みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 20

義仲公は追い詰められておりました。時代や背景 は全く異なりますが現代で言うとアメリカに煽られてウクライナに侵攻したのロシアの様です。後白河院は頼朝公に対して義仲公と和平を結ぶ様にお願い致しましたが、頼朝公から撥ねつけられております。オマケに頼朝公から天下の混乱は法皇の責任だ〜ともなじられる始末でした。そして頼朝公は義仲の完全な排除を求めて決して譲らなかったのです。

頼朝公の目は一点の曇りも無い全てを見通すホークアイの様な感じが致します。  wikiより
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当時の推移を知る上で一級の資料である『玉葉』によると傷心の義仲公は後白河院に対して自分を裏切ったことに対しての抗議を書面で行ったとございます。『玉葉』とは公家である九条兼実の日記の事です。義仲公の帰京に慌てていたのは後白河院だけでは無く貴族達もなんとかしようと奔走しておりました。藤原頼季などは院と頼朝公が結託して義仲公を亡き者にしている事を悟られない様にする為とし、法皇が積極的に平家追悼をしていると見せかけ播磨国に臨幸すべきである進言しました。この案は一部で『そうでおじゃるな、それは良い案でおじゃる』と貴族達の賛同を得ましたが、肝心の後白河院に『イヤじゃ』と言われてしまいました(笑)。後白河院は清盛公の様に色々面倒くさい武家には互いに争って自滅して欲しいし、かと言って年貢を各地から運んでくれる便利な武家は必要だしと言う考え方なのです。『あなたの役目は終わったよ、頼朝にやられておしまいなさい』と使い捨てにされている義仲公にしてみたら、自分を殺そうとしている親玉は平家から後白河院に変わっている状態でした。

後白河院NHK鎌倉殿の13人より
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この頃には義仲公に付き従っていた他の源氏達もてんでバラバラになっており、美味い汁を吸えない義仲公から離れて行っていたのです。

法住寺殿 Wikiより
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後白河院から義仲追悼の命を受けた頼朝公は鎌倉に居ながら義経と範頼を大将として都に向かわせておりました。其れに対して義仲公も迎え打つ気持ちを固めていたのです。頼朝軍が入京すると言う情報を受けて源行家以下の源氏は義仲公を裏切って院側に付きました(ヒドイハナシデス)。源行家叔父は此の時に院側の筆頭的な立場だったと伝わります。裏切者達の中では頼朝公の軍勢がくれば義仲公など恐るるに足り無いと言う声が多くあがっており、後白河院に付く事で勝ち馬に乗って再度美味い汁を吸おうとしていたのです。しかし老獪な後白河院は見方が多く来てくれた此の場面で、頼朝公の機嫌を損ねない為にと考え、以前頼朝公と口論に成って頼朝軍を出奔した源行家には平家追悼を命じて追い払ったのです。己の行動が原因でありますが、どっちからも見放され最悪な状態の行家叔父なのです(注1)。

行家を追い払ったこの動きは後白河院が頼朝公に嫌われないように取った行動です。しかしこの事は義仲公と後白河院の間に更なる強い緊張感をもたらせました。しかしこの時に義仲公は院との戦いを避ける為に頼朝軍の大将である義経が少数であるなら都に入る事を認めると言う妥協案を示したのです。しかし対決姿勢に凝り固まった後白河院聞く耳を持ちませんでした。

そして後白河院は浮浪者や僧兵を掻き集めて住まいの法住寺殿に堀や柵などを築き、義仲公との臨戦体制に入ったのです。また後白河院側は多田行綱源光長を院側に味方に迎え入れ、実質的な兵数でも優位に立ちました。もはや疑いようも無いくらい明らかに義仲公を亡き者にする為の動きだったのです。此処で義仲公はギリギリに追い詰められた形となったのです。常に朝廷を敬って来た義仲公ですが信濃から付き従って来た仲間達を見殺しにする事は出来ません。また世の中をよくする為に戦って散った仲間達も浮かばれませんでした。武神と言われた八幡太郎義家公から受け継いだ源氏嫡流の血が少しづつ騒いで来たのです。

