世間は平家に対して恨みを持つようになっている。また各地で行われた合戦では総じて平家軍が敗北している。対して源氏軍は平家との戰に勝利して民衆の信頼を得て時の利を得ている。そんな中で延暦寺だけが運が尽きようとしている平家に加担するのは理に反しているなどの意見が出ました。こうして比叡山延暦寺は義仲軍に味方する事に決っしたのです。此の事は義仲軍にとって此の上ない僥倖となりました。

やがて延暦寺を味方に付けた義仲軍は越中を出て都へと軍を進めました。そして軍を進める事と同時に摂津国河尻において多田行綱が船を差し押さえて平家の補給路を経ち、源行家伊賀国に向かうなど多角的に都を包囲したのです。平家は頼みの綱の延暦寺に背かれ、此の包囲網により更に窮地に陥ってしまいました。今回大手柄の大夫坊覚明は最後の最後にも血筋を守る為に動いて義仲公に忠節を尽くした大功臣ですが、此の延暦寺を味方につけた事は後世に名を残す一世一代の武功となったのです。

ご案内に出て来た平家の悪行とは清盛公が行った『南都焼き打ち』です。清盛公は焼き打ちの後で高熱を発する病に掛かって没しました。熱を出して魘されている清盛公の命令で清盛公の体に水をかけると、直ぐに蒸発してしまったと言われる程の高熱だったと伝わります。現在では清盛公の病気は蚊を媒介とするマラリアだと言われております。実は水田の多い日本では明治期まで普通に掛かる感染症だったみたいです。国内で最後までマラリア感染が残っていたのは水路が発達した琵琶湖周辺だったと言われております。日本では水田などに生息するハマダラ蚊と言う蚊が農薬などを使用する稲作法の発展ににより激減したのがマラリアが発症しなく成った理由ではないかと言われているみたいです。

マラリアの源虫  怖い! Wikiより
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話を南都焼き打ちに戻しますが富士川の戦いで負けた頃の平家は新しい都である福原におりました。此れは資金源である南宋貿易の拠点であったからです。そんな平家に延暦寺から都を京に戻してほしいとの要望がまいりました。延暦寺は都の商人から献金が大事な資金源になっていたと言う台所事情も有りました。

清盛公が都を福原にした理由は南宋貿易の事も有りましたが、以仁王の挙兵に天台寺門宗の総本山である三井寺法相宗大本山である興福寺が加担し、乱は鎮圧したものの敵が近くにいる場所では枕を高くして寝れないと言う理由もごさいました。三井寺以仁王軍との戦いの時に焼き打ちしたのですが興福寺の僧兵軍は送れて出兵したので戦いに参加する前に味方の負けを知って速攻で引き返したのです。興福寺は遅れて出兵したおかげで助かっておりました。つまり都を京に戻すには此の敵対勢力である興福寺をなんとかしないと喉元に切先を突き付けられた状態になってしまう事が京に都を移す事を渋っていた理由だったのです。

現在の興福寺 Wikiより
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其処で延暦寺興福寺は此方で抑えると言う条件を持ってまいりました。この条件を清盛公は呑んで都を京に移したのです。ところが平家が都に入る姿を見て大和の興福寺が真っ青になり、軍備を整えて平家打倒を目的とした臨戦体制に入ったのです。恐らく清盛公は『???』状態だったと思われます。其れに危機を感じた摂政の藤原基通興福寺に使者を送りますが興福寺は使者を撥ね付けました。恐らく興福寺安徳天皇が平家の血筋を引いているので天皇に仕える摂政も平家方であると考えたと思われます。此れには清盛公も驚き、事を穏便に済ますように配下の妹尾兼康を送りました。それも闘う気は無い事を示す為に兼康に武装を解除させて興福寺に向かわせたのです。ところが殺気立っている興福寺の僧兵達は此の使者である兼康達に襲いかかったのです。丸腰の兼康達は配下の者を数十人討ち取られました。更に興福寺の僧兵達は討ち取った首を猿沢池のほとりに晒し首にしたのです。思うに仏に帰依している僧侶の所業では無い暴虐無尽な行いですね。妹尾兼康(注1)は命からがら何とか逃げおおせました。

我が家にある南都焼き打ち図屏風です。
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なんと錦の直垂を着た寄手の大将めある平重衡は鎧を着けておりません。


報告を聞いた清盛公は烈火の如く怒り、1181年の1月に平重衡を大将として大和興福寺へ軍を派遣したのです。そして興福寺興福寺に加担した寺を襲いました。此れが有名な『南都焼き打ち』の背景です。戦いは夜に成っても治らず平家軍は無人の民家を焼いて灯りとしました。折しも此の夜は風が強く火は東大寺まで燃え広がってしまい周辺を焼き尽くしました。此の後に清盛公が謎の高熱に襲われたので仏罰と謗られても仕方ない状態になったのです。しかし古来から使者を打つ事は卑怯な行いである事は周知の事実です。平家としても理不尽に対しての抱腹だったのです。結果的に神仏に逆らった形に成ってしまった平家から民衆の心は離れて行きました。


次に続きます


注釈 1
文中に登場した妹尾兼康こそは平家譜代の家人でした。清盛公の命により興福寺への使者として向かいましたが、僧兵達により攻撃され散々な状態となったと案内しましたが、其れだけでは兼康の末裔の方に失礼に当たります。妹尾兼康はこの後の北陸への派兵に列しました。しかし倶利伽羅の戦いにおいて義仲軍の捕虜となってしまったのです。しかし平家の武者らしい正々堂々とした戦いぶりを見た義仲公は兼康の武勇を惜しんで助命し倉光成氏に預けたのです。このまま源氏軍に入れば命は助かり家名も残るのでしょうが、兼康は決して御恩を忘れない漢でした。後に逃亡して何と二千人もの残兵を集めて義仲軍に戦いを挑んだのです。妹尾兼康は人格優れた武勇の士なのです。負け戦においてヘンテコリンな武将に二千人もの兵は集まりません、助かりたいので我先にと逃げます!結果的には多勢に無勢で敗れて討ち取られますが、義仲公より『あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千の兵ともいふべけれ』と称えられた英雄である事を付け加えさせて頂きます。日本人は例え敵に成ったと言えども其れは武家の習いであり、勇者には必ず礼を持って対応していたのです。