みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 7

義仲公が平家に対して反旗の動きをしている事はあっという間に信濃国中に広がっておりました。その頃の義仲公は兼遠公の元を離れて根井行親の庇護を受け、拠点を依田城に変えておりました。

春日大社にある国宝に指定されている大鎧です。
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平安時代に騎乗で矢を射る高位の武将の姿が身に浮かびますね。しかし幅広で高い鍬形ですね! wikiより


参集した武将を『源平盛衰記』から見てみると根井大弥太行親、根井小弥太、楯親忠、八嶋行忠、落合兼行、根津貞行、根津信貞、海野行弘、小室太郎、望月次郎、望月三郎、志賀七郎、志賀八郎、桜井太郎、桜井石突次郎、平原景能など錚々たる信濃武士です。義仲公が依田城を拠点としたのは東信濃の武士達の結集が一つの目的だったと思われます。

依田城跡 『乱世を駆ける』より
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信州には信州→神州と言われる伝承が多く残ります。特に信濃国に攻め入る武将は其の事を重く考えていたと色々な文献でよく見ます。特に北信から東信にかけては大国主命と『越の国』の女王であった『奴奈川姫』の御子神である『建御名方神』に関係する伝承が多く残ります。建御名方神信濃国一の宮である諏訪大社の御祭神の一柱です。建御名方神と奥さんの八坂刀売命との間にお生まれになった御子神様に纏わる伝承を持つ神域が多く残っているのです。例えば佐久地方の新海三社神社のご祭神の一柱である興波岐命は建御名方神御子神さまで『諏方大明神画詞』では『新開之神』(にいさくのかみ)と記されてます。にいさくの『サク』が現在佐久平インターの有る佐久市の語源となっております。また信濃には修験道の聖地である霊峰飯綱山や天津の神々唯一の共同作業であった『天の岩戸伝説』における天の岩戸を手力男命が運んで隠した戸隠山も存在しております。また安曇野には海洋民族である安曇族の祖神を祀る穂高神社伊那市にはゼロ磁場の分杭峠秘仏である阿弥陀如来三尊像を本尊とする善光寺、古代の神である生島の神と足島の神を祀る生島足島神社、国宝仁科神明宮など沢山の神域を有します(生島大神.足島大神は国土の神様で有り格式的にも別格の神様です)。


話は義仲公の事に戻ります! 新しく拠点とした依田城は現在の上田市御嶽堂に有ったお城です。時期の表記は前後致しますが、義仲公は武蔵国大蔵館で焼き討ちされた父親の旧領である上野国(こうずけこく)の多胡郡に赴き、亡父の旧臣である多胡党と称する軍団を味方に付けました。味方に付けた中に源頼政に従って戦った矢田義清がおります。この方は並の武将では有りません!目立ってはおりませんが豪傑であり、後の数々の戦いに参加して武功をあげ、最後は平家が船戦の強さを見せ付けた『水島の戦い』の最中に凄まじい最後を遂げた武将です。此の戦いで陸戦中心の源氏は、始めて水軍の戦い方を知ったのです。あまり知られていない事ですが、陸と海の戦い方は戦法が全く異なるのです。

※ 市原合戦 治承4年9月
信濃国では平家方の豪族である笠原頼直が兵をあげました。笠原氏は高井郡笠原(現在の中野市)を拠点としておりましたが、善光寺一体の支配を目論んで戦いを挑んで来たのです。善光寺を治めていたのは河内源氏村上流の栗田寺別当範覚です。栗田範覚は盟友の村山義直と組んで此れに対抗しました。軍を進めた両軍は信濃国市原にて合戦と成ったのです。笠原頼直は強い武将だったと伝わります。両軍一歩も引かない一進一退の激戦を繰り広げました。信濃国市原とは現在の長野駅の近くにである長野市若里辺りを指します。(街道の支道沿いに位置する麻績村では市原合戦と麻績.会田の合戦が同じであると伝わっております 注1 )


wikiより  
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激戦だった市原合戦の舞台となった長野市若里にあるビックハットです。長野オリンピックではホッケーの会場となりました。同じように若里にはNHK長野放送局や長野赤十字病院など県内とって大事な枠割をする建造物が多く存在します。

