みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 8

北陸への進軍

物語の都合上により此処で少し頼朝公の話をしないといけません。頼朝公は横田河原の戦いの少し前に行われた富士川の戦いで勝利した後、平家を追い討ちせずに自分の地盤を固める為に一旦鎌倉へ戻ります。此処が政治の天才である頼朝公の少し違うところですね! 頼朝公は鎌倉に於いて政務機関の整備を行い、従った武将に土地の所有権を認める『本領安堵』や功の有った者には新たな所領を配分する事により、恩を受けた武家が今度は頼朝公に奉公すると言う仕組みを創ります。つまり幕府の根幹となる御恩と奉公の仕組みを創って行ったのです。当然ですが此の仕組みは幕府を頂点とするシステムです。従って逆らう者や幕府に無関心な者は存在してはいけない事に成ります。論功行賞を済ませた頼朝公は直ぐに出陣致しました。


鶴ヶ丘八幡宮で行われていた流鏑馬の射手です。以前にたまたま鶴ヶ丘八幡に訪問したら武田流流鏑馬が行われておりました。
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しかしそんな頼朝公は木曽義仲公が見事に横田河原の戦いに勝利した事により、義仲公の関東における勢力拡大を恐れ、都とは真逆な北関東への勢力拡大を図ったのです。北関東の源氏一族には清和源氏源頼信の流れを組む志田氏、足利氏及、新田氏、佐竹氏がおりました。同じ清和源氏でも畿内に留まる一族と地方に基盤を求めた一族が居たのです。上述の一族や信濃源氏などが其れにあたります。此の事は平氏でも同じで、上総平氏、千葉氏、三浦氏、河越氏などが其れにあたります。鎌倉幕府執権北条氏も伊豆に活路を求めた平氏の一族でした。

中央とは別の独立した動きをしていた北関東の源氏一族の中で、平家に取り入って勢力拡大を図っていたのが佐竹氏でした。頼朝公は同じ源氏でも平家に味方した佐竹氏のを討伐を行う事で北関東の源氏一族に武家の頭領は頼朝だと分からせる様に仕向けたのです。こう言う時の頼朝公は源氏一族でも全く容赦しません。

そんな頼朝公も後に自分の血縁が3代で絶えるとは夢にも思って無かった事でしょう。そして鎌倉幕府を担った北条家も後に源氏の地方豪族である足利氏によって滅ぼされるのはご存じの通りです。

頼朝公による佐竹討伐は治承4年10月27日に行われました。富士川の戦いが同年の10月20日でしたので間髪入れない進軍だった事になります。佐竹氏の常陸国金砂城は難攻不落の山城でしたが、頼朝公は騙し打ちに近い色々な策略を用いて此れを落としました。奥七郡(常陸北部)を支配する佐竹氏を落とした事で常陸の豪族の大部分は頼朝公に従ったのです。

残る北関東の有力な源氏勢力としては、頼朝公や義仲公にとって叔父にあたる志田義広(注1)でした。志田義広常陸国志田を拠点した武将であり、都に居た時は帯刀先生の職についていた重鎮です。肥沃な常陸国で基盤を築いていた志田義広は強い勢力を持ち、甥にあたる頼朝公が鎌倉に武家政権を開いても全くなびかない武将でした。頼朝公は例え叔父にあたるとしても源氏の頭領は自分であるとして、鎌倉に有りながら執拗に揺さぶりを掛けたのです。志田義広は徐々に追い詰められて行きました。頼朝公は追い詰めながら志田義広討伐の謀略を着々と進めて行ったのです。

その後ずっと我慢して来た志田義広は、やがて堪忍袋の緒が切れて頼朝公に対して挙兵したのです。座して滅亡を待つより一戦交えて一矢報いたいと考えていたかも知れません。領地が隣接している藤姓足利氏と同盟を結び、更に小山朝政にも挙兵を呼びかけました。小山朝政は下野国寒河御厨(注2)を本貫地とする豪族です。小山朝政は志田義広に味方する旨を伝え、館に来て一緒に軍議をしたいという旨を義広に伝えて来ました。其処で志田義広は軍を率いて小山朝政の館に向かったのです。

