みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

日本氷河期研究の扉を開いた偉人 4

相沢忠洋先生についてのお話は、学生時代に恩師から学んだ事と合わせ、自宅に有る書籍の内容と今年11月に岩宿博物館を訪問した際に学芸員と思われる方とお話した内容を基にご案内しております。

思い出せば、私が社会人8年目に空前絶後の大事件が起きる迄は熱意を持って関係書籍を読み漁っておりましたが、事件以降はすっかり熱が冷めてしまっておりました。其処から実に24年の歳月か経過しております。其の事件につきましては、次回にご案内させて頂くとして、今回は其の後の相沢忠洋先生のお話をさせて頂きます。

相沢先生が石山遺跡で発掘された石器の数々です。先人達の道具だと思いながら見つめていると、まるで其の時代に向かうような実に不思議な気分になります。f:id:rcenci:20241222085226j:image

私の持っている『岩宿』の発見と言う自伝書とも思える書籍は、昭和44年に講談社から発行されておりますが、此の『岩宿』の発見を執筆するに際しても、相沢先生は深く悩まれていた様子が綴られております。其処には1人の人間としての苦悩と葛藤が感じられるのです。此処に其の原文をご案内致します。

山を歩く写真 相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241222085236j:image

以下引用
思えば私は人間嫌悪を長く心の奥底に秘めて今日まできた。それは私の生いたちの環境から生まれてきたものであろうか。いけないことと自省自戒しながらも、人間嫌悪の情を捨て去ることはできなかった。人間の好意を率直に受け人れられない自分のふがいなさには、時として、みすから腹立たしさを覚えることもたびたびあった。

しかし、そのような私に、近年人間としての真の友愛の手をさしのべ、教えてくれた何人かの人びとがあらわれてきた。私はこの人びとから人間としての広がりと深みの世界を教えられた。

この本を世に送りだすことについても、私はためらいつづけた。どうしても気がすすまなかった。その気のすすまぬものを決心させてくれたのは、じつは人間のあたたかみと友情によってのことであった。 

途中省略

もし、この1冊の本が、読者のみなさまの何らかのお役に立つところがあるとするならば、人間としての友情を、身をもって与えてくださった多くの方がたのおかげにほかならない。
引用終わり

『朝の来ない夜はない』を机に書き込んで気丈に頑張っていた相沢氏ですが、いくら不撓不屈の漢でも、やはり生身の人間であり、内面では苦悩されていた事が分かりますね。此の文章は本当に真っ正直な方しか書けない文脈だと思います。

相沢先生は此の書籍の発行の少し前となる昭和42年に、第一回吉川英治文化賞を受賞されております。 此の賞は日本の文化活動に著しく貢献した人物及びグループに対して贈呈される特別な賞です。写真は相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085302j:image

吉川英治文化賞の表彰状です。相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085317j:image

昭和46年には夏井戸遺跡に『赤城人類文化研究所』を設立され、尚も研鑽を続け、翌年には国立宇都宮大学の講師となられました。

一方で悲しい事も有りました。昭和47年には奥さまのきみさんが、43歳の若さで胃がんの為にお亡くなりになられました。

開設当初の赤城人類文化研究所の全景。相沢忠洋記念館さまのHPよりf:id:rcenci:20241222085357j:image

此の後に相沢氏は芹沢先生の推薦により、晴れて日本考古学協会員となられたのです。そして其の約5年後の相沢先生が51歳の時に群馬大学名誉教授七条小次郎先生ご夫妻のご媒酌により、久保田千恵子さんと結婚されました。

此の期間にも数冊の書籍を手掛け.精力的に活動されておられましたが、長年の無理がたたり何度か体調を崩されておりました。そして相沢先生が57歳の時、桐生厚生病院に脳内出血で長期入院されたのです。此の後の相沢先生は亡くなられるまで病院暮らしが続いたといいます。

相沢先生のご体調に反し、更なる『お天道さま』からの贈り物がまいります。天照大神が自らの後裔である陛下に語りかけられたのかは定かではありませんが、相沢氏の著書が天皇陛下の知るところとなり、勲五等瑞宝章の受賞が決まったのです。まさに日本人として最高の栄誉となります。

しかし、授賞式が迫るなかで相沢氏の余命も残り少なくなって行くのです。

瑞宝章の勲章です。饒速日命が降臨された折に天照大神から授かった十種神宝がデザインに使われていると言われております。写真は相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085406j:image

相沢忠洋 その生涯と研究よりf:id:rcenci:20241222085414j:image

世間も支援者の皆さまも心より晴れの受賞式を楽しみにさらておられたと思います。ところが此処で運命の悪戯が起きてしまうのです。

勲五等瑞宝章の授賞式当日の朝午前7時38分、相沢忠洋先生は死去されてしまうのです。日本の歴史を変えた一代の英傑は此処に63歳の御生涯を真っ当されました。

葬儀での弔辞は芹沢先生が務められたと岩宿博物館の学芸員の方は仰っておりました。また、其の内容につきましてもご教授頂きましたが、此のブログでのご案内は控えておきます。

平成13年に相沢氏の銅像が有志の皆さまにより岩宿遺跡B地点に設置され、其の除幕式をが行われました。台座の銘文は芹沢先生の揮毫との事です。そして長い何月を経て今年の春に相沢先生が発掘された膨大な数の石器が、日本国の有形文化財に指定されたのです。

私は今年の春に此の報道に触れ、とても嬉しい気分になりました。知った時は残念ながら渓流釣りのシーズンに入っておりましたので岩宿博物館を訪ねたのは今年の11月になった次第です。

其れにしても長い....本当に長い時間が経過してからの有形文化財指定です。相沢先生がご他界されてから、先にもご案内した

今思っても忌々しい大事件が起こります。本当に色々な事が過ぎ去ってからの有形文化財指定だったのです。

話は変わります。

現在の日本旧石器学会の集計によれば、日本全国に存在する30,000年前より古い旧石器時代の遺跡の総数は10,150箇所となります。尚、お隣の朝鮮半島には、たった50ヶ所で有り、オマケに日本の様に其の前後の遺跡が発見されておりません。此の事は日本に桁違いの人類が集まっていた事の裏付けとなります。

此れは恐らく人類が全てを育む偉大な太陽を信仰とし、やがて太陽が昇る場所を求めて移動を繰り返し、気の遠くなる年月のなかで代を重ね、『日出る国』に来ていたと言う事が言えると思います。思えば凄い事ですね!

写真は私の兄貴が撮影した今年の初日の出です。f:id:rcenci:20241222085328j:image石器時代の人類は危険を承知で此のような荒まく海を超え、東にある日本を目指したと思うと胸が熱くなりますね。天孫降臨に際して天照大御神が孫神である瓊瓊杵尊に対して下された天壌無窮の神勅が脳裏に浮かんでまいります。

最後に失礼致します。正直申し上げて私は皇国史観の塊のような日本人です。其の皇国史観先の大戦後にGHQによって遮られた事で発展したものが日本の考古学でした。考古学においての学術的な発見は、其のまま皇国史観を少なからず否定する事になったからです。しかし、其れは日本列島に集まった先人達の壮大なる歩みの証拠で有り、相沢先生の発掘された石器は其れを可視化したものと私は捉えております。私は旧石器時代の扉を苦労の末に開かれた相沢忠洋先生に対し、心から畏敬の念を抱いております。先生の御霊が永遠に鎮まらん事を心から祈念致します。

次に続きます。