市原合戦は両軍激しく刃を交えましたが、戦力は拮抗しており、陽が落ちても決着が付かまずに夜を向かえました。そんな中で源氏方の陣から依田城に救援要請の使者が送られました。傷だらけの使者から報告を受けた義仲公は使者の手当を行い、使者に戦略を授けました。さっそく義仲軍も直出陣の支度に取り掛かりました。義仲公の旗下に列する武将達は其の力は山をも抜く猛者達です! しかし兵をの数は少なく、おおよそ3,000騎だったと伝わります。

栗田範覚と村山義直の軍は敵と正面衝突を避けて義仲軍の到着を待ちました。笠原頼直は苛立っていたと思います。しかし敵とはいえ笠原軍も元々強い軍です。義仲公が救援に来る前に決着をつけようと大奮戦したと伝わります。しかし予想に反して義仲軍は早く到着し、あっと言う間に形勢を逆転させました。味方総崩れで劣勢に成った笠原頼直は、直ぐに兵を引き上げて越後の大勢力である城長茂を頼って命からがら落ち延びたのです。

笠原頼直が頼った城長茂(じょうながもち)は従五位下越後守です。当時の城氏はとんでもなく巨大な武士団でした。長茂自身も身長が7尺(2m10cm)を超える偉丈夫だったと伝わります。現代と比較するとしたらジャイアント馬場が2m9cmなので同じ位の大きさです。今から840年前は5尺を超える大男と言われた時代です。小学生の中にジャイアント馬場が居る感じでしょうか?


横田河原の戦い 治承5年6月
とうとう前半戦のハイライトが始まります!
この少し前に一代の英傑である平清盛高が没しており、平宗盛が平家一門の棟梁となっております。


横田河原のスーパー略図です! 
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私が筆ペンと蛍光マーカーで書いた稚拙極まり無い図なので分かり難いと思いますが、どうかお許しください。此の図を見てピンとくる方も多いと思います。若干のズレはございますけど横田河原の合戦は後世の川中島の合戦とほぼ同じ場所で行われました。横田河原の合戦の有った平安時代後期から三百数十年の時を超えて信玄公と謙信公が同じ場所で戦ったのです。川中島はそれだけ往古より重要な場所だったという事になりますね! 少しだけ川中島の話を致します。千曲川犀川から運ばれる肥沃な土壌は大きな恵みをもたらせました。信玄公と謙信公が争った時の川中島一体で収穫出来るお米の量は、当時の越後一国の取れ高を上回っていたと言われております。余り知られておりませんが、実は恐るべし川中島なのです! 


市原合戦後の義仲公率いる信濃源氏軍は、大勢力である城長茂軍と如何にして戦うかの軍議を、連日依田城内で行っていた事だろうと推測致します。越後と信濃を結ぶ道は幾つかあるのですが、三国峠を超えると依田城は直ぐの場所にごさいました。城長茂と合戦に出陣した後に城氏の別働隊が三国峠を超えて留守になった依田城に攻め込む可能性があるので、此方も別働隊を編制するなど色々な決め事が定められいたと思います。

しかし義仲軍には海野家や滋野一族など周辺の地形に明るい武士団が多く存在するだけに、地の利は義仲軍にありました! 文献によると義仲軍は隊を幾つかに分けて戦いに挑んだと伝わります。それぞれの隊には歴戦の猛者が大将に付きました。文章で書くとお伝えし難いのですが、実はこれだけでも大変な驚きなのです! 例えばですが当時に於いて諏訪大社善光寺犬猿の仲だったと伝わります。つまり普段はあまり仲のよくない武将同士が組んでいた事になります。そう考えると其処は義仲公の血の力と御人徳だったかも知れません。