しかしこれは頼朝公が練った謀略でした。頼朝公に懐柔されていた小山朝政は警戒を解いて行軍していた志田義広の軍を待ち伏せして襲ったのです。此の戦いを『野木宮合戦』と言います。戦いの内容は省きますが大混戦だったと伝わります。志田義広は強い武将ですので小山軍程度なら蹴散らしますが、今回は警戒を解いていた事と小山朝政の軍に源範頼や結城朝光等の援軍も加わっていた事が災い致しました。流石の志田軍も多勢に無勢で劣勢となります。やがて多くの死傷者を出して志田義広は僅かな兵と共に敗走致しました。この戦いは小山軍の勝利と成りました。頼朝は志田義広の領地を召し上げ、更に志田義広に味方した武将の領地も全て取り上げ、小山朝政と小山側についた武将に恩賞として与えました。此の事により小山氏や宇都宮氏などは後の鎌倉幕府における有力御家人としての地位を固めます。更に此の戦いにより北関東で頼朝公に歯向かう勢力は無くなったのです。

当時の関東地方の地図 wikiより
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落ちのびた志田義広は兄弟である源行家と一緒に信濃国与田城にあった源義仲公を頼ったのです。源行家は頼朝公と口論になり、頼朝公から離れておりました。義仲公は叔父である2人を快く迎え入れたのです。身内に厚い義仲公は此の二人を招き入れた事で後に大きな災いをもたらせます。 

頼朝公は同族といえども反目する者には容赦ない仕打ちを行いました。其れに対し義仲公は大きな合戦に勝利し、合戦に勝利した強い武家を多く従えているにも関わらず、信濃国の源氏に対して脅したりする事は一切有りませんでした。横田河原の戦いを傍観していた同じ源氏の村上氏や平賀氏に対しても参陣を強要する事は全く無かったのです。此の様に頼朝公とは全くタイプの違う源氏嫡流の義仲公に、北陸の大勢力である宮崎氏や石黒氏は付き従ったのです。漢が漢に惚れたのかも知れません!此れを知った頼朝公の義仲公に対する警戒感は更に増して行きました。

さて義仲公は横田河原の戦いの後に城長茂が去った越後国府に入りました。此処から北陸道に沿って兵を進める為です。此処から北陸道に沿って新たな戦いが始まってまいります。先にもご案内しましたが北陸道は平家の食糧調達路です。北陸にも平家の横暴に不満を持つ勢力が多く存在しておりました。

越後国府について少し説明致します。現在の糸魚川市近辺から石川県にまたがる地方を往古には『越の国』と呼ばれておりました。その後に越前・加賀・能登越中・越後・出羽の六つの国に分かれて其々に国府が置かれました。此の時の越後は現在の頸城郡(くびきぐん)に国府が置かれていたと言われております。これは現在の上越市の事です。国府を置いたので上越後(かみえちご)と呼ばれ、『上越』に成りました。ですから越後国府とは新潟市では無く、日本海沿岸の上越市に有り、海岸線を通れば富山県や石川県には容易に行けたのであるとご理解頂ければ幸いです。(実際の街道は海岸線ギリギリを通り、常に波にさらわれる危険性が有った街道でした(親不知子不知が有名ですね)。


越の国の女王で大国主命の奥様である奴奈川姫。新潟県糸魚川駅前にある像です。
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親不知子不知 
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此の写真の山と海の際の部分が街道でした。高波が来たら一発アウトでオサラバとなります! 親と子も別れて走るくらい危険だったと言う事です。此のこの街道を北陸の武将は通過していたのです。かなり危険な道であったと思われます。 糸魚川市HPより 

当時の北陸(越中、加賀、越前)には武士団を率いる貴族が居りませんでした。越中では宮崎党や石黒党が勢力を持ち、加賀には林氏が居りました。また越前には幼い駒王丸と母である小枝御前を救ってくれた斎藤実盛公の出身地と言う事もあって斉藤氏が勢力を持っておりました。北陸の豪族は信濃国より都に近いので直接的に都の要人と結びついた勢力が多く存在していたようです。

宮崎党を率いる宮崎太郎が北陸の武将に呼びかけを行い、石黒党や林光家を参集させました。越後国府にあった義仲公は北陸の有力武将が面会に訪れた事を喜んだと伝わります。此の『宮崎太郎』と出会った事は義仲公にとって大きな助けとなりました。宮崎太郎こそは義仲公が会うべくして会った北陸越中の英勇でした。

