みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 5

鹿ヶ谷の陰謀(平家追討のキッカケ)
※ 治承三年の政変(後白河上皇から実権奪う)

今日は二項目なので
少し長めですが、お許しください!

義仲公旗上げの理由に付いてですが、色々な簡略化した文献で『令旨は木曽まで届き....』と書いてあります。しかし何故に後白河天皇の第三皇子である以仁王がそんな令旨をだしたのか?と言う事は教科書に全く出ておりません! もちろんご存知の方も多いと思いますが、本日はその原因となった『鹿ヶ谷の陰謀』と言う事件をチョッピリだけ深掘りし致します。そして実質的に福原にいた清盛公が兵を率いて京に進軍し、院の近臣達を押し退けて所領を没収し、後白河上皇を幽閉した『治承三年の政変』を順を追って御案内致します。

鹿ヶ谷は鹿ヶ谷通りとして名前が残ります。
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通りに有名な銀閣寺(東山慈照寺)が有りますよ! 東山文化とは銀閣寺一帯を東山山荘と言われていた事に因んでいると修学旅行の時にガイドさんの話で知りました。

まず鹿ヶ谷の陰謀からです。此れは京都の鹿ヶ谷にあった静賢法印(じょうけんとほういん)の別荘において後白河院の近臣達によって平家打倒の陰謀が話し合われていた事が発覚し、怒った平家が大暴れした事件です。平家打倒の謀議はかなりの回数行われていたのですが、この謀議には後白河上皇自らも出席していたとされてます。他には多田行綱(源氏)や後白河院の近臣であった藤原成親など平家の横暴に不満を持っていた立場ある人が参加してました。

まず一連のゴタゴタの前に大騒動がございました。場所は加賀の国、現在の石川県で事件が起こったのです! 後の理解に役立つので登場人物を少しご案内します。後白河院の近臣である『西光』は本名を『藤原師光』と言い、嫡子は藤原師高、弟は藤原師経です。後に出て来ますが師経が最初にやらかしました。

その前に、もう飽きたと思いますが宮中と平家の問題です。清盛公と後白河天皇の関係として、日宋貿易で大儲けして財力と武力を持っていた清盛公は朝廷に一族を入り込ませようと必死です。後白河天皇武家は使える存在だけど、朝廷まで食い込んでくるのは分不相応と考えておりました。正直に言って噛み合わないのは当然です。しかし、表向きは両者共良い関係を保っておりました。

後白河上皇平清盛公の義理の妹である平滋子(建春門院)と関係を結び高倉天皇をもうけてました。相変わらず清盛公は朝廷の要職を平家の者にするように一生懸命です。其れに対して後白河上皇は側近を要職につけ、自分の立場を守ろうとアレコレ画策しました。通常なら張り合う関係となりますが、平滋子(建春門院)が2人の橋渡し的な役目を行う事により清盛公と後白河上皇は良い関係を保っていたのです。

ところがパイプ役の才色兼備の平滋子(建春門院)が突然他界してしまったのです!大事な中継ぎ役が没してしまった後、しばらくしてから後白河上皇平清盛公の関係は普通に悪化して行きました。

悪い事は重なります。先に紹介した加賀で起きた騒動です。後白河上皇の近臣である藤原師光の嫡子藤原師高が加賀国司に抜擢されました。当時は国司となっても自分は都に居たまま目代として身内を送っておりました。師高は兄弟の藤原師経を目代として送ったのです。師経が加賀に出向いたのは夏真っ盛りであり、山越えで大汗をかいていたと伝わります。丁度通り道に山寺があったので汗を流したり、喉を潤す為に立ち寄ったところ、『国司だ〜』と言って横柄な態度の師経に僧兵達は腹を立て、例え国司と言えども寺社内で無礼を働く事は許さないと言って追払いました。弱っちい貴族なんか束になってかかっても敵わないくらい僧兵とは強かったのです。

大薙刀を持つ僧兵です wikiより
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信じ難い事だと思いますが、当時の寺社は独自に武装し衆徒も多く、正に独立した一大武装勢力だったのです。藤原師経は一旦逃げましたが、手勢を率いて夜討ちをかけ、寺を焼いてしまったのです。ところが此の小さい寺が白山信仰の由緒あるお寺だったのです。

菊理媛尊(くくりひめのみこと)を祭神とする白山信仰は超巨大勢力でした。其処に喧嘩を売ったのが後白河上皇の近臣と言う形です。話は此処から猛烈にヒートアップします! 白山信仰の勢力は仏道の最大勢力である延暦寺に助けを求めたのです。その話を聞いた延暦寺天台座主の明雲は怒り心頭となりました。天台座主の命により延暦寺は直ぐに行動に移しました! 伝家の宝刀である『強訴』です。