城長茂は何と1万(一説には4万)の大群を引き連れて横田城から押し出して千曲川の手前に布陣致しました。一方義仲軍本隊は千曲川沿いに兵を進め、雨宮の渡しを渡って城長茂と対面する形で布陣したのです。義仲軍は隊を幾つかに分けている常態だったので、城長茂から見れば目の前に布陣する義仲軍本隊は少ない兵数に見えたと思います。越後から進軍する大軍を見て信濃の小さい城は殆ど長茂に恭順の意を示してまいりました。大軍を率いていた長茂は少し義仲軍を甘く見ていたかも知れません。義仲軍は寡兵とは言え寄せ集めでは無く、義仲公の下に自分の意思で参陣した猛者たちなのです。矢合わせの後で両軍は戦闘を開始しました! 此処の地形の良いところは多勢で囲もうとしても山や川が其れを阻み、一気に攻められないと言うところが有ります。

城軍が本拠を置いたと伝わる横田城跡
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此処は長野市篠ノ井に有りました。実は篠ノ井高校に通っていた私の通学路上に有りました。長野市文化財データベースより

義仲軍本隊は数に勝る越後勢の猛攻を見事に防いで戦況は一進一退でした。隊を分けた分だけ初戦に挑む兵が少ない義仲軍本隊でしたが、義仲公自ら囮になるなど敵の目を正面に釘付けにしたのでした。そして何とか横田河原に城長茂の大軍を引き出す事に成功したのです。

義仲公の狙いは分けてある遊軍の動きです。まず南西の側面から攻め入る手筈の義仲四天王の一人『知将樋口兼光』と弓矢に神技とも言える腕前を発揮する『諏訪神党』、そして北東部の側面から奇襲をかける井上氏の軍だったのです。本隊と合わせて三方向からの挟み打ちが狙いでしたが、時を逸すれば即敗北につながる危険な側面もございました。

女山から横田河原をみた光景 撮影したのが夏真っ盛りなので枝が少し邪魔でした。
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しかし私は地形をある程度知っているだけに井上軍が正面にいる敵に気づかれない様に迂回するとなると余程の遠回りだったと思います。しかし難路を超えて井上隊は見事に行軍致しました。井上隊は城軍の背後に平家の赤旗を掲げて回りんだのです! なんと城軍は赤旗を持つ味方が来たと大喜びで迎えいれました。

ところが井上隊は近くに来ると平家の象徴である赤旗をかなぐり捨て、源氏本来の白旗を掲げました! さあ味方が来たと大喜びしていた城軍はビックリです。見事に敵のウラをかいた井上隊の鬨の声が横田河原に響き渡ります。『源氏の大群が後方から攻めて来た〜』と城長茂軍は大慌てです。その慌てた城長茂の軍に正面から義仲公の本隊が襲いかかり、南東の方面から樋口兼光諏訪神党が駆け下り横腹を突きました。鎧兜を付けた城軍の武将を諏訪神党の武士団が放つ神の矢が次々と打ち倒し、根井大弥太行親は剛力無双の言葉通りに敵を薙ぎ倒します。義仲公も木曽源氏に伝わる宝刀の『微塵丸』を佩いて戦いに挑んでおりました。此の微塵丸は貫けぬ物無し、全てを微塵に貫くと伝わる霊刀です。三方向から挟み撃ちされた城長茂軍は瞬く間に多大な死傷者を出して横田河原合戦は幕を閉じたのです、城長茂と笠原頼直は命からがら敗走致しました。こうして横田河原の戦いは義仲軍の勝利に終わったのです。

市原の戦いが治承4年9月、横田河原の戦いが治承5年6月ですが、その前に頼朝公による有名な富士川の戦いが治承4年10月に行われております。

この勝利は義仲公の武名を一気に押し上げ、頼朝公による富士川の戦いの勝利と合わせて、世の中が本当に平家が負けるかも?と考えるようになって行ったのです。此の一戦後は更に多くの勝ち馬に乗りたい武将が義仲公の元に馳せ参じました。

