みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 10

※ 北陸での戦い

平家の軍は北陸道に進軍している途中に民家だけでは飽き足らず、公家及び寺社の荘園から多くの物を税として略奪しておりました。踏み荒らされた荘園を管理する公家からは平家の棟梁である平宗盛に大クレームが入りましたが、宗盛は軍規を正す迄には至りませんでした。何故かと言うと此の大軍は総大将こそ平維盛でしたが、多くが平家と結び付きが強い武士では無かったのです。

其の進軍も統率は取れておらずにバラバラであったと伝わります。大将軍である維盛と通盛は順調に進軍しておりましたが平忠度、経正など次に控える副将軍はかなり進軍が遅れていたと伝わります。中でも副将軍の一人であった平経正は進軍途中に琵琶湖の竹生島に上陸し、配下の事や留まる事による兵糧の消費、又は進軍の遅れを顧みず、霧に煙る竹生島の余りの美しさに得意の琵琶を用いて『上玄』と『石上』と言う二曲を奏でて奉納したと伝わります。平経正の琵琶は稀有な名器で『青山』と言う名前が付いてました。雅な行動と捉えれば或いはそうかも知れませんが、平家の命運を掛けた副将軍の取る行動では有りませんね。古より上に立つ人間に『私心』は厳禁であり、全ては『公』の為に動くものです。もう其処には民の生活を守る武人の配慮は無く、貴族化してバラバラな平家の姿があったと言われております。

竹生島 確かに綺麗です! Wikiより
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平経正と名器『青山』 Wikiより 琵琶の音色を聞かれた方も多いと思いますが、身体の芯奥に響く音であり心が揺さぶられますね。
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義仲公自身は越中国府に有りましたが、今井兼平や根井行親の子である根井小弥太を加賀国に派遣して色々な備えを行いました。最初に平家の大軍を迎え打つのは北陸の諸将でした。諸将の中では今まで平家に組みしてましたが周囲の豪族が義仲公に合力しているので、取り敢えず味方した者も混じっておりました。此れは平家も源氏も戦闘貴族と言う性質上で仕方ない事だと思われます。

※ 燧ヶ城(ひうちがじょう)の戦い
寿永二年四月(1183年)に北陸合戦の初戦が越前国府の近くに有ったこの此の燧ヶ城の戦いです。平家の進軍を阻む為には狭い間道において大軍の利を使えない状態にする必要がございました。其処で根井が発案した策が街道沿いに有った燧ヶ城(ひうちがじょう)に諸将が集結し、地形を利用し川を堰き止め、人造湖を造って平家軍の進軍を阻む戦略でした。

燧ヶ城が有ったと伝わる地区 『乱世を駆ける』より
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参陣した武将は宮崎太郎、平泉寺斉明、石黒氏、林氏、冨樫氏、土田氏、佐美氏など北陸の武将6,000余騎です。其の中には此の作戦立案時に異を唱えた平泉寺長吏という越前斉藤氏の一族がおりました。燧ヶ城は元々山裾に建てられた堅固な城だったと伝わります。地形を簡単に説明すると燧ヶ城の後ろが山、川を挟んで前も山。其の山の周りを2本の川が流れておりました。そこで其の川を堰き止めたのです。城の周りを水で満たしたら街道も水で満たされてしまい、最早誰もこの城を攻める事は誰も叶いません。

いきなり目の前に湖が現れた平家は手前の山に留まるしかございませんでした。しかし平家は大軍である事に対して北陸の武将軍団は6,000余騎です。つまり数的には6,000対100,000と成り圧倒的に不利な状態だったのです。

此の圧倒的兵力差の中で北陸諸将の軍から裏切り者が出たのです。其の名は平泉寺斉明! 平泉寺斉明は此の湖は川を堰き止めて作っただけの急拵えの物で堰を壊せば立ちどころに水は引く事や、堰の有る場所などの軍事機密を記した書簡を矢文にして平家の陣に向かって射込んだのです。平泉寺斉明の裏切りは故郷を守る為に参陣した多くの北陸武士の血を流す結果につながりました。

戦闘用の矢は太い雌竹が使われておりました。
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日本の矢は育ちの良い真っ直ぐな竹の中から更にねじれの無い良い物を選び、火入れと溜め木で職人が曲がりを矯正し、木賊(とくさ)で削り混むなど数々の工程を得て完成されます。単純な矢として精度的に恐らく世界一だと考えます。

すみません! 脱線致しましたので話を戻します。平泉寺斉明は越前斎藤氏の一族です。越前の斎藤氏は代々強い勢力を持っていた平泉寺に子供を差し向け、其れにより勢力を保っておりました。平泉寺とは福井県勝山市に有る由緒ある寺院です。斉明は元々平家に与しておりましたが、回りが義仲軍になって行ったので仕方なく義仲軍に合力してました。しかし此の兵力差では平家の大軍に敵わないと考えての裏切りでした。

