みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 12

倶利伽羅峠の戦い
義仲公は埴生に於いて兵を指揮するうち、森の中に神気を溢れる社伝を見い出しました。其処で越中の住人である池田次郎忠康を呼び、何の神をお祀りしているのか尋ねたところ、忠康は『八幡大菩薩を祀り 埴生八幡と称す』と答えたと埴生護国八幡宮の資料にございます。

埴生護国八幡宮 HPより 
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倶利伽羅県定公園の埴生口にございます。義仲公が戦勝を祈願した祈願文が今も残っております。此の八幡宮はなんと1,300余年もの歴史を持つ国指定重要文化財です。先週友人が訪ねてくれました。

義仲公の雄々しい像が建てられおります。
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さて本文に戻りますが、義仲公は越中の住人池田次郎忠康から源氏の守り神である八幡大菩薩をお祀りする社があると聞いて大いに喜びました。其処で覚明を読んで以下の様に指示したと伝わります。『当国八幡宮の御前に於いて合戦するは味方の戦勝疑いなし 然れども一つは後代の為 一つは祈願の為に願文を捧げたし 汝宜しきに計らえよ』

加賀に住んでいる友人が送ってくれた埴生護国八幡宮御朱印です。有り難くて額に飾りました。
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覚明は矢立を取り出し、その場でスラスラと願文を書いた伝わります。その願分に十三本の上刺しの矢を添えて神前に奉ったと伝わります。此の矢と願文は現在でも埴生護国八幡宮に伝わっております。義仲公の赤心が八幡大菩薩に伝わったのか、3羽の白鳩が飛来して源氏の白旗の上を飛び回ったと社伝に残されております。其の光景をを見て義仲公は馬上から下りて甲を脱いで一同と共に地に頭をつけて拝礼したと伝わります。

義仲公と覚明
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義仲公が奉納したと伝わる矢です。
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此の願文を現代風に分かり易くしたモノが埴生護国八幡宮の出している冊子に載っておりますので以下に紹介致します。

信心を捧げる八幡宮の大前に申し上げます この頃 平家なるものが表れて 国を乱しているのは仏法にも王法にも反する無道の極みであります。義仲は武家に生まれた以上 その暴悪を黙ってみているわけにはいきません よって運を天に任せ 神明を捧げて義兵を上げることにしました ところが計らずも八幡宮の大前を拝する機会を得ました かくては凶徒達の惨敗は確実と思われます 我が曽祖父が八幡太郎義家と名乗って以来 一門の末に至るまで八幡宮を深く崇敬しております 今戦いを起こすは一身 一家の為でなく 国民を救う為であります どうな神威をお加え頂き凶敵を四散させてくださいますよう赤心を捧げてお祈りいたします 何卒御神助を賜りますよう謹んで申し上げます 寿永二年五月十一日 源義仲 敬白

義仲公が己が人生を掛けた戦いに挑むにあたり『国民を救う』を第一の目的としていた事が歴史的に証明されている大変貴重な文書です。その文と伝承が今日まで残っている事に対し信州人の一人として、また日本人の一人として埴生護国八幡宮の歴代の神職の皆さま方と代を重ねて奉仕を続ける氏子の皆さまに感謝したい気持ちで一杯です。

倶利伽羅の戦い配置図  埴生護国八幡宮で友人が授与された源平倶利伽羅合戦紀より
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倶利伽羅峠の隘路口を先立って押さえる命を受けた仁科党は蓮沼の日埜宮林に到着し、白旗三十を立てあたかも大軍のように敵を欺きました。義仲軍の各部隊は明け方より前進して埴生、道林寺、蓮沼西、松永付近に隊を潜ませたと伝わります。私の私感ですが源氏における戦上手は一に義仲公、二に義経公の順番です。義経公は鞍馬山で幼少期を過ごし、義仲公は木曽谷で育ちましたので何か共通点があるのでしょうか。

義仲公の狙いは平家軍が平野に出る前に山中に留め置き、隘路を抑える事と後ろの逃げ道にも兵を回り込ませ平家軍を谷に追いやる事です。そして夜になるのを待って夜襲を掛ける事で地理に疎い平家軍の混乱を狙ったのです。私のイメージ的には巻き狩りの夜襲バージョンの様な感じだと思われます。

平家軍の主力部隊は倶利伽羅峠を通って山頂の猿ヶ馬場に到着しておりました。平家軍から見ると此処は四方とも岩山であり、しかも西の方角は全て味方、東は道がとても狭いので源氏軍も大掛かりな攻撃は出来ないだろうと考えていたと思われます。平気の大軍は山頂ヶ馬場〜倶利伽羅堂や国見辺りに布陣していたとされております。

周りの山麓には源氏の白旗が多くひるがえっております。源氏軍の第一陣はの後に矢立山と言われる山を既に占領しており、平家軍との距離は谷を隔てて数百メートルだったと言われております。矢立山は平家の矢が多く突き立った事が名称の由来説明書きにございました。

