※ 旗上げまでの経緯
治承4年(1180年)に後白河上皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が源頼政の説得により平家討伐の令旨を出します。此の時に頼政が以仁王に伝えた源氏の武将は50人を上回り、其の数の多さに以仁王は勇気づけられたと伝わります。信濃では八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光公の直系である岡田親義や同族の平賀盛義に伝わりました。そして源義賢公の嫡子である義仲公に伝わったのです。信濃国ではこの3人に令旨が伝わりました。
令旨(りょうじ)とは皇太子や皇后の命令を伝えるため発行された文書の事です。対して天皇の意を伝える文書は綸旨(しんじ)や宣旨(せんじ)と表現されてました。
此の令旨を源為義の十男である新宮十郎源行家が以仁王の令旨を持って全国を伝え歩きました。
源行家 wikiより
源行家は頼朝公や義仲公から見ると叔父にあたる方となります。駒王丸のお父さんである義賢公は次男です。義朝公→義賢公〜〜と来て最後が行家です。どうも個人的感情が先だったしまって詳しく紹介しておりませんが、此の新宮行家が義仲公を頼った事で後に義仲公に大きく貢献した事と逆に大きな厄をもたらせた事があります。
まず頼朝公の幕下に身を置いていた時、行家は頼朝公に領地を無心します。しかし公平を旨とする頼朝公は其れを認めませんでした。頼朝公と不仲になった行家は墨俣川の戦いでボロ負けして義仲公を頼ってまいりました。其の時に覚明(注1)という僧籍の男を連れて来たのです。覚明は義仲公の義侠心に触れて幕下に加わりました。此の覚明は義仲公の戦いに大きく貢献しました。義仲公が討ち死にされた後も大きな働きをしたと伝わります。最も行家が義仲公の元に来た事で義仲公は後に嫡子を頼朝公に渡さなければならなくなります。
※ 以仁王と頼政が挙兵とその後
挙兵した以仁王と源頼政ですが、陰で行家が動いているのを熊野別当湛増に見破られました。以仁王と源頼政の動きが清盛公に露見してしまいまったのです。その後は平家の大軍に囲まれて惨敗し、頼政は嫡子仲綱と共に平等院にて自刃、以仁王も奮戦したのですが討ち取られてしまいました。しかし一度くすぶった炎はそう簡単に消えません。
平家は以仁王の令旨が全国の源氏に伝わっている事を知っております! 当然ですが平家は危険な芽を摘む行動に移る事は想像に難く有りません。伊豆の頼朝公もその様な理由で治承4年に挙兵し、石橋山の戦いに挑みました。先を急ぐようで申し訳有りませんが治承4年〜治承5年は激動の2年でした。まず治承4年としては平清盛公の娘さんが産んだ子が安徳天皇として即位しました。コレで清盛公は天皇の外祖父となるのです。同じ歳に以仁王が平家討滅の令旨を発しました。そして此の年に富士川の戦いで平家が大敗します。治承5年は一代の英傑である清盛公が高熱を発する謎の病で没してしまいます。この最中で義仲公は治承4年に挙兵して市川の戦いに挑んでおります!
