みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 15

※ 義仲公の入京
義仲公の入京の前に平家が都を捨てる決定打となったのは延暦寺が義仲公の味方に付いた事である事は前回にご案内致しました。この約定を知らない平家公達は此の後も延暦寺に願書送っております。天台座主の明雲は平家からの願書の表に歌を一首書き記し社壇に納めて三日間の祈りを捧げました。其の恐るべき内容は『平かに 花咲く宿も 年ふれば 西へ傾く 月とこそみれ』です。何か今後の平家の命運を暗示しているような表現で空恐ろしさを感じますね。

少し脱線致しますが『和歌』と言うものは元々神々に捧げるものであり、絶対に歌の内容に嘘が存在しては生けないのです。平安時代には『神明は和歌を喜び給ふ』と言う表記がされており、歌は神々に奉納されておりました。『歌には国をも動かす力が有る』として代々公卿の限られた者に古今和歌集を通した解釈が『古今伝授』として伝わってまいりました(一説には術的な魔法陣)。ところが一度だけ古今伝授が途絶えそうになった時がございました。それは今迄公家に伝承されて来た古今伝授が伝承者の不在から武家細川幽斎に二条流の歌道伝承者である三条西実枝から成されていた時の話です。運悪くこの時は日本がひっくり返る程の大戦が行われたのです。

関ヶ原古戦場 Wiki
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それは慶長5年に関ヶ原の戦いの寸前に起こった『田辺城の戦い』です。伝承者の細川幽斎家督を息子の忠興に既に譲っておりましたので忠興は家康公の軍に参陣してました。居城には幽斎が留守番しており、たった500の兵で守っていたのです。其処に突然30倍の石田軍15,000が攻めて来たのです。此れには流石の幽斎も武士らしく討ち死にする道を選んだのです。

ところが此の情報を聞いた後陽成天皇は古より伝わる古今伝授が潰える事を心配して勅使を派遣しました。そして三成と和議を結ぶように再三促して何とか和睦させたのです。折しも其の後直ぐに関ヶ原の戦いが起こり東軍が勝利しました。こうして古今伝授が幽斎から行われて現在に至っております。

細川幽斎  Wikiより
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田辺城 Wikiより
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古今伝授の太刀
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国宝の古今伝授の太刀です。幽斎が古今伝授を行った一人である烏丸光広に贈られ、其の後は中山公爵家に渡っておりましたが明治期に競売に掛けられ第三者に渡りました。後に本間順治(注1)の仲介により細川幽斎の子孫である細川護立が買い取って細川家に戻ったのです。平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後の刀工である豊後国行平の作です。

少々脱線したので話を戻します。義仲軍の上洛に対して平家も手を色々打っでおりましたが関東や北陸につきましては如何ともし難い状況でした。そんな中で鎮西の謀反は平貞能が此れを鎮めて寿永2年(1183年)の7月14日に3千騎を率いて上洛しました。往時から京の都は攻めるに易くて守るに難い場所でしたので義仲公の軍が今にも攻め入ってくるの中で平家の総帥である宗盛の心中は想像に難く有りません。

そんな中で美濃源氏佐渡右衛門尉重貞と言う人物が六波羅平宗盛に義仲公の軍は北陸道より5万騎で攻め上って既に坂本に布陣しており、今正に都に乱入して来ていると告げたのです。此のお方は源氏でありながら保元の乱源為朝公を捕えて平家に突き出し、其の恩賞により官位を得て源氏勢から狙われている状態の御仁で有り、ハッキリ申し上げて嫌な野郎でした。この報により宗盛は山科や宇治橋へ兵を送って守りを堅めたのです。まだこの時は衰えたと言っても平家には一騎当千の強者達が多く存在していたのです。

しかし新宮十郎源行家が大軍で宇治橋から都へ入ったとか、矢田義清大江山を経て上洛するとか、摂津と河内の源氏勢力が集結して都へ攻めて来るなどの怪情報が宗盛に入りました。こうなると1箇所だけ守りを固めても最早どうにも成りません。負け戦で無駄に兵を失っても仕方ないので宗盛は兵を六波羅に戻したのです。

もう都を離れるしか無い....と平宗盛は決断しました。そして7月24日の夜更け(深夜)に宗盛は建礼門院徳子の元を訪れ、後白河法皇安徳天皇をお連れして西国へ向かう旨を告げたのです。其の時の建礼門院は涙をこぼしながら兄の言葉に同意したと伝わります。

