みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 物部編  6

物部連氏の統領は伊香色雄(イカシコオ)から物部十千根(モノノベノトオチネ)に移ります。此の親子のおかげで物部連氏の躍進が始まってまいります。

当時の武官はどんな衣装で宮中に参内していたのでしょうか。写真は200〜300年程時代が下った頃の武官の着ていた朝服です。朝服とは官人が朝廷に出仕するときに着用した衣服の事です。衣服の歴史も結構面白いモノが有ります。此方は刀剣ワールドさまのHPより
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大王(オオキミ)の勅命で剣を千本も創りあげた五十瓊敷命(イニシキイリヒコ)も老いには勝てず、石上神宮神宝の管掌権を妹の大中姫(オオナカツヒメ)に任せましたが、大中姫は其の重職を全うするには心許ない事から職を辞し、御神宝の管掌を伊香色雄(イカシコオ)の子供である物部十千根(モノノベノトオチネ)に任せたのです。逆に思えば重職を任せられるだけの力が有ったと思われます。

此れ以後は代々物部連氏が石上神宮の御神宝の管理を行なって行きました。十種神宝を携えて降臨した饒速日命の後裔として、石上神宮の神宝を管理する事は一族が強く願っていた事だと思われます。

時代は垂仁天皇の御代でした。此方の絵は馬堀方眼喜孝画伯の垂仁天皇です。
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垂仁天皇は更に物部十千根を五大夫(イツタリノマエツキミ)の一人としました。また、『物部連公』の賜姓を発し、更に大連(オオムラジ)に任じたのです。大連と言ってもピンと来ないと思いますが、飛鳥時代以後に左大臣と右大臣に改められますが、其の前は大臣と大連だったのです。此れは超破格の出世です。

垂仁天皇と言えば此の時代に相撲の起源となる天覧試合が行われておりました。
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戦ったのは野見宿禰(ノミノスクネ)と當麻蹶速(タイマノケハヤ)です。蹶速(ケハヤ)とはキックが得意だったのかは分かりませんが兎に角強かったみたいです。一方の野見宿禰は出雲で1番の剛の者でした。此の天覧試合は野見宿禰が勝ったそうです。此の力比べが日本の国技である相撲の始まりです。買った野見宿禰はただの力持ちでは無く、其れ迄は大王が崩御すると臣下の殉死が習わしとなっており、古墳の周囲に生き埋めにされました。しかし人間の代わりに埴輪を埋める案を出したところ、此れが大変喜ばれ、埴輪を造る役目である土師臣(はじのおみ)という姓を賜ったのです。野見宿禰の末裔である土師氏は其れ以後大王(オオキミ)の葬儀や古墳造営を司る一族となりました。土師氏から出た一族には菅原氏があり、其処から有名な菅原道真が出ております。

幕末から明治にかけて活躍した彫刻家の安本亀八が製作した『相撲生人形』です。スモウイキニンギョウと読みます。生人形とはまるで生きている様に精巧な細工をほどこした人形の事です。安本亀八翁の傑作ですね。
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力の入った野見宿禰の額には生々しい青スジが浮き出てます。
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当麻蹴速は苦しそうです。蹴速は此の死合で死にました。相撲の起源は力人による素手の死合だったのです。
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個人的に大好きな『国技である相撲』の起源だけに、かなり脱線してしまいました。申し訳ありません。本文に戻ります。

物部十千根(モノノベノトオチネ)が賜った大連(オオムラジ)とは、此の時代のヤマト朝廷における最重要職の一つで有り、大王(オオキミ)の補佐として執務を行う役目でした。大臣と比べると特に軍事面の特色が強い役職です。此の時代の大連には物部連氏と大伴氏が務めております。大連となった十千根は全国の物部達を統治する者とされました。同時期に大連だった大伴氏とは瓊瓊杵尊と一緒に降臨した天津神である天忍日命(アマノオシヒノミコト)の末裔となります。古代は神さまだらけですね!

伊香色雄(イカシコオ)と十千根(トオチネ)親子は物部連氏の中興の祖であった事は間違い有りません。ハッキリとは言えませんが、此の親子で饒速日命から数えて4代目〜6代目あたりです。

写真の武人は埼玉古墳群(サキタマコフングン)の資料館にあった古代の武人像です。
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物部十千根が活躍した時代の垂仁天皇は第11代ですが、此の像は第21代の雄略天皇の時代のモノだと思われます。伊香色雄(イカシコオ)と十千根(トオチネ)親子も此の様に勇ましく戦っていたと考えます。霊剣である布都御魂と先祖が降臨の際に天照大神から授かった十種神宝の霊力を持って『まつろわぬ者達』と戦っていたと思うと私の頭は妄想の渦が巻いてしまい治りません(笑)。

此の後十千根の子供である物部胆咋(モノノベノイクイ)は先代旧事本紀と言う文献に物部十千根大連の子として記録が有ります。胆咋は成務天皇の時代に大連となり、引き続き父の代から務める石上神宮での御神宝管掌の任に継いておりました。

