みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 9

北陸の諸将と出会い、勇将である宮崎太郎を介して『北陸の宮』と巡り会った義仲公は越後国府に有りました。其処に同じ源氏の頼朝公が率いる10万の大軍が迫っております。先週もご案内致しましたが、この頃の義仲公は頼朝公との戦いを避けるために依田城から越後国府に移っておりました。

宮崎城からの日本海の展望 『乱世を駆ける』より
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頼朝公に義仲公を打つように仕向けたのは武田五朗信光という甲斐武田家5代目当主でした。武田信光は以前に義仲公と親睦が有りましたが、義高を婿にしたいと言い出しました。此れに対して義仲公が義高が年端もない年齢だっただけに色良い返事をしなかった事を根に持っていたのです。そこで頼朝公に義仲は平宗盛の娘を義高に娶って一緒に鎌倉を打つ算段であると諫言したのです。以後は私の私感ですが、頭の良い頼朝公は信光の進言を取り繕いであると知っていながら、源氏の棟梁は2人は要らないと考え、義仲討伐の兵を進めたのだろうと推測致します。

武田家の祖である新羅三郎義光 Wikiより
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頼朝公が軍勢を差し向けたのは寿永2年3月でした。当時と暦が変わっていると言っても信濃国はまだ雪が残る時期です。此の両雄の間には親の代からの凄まじい因縁が存在しております。義仲公は三千余騎で信濃と越後の国境にある熊坂山に陣を敷きました。対する頼朝公は信濃国善光寺に陣を敷いたとあります。

善光寺 Wikiより
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義仲公は同じ源氏同士で争うのは、平家方に有利に運びこそすれ源氏に利点は無いと考えました。其処で義仲公は書状をしたため、乳母子の今井四郎兼平を使者として頼朝公の陣へ送ったのです。書状の内容は源氏同士が争う愚、頼朝公に対して恨みを抱いていない事、頼朝公が総大将で自分は其の下でも問題無いとまで記してあったと伝わります。

今井四郎兼平 乱世を駆けるより
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佩いている太刀拵えは豪華な兵庫鎖太刀拵えです。それも柄の鮫皮には俵鋲が付いておりますね! 生家である中原家は宮中の外記を勤めた家柄なので兵庫鎖太刀が有っても不思議ではありません。

ゴメンなさい!話が脱線しましたので元に戻します。兼平から書状を受け取って一読した頼朝公は義仲公の気持ちを深く理解し、少し拍子抜けした事だろうとおもいます。しかし一度軍を率いて来たからには軍を引く理由が必要です。軍全員が頼朝公の臣下では無く、恩賞目当てで参陣した武将が多く、軍を引くには其れ相応の印が必要なのです。其処で頼朝公は義仲公の元に居る志田義広と行家を差し出せば軍を引き上げると今井兼平に伝えました。そして兼平は義仲公に伝える為に自陣に戻ったのです。

義仲公の陣では兼平が持ち帰った頼朝公の条件について話し合いが行われました。2人を鎌倉に渡しても義仲軍には全く問題が無いという意見や、一度懐に飛び込んで来た弱き者を敵に送るのは道に反すると言う意見が飛び交いました。其の軍議の中で今井四郎兼平は『いつか必ず頼朝とは戦うことになるのだから、やるなら今戦うべきである』と主張したと伝わります。

最終的な義仲公の判断として『叔父達は私を頼って我が軍に来たのだたら、其れをむざむざと殺されるであろう場所に渡す事は出来ない』と言う結論でした。兼平は其の返答を持って再び頼朝公の陣に向かいました。兼平から次第を聞いた頼朝公は『さもあらん』と思ったと推測致します。此処で頼朝公から代案が出されました。代案の中身は義仲公の嫡子である高寿丸を頼朝公の息女である大姫と婚姻させたいと言う内容でした。兼平は再び自陣に戻り、頼朝公より聞いた高寿丸を大姫の婿にする話を義仲公と満座の諸将の前で話しました。

源義高   Wikiより
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義仲四天王をはじめ列席した武将からは、嫡男高寿丸様と2人とを比べたら其の重さは比べ物にならない! 何故御嫡男をむざむざ人質同様に鎌倉に送らねばならないのか〜! などと怒りにも似た意見が飛び交いました。

満座の諸将の意見を全て聞いた義仲公は静かに決断致しました。決断は『叔父達の代わりに嫡男高寿丸を鎌倉へ送る』でした。義仲公にとっては『私』より『公』の方が優先だったのです。私も子を持つ親なので、此の決断の重さは想像の域を遥かに超えております。

この決断は義仲公の『公』を重んじる高潔な人柄が出た決断でした。自分から負けを選び配下の者達の命を守ったのです。信濃国の武将達も北陸の諸将も身内を犠牲にして配下を守った義仲公に深い感銘を受けました。

古い時代の様式を持つ甲冑をご紹介致します。此れは信濃国筑摩郡赤木郷の武将であった赤木忠長所用の大鎧(国宝)です。信濃の甲冑と刀剣より

陣を訪れた兼平から仔細を聞いた頼朝公は満足して鎌倉へ引き上げました。此の後に義仲公は高寿丸を元服ささせ『源義高』と名乗らせました。

義高は旅立ちの日に皆の前で見事な『笠懸』の業前を披露して出立したと伝わります。此の時の的と矢は現在の上田市丸子町に有る安良居神社に納められたと伝わりますが、残念ながら現存しておりません。源義高に付き従ったのは海野小太郎幸氏と望月重隆だったと伝わります。此の時が正しく当時11歳の義高が見た古郷の最後の情景となりました。鎌倉に到着した義高は頼朝公に拝謁しました。頼朝公は義高の顔が余りに自分に似ている事に対して喜んだと色々な文献に出ております。

後々の事では有りますが義高に近習として付き従った海野幸氏と望月重隆は、鎌倉幕府に忠義ぶりを評価されて御家人に列しました。鎌倉に着いてからの義高の話は、余りに悲し過ぎて私は胸が痛く、後の機会にご案内しようと思います。
  
笠懸 Wikiより
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笠懸とは走る馬上から標的を射る技の事です。儀礼的な側面が強い流鏑馬とは違い、笠懸は実践的で有り独自の発展を遂げたと伝わります。

一方都では飢饉の影響が薄れて次第に通常に戻って来た事により、いよいよ平家が源氏軍討伐の準備を始めておりました。北陸道は都への食糧を運ぶ大事な街道なので、まず北陸道にいる義仲公を打ち滅ぼし、其の後に頼朝公を倒そうという計画です。起死回生を狙う平家の軍は平維盛が率いる10万の大軍でした。特に平家の地盤である山陰道山陽道南海道西海道の兵たちが集まりました。`東山道も近江、美濃、飛騨の兵が来ました。ところが東海道遠江より東の兵は1人も集まらず、北陸道に至っては若狭より北の兵が一人も来てない状態だったと伝わります。

都を発った平家軍ですが、なんと此の討伐軍は行軍の費用に充てる物資が足りておらず、道中における徴収権を与えられていたのです。通常の軍勢は足りない物資を地域の民から通常の3倍程の値段で買い付ける事が慣例でしたが今回は『徴収』でした。

平家軍は滋賀県大津市に有った逢坂関(おうさかのせき)を越えてからは、街道筋に点在する裕福そうな家に押し入って食料などのを軍事物資として略奪致しました。平家軍が街道に沿って略奪と乱暴狼藉を繰り返して行軍しましたので、地域の人々は堪らずに山野に逃げてしまったと伝わります。


次に続きます。