敗れた城長茂会津まで落ちましたが、此処でなんと奥州藤原氏に攻められたのです。疲労困憊な城長茂はもう堪ったもんじゃありません! 仕方なく越後に戻り影を潜めました。此の後の城長茂の経緯として平家が滅びると源氏方によって捕らえられました。身柄は梶原景時に預けられて景時から擁護されました。梶原景時は嫌われ者の側面が有名ですが、何故か自分のところに来た敵方を助命嘆願する事が多く感じます。城長茂は後に景時が吉川氏と戦って滅びた後、御鳥羽上皇の幕府打倒側に付きました。しかし幕府打倒の兵をあげましたか余り賛同者が少なく、結局は打たれてしまったのです。


一番わかり易い義仲軍の主な合戦と年代です。 『乱世を駆ける』より
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義仲公の大勝利に危機感を感じた頼朝公が大郡を率いて関東にまいります。そして頼朝公は義仲公に無理難題を申し付けます。


※ 更科の義仲公の足跡
私の故郷である長野県千曲市に武水分神社八幡宮という地元の崇敬が厚い神社がございます。私の叔父も此方で神職をしておりました。此処には義仲公にまつわる物が多く残されております。帰郷時には事ある毎に通う我が家の氏神さまです。今思うと子供の頃から境内で遊んでいた罰当たりな子供でした。社伝によると創建年代については第8代孝元天皇の時代に鎮祭されたと伝わる古社です。祭神は武水分大神(たけみずわけのおおかみ)と言う建御名方神の3世孫である武志名乃命の御子神さまです。また神域のある周辺は平安時代後期に京都岩清水八幡宮の荘園となっており、安和年間(970年頃)に八幡神を勧請したと伝わります。ご存知の様に八幡神は源氏の守り込みでした。

本殿は諏訪の二代目立川和四郎によって嘉永三年(一八五〇)に建てられたと社伝にございます。  武水分神社HPより
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神社の伝記によると義仲軍は横田河原合戦の前に武水別神社に立ち寄り勝利を祈念致しました。戦いが終わって見事に勝利をおさめた義仲公は小餅を沢山作って柏の葉に盛って神前に奉ったと伝わります。その際に村人等にも餅を分けて喜びを共にしたというの伝説が残っておりすます。義仲公は神社に土地も寄進し、現在でも義仲公が寄進した田で作った餅米を使って小餅が作られるております。この古事は現在でも毎年7月の半ばに『柏葉祭』として毎年行われております。

此れが其のお餅です とでも美味しそう〜です!   武水分神社HPより
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注釈 1
麻績村とはオミムラと読みます。不思議な名前ですが、古くから交通の要衝として重要視された土地ですので少し御案内致します。麻績村には半島の百済新羅に滅ぼされた事により、百済人が移り住んで帰化致しました。此の一族は麻を積む技術に長けていたと伝わります。それと合わせ古代の氏族で麻などの繊維を使って織物を造ってた麻績部が此の当地に土着した事が名前の由来と伝わります。なぜ交通の要衝かと言うと、京都から陸奥多賀城まで通じる道筋に有り、東山道から越後国府までを結ぶ支道沿いに存在していたからです。此の枝道を北国西街道、または善光寺西街道と言い、麻績宿という宿場町もございました。平安時代末期に麻績一帯が『麻績御厨』と言われて伊勢神宮の荘園でした。鎌倉時代には小笠原氏の庶流が此の地に移り住んで麻績姓を名乗り、麻績城を居館としました。麻績城はその後も残り、かつては立派な城下町もあったと伝わります。麻績宿から猿が馬場峠という摩訶不思議な名前の峠を越えて善光寺平に至ります。降りたら横田河原までは指呼の間なのです。横田河原も呼ばれた場所には長野自動車道と上信越自動車道の交わる更埴ジャンクションがございます。私の実家は此処で降りるのですが、戦死者を多く出した場所だけに毎回実に複雑な気分で通過しております。



今回も最後までお読み頂き
有難うございました。
次に続きます!