建礼門院徳子  Wikiより
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都落ちの話を何の者から得たのか分かりませんが、7月24日の夜に後白河法皇は近臣を1人だけ連れ、誰にも告げずに法住寺を離れて比叡山に逃げました。此の話を聞いた平宗盛は大慌てとなりました!法皇が不在なら戦局を有利に運ぶ事が出来ないからです。後白河法皇はあっさり簡単に平家に見切りを付けたのです。そして裏切られた平家は6歳の安徳天皇建礼門院を連れ、最後に源氏にくれてやるくらいなら....と住んでいた館に火を放ち都から落ちて行きました。此の場面は何時も悲喜交々な情景が目に浮かびます。

此処で雅な平家らしい逸話がごさいます。清盛公の異母弟である薩摩守平忠度の話です。平忠度と言えば熊野生まれ熊野育ちで平家一門の中でも指折りの武勇を誇った武者です。其の膂力は凄まじく、正に怪力無双だったと伝える書籍もございます。また武勇に優れる一方で和歌の大家である藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)に師事しており、文武共に優れた武人でした。歌の師匠である藤原俊成千載和歌集の撰者を務めた方でした。

薩摩守平忠度 Wikiより
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平家一門が福原へ向かう中で薩摩守平忠度は師匠である藤原俊成の屋敷を訪れたのです。藤原俊成と会った忠度は平家一門の運命は尽きた事を伝え、自作の歌を100首ほど書き留めた巻物を渡したのです。『此の後に世の中が鎮まり、貴方に撰集の勅命が降った時、此の中にしかるべき歌が在れば、例え一首たりとも勅撰和歌集に載せて頂きたい。そうすれば私は草葉の陰で喜び、あの世からあなた様をお守り申し上げます』と伝えました。現在の人が思うよりずっと歌人が自分の歌に込める思いは強かったのです。先にもご案内したように歌は神々に捧げる物であり、偽りざらぬ気持ちを込めた神聖のものなのです。つまり歌自体が薩摩守の魂がこもった物だったのです。

こちらも薩摩守平忠度です。Wikiより
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此の巻物を受け取った藤原俊成は感動してゆめにも粗末にはないと忠度に伝えたのです。そして今の様な大変な時に訪れてくれた事に対して感涙に咽せたと伝わります。

藤原俊成 Wikiより
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忠度は『屍を野山に晒しても、今は浮き世に思い置くことなし』と告げて俊成の館を去ったと言われております。後に藤原俊成薩摩守の遺言の通り千載和歌集に一首を載せました。しかし朝敵となっでしまった平忠度の名前は出さずに読み人知らずとして載せたのです。

『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな』 故郷の花 読み人知らず


平忠度はその後一ノ谷の戦いにおいて源氏の武将である岡部忠澄と戦って討ち取られました。享年41歳であったと伝わります。


次に続きます


注釈1
本間順治先生は刀剣研究の大家です。お生まれは山形県酒田市の豪商本間家で武蔵七党筆頭の横山党の末派です。國學院大学を経て東京国立博物館で勤務した後に本間美術館の初代館長となります。刀剣の日本的権威であると同時に文学博士の側面も持ちます。日本美術刀剣保存協会の設立に携わったり戦後の日本刀の地位向上に貢献された方です。本間順治先生の祖父や父上も大変な愛刀家であったと言われております。また本間順治先生は別名を薫山と号しており、刀を見て納得した時は鼻をクンクンと鳴らす癖があった事に由来すると伝わります。

日本美術刀剣保存協会 HPより
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戦後にGHQにより全ての武器が没収されて世界に誇る神器の文化が消滅しかけた時に『日本人は刀剣の美しさを鑑賞し、先祖を偲ぶいう面から大切にしている』と唱えてGHQに働き掛けました。この動きに米国の愛刀家であるウォルターコンプトン氏が感銘を受け、日本人の魂を日本へ還そうと蔵刀の月山を二口を本間美術館に寄贈したのです。本間順治氏のこうした活動が功を奏し、刀剣の美術品としての価値を米国に認めさせることに成功しました。故人を評価する方により色々御意見は有るみたいですが、私も1人の愛刀家として日本人の精神的支柱である刀剣をコーカソイドから守った事は偉大な功績だと考える次第です。