以仁王 wikiより
※ 木曽次郎源義仲誕生
話は戻ります! 木曽では駒王丸が元服を済ませて若武者ぶりを発揮しておりました。義仲公の元服については京の石清水八幡宮で行ったとも、木曽の兼遠公の元で行ったとも伝わっております。木曽の兼遠公屋敷跡には『元服の松』という大きい赤松がございます。何にしても元服後は木曽次郎源義仲と名乗りました。
※ 元服前に兼遠公が動いていた内容
信州では事が起こる前に養父である中原兼遠公が先を読んだ行動に出ておりました。義仲公に当時の信濃国に於いて行われていた大々的な神事に参加する様に促していたのです。それは縄文の神である諏訪大社の(注2)御射山御狩神事(みさやまみかりしんじ)です。地域の豊作と風雨を防ぐ為の御贄(みにえ)を諏訪大明神に捧げる大切な神事でした。義仲公は巴や樋口兼光、今井兼平を従えて参加し、並み居る信濃の有力な諸侯の中で抜群の腕前を発揮したのです。さすが八幡太郎義家公の血を引く若武者よと信濃中の強者が認めたと伝わります。そんな中で下社大祝で武門の誉高い金刺盛澄は義仲公を娘婿にと欲しました。また当時日本一の名馬の産地であった望月を領していた(注3)海野行親も娘婿にと懇願して来たのです。金刺家は諏訪大社下社の大祝で諏訪神党の頭領、海野行親は信濃の名族である滋野一族(注4)の頭領です。両家共とんでもない力を持った勢力でした。兼遠公の考え通り、義仲公に信濃の大勢力が味方したも同然な仕儀となったのです。
金刺盛澄
義仲公の上洛の際は諏訪明神の神事があって行けませんでした。義仲公が没した後の残党狩りで捉えられ頼朝公配下の超ウルサ方である梶原景時に預けられました。しかし景時は盛澄の神技とも言える武技を惜しんで頼朝公に助命嘆願し、盛澄は鶴ヶ丘八幡の流鏑馬神事に参加する事となりました。其処で周囲の度肝を抜く神技を披露して一族の命を守ったのです。盛澄は梶原景時が没した後に諏訪に祠を祀って命の恩人の威徳を偲びました。敵味方に別れていた相手とはいえ、武芸に秀でた漢を守った梶原景時は苦労人だけに盛澄が歩んで来た辛く長い修練の日々を慮ったのだと思います。諏訪大社下社の駐車場に立派な金刺盛澄の銅像がございます。
根井行親 wikiより
実質的に義仲軍の指揮官でした。此の方は御牧の馬を利用した最強騎馬軍団を持った武人です。怪力無双で人情に厚く人望のあった武将と伝わります。海野行親と根井行親は同一人物であると私は考えます(諸説有り)。
大好きな武将なので写真をもう一枚! 根井大弥太行親 大きい体に大鎧を纏い、星兜を深く被った勇壮な姿です。糸巻き太刀拵えを佩いて、八幡太郎義家公が帯びていたと伝わる様式と同じ海老鞘短刀拵えを付けております。何とも強そうなお姿です。『乱世を賭ける』より
そんな中でとうとう木曽にも行家が以仁王の令旨を持って訪れました。中原兼遠公と義仲公以下は伏して新宮行家の読み上げた令旨を聞き入りました。兼遠公、義仲公をはじめ兼光、兼平、巴は恐らく武者振るいをしていたと思われます。少し前に伊豆の頼朝公にも以仁王の令旨が届いております。
改装前の義仲館に陳列してあった人形です。
新宮行家が令旨を読み上げるのを平伏し聞き入ってシーンです。 書籍『乱世を駆ける』より抜粋
しかし義仲公は直ぐに京に向かうのでは無く、自分を育ててくれた信濃の地を戦の無い様に平定してから京へ上ると決めました。此の決断に対して行家は憤慨しましたが、義仲公はあくまで自分と母親を受け入れてくれた信濃国を最優先にしたのです。此の場面は義仲公の誠実さが現れた最初の場面だと私は考えます。
ほどなく義仲公に源頼政と源仲家が平家方に敗北して討ち死にしたという一報が入りました。悲嘆に暮れている暇は有りません!義仲公は木曽で挙兵致しました。
※ 平家の追求