延暦寺の一コマ HPより
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延暦寺の僧兵は日吉大社の神輿を担いで寺を焼いた責任者らを処断しろとシュプレヒコールをあげて内裏に向かったのです。後白河院も事情を察して武家に守りを固めさせておりました。神輿を押し出した僧兵達は、此処で平重盛(たいらのしげもり)配下の兵と争いになり死者も出ました。争いの最中で清盛公の嫡男重盛はなんと神輿に矢を放ったのです。神仏への崇敬の念は今では想像も付かないほど遥かに強い時代ですので、此の行為は神仏を恐れない掟破りの行為でした。此の時は僧兵達が一旦延暦寺に引き返したのですが、このままでは全面戦争となる事を予見した後白河院は、近臣である藤原師光の嫡子である加賀国司藤原師高を配流とし、矢を射た平重盛の家人を処断致しました。コレは延暦寺側の要求を呑んだ事に成りました。

事はコレで収まると良かったのですが、事件の直後に安元の大火と言ばれている大火事が発生致しました! 歴史的建造物や公卿の邸宅が多く被害に遭ったのです。都では犯人は僧兵では...との憶測が有ったかどうかは分かりませんが、後白河上皇延暦寺の明雲天台座主をいきなり捕縛し、財産を没収して配流の刑としました。この事は後白河の近臣である藤原師光が子供の藤原師高が配流となっている仕返しで画策したのです。せんだっての強訴は明雲が日頃の恨みを朝廷にぶつける戦略だったと上皇に訴えた事が原因でした。

延暦寺白山信仰の衆徒より助けを求められて起こした行動です。藤原師光の完全なコジツケであり、やられた事のオカエシ状態ですね! 拘束された明雲天台座主の身柄は源頼政により護衛され、流刑地に護送されておりました。ところが近江国辺りに差し掛かると突然衆徒2,000人に囲まれ、明雲天台座主の身柄を衆徒達に奪回されてしまいました。このおかげで明雲天台座主比叡山に逃げ込む事が出来たのです。この事を知った後白河上皇はかなり激昂し、平重盛、宗盛を呼んで山門への攻撃を指示しました。コレには神仏を恐れない平重盛も驚きました。重盛は親であり頭領である平清盛公に相談し、コレは大変だと清盛公自ら上皇と談判致しましたが、後白河上皇の決意は変わらず、結局攻撃する事となったのです。コレが行われていたら信長公の前に前例が出来てましたね。

此の後に事態は急展開致します。

出撃前の夜に平清盛の西八条にある屋敷を多田行綱(源氏)が密かに訪れたのです。多田行綱天台座主を陥れた藤原師光等が鹿ヶ谷で平氏打倒の謀議を行っており、其処に後白河上皇も絡んでいた事を密告したのです。多田行綱は此の騒動で万が一にも平家打倒の企みが露見する事を恐れたからのだと思います。行綱は武家ですので公家である近臣達と違って冷静に武力の差を推し量る事は常の内です。もし事が露見したら間違いなく自分も殺されるのです。とてもじゃないが延暦寺に攻め入る様な悪鬼の平家には敵わないと思ったと思われます。

清盛公屋敷跡 京都市歴史資料館 情報提供システムより
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その話を聞いた清盛公の『な〜〜んだと〜〜❗️』と怒り狂った言葉が容易に連想されますね! 多田行綱後白河院に見出され院の警護をする北面武士に加えられておりました。当然ですが院の近臣達と交わりが有り、平家打倒の密儀に参加して平家打倒軍の大将的な存在でした。

さあ大変です!
清盛公は延暦寺攻撃を即刻中止し、更なる武者の動員を掛けました。あっと言う間に多くの味方が集結しました。清盛公はまず密儀の中心的な存在である藤原師光(西光)を捕縛し、拷問にかけて洗いざらい吐かせた後に斬首しました。師光の自供により参加者の全てが判明し処断されました。ただ後白河上皇の近臣である藤原成親平重盛の助命嘆願により流刑と成りました。ただ重盛の嘆願により流刑となった藤原成親流刑地で暗殺されてしまったと言われております。

この事件で清盛公は邪魔な西光(藤原師光)と成親をやっつける事に成功したのですが、後白河上皇には手を出さずにおりました。後白河上皇自体も知らぬ存ぜぬでシラを切ったと伝わります。清盛公の嫡子である常に沈着冷静な平重盛は部下が神輿に矢を射た事と助命嘆願した藤原成親が暗殺されてしまうなど上手く行かない事続きで失意の中で左大将の位を返上しました。コレで平家の跡取りは宗盛となったのです。