時代は成務天皇から仲哀天皇となり、物部胆咋仲哀天皇熊襲討伐に四大夫として従軍しております。他は大伴氏、中臣氏、三輪氏です。思えば錚々たるメンツですね。此の仲哀天皇の父は有名な日本武尊(ヤマトタケル)です。そして子供は八幡様(応神天皇)です。何故に熊襲を征伐しないといけたかったかと言うと、無理もない事情が有るのです。

熊襲は鹿児島県を中心とした地域ですが、土壌は水が沁みて水田が造れないシラス大地が殆どなのです。従って倭朝廷の根幹である備蓄食料としてのお米が生産出来ず、代わりに人夫を出しておりました。しかし人夫が事故や戦で没してしまうと新たな人夫を出さなければ成りません。しかし兵役は16歳からなので、人夫が足りないと役人が言って来ても、人的資源は直ぐに補充が出来ないのです。頑張っても16年と十月十日かかってしまうのです。やがては此の事が元で不満がたまり.『ふざけんじゃね〜』っとなって反乱となるのです。倭朝廷は稲作を根源とした統治方法だったので仕方のない事なのですが、なんだかとっても不憫な話ですね。

日本武尊(ヤマトタケル)の子供である仲哀天皇のお妃は最強の皇后として名高く『三韓征伐』を成し遂げた『神功皇后』です。仲哀天皇熊襲征伐の為に儺県(ナガアガタ)に向かい、橿日宮(カシイノミヤ)に居た時に俄かに神功皇后に御神託が降ったのです。

橿日宮(カシイノミヤ)は福岡県福岡市東区香椎に現在も香椎宮として残っております。香椎宮のHPより
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御神託の内容として『今は熊襲を責めるのでは無く、海の向こうの光り輝く黄金の国である新羅を攻めろ』と言うものです。しかし仲哀天皇は此処まで来て熊襲を攻める事を中止するのを躊躇いました。そうしましたら、仲哀天皇は急に病に倒れてしまい、そのまま崩御されてしまったのです。その後は妃である神功皇后が御神託の通りに新羅に攻め込み、新羅だけでなく百済高句麗まで服属させたのです。愛する仲哀天皇を亡くし失意に沈む隙も無かった事だと思います。

持田大輔氏の描いた神功皇后の絵です。
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仲哀天皇の子である応神天皇をお腹に宿しながら、冷たい石を衣の下に抱いてお腹を冷やし出産を遅らせて海を渡ったのです。後にも先にも神功皇后程凄いお母さんは他には居りません。持田氏の絵にも気高さと強い意志が伺えます。鎌倉時代に元によって朝鮮半島が統一された後に起こった蒙古襲来を除けば、最強武装国家であった随や唐の時代に此処に緩衝地帯(チャイナとは違う国家)が存在するおかげで日本は助かったのです。御神託は間違い無かった事は後に判明した事になりますね。

神功皇后新羅征伐に向かう前に此の度の遠征が神意の通りであるか釣った魚で占ったという故事が有ります。其の魚は『魚』で『占』と書いて『鮎』で有り、鮎と言う文字の成り立ちになっております。
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その後の神功皇后に仕えたのは物部胆咋(モノノベノイクイ)の子である物部五十琴(モノノベノイコト)でした。五十琴も天皇本紀に神功皇后の時代に大連となったと記載があります。此の後の物部連氏は暫く文献に登場せずに第17代履中天皇の時代になって宇摩志麻遅(ウマシマジ)から十世の孫として物部伊莒弗大連(モノノベノイロフツオオムラジ)が朝廷内で執政に任官したと記載されております。この間の物部連氏の動向は謎に包まれておりますが、物部連が文献に出て来ない時代の大王(オオキミ)は応神天皇仁徳天皇で有り、比較的有名な2人なのですが、此の2人の治世下には多くの帰化人が来訪している事を思うと、物部連氏は国内の方に力を入れ、秦氏を代表とする帰化人には葛城氏などが其の任にあたっていたと考えられます。此の葛城氏は最強の一族でしたが大王家に滅ぼされてしまいました。葛城氏は渡来人の総元締め的な役割をしており、其の力を受け継いでいったのが蘇我氏となると思います。蘇我氏については後に触れます。

此の頃の大王(オオキミ)家では同族間の争いが増しており、元から物部連氏が持っていた役職である解部(ときべ)と言う裁判官のような役人が取り仕切る盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)により、多くの中央豪族が粛清されていきました。

盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)です。写真の煮えたぎる釜に手を入れているのは武内宿禰です。左の火傷されている方の顔がリアル過ぎますね。
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こうして物部連は大王家での地位を固めて行ったのです。此の後は第10代崇神天皇の時代になります。相変わらず大活躍の物部氏ですが、崇神天皇によって滅ぼされた渡来人の総元締めだった葛城氏の力を受け継いだ蘇我氏が仏教が広まる事によって力を付けていきます。此の事が後にどうなるのかは、当時の物部氏は知る由も有りません。

次回に続きます。