丁度この頃に兼遠公の元に平家からの使いが来ました。内容としては義仲公を匿っていた事を疑われて弁明の為に京の都に来るようにとの事でした。都に呼び出された兼遠公は、平家の問に対して『シラ』を切りました。そして仮に義仲を見つけたら平家に差し出すと話をしました。普通の武人ではなく兼遠公は宮中で大外記を勤める上級官僚です。其の中原兼遠公が言った言葉なので平家は納得したと思われます。しかし平家は兼遠公に起請文書くように指示したのです。此の時代の起請文とは熊野神社の牛王宝印が押してある紙の裏に記すものでした。熊野権現は嘘や虚言を許さない神さまですので効力は抜群でしたが、兼遠公は世を正す為なら熊野の神もお許しになると考えて記したものだと考えます。
熊野牛王宝印
其の後に兼遠公は根井行親に義仲公を託し、自分は剃髪し円光と名乗って林昌寺を開基し翌年には没してしまいました。英雄の養父としての役目はさぞ心身共にキツかったと思われます。中原家は代々宮中の大外記を勤めた家柄であり、兼遠公自身は木曽権守です。駒王丸と小枝御前を斎藤実盛公から託された事により、間違いなく源平合戦の一役を担った英傑です。兼遠公の子孫は有名なところで、次男である樋口兼光の流れを汲む直江兼続をはじめ様々なところで活躍致しました。私は釣りに行った時は林昌寺の前を通りますが、フィッシングキャップを取って必ず一礼する様にしております。
林昌寺 『乱世を賭ける』より
義仲公が旗上げを行ったと伝わる旗上げ八幡宮です。八幡さまの国道を挟んだ斜め前方に程無く南宮神社がございます。書籍『乱世を駆ける』より抜粋
写旗上げ八幡より100mくらい木曽川方向に向かった所に此の碑がございます。
碑は自然石に文字を彫ったモノですが、造形美とでも申しましょうか? とても力強く印象的な造です。神社の辺りの台地は下の段よりかなり高い場所にあり、義仲公の居館が有ったと伝わる事も頷けます。
義仲公が挙兵したと言う情報は瞬く間に信濃中を駆け巡っておりました。伊豆の頼朝公は既に旗上げを行い、石橋山の戦いで敗れて上総に逃れております。周りの源氏勢が敗れているなかで義仲公の初陣が始まります。多くの信濃の武将が義仲公の元に参陣致しました。其の中には先に紹介した岡田親義もおりました。岡田親義は八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光の五男と伝わり別格の武将です。一族を引き連れて参陣した事に義仲公は頼もしく思った事と思います。義仲公は此処から幼虫が蝶になる様に後世に語り継がれる合戦に勝利し華々しく活躍致します。
そんな中、神の国である信濃国にも戦乱の狼煙が上がったのです。平家方の有力豪族である笠原頼直氏が義仲討伐の為に木曽へ侵攻する動きを見せたのです、勿論ですが対抗する源氏側も動きました❗️
次回はとうとう初陣です!
次に続きます!
注1 覚明について
大夫坊覚明は義仲の右筆で有り、有能な軍師的な存在でした。武勇を誇る義仲陣営に有って筆が立ち諸事情に通じる知識人です。本名は信阿と言い、別に信救得業とも名乗っておりました。俗名は通広で藤原家出身と伝わります。原氏の勉学場である勧学院という学舎で学びました。その後は藤原氏の氏寺である南都興福寺の学侶をした経緯がございます。以仁王と源頼政が平家に対抗しようとして南都興福寺に書簡を送った時には興福寺は味方をしました。其の書簡の返書を書いたのが後の覚明です。文中に『清盛は平氏の糟糠 武家の塵芥』と辛辣な表現で清盛公を激怒させたと伝わります。此の事で都には居られなくなったのです。逃亡劇の末に墨俣川の戦いでボコボコに負けた新宮行家が三河に居たので此れを頼りと致しました。溺れるもの藁をも掴むです。