部下思いの義仲公にとって信濃から笹竜胆の旗印に集り、苦楽をともにした仲間は絶対だったのです。
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其の様な状況の中で準備万端の後白河院は実質的に宣戦布告とも捉えられる内容を義仲公に伝えてまいりました。其の内容を『玉葉』では細かく描写しております。現在の言葉で分かりやすく現すと次の様になります。『直ぐに平氏追討のため西下しなさい 院宣に背いて頼朝と戦うならば義仲一身の資格で行いなさい 命に反して都に残るのなら謀反と認めるぞ』となります。其れに対して義仲公は『後白河院に背くつもりは全くない しかし頼朝軍が来るならば戦わざるを得ない 頼朝軍が来ないのであれば西国に下向する」と返書を持って答えたのです。この返事に対して『玉葉』の作者である九条兼実は『義仲の申状は穏便なもので、後白河院の御心は法に過ぎ、王者の行いではない』と記しております。流石に鎌足から続く名門の嫡流です! 九条兼実に座布団10枚渡したいと思うのは私だけでしょうか。

九条兼実(くじょうかねざね) Wikiより 
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兼実が40年間も書き綴った日記である『玉葉』は当時の状況を知る上での一級史料となっております。また中臣鎌足から継続する藤原北家の男系血統上の宗家でもあります。

法住寺殿には様々な顔役が来訪し義仲公を何時でも打てるだけの勢力になっておりました。そして義仲公が旗印として来た北陸の宮も何処かに姿を隠したのです。悲しい話ですが院に見放された義仲公の周りより協力者が去って行きました。後白河院は義仲公に対して圧倒的勢力で武力行使を行うつもりで動いており、義仲公はもう戦うしか無い状態に晒されていたのです。

法住寺殿の戦い

都の人達からは院が武家に戦を仕掛けるなど前代未聞だと言う声が出ておりました。そして明らかに変事の空気が都を取り巻いていた中で事は起こったのです。こうなる前に色々義仲軍の中では論議が行われたと思いますが、明確な内容は現存しておりません。都に住んでいる全ての者が混乱した状態となり、事態打開には後白河院に仕掛けらる前に此方から仕掛けるしか無いと義仲公は判断したのです。

恐らくははギリギリまで義仲公は院に弓引く事を躊躇ったのだとは思いますが、一旦戦うと決めたら戦うのが武士(モノノフ)です。四天王を筆頭にした義仲軍は猛然と 法住寺殿に襲い掛かりました。

義仲館の前に立つ銅像 巴もこの後に義仲公と違う道を辿る事になります。
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この戦いで明雲、円恵法親王源光長、光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死したと文献には残っております。この時に義仲公に従ったのは信濃から一緒の仲間と志田義広と一部の近江源氏のみでした。因みに志田義広は義仲が討ち取られた後も抵抗を続けました。しかし結局は後の戦闘で討ち取られてしまったのです。地方で基盤を築いていた源氏の中で志田義広こそは高圧的な頼朝公に最後まで抵抗し戦って散っていった骨のある武将でした。此の戦いで後白河院は捕らえられて近衛基通の五条東洞院邸に幽閉されました。後白河院は生涯で3度も幽閉された経験を持ちます。しかし理由はどうあれ法住寺殿の戦いは武家が朝廷を襲う前代未聞の出来事となってしまったのです。

次に続きます


注釈
源行家のその後をご案内させていただきます。義仲公が没してから後白河院の召し出しにより一時は帰京しております。しかし平家を滅ぼす戦いには全く参加させて貰えずに独立していた存在と成っておりました。そして平家を滅ぼした頼朝公は行家に対して討伐軍を送ったのです。ちょうど頼朝公と不仲になっていた九郎判官義経と結び、都で反頼朝の兵を集めたのです。ところが行家や義経に味方する武家は殆どおりませんでした。そんなかで頼朝公が残党を一掃しようと大軍で都に向かう事になると2人はビビって都落ちしたのです。行家叔父は鎌倉からの追手と戦いながら四国に逃れる途中に船が嵐に遭遇して沈没し、ボロボロな状態となってしまったのです。その後に民家に潜伏していたところを地元民から密告されてしまって北条時定に捕縛されてしまいました。とうとう一巻の終わりの行家叔父は都まで連れて行かれて長男と次男と共に斬首されたのです。波瀾万丈の人生を送った行家叔父は40歳台だったと伝わります。これだけの大事に関与した源氏一門が正確な年齢も伝えられてない事に驚きを感じます