みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 最終回

義仲公のシリーズは今回が最後となります。旭将軍源義仲公は近江は粟津ヶ原で今井兼平と共に最後を迎えてしまいました。しかし義仲公の嫡子である清水冠者源義高が頼朝公に預けっぱなしになっております。また最後の地である近江粟津ヶ原には義仲公供養の塚が出来たと伝わります。そして其処には巴御前と思しき女性が現れて頼朝公の菩提を弔っておりました。時代が数百年過ぎ行く中で義仲公の塚は荒廃と拡張を繰り返し『義仲寺』として現代まで伝わっております(ぎちゅうじと読みます)。

※ 義仲公の嫡子義高と大姫
義仲公の嫡子である源義高は行家などの叔父達と引き換えに頼朝公の元へ送られておりました。義仲公は『叔父達は自分を頼って来た者であり、例え誰の命であろうが差し出す訳にはいかない』として嫡子を頼朝公の元に送ったのです。義高は頼朝公と政子の最初の子供である大姫と仲睦まじく過ごしており、人質ではありますが実質的には許嫁として生活していたのです。因みに此の時は義高は11歳で現在で言う小学6年生、大姫が6歳で小学1年生でした。

愛らしい小さい頃の大姫 不憫にも悲劇のプリンセスとなります。 鎌倉殿の13人より
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※ 義高逃亡
義仲公が粟津で没した事により鎌倉に義高の居場所は1ミリも無くなっておりました。簡単に言うと鎌倉方にとって人質の意味が無くなったと言う事になります。事の次第は大姫が義高が父の命によって討ち取られようとしている事を知ってしまいます。此れは大姫の侍女が義仲公が討ち取られた事を小耳に挟んだ事から始まった事だと言われております。武家に仕える女性なら嫡子義高の運命を予想する事は難しい事では有りませんでした。そして其の事は次女から大姫の知るところと成ったのです。

『どうしよう、このままだは義高さまが殺されてじう』と考えた心優しい大姫は義高をなんとか逃そうとしたのです。そして信濃から義高に付き従っていた海野幸氏を身代わりにし、義高は女装し大姫の次女達と共に館を出ました。ご想像下さい、小学校6年生の義高は父の死と自分が殺される事実を一緒に知ったのです!

館を出る事に成功した義高は大姫の手配した馬に乗って逃げました。しかし夜になって屋敷内に義高が居ない事が発覚してしまいました。其の事を知った頼朝公は烈火の如く怒り、御家人堀親家に命じて追手を差し向けました。

執拗な追手の探索のなか、とうとう義高は武蔵國の入間河原に潜んでいるところを発見され、堀親家配下の藤内光澄によって無惨にも打ち取られてしまったのです。木曽太郎源義高は無念にも此処に11年の短い一生を閉じたのです(合掌)。因みに鎌倉から入間市までの距離は約91km有り、当時の馬が休みを挟んで進む距離は1日に約50km弱です。義高は縁者の居ない長い道のりを進み、必死の思いで潜伏していたところを発見され、最強鎌倉武士の容赦の無い斬撃により敢えなく討ち取られたのです。今で言うと小学校6年生の少年なので恐らくは膂力に勝る敵の凶刃に成す術も無かったのだろうと考えると私は胸が締め付けられます。剛勇の誉高い義仲公の嫡子として、また兼平や兼光の様な武の達人達から手ほどきを受けた義高なので鎌倉武士に対しせめて一矢報いたと考えたいと思います。

義高のお墓は鎌倉の常楽寺にございます。元服を済ませたとは言え、今で言う小学6年生で殺された源義高は時代の生贄になった若き木曽武者でした(合掌)。
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今回の話とは関係有りませんが、義仲公亡き後の残党討伐には頼朝公の乳母の息子である比企能員が木曽に送られております。頼朝公は自分の事も有るので後の憂いをとにかく一掃した事になります。昔から憤りを禁じ得ない義高の死に対し、冷静に時系列的で見た場合ですが、義仲公が没してから3ヶ月ほと経過してから義高が殺された事になるのです。もしかしたら頼朝公は義高に対しては何か違う道を考えていた可能性も有ります。きっと大姫の事を思って僧にでもしようかと考えていたかも知れません。もし仮にそうだとしたら、そんな悩みの中で義高が逃亡した事に成り『お前の為に此処まで考えているのになんじゃ〜』となったのではないか?と推察致しますが真相はわかりません。