その後の経緯として新宮行家は頼朝公と上手くゆかずに義仲公の所に身を寄せる事となりました。此の時に覚明も一緒だった事から義仲公とのご縁が生まれたのです。文脈を正して相手に意を伝える才能に長けており、都の情勢に精通し、以仁王と頼政の挙兵を詳しく知っている人物でした。個人的であり素朴な思いなのですが、何故に行家から義仲公に臣従する事を選んだのでしょうか? それと何故頼朝公のところに残らなかったのか? 私は義仲公のお人柄が行家は勿論ですが、頼朝公とも比べ物にならなかったのではないかと思う次第です。覚明が絡んだ事は沢山ごさいます。まず平家の食料補給路である北陸道を押さえた事、義仲公の都入りに際して延暦寺を味方につけた事、そして何よりも義仲公を征夷大将軍に押し上げた事です。また粟津で義仲公が最後を遂げた後に大夫坊覚明は義仲の子である義重と家臣30名余りを伴って広島に移り住んだとも伝わります。広島県尾道市向島町に覚明神社が存在し上述した事が伝わっております。頭脳明晰だけでは無く、忠義の心も貴族出身とは思えない傑物です。
注2
御射山御狩神事(みさやまみかりしんじ)とは、諏訪上社、下社とも盛大に江戸時代まで行われていた大切な太古より継続する神事です。最初に山宮という山頂にある社に大祝以下神官が詣でて国常立命や虚空蔵菩薩に幣を献じて始まると伝わります。鎌倉時代には幕府の庇護により全国の御家人が参加する全国的な神事に変貌しました。神野に生きる鹿や猪などのを狩って御贄として神に捧げるのです。当然良い獲物を獲った武将の表彰式も行われ当時は『矢抜』と言われてました。抜いた矢に個人を特定出来る矢羽などが有るからです。面白い話をすると鎌倉幕府は仏道の観点より建歴2年(1212)に鷹狩りを禁止しました。そんな中で信濃国諏訪大明神の御贄狩りだけは例外としました。そんな事もあって全国の御家人は諏訪明神を自領に分社して御贄狩りと称して鷹狩りを行ったのです。此の事で信濃からとんでも無く遠い地域にも諏訪神社が有るのです。
注3
海野幸親は根井行親と同一人物だと私は思いますが、全くの別人という説もございます。恐らくは同一人物だと思われますので此処では其の様にご案内致しますがご容赦下さい。平家物語は豪勇無双の根井行親の凄さを確り伝えております。『一人を脇に挟んで強くしめたれば 草葉の如して ちとも動かず』『鎧の上帯を取て 深田へ向て 投げたれば死にけり』と根井行親を語っております。義に厚く、配下より慕われ、怪力無双で合戦では無類の強さを誇った義仲軍団最強の漢です。宇治川の戦いで義経軍25,000に対して義仲軍はたった400でした。行親も千切っては投げ、千切っては投げで奮戦しましたが、多勢に無勢で最後には打たれてしまいました! 私は此の方がずっと後世に行われた姉川の合戦で太郎太刀を振り回し徳川軍を震え上がらせた豪勇真柄十郎直孝がカブるのです。根井行親は長男の行長、次男の行直、三男の楯親忠、四男の行忠など一族をあげて義仲公に従い、常に猛将ぶりを発揮して宇治川で華々しく散ったのです。
注4
滋野一族とは清和天皇の後裔と伝わります。古くから信濃に根付いた名家であり、海野氏、望月氏、根津氏の三家に別れました。因みに真田家は海野家の分家となります。真田家の家紋はご存知の様に六文銭と雁金ですが、六文銭は後世に三途の川の渡賃として伝わっております。しかし本当は星なのです、富士重工(スバル)のエンブレムと同じで『昴』であり、輝く六つの星を現しているのです。日本では『六連星』と言われており、読み方はムツラボシです。この六連星は遠くギリシャ神話に於てもプレアデス神話として現代まで伝わっております。不思議なのがギリシャ神話を読んでいると星が7つある様に書かれてます。チャイナでは昴宿(ぼうしゅく)と表現されてますね。