平宗盛 wikiより
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もう清盛公と後白河上皇の関係は破局しておりますが表向きは何もなく過ごしておりました。しばらくして清盛公の娘である徳子(建礼門院)が高倉天皇と結ばれ皇子が生まれました。清盛公は後白河上皇に皇子を皇太子にする事を強行に迫りました。後白河上皇は前回の負い目も有ったのか分かりませんが、此れを認めて親王宣旨を行いました。

建礼門院 wikiより
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清盛公は皇子の近臣から旧勢力である院の近臣を全て除外して平家で硬めました。コレは後白河上皇の逆鱗に触れたのでした。また藤原氏の一族と結婚した平家の女性については、主人が他界した後に藤原氏が代々治めて来た知行国を相続させるなど平家の勢いは止まりませんでした。


コレに対して後白河院も黙ってはおりません。しばらくして清盛公の嫡男である平重盛が他界すると、後白河上皇は近臣を国司として送り、平重盛の所領だった土地を速攻で奪ってしまったのです。左大将の位を返上し表舞台に顔を出さなかった平重盛でしたが、清盛公は可愛い息子が亡くなっただけでも辛いのに、息子の領地を没収するとは何事だ〜と怒り狂ったのです。正直言ってもう清盛公は閻魔様状態だったと思います。清盛公も英雄でありながら人の親だったのです。

※ 治承三年の政変

治承3年(1179年)11月14日にとうとう平清盛公は数千の武者を引き連れ福原(神戸)から攻め上りました。清盛公の強行姿勢に驚いた後白河上皇は使者を送り穏便に済まそうとしますが、済ました後の騙し打ちは後白河上皇の常套手段なので、清盛公は其の手を食いませんでした。清盛公は高倉天皇をバックに院の近臣をバンバン解任し、平家側の人員を要職に付けて行きました。オマケに後白河上皇は清盛公の指示で鳥羽殿という建物に幽閉されてしまったのです。オマケに高倉天皇に退位をせまり、孫の安徳天皇を測位させてしまいました。

安徳天皇 wikiより
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一連の仕置きを終えた清盛公は宗盛に後の事を任せて福原に引き上げました。その後の手加減を知らない宗盛の対応は苛烈でした。院の近臣を捕縛したり殺害したりして、所領を奪うなど続け様に相手の勢力を根底から叩き潰したのです。此れに伴い後白河上皇の第三皇子である以仁王も所領を没収されたのです。この後に以仁王は平家追討の令旨を出す事になります。しかし以仁王を擁立しようと画策したのは源氏の裏切り者である源頼政でした。

源頼政は長年の功が平家から認められて従三位まで上り詰めていましたが、嫡子である仲綱の名馬『木の下』を平家の嫡子である宗盛が所望し、木の下が宗盛邸に入ると宗盛は仲綱という焼印を木の下に押し当てて酷い仕打ちを行いました。現在で言う動物虐待と言う生易しいものではございません! 当時軍馬はとても重要な存在であり、特に名馬となると所有しているだけで武門の誉れだったのです。其の誉に焼印を押されて笑いモノにされたとなると堪え難い恥辱でした。

余りの横暴な宗盛の態度に頼政の長年の平家に対する我慢が爆発したのです。策略家の源頼政以仁王に全国の源氏に蜂起を促す様に説得しました。以仁王頼政の説得に応じて令旨を出したのでした。


最後までお付き合い下さり有難うございました。


コレで公家や朝廷がドウノコウノはしばらく有りません。いよいよ平家追討の令旨が全国に渡ります。もちろん木曽にも令旨は到着するのです。その前に中原兼遠公が様々な準備の為に動いておりました❗️

次に続きます。


追記
主題が義仲公である為に、どうしても清盛公が敵方として記述しておりますが、真実は本当に立派な方だったと私の恩師が教えてくれました。産みの母は祇園女御(ぎおんにょうご)の娘さんだと言う方であると伝わっております。祇園女御白河法皇が晩年に寵愛した女性です。ほんと白河法皇は困ったさんですね。つまり正室の子では無いのです。もしかすると白河法皇の隠し胤と言う話もございます。父である平忠盛は朝廷の警護役であり、警護役の子供が太政大臣になるなんて異例にも程があるのです。そんな理由から清盛公はお母さんの愛情は受けてない幼少期を過ごしました。父は伊勢平氏頭領の平忠盛公でしたので色々な苦労をした方なのです。源氏の頼朝公の生い立ちは比較的に色々な書籍にございますが、清盛公の登場は通常だと平治の乱の少し前からと成り、出自についてはあまり詳細に書いてある文献が無い為に此処でで追記致しました。