平泉寺の現在は平泉寺白山神社として残ります。 Wikiより
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責め手を欠いていた平家は此の情報を聞いて大喜びです。平泉寺斉明は50騎を率いて平家に寝返ったと伝わります。平家は堰を破壊し水を抜いて軍を進めました。こうなると他勢に無勢です!北陸の諸将達は敗走し燧ヶ城は落ちたのです。善戦した北陸の諸将ですが、転戦しながら落ち延びて加賀の篠原に準備してあった城に入ったと伝わります。このまま義仲公がいる越後国府に向かう道もございましたが、誇り高い北陸の諸将は越後には向かわず敵に一矢報いる厳しい道を選びました。私は此処の場面に来ると誇り高い北陸諸将の心意気に何時もぐっと込み上げるモノが有ります。

武者押しの光景
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越中長畝城で休息した平家軍は北陸諸将の居る篠原に押し寄せてまいりました。誇り高い北陸の武人である宮崎太郎、林光明、冨樫入道、倉光氏などが此れに応戦致しました。ところが平家軍には此方の戦力を熟知した裏切り者の平泉寺斉明がおります。腹が立つ話ですが、合戦用に造られた小城の位置は平家方に全て知られておりました。それでも勇猛果敢に北陸の武士達は善戦したのです。しかし時が経過するにつれて持ち堪えられず安宅の湊まで引いて陣形を立て直しました。ところが此処でも圧倒的な数の平家軍に攻め立てられたのです。激戦の中で石黒党の石黒太郎光弘が敵の放った矢によって斃れてしまいました。宮崎太郎を筆頭に結束の強い北陸武士団は石黒の敵討ちと猛烈に平家の軍を押し返したのです。しかし討ち取っても次から次へと雲霞のように攻めてくる平家の大群の前には成す術もなく、多くの死傷者が出ました。そんな激戦の最中にとうとう宮崎太郎にも敵の矢が当ってしまいました。深手を受けた宮崎太郎は落馬したと伝わります。配下の武将は自らを盾として宮崎太郎を守ったと言われております。

武者押しの光景
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流石に精強を誇る北陸武士団も平家の猛攻に疲れ果て、此のままでは全滅になる可能性が有りましたので一旦は軍を引いたのです。石黒党と宮崎党は越中に落ち延び、林六郎光明の隊と冨樫入道の隊は林の居城まで引きました。林の城は天然の要害に守られた堅城であった事と前方の敵には万全の備えを準備していた為に平家の大軍を押し返す守備力を充分に持っておりましたが、平家には此方の備えを知り尽くした裏切り者の平泉寺斉明がおりました。夜陰に紛れて防備の手薄な背後を突かれてしまったのです。止むを得なく林隊と冨樫隊は城を捨てて越中に向かったのです。此の様に北陸の戦いにおける前半戦は裏切り者の平泉寺斉明のおかげで勇将石黒太郎光弘が討ち取られ、宮崎太郎も深手を負うなど多くの死傷者を出して平家軍の優勢に終わったのです。これで平家軍は加賀の国を手中に治めた事になります。

平家軍は連戦連勝で兵の士気も高い状態でした。平家軍の1番の目的は義仲公の討伐です。平家軍は義仲公が越後国府から越中に入る為に必ず親不知(当時は寒原)を通るので、前もって親不知に兵を送り義仲公の進軍を阻む事で、次は越中も手中にする作戦に出たのです。この任は平盛俊が受けました。平盛俊は五千の兵を預かって倶利伽羅峠(砺波山)を越えて越中に進軍致しました。
 
 
義仲公は燧ヶ城が落ちた事と北陸の武将達の大苦戦と言う知らせを冨樫入道の送った伝令から聞きました。そして直ぐさま精鋭を率いて国府を出たのです。叔父の行家には1万騎を与えて能登越中の国境にある志保山(しほざん)へ向かわせまました。そして義仲公は最も信頼する猛将今井四郎兼平に六千の兵を預け、先発隊として自分が到着するまで平家軍を絶対に越中に入れるなと命じて盤若野に向かわせたのです。

今井兼平に託された仕事は平家軍を倶利伽羅峠の向こうに撤退させる事でした。義仲公は少し前に起こった頼朝公との一触即発の場面においての難しい政治駆け引きなどもそうですが、此処一番では必ず兼平に託します!今井兼平という武将は余程に優れた人物だったと推測されます。

さあ猛将今井四郎兼平による盤若野の戦いがいよいよ始まります!連勝に沸く平家軍と決死の覚悟を持って戦いに挑む兼平隊との対決と成ります! 次回にコレからの戦いにおける動きが分かり易い図を載せますのでご参照下さい。

『乱世を駆ける』に当時の武具の紹介があるので拡大して御覧下さい。写真は指で広げれば拡大可能です。
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此の丸いドーナツみたいな物は弦巻(つるまき)です。予備の弓弦(ゆづる)を巻いておく道具として左腰に装着しました。弓弦にクセが付かないように丸くして携帯する為に考案された優れ物なのです。電車の吊り輪みたいですね!
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次に続きます