鎌倉殿の13人では此の方が義高役です。鎌倉殿の13人より
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義高の死を知った大姫は生きる気力が無くなってしまい床に臥してしまいました。食べ物を一切口にしない大姫に頼朝公も政子も困り果てました。そして始めての子である大姫が廃人同様の状態になった事で政子は狂ったのです。それも尋常の狂い方では有りません。そして行き場の無い怒りは在らぬ方向へ向かいました。なんと大姫がこんな風になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかった為だと夫である頼朝公に強く迫ったのです。頼朝公はなんとか慰めようと致しましたが政子には全く通じません。そして頼朝公は此のままだと大姫と同じ様に妻の政子まで狂ってしまうと判断したかどうかは分かりませんが暴挙に出たのです。なんと自分の命令によって義高を討ち取った藤内光澄の首を刎ねてしまい、挙句に梟首にしたのです。梟首とは生首を木の枝に髪の毛を縛って吊るして鳥などに食べさせる事です。義高を殺せと命令を出したのは頼朝公であり、命令を受け取った御家人堀親家が配下を動かして行った公式な御役目なのに何故に罰を受けなければならないのか意味不明です。ハッキリいって此の時の2人は今のプーチンと同じくらいキチガイです。後に政子は北条に不利になる様な動きをした息子の二代将軍源頼家を結果的に死に追いやり、げにも恐ろしき日本三大悪女の一人に数えられております。また頼朝公の落馬による死に様に対しても、頼朝公ほどの強運の持ち主が今のポニーに毛が生えた位の大きさしか無かった当時の馬から落ちたくらいで死ぬ筈もなく、私の考えは恐らくは暗殺だったと考えております(注1)。


大河ドラマ草燃えるでの政子役は岩下志麻さんでした。ゾクっと来る程に美しいお姿でした。其れも『ゾクっと』度は間違いなく歴代No. 1です。
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息子の頼家が乳母の出自である比企氏を余りにも重用した為に立場が危うくなる事を恐れた北条氏によって比企氏は滅ぼされました。其の事で頼家の立場は危うくなったのです。NHKアーカイブスより

話を戻します! 無論ですが当時7歳の大姫の心は藤内光澄の首を刎ねたところで光澄なんて知りませんし変わりません。大姫はその後十余年を経ても義高への思いに囚われ、床に伏す日々が続きました。来る日も来る日も義高の追善供養を行い、日々読経を行っていたと伝わります。

当時の後白河院は頼朝公との関係修復の為に摂政である近衛基通に頼朝公の娘を嫁がせる意向を示しておりました。近衛家には頼朝公の乳母である比企尼の外孫の惟宗忠久がおり、此の惟宗忠久(注2)を介して働きかけて来たのですが、頼朝公は此れを拒んだと伝わります。そして頼朝公は大姫を確執のない後鳥羽天皇の妃にするべく莫大な費用を費やして様々な工作を行ないました。しかし大姫の中の義高像は薄れるどころか益々濃くなって行きました。そして病弱な大姫は病から回復することなく建久8年(1197年)7月14日に死んでしまったのです。全くなんて不憫な女の子でしょうか! 私は此の史実に対し、あの世において義高と大姫は幸せに暮らしていたと何時も思う様にしております。



※ 義仲寺(ぎちゅうじ)について
義仲公が没した地において、巴御前墓所近くに草庵を結んで『我は名も無き女性』と周囲に語り、日々義仲公の供養してい事が始まりであると伝わります。

義仲寺
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義仲公の墓
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松尾芭蕉の墓
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既に鎌倉時代において此のお寺は義仲寺と呼ばれたということが文献に残っております。その後は戦国時代に荒廃してしまいましたが、天文22年に近江国守護である六角義賢によって再興された経緯があります。

