みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 22

※ 巴との別れと義仲公の最後
連続の激戦に疲れ果て、たった5騎で駒を進めていた義仲公でしたが、此処で一つの決断を致しました。義仲公が子供の頃より共に暮らし、旗挙げの後に数々の激戦をくぐり抜けた巴だけでも逃がそうとしたのです。義仲公は『お前は女であるからどこへでも逃れて行け 自分は討ち死にする覚悟だから最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない』と辛口の言葉で巴に伝えたと言われております。最初は『嫌です』と否定し続けた巴御前ですが、其処は武家の娘ですので義仲公のお心を悟ったものと思われます。

義仲公の心中を察した巴御前は最後の御奉公をしてから去ると言いました。『平家物語』の『木曽殿最期』に巴は『色白く髪長く、容顔まことに優れたり 強弓精兵 一人当千の兵者なり』と有ります。髪の長い色白美人の反面、強力な弓を引けて物凄く強い女武者であったという事です。

巴御前と義仲公との別れ 乱世を駆ける』より
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そして最後の御奉公の場面が直ぐにやってまいりました。敵の猛将である恩田八郎師重が率いる30騎の一隊が現れたのです。恩田八郎師重率は剛力無双の武者として名を馳せていたと伝わります。さっそく巴と恩田八郎師重率は対峙して組みあいました。巴はいとも簡単に恩田を馬から引き摺り下ろして首を捻じ切ったのです(捻切る?)。

恩田八郎師重と組み打つ巴御前 『乱世を駆ける』より
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戦い終えた巴は義仲公を護る為に今迄ずっと戦いましたが、もう戦う必要が無くなった語り鎧を脱ぎ捨てたと伝わります。色恋の話は苦手で無粋な小生でも此の場面の巴御前の気持ちは察するに余り有ります。こうして巴は義仲公に別れを告げました。そして恩田の一隊が恐れ慄いて逃げて行くのを確認しながら落ちて行ったのです。私の勝手な推測ですが、義仲公と共に此れだけの戦いを生き抜いて最後まで義仲公を護った巴御前は源氏の守り神である八幡神の加護を受けていた女性のような気が致します。そして女神が去った義仲公は此の後直ぐに命を落としてしまいます。此の後の巴御前は消息がハッキリとしておりません。尼になって余生を送ったと言う説と、尼になった後に鎌倉方に捉えられましたが、巴の美貌に一目惚れした和田義盛の側室なったとも言われております。和田義盛との間には男子が生まれ、此の男子は剛力で有名な朝比奈三郎義秀だったとも伝わりますが、巴ほどの女傑が和田義盛の側室になるとは想像が出来ません。

和田義盛 鎌倉殿の13人より
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此のサンダー杉山の様な方が朝比奈三郎義秀です。
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義秀は2代将軍の頼家が其の達者な水練の程を見たいと所望した時に海に深く潜り、なんと3匹の大鮫を抱き抱えて浮上した剛の者と伝わり、こんな芸当が出来るのは巴御前の子供だからと言われたと伝わります。

残る4騎は義仲公に今井兼平、手塚別当と甥の手塚太郎金刺光盛でした。次から次へと襲ってくる敵に追い込まれるなかで弓の名人である手塚光盛は討ち死にしてしまいました。そして同じ一族である手塚別当は怪我をして離脱したと伝わります。頼朝公は後に義仲公の残党狩りで、諏訪大社の神事の為に合戦に参加出来なかった兄の金刺盛澄を捉えさせて鎌倉に連行しました。兄の金刺盛澄は刑が決まるまで梶原景時に預けられておりました。しかし盛澄の武芸を惜しんだ景時の配慮で助命が成った経緯があります。失礼とは思いますが2019.7.22のブログ記事の『史跡 梶原景時館跡』を興味の有る方はご覧下さい。

鎌倉殿の13人における梶原景時の配役は凄まじくピッタリです。 鎌倉殿の13人より
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さて残るは義仲公と兼平の2騎と成ってしまいまた。馬上の義仲公が『日ごろは何とも思わない鎧が今日は重くて仕方ない』と言うと、兼平は『それは味方に勢がいないので、そう感じるのです。たった一領の鎧が急に重く成る訳がありません。兼平を千人の兵とお考えになって下さい』と励ましたと伝わっております。そんなさなかに義仲公侍従を新手の一団が襲いかかりました。義仲公に大将軍らしい立派な最後を遂げてほしい今井兼平は『どうか私が残りの矢で敵を防いでいる間に、あの松原の中で静かにお腹を召してください』と言いました。2人が話している最中にも追手の放つ矢は2人の近くに突き立たってまいります。場所は近江の粟津で琵琶湖のほとりでした。

義仲公は此処で2人一緒で敵に決戦を挑んで散ろうと兼平に言いましたが、兼平は主君がを雑兵の手に掛かって落命するのは悔しくて堪りませんでしたので『何卒立派なご最後を〜』と言って箙(えびら)に残る矢を強弓につがえました。

