みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 その後 9

お詫び
先週は寝る前に布団の上に置いた携帯を思いっきり踏んづけてしまい、携帯が微塵に砕けアップ出来ませんでした。お許し下さい。

さて、今回ご案内したいのは物部守屋大連が打たれた後の話です。元々物部連氏の祖先は饒速日命長髄彦の妹の間に生まれた宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)から連なる家系の事です。饒速日命がカムヤマトイワレビコに服属した後に、義理の兄にあたる長髄彦饒速日命に殺されたとも、北へ逃げたとも言われておりますが、其の後の系譜も極簡単に御伝えしようと思います。

此方が守屋大連の墓と言われております。

玉垣に刻まれた名跡を見ると全国の有名神社が寄進しているのが分かります。物部氏は軍事的な特色が強い反面、天の神と地の神を奉斎する神祇を司る一族でもある事が起因していると思います。物部連氏一族は日本神道の為に命を賭した尊い人物なのです。寄進しているのは石上神宮を始め春日大社住吉大社諏訪大社宗像大社、木曽の御岳神社、伊勢の猿田彦神社など凄い顔ぶれです。近くには秦氏の棟梁である秦河勝が守屋大連の御首を洗った池も存在しております。

此のお墓は江戸時代の絵図では小さい丘の上に松がボツん立って居ただけだったみたいですが、明治期に新政府下の堺県知事である小河一敏さんという方が、『物部守屋大連墳』の碑を建て、其の周囲に玉垣を巡らし石鳥居を建てました。

小河一敏翁です。幕末に討幕に尽力し維新後には初代堺県知事として活躍した方です。丁未の乱から約1300年経過した後に守屋大連の御霊を鎮めてくれた方とも言えますね。

日本書紀の記述によると物部守屋大連が打たれた事は恐らく間違いないと思います。しかし記紀には其の後『大連の児息と眷属、葦原に逃げかくれて、姓を改め名をかえる者あり』と有ります。元々物部氏は全国の物部を統治する立場であったので氏族が多かったと思われます。しかし自分の立場に置いたらどうでしょう、同じ物部を名乗る者でも寝返っている者も少なからず居たと私なら思います。

因みに記紀の記述に有る葦原とは葦の野原の事では無く、日本全体の事をさしております。日本は古くから豊葦原之瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)と言われており、古代より葦原が広がっていたのです。また海洋民族の日本人は其の豊富な葦を利用し葦船を造り世界に進出しておりました。

日本葦船協会会長の石川仁さんの葦船です。コレで倭人たちは遥か南米西海岸のエクアドルまで到達してインカ帝国を築いたのです。間違いなく当時最先端の航海技術だったと思います。

話を戻します。守屋大連の子は私の知るところによると子供が3人おりました。一番の長兄は吉備氏に預けられ、其処で生涯を全うしたと伝わります。次兄は信州諏訪に縄文時代から続く洩矢氏(守屋氏)を頼りました。其の次兄の名は武麿君と言います。三男は秋田に逃げて現在まで続く秋田物部氏となっております。三男の名は那加世(ナカヨ)と言います。

此処て少し洩矢(モリヤ)一族についてご案内します。諏訪のシャーマンである洩矢一族はミシャグジ様と言う神を奉斎しておりました。洩矢一族はミシャグジ様を降ろす霊力を持っていたのです。其の一族が朝晩と必ず祈りを捧げたのが守屋山中腹に鎮座する高さ11mもある巨大な小袋石と言う磐座です。磐座とは神が降臨する石の事を言います。

此方が諏訪の小袋石です。驚くべき事に此の磐座の下には3つのプレートが重なっております。北米プレートとユーラシアプレートが攻めぎ合う接点にフィリピン海プレートが潜り込んでおり、地質学的にも奇跡に近いピンポイントなのです。小袋石は世界に10枚しかない大陸プレートのうちの3つの接点に鎮座しているのです。洩矢一族が何千年も奉斎しているおかげで日本の国土は此の磐座によって守られております。また諏訪は九州から続く中央構造線フォッサマグナの接点でも有るのです。フォッサマグナとは約6000mの深度を持つ日本の割れ目です。

ブレートの位置は図的にこんな感じです。フィリピン海プレートが細くなって潜り込んでいるのが分かりますね。つくば産業技術総合研究所 地質調査総合センター様より

磐座の上はこんな感じで中央構造線が地上からも見る事が出来ます。実際に此の光景を見ると少し冷たいモノを背中に感じます。

此の磐座から諏訪湖を挟んで反対側の八ヶ岳山麓からは国宝縄文のビーナスや国宝の仮面のビーナスが発掘されてます。つまりそれだけ古くら人々が暮らしていた事になりますね。此の様な日本における要の土地に根付く洩矢一族と『神祇を司る物部氏』とは何らかの繋がりが有っても不思議では有りません。守屋大連も洩矢一族も読み方は同じ『モリヤ』なのです。

まずは此の洩矢一族の系譜をご覧下さい。

洩矢神から76代継続する洩矢一族の現当主は守屋早苗さんです。写真の右から数えて三行目の上から六人目の当主に武麿君(弟君)と記された名前が有りますが、此の代27代の当主の武麿君こそ守屋大連の2番目の息子さんなのです。此の秘事は神長官洩矢一族の伝承に残っていると聞きます。