六角義賢さん、心から御礼申し上げます      Wikiより
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江戸時代には再び荒廃していたところを浄土宗の僧である松寿が村人に再建を呼びかけ、地元の有志の尽力により塚を立派な墓に作り変え、一庵も建てるなどして再建させたのです。元禄5年には名前を改めて義仲寺にしたと伝わります。義仲公は没後800年を超えても、其の徳を偲ぶ方々が今でも義仲寺を多く訪れ現在に至っております。

義仲公の位牌 乱世を駆けるより
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注釈1
この惟宗忠久こそは、後に戦国最強と恐れられた島津氏の始祖です。後の彼の子孫は薩摩国ただ一国で大英帝国と渡り合った程に強い国と民を創り、明治維新を先導するなど大貢献する事となるのは皆さまがご存知の通りです。

注釈1
文献によると頼朝公は配下の稲毛重成という武将が造らせた相模川にかかる橋の竣工式に出席し、其の帰りに義経の亡霊に遭遇して落馬したと伝わります。そしてその事がもとで命を失ったと言われております。其の稲毛重成が造らせた橋について面白い記述がごさいますのでご案内致します。稲毛重成は頼朝と一緒に都へ行った帰り道に妻の危篤の報を受けました。そして重成は頼朝公から早駆け出来る駿馬を拝領し急いで自領に戻ったのですが、増水した相模川を渡る事に時間を費やして妻の死に目に会えませんでした。そして稲毛重成は妻の菩提を弔う為と領民の為に相模川に架かる橋を建造したと伝わります。当たり前ですが鎌倉時代の事なので現在まで何百年も経過し、当時の橋は影も形も残っておりませんでした。ところが此の橋の橋脚が関東大震災の揺れによる液状化現象で、いきなり田んぼの真ん中にニョキニョキっと出現したのです。当時有名な歴史学者である沼田頼輔などの専門家が鑑定し、稲毛重成が建てた橋の橋脚であるとされました。現在では国の史跡として指定される他、国の天然記念物にも指摘指定されております。

相模川橋脚 Wikiより
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注釈2
この惟宗忠久こそは、後に戦国最強と恐れられた島津氏の始祖です。後の彼の子孫は薩摩国ただ一国で大英帝国と渡り合った程に強い国と民を創り、明治維新を先導するなど大貢献する事となるのは皆さまがご存知の通りです。

※ 木曽源氏の家紋
最後に木曽義仲公の威徳を偲んで木曽源氏の家紋をご紹介させて頂きます。

丸に二つ引両紋 
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この家紋は天皇家征夷大将軍に下賜する紋てす。義仲公が征夷大将軍に任命された時に後白河院から拝領しました。此の旗を掲げて合戦に挑めば勅命で有る事の証となりました。

五七桐紋  
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此の紋は菊の御紋に次ぐ皇室の副紋です。後鳥羽天皇から義仲公へ下賜されました。その後は足利家や豊臣秀吉などが使用し、明治以降は日本の総理大臣や日本国政府の使う紋されております。

笹竜胆紋  
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笹竜胆は有名な源氏の紋ですが、正確には源氏の頭領が使用する紋と伝わります。



※ 御礼
長きに渡り旭将軍木曽義仲公シリーズにご訪問頂き、心から感謝しております。信州人の私は幼い頃から祖父や父から折ある毎に聞いていた義仲公や今井兼平の大ファンでした。其の興味は中学生の時に父の蔵書から借りた本を読んでから益々大きくなり、いつの間にか無駄に買った義仲公関係の本が50冊を超えている事に気が付いたのは妻と結婚して新居に移る時でした(その他も入れると1000冊超え?)。信州には他にも色々な戦国武将が足跡を残しておりますので時を見てご案内しようと思っております。最後に稚拙な文章の為につい独善的な表現となり一部の方には御不快な思いをさせた事をお詫び致します。

                平正良