兼平の一途な気持ちに折れた義仲公は一人で松林に駒を進めたのです。主人の最後の時間を創る目的で奮戦する今井兼平は強弓から矢を次々と放って瞬く間に数騎を打ち取りました。『我こそは源義仲の乳兄弟、今井兼四郎兼平なり』と名乗りをあげて果敢に戦ったのです。事が此処に及ぶに至っても猛将今井兼平の武勇は健在でした。あっと言う間に中間を数人討ち取られた敵軍は兼平から矢の届かない距離まで引いたのです。流石は木曽権守中原兼遠公の血を受け継ぐ武将であり、正に木曽武者此処に有りの勇姿です。

粟津合戦 今井四郎打死之図 歌川芳員
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義仲公に見事な最後を迎えて貰う為に必死に戦っていた兼平の為に義仲公は松林に向かっておりました。ところが季節は激寒の冬で時間は夕方だったので、馬が薄氷の張った泥田に乗り入れてしまったのです。身動き出来ない義仲公は兼平が気になり振り返りました。その刹那です! 敵が放った一本の矢が義仲公の眉間に突き立ったのです。落馬した義仲公に対して和田一族の石田次郎為久が駆け寄って腰刀で首を落としました。そして『長きにわたり剛勇の誉高き木曽殿を討ち取った〜』と大音声で叫んだと伝わります。一代の英傑である旭将軍木曽義仲公はここに31年における波乱の人生に幕を閉じました(合掌)。


義仲公に最後まで付き従った今井四郎兼平ですが、義仲公の自決する時間を稼ぐ為に敵の真っ只中に突入し、矢を放ち矢が尽きると太刀を振りかざして奮戦しておりました。其の激戦の中で石田次郎為久の発した大音声を聞いたのです。

もはや守るべき主君は討たれてしまった兼平は、その場で自決を決めました。兼平は馬上のまま敵に対して『これ見給え 東国の殿方達 日本一の剛の者が自害する手本よ』と大音声で叫び、己が太刀の切っ先を口に咥えて馬から真っ逆さまに飛び落りたのです。義仲公に最後の最後まで忠誠を尽くした希代の英雄の壮絶な死に様でした。鎌倉勢は兼平の最後に度肝を抜かれました。そして主人に最後まで忠誠を尽くした兼平に対して敵ながら天晴な最後だと讃えたと伝わります。そして兼平の最後は其の健気さと主人を思う一途な気持ちが現在でもなお信州人に言い伝えられております。此の時の義仲公は31歳、兼平は33歳でした。

写真は夏の陽光降り注ぐ木曽川です。粟津で散った2人の魂魄は遠く木曽の山谷へ出向き、養父である中原兼遠公に出会って色々報告していたと思われます(合掌)。
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そしてもう一人の四天王で兼平の兄で有る樋口次郎兼光は行家を討伐する為に紀伊国に向かっていましたが、途中で訃報に接っしたのです。兼光は主の義仲公と弟の兼平が既に此の世に居ない事を知り、男泣きに涙を流して悲しんだと伝わります。主人を失った悲しみも有りますが、恐らくは主人を守りきれなかった無念の涙だと推察致します。都へ上る途中で兼光の母親の実家である児玉党から説得により兼光は武装解除したと言われております。児玉党にしてみたら既に孫で有る兼平を打たれてしまっているので無理からぬ事です。児玉党の考えは自分らの功と引き換えに兼光の命だけは助けて貰うように取り計らう事でした。しかし鎌倉勢に身柄を預けられた兼光は助命が許されずに首を打たれたのです。児玉党は誠意を尽くして己の功と引き換えで孫で有る兼光の助命を幾重にも嘆願したので鎌倉方の将軍で有る義経も此れを納得したと伝わります。しかし朝廷に奏聞したところ後白河院と其の側近達が義仲公を陥れた報復を受けるのを恐れて許さなかったのだろうと推察致します。  

樋口次郎兼光  若き頃には民を苦しめる白い大猿を退治した強者で有ると伝わります。   Wikiより
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樋口兼光と言う武将は派手ではありませんが義仲公を多方面で支えた大忠臣です。兼光は死に至って『主を守れなく、また主の最後に立ち会えなかったのは無念なので、せめて死後は近くで主を守護したい』と自分の首は義仲公の横に据えてほしい遺言したと伝わります。己が命が絶たれても尚、主である義仲公に忠義を尽くすとは、木曽権守中原兼遠公の子達は全く持って凄すぎて言葉が有りません。兼光の此の言葉は弟の兼平の行動と同様に後世に語り継がれております。


此処からもう一つの義仲公の死後に続く悲話がございますが、短くないので次回にご紹介致します。此の話は頼朝公に塗炭の苦しみをもたらせ、妻の北条政子を不適応障害(ノイローゼ)にし、罪もない鎌倉幕府に忠実な武者の命が犠牲に成りました。


次に続きます