此の後に宮崎太郎の案内で越中入りした義仲公は大変な人物にお会いしたのです。その方こそ以仁王の第一皇子である『北陸の宮』だったのです。父親の以仁王が打たれた後で讃岐前司重季(さぬきのぜんじすげすえ)によって宮崎太郎の元に下向致しておりました。北陸の宮は義仲公の兄である源仲家を知っており、義仲公は深く感じ入ったと言われております。義仲公は宮さまを何時か京の都にお連れする事を誓いました。北陸の宮はこれ以降は義仲軍の正当性を証明してくれる御旗と成ったのです。義仲公は強大な勢力を持った宮崎太郎が味方に付くなど新たな足掛かりを北陸に得た事になったのです。越後の城長茂を破った事は本当に大きな影響を及ぼしておりました。義仲公は北陸に今井兼平と根井小弥太を残す事にしたと伝わります。

立山連峰  wikiより
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富山県と言えば立山ですね。雪の立山は正しく霊峰だと思います。恐らく北陸の宮も霊峰立山をご覧になっておられたと思います。それと日本酒の『立山』も最高ですね! 佐々成政の『成政』を冠した日本酒もごさいます。


越中清酒『なりまさ』です! 信長公黒母衣衆筆頭の勇姿を思い描きながら飲むと酒量
を忘れます。
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一方世の中では『養和の大飢饉』と言う深刻な食糧不足が起こっておりました。これは養和元年に発生した京都を含めた西日本一帯の大飢饉であり、源平の争乱期の真っ只中で起こりました。一説には餓死者が4万人を超え、都ではそこら中に遺体が転がり悪臭を放っていたと文献には残っております。平家の基盤はご存知の様に西日本です。此の間に平家は戦どころではなく、源氏追討なんて全く出来なかったのです。都には基本的に食料が無く各地から運ばれる物資のみが頼りでしたので特に酷い惨状でした。此の間に頼朝公も義仲公も基盤を固める事が出来たのです。 (フシギデスネ)

北陸の宮と言う旗印を得た義仲軍でしたが、此処で新たな火種が起こりました。源頼朝公が自ら軍を率いて鎌倉からやって来たのです。狙いは義仲公が本格的に力を持つ前に潰してしまおうと考えです。この頃の義仲公は頼朝公との争いを避ける為に依田城から越後国府に拠点を変えておりました。

頼朝公は野木宮合戦で落ち延びた志田義広と自分に不満をぶちまけて出奔した源行家が義仲公の元に加わった事を口実に義仲公に向けて兵をあげたのです。頼朝公からすると『匿った』となり、義仲公からすると『擁護した』です。頼朝公にとっては出過ぎた杭である義仲公を打つ丁度良いキッカケ、義仲公は叔父さん達が困って来たのだから助けてやりたいだけだったのです。

頼朝公の軍には事前の談判通りに甲斐源氏頭領の武田五朗信光が加わり、更に八カ国の恩賞目当ての武士も駆け付け、その数は十万程に膨れ上がっておりました。義仲公は身内と争いたくない気持ちです。対して頼朝公は身内でも自分になびく者以外はやっつけるという気概です。義仲公に決断の時が迫ります!

次に続きます。



※ 注釈

注1
志田義広について
都では帯刀先生の職に着いていた事もある源氏の重鎮です。志田義広は甥っ子で格下である頼朝公には決してなびきませんでした。頼朝公の父である義朝公は自分の父である河内源氏棟梁の源為義公とも争いました。志田義広からすると平治の乱ので負けた父の首を兄である義朝公自らの手で打ったので、そんな兄の子である頼朝なんかに従う気は全く無いのです。あくまで私感となりますが、志田義広は様々な文献を見るに人格者だったと考えます。父と長男が殺しあったと言う辛い思いをした志田義広は、むしろ家族を大事にした清盛公とは全く逆らう事が有りませんでした。

注2
御厨は『みくりや』と読みます。 御は『神』で厨は厨房(台所)となり、神様の台所、つまり神饌を調進する場所の事を言います。この時代の神社仏閣は多くの領地を全国に持っておりました。