恐らくはボロボロになりながら長旅をして来た事だと思います。先にも書きましたが、丁未の乱で偉大な父を失った武麿君と其の眷属達は信頼出来る知り合い以外は間違っても頼らないと思いますので、やはり物部本家と洩矢一族は何らかのつながりが有ったのでしょう。諏訪信仰の事は私のブログで2023年2月23日から3回シリーズで綴りましたので興味のある方はご覧下さい。

武麿君と一緒に来た一族が創建したと言われる守屋神社は茅野市伊那市をつなぐ国道152号線沿いに鎮座しております。此の里宮ち対し、守屋山の山頂にも守屋神社奥社があります。


守屋神社里宮です。守屋大連は河内より遥か離れた信濃の地で神となっているのです。Skima信州ー長野県のローカルメディアさまから

守屋神社奥宮です。小さい祠が有ります。大ファンである八ヶ岳原人さまのHPより 

武麿君を連れて逃げて来た物部の縁者達が何も無いのに神社を建てる筈も無く、また物部守屋大連の本拠地と遠く離れた信州には本来は何も関係ない筈です。一族の長を祀る社を建てたのも武麿君が洩矢一族の養子に入ったからだと考えている次第です。信州でも此の辺りは古くから馬刺しを食べる文化が有るのですが、此の事はどうも怨敵である蘇我馬子につながるような気がしております。もっとも古代の信濃は朝廷の御牧が多く点在していた事も有りますね。

美味しそうな馬刺しです。Wikiより

大阪の八尾市から諏訪市迄の距離は高速道路を使って約365kmですが、当時はそんな便利なものは無く、山々も迂回するしかなく大変だったと思います。氏族の助けを借り、海路を通っても諏訪は内陸なので途方もない距離になります。ましてや親を亡くし落ち延びた武麿君と其の配下の者達は何の準備もされていなかった事を思うと切なくなりますね。

また秋田へ逃げた物部那加世の方ですが、現在も脈々と其の系譜を繋いでおります。物部守屋大連の子である物部那加世は臣下である捕鳥男速(トトリノオハヤ)に助けられ、長い間各所に隠れ住みながら秋田まで落ち延びました。其の子孫は唐松神社の宮司となっております。此処には秋田物部文章書と言う古文書が伝わっておりますが、此処での詳しい紹介はやめておきます。唐松神社とは神功皇后物部胆咋が創建し、韓(カラノクニ)を服(マツ)ろわせた三韓征伐が語源であるとの事です。神宮皇后は応神天皇をお腹に宿しておりましたが、其のお腹に巻いた腹帯を奉納したと伝わります。

秋田大仙市に鎮座する唐松神社です。

秋田物部氏に伝わる古文書は、唐松神社名誉宮司であった物部長照氏の決断により一部公開され、新藤孝一氏が『秋田 物部文書 伝承』と言う本を出版されました。私も恩師から借り受けて一晩で読んだ記憶がございます。内容をご案内すると長くなるので省略しますが、簡単に説明すると、物部連氏の祖神である饒速日命の降臨は鳥海山が最初で有り、日の宮と言う社を建て十種神宝と天神地祇を祀ったとあります。また、其の後に大和に移ったと有ります。

最後にイワレビコとの戦いで、饒速日命イワレビコとの和解の後に殺されたとも、北に逃げたとも言われている長髄彦のその後をご案内します。

ずっと後世の話となりますが、作者と成立年ともに不詳の軍記物に『蘇我物語』が有ります。最初は盲目の僧侶等による口伝えで有り、それが発展していったものだと伝わります。主題は鎌倉時代における蘇我兄弟の仇討ちなのですが、其処に面白いくだりがあるのです。

長髄彦には兄がおり、其の名は安日彦と言われておりました。戦いの後に遠く青森まで逃げて蝦夷の祖となったと有ります。蘇我物語には『鬼王安日』と有ります。前九年の役源義家率いる朝廷軍に敗れた安倍貞任は鬼王安日の末裔なのです。此れは津軽の名族に安日彦を祖とする系図が伝わっている事からも明らかです。また安倍氏は現代にも連なっております。朝廷軍により安倍貞任は打たれましたが、弟である安倍宗任は生き延びて伊予国へ配流され、其の系譜は続きました。更に末裔は『松浦水軍』となって壇ノ浦の合戦に参戦しましたが、平家が敗れてしまい、その後は長門の国先大津後畑と言う集落に移り、やがて明治になって山口に移り、其の一族から故安倍晋三内閣総理大臣を輩出したのです。

安倍宗任  Wikiより
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安倍晋三元総理は安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしております。我々は知らないうちに長髄彦の血縁となる子孫を見ていた事になりますね。長髄彦は皇室の祖先に敗れたとはいえ、其の後に子孫が2回も総理大臣になるとは凄い話しです。

持田大輔氏の描いた長髄彦です。悲劇の忠臣である長髄彦の系譜が現代に伝わっていると思うと実に感慨深いモノがあります。
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今回は英傑達の其の後をお伝えいたしましたが、次回は日本が神仏習合に至った理由をお伝えし、此のシリーズを終わりたいと思います。


追記
物部氏善光寺如来を巡って蘇我氏と争い、次の子の代で大王家を巻き込む大戦となって物部の棟梁である物部守屋大連が滅ぼされてしまった訳ですが、其の元となった秘仏善光寺如来を本尊とする善光寺には本堂の一番最奥の最も格式が高い内々陣という場所に守屋柱と言う柱が有ります。創建から約1400年もの歴史を持ち、現在でも年間600万人もの人々がお参りにまいりますが、其の参拝者は知らずのうちに物部守屋大連の御霊にも手を合わせているのです。