戦いは最初に少人数での矢合戦から始まりました。此れは例えば源氏軍が10人の射手を出すと、合戦の作法を重んじる平家軍は同じ数の射手を用意して戦います。1人でも多いと卑怯なのです!次に20人だと向こうも20人という具合です。当時の戦には合戦においての定石が存在しておりました。平家軍はこの時において天下の軍なので作法を破る事は有りませんでした。思えば義経の『ひよどり越えの逆落とし』や『壇ノ浦の戦い』において戦船の漕ぎ手を射た行為などは本来の常道では無いのです。後の一ノ谷の戦いで散った平敦盛熊谷直実に呼び止められて浜に取って返した行為などを思うと流石は誇り高い清盛公の一門だと心底思います。一対一で戦って負ける事は確かに敗北ですが、武人としては名誉の死なのです。此の死生観は日本人で無いと分かりません。

土地に明るくない平家軍は周りの源氏軍がどの位の大軍であるか分からない為に攻めあぐねている状態となっておりました。義仲軍は暗くなるまで時間稼ぎをする事が狙いです。そして時間稼ぎをしている間に夜討ちの準備を行っていたのです。話は変わりますが、私は営業職なので若い頃に夜討ち朝駆けは当たり前の行動でした。『夜討ち朝駆け』が戦の様式から来ている言葉とは知ったのは色々な書籍を読んでからです。

以下は源氏軍の夜襲陣容です。
第一隊 樋口兼光 三千
第二隊 余田次郎 三千
※上の2隊は迂回して退路を塞ぐ役目です
第三隊 今井兼平 二千
第三隊 巴 一千
第四隊 根井小弥太 二千
第五隊 義仲公本隊

日が暮れると同時に源氏の各隊は予定とする地点まで進軍致しました。樋口隊と余田隊も予定の地点に達しました。対する平家軍は最初は夜襲を警戒しておりましたが、都からの長い行軍と度重なる合戦の疲れが出ました。夜半に至っては段々と気が緩み、ついには将卒共々鎧を脱ぎ、鎧袖を枕に敵が迫ったのも知らなかったと伝わります。そして夜半に合図の鏑矢が放たれるのでした。

山中の険しい道なき道を進んで回り込み、時を待っていた樋口隊が午後10時を過ぎた頃に一斉に太鼓や法螺貝を鳴らして鏑矢を放ちました! ドンドン ドンドン ヴォ〜オ〜オ〜 ヒュ〜ン ヒュ〜ン そして源氏軍の勇ましい鬨の声が夜も更けた倶利伽羅の山中に響き渡り、源氏軍の精鋭部隊が平家軍を目掛けて突撃したのす。暗闇に音も無く飛んでくる強弓から放たれた矢が平家軍を襲います。

分かりやすい図が『乱世を駆ける』に載っておりましたのでご紹介致します。
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合図と同時に今井隊、巴隊、余田隊、根井隊が呼応しました。源氏軍の鬨の声は山彦と化して全山に鳴動し、寝ている平家軍に襲い掛かったのです。静寂な露営地は一瞬にして修羅場と化しました。其れと同時に源氏軍は数百の牛の角に松明を付けて暗闇に放ったのです。平家軍は三方向から敵を受けて大混乱致しました。逃げようにも退路からも樋口兼光隊が平家陣を襲ったのです。もうどうしょうも有りません! 

道の駅倶利伽羅にある火牛の像、こんなのが暗闇から松明を着けて突進されたら対抗出来るのは源為朝公くらいです。 Wikiより
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大混乱に陥った平家軍は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先にと向かいますが、其処は深い谷でした。この時に伝説では白装束を着た三十騎ばかりが南黒坂の谷に向かって平家軍を導いたと伝わります。平家軍は次々と深い谷へ滑落し、馳せ重なって深い谷である倶利伽羅谷を埋めてしまいました。倶利伽羅谷を称して馳せ込谷とか地獄谷と言われておりますが、此の事が由来すると伝わります。 

人馬共に山と重なった平家軍の骸から出た血と膿が谷間の川に流れ出たので此の川を膿川と言うと伝わります。平家軍は義仲追討軍の大半を失ってしまい、総大将の平維盛は命からがら撤退しました。

倶利伽羅神社の源平倶利伽羅合戦図です。
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平家物語の『倶利伽羅落とし』では以下の様に表現しております。
馬には人 人には馬 
落ち重なり 落ち重なり
さばかり深き谷ひとつ
平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける
巌泉血を流し
死骸岳をなせり

五畿七道で見ると山城国から北陸は本当に近いのです。この後の戦いでも敗北した平家軍総大将維盛は大変な思いをして帰って行ったのです。
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義仲公は合戦に勝利した後に平家軍の無残な光景を見て人として悔やんだと伝わります。しかしそんな悔む時間も無い程に次の戦いが待っておりました。

ずっとずっと後の事ですが武田家に仕えていた原昌俊は合戦での陣形や陣を敷くための場所を決定する陣馬奉行を務めて信玄公の信頼が厚かったと言われております。陣馬奉行と言う役職は、此のような色々な失敗例の元に発案された役職かも知れませんね。

次に続きます