みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 丁未の乱前編  7

今回は物部連氏の動向と言うより、物部連氏の怨敵となる蘇我氏について簡単にご案内し、丁未の乱までの経緯を私の知り得る範囲で極簡単にご案内させて頂きます。

馬堀喜孝画伯の欽明天皇です。f:id:rcenci:20240127204933j:image

時代は第29代欽明天皇の御代となり、物部連氏は絶頂期を向かえておりました。此の時期における物部連氏の棟梁は大連の物部尾輿(モノノベノオコシ)です。
此方が物部尾輿さんです。Wikiより
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此の時には先の大連だった大伴氏は当時朝鮮に有った任那日本府の一部を百済から賄賂を貰って割譲した売国の咎で失脚しておりました。その代わりに大臣(オオオミ)として蘇我氏が台頭していたのです。此の蘇我氏は古代豪族で一番の権勢を誇った葛城氏から連なる一族でした。蘇我稲目の奥さんは葛城氏の出自です。稲目の子である蘇我馬子は巨大な勢力を持っていた葛城氏と蘇我氏の間に生まれた超プリンスなのでした。

蘇我馬子さんです。
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余りにも有名な石舞台古墳は馬子の墓と言われております。
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また蘇我氏は品部の一族であり、新撰姓氏録によると武内宿禰系となり皇別と表記されております。品部(シナベ)とは物を造るとか、鳥を取るとか多岐に渡りますが、一般的には物を造り出す人的集団の事です。蘇我氏は金工技術を使い宮廷で用いる奢侈な品々や色々な小物を生産する事を得意としていたと伝わります。

古代において大王(オオキミ)家と肩を並べるほどに強大な勢力を持っていた葛城氏の地盤を引き継いだ蘇我氏は登場した時点で既に大きな力を持っていた事になります。強みは葛城氏が育んできた渡来系移民の技術や武力です。更に仏教が伝わり出し、蘇我氏は品部として飾りなどの様々な小物を造る一族だった関係で大きな財力を得ていったのです。なぜかと言うとお寺の本堂には天井から煌びやかな天蓋が吊されていたりしておりますが、此の様な小物の需要が物凄く増したのです。

此方が天蓋です。他にも法具やお鈴など実に多くの小物を仏事には使います。今ならAmazonで直ぐに買えますが、昔は一つ一つ造り出さないと揃えられなかったのです。
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此の時代は貨幣で無く『土地』や『米』が財産となります。蘇我氏は基盤と財力にモノを言わせて中央に躍り出てまいりました。また後に倭漢氏(ヤマトアヤウジ)と総称される渡来人集団を継承しておりました。彼等は土木、機織り、武器などを造る技術集団で有り、特に武芸に秀でた者が多かったと伝わります。蘇我氏は彼等に門衛や宮廷の警護などもさせておりました。蘇我氏自体の武力は大した事は有りませんが、本当に怖いのは日本古来の道徳を知らない此の渡来人集団だったのです。

応神天皇の時代に日本に来た倭漢氏の祖といわれている祖阿知使主(アチノウミ)です。優しそうなオジさんに見えますね。
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いつの時代も金持ちで武力のある組織は強いのは当たり前ですね。また先進的な武具や生活様式を持っていた渡来系一族を巻き込んいた為に一大勢力となっていたのです。

正倉院に有る手矛です。信濃人間国宝であった宮入行平刀匠の一番弟子に当たる方が再現しておりましたが強力な武器に感じました。
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蘇我氏の出自については、まだまだ多くの説がございます。倭朝廷の中枢に突如現れてから100年にわたって権勢を誇った蘇我氏四代の事はとても簡単に語り尽くせない深く複雑な経緯がございます。

蘇我氏の邸宅が有ったと言われる甘樫丘(アマカシノオカ)東麓遺跡のポスターです。この遺跡は乙巳の変以後に造成された建物跡と言われております。最初に聞いた時は驚きましたが、何と水洗トイレの後も確認されているみたいです。
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蘇我氏で有名なのは稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代です。稲目の文字は稲作中心の倭朝廷なので理解できます。しかし馬子?エミシ?イルカ?などの名前を付ける事を躊躇わないのは、日本の一般的な文化を理解していなかった可能性があります。蝦夷とは当時朝廷の文化が伝わってない北方に暮らす人達をさす言葉ですし、馬もイルカも人より格下の生き物です。日本に元から住んでいた一族なら躊躇うはずですね。

一光三尊形式の仏像です。
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そんな最中、百済国の聖明王から一光三尊形式の阿弥陀如来像が経典と一緒に送られて来ました。百済新羅と争っており、日本を頼っていたのです。欽明天皇は大臣の蘇我稲目と大連の物部尾輿を召し出し、仏教を我が国に受け入れるか否かを問いました。蘇我稲目は仏教を取り入れた国は先進的な文化も同時に取り入れる事が出来るので是非取り入れた方が良いと奏上しました。其れに対して大連である物部尾輿と列席していた中臣鎌子は日本には古来の神々の信仰が既に有りますので、違う神を取り入れると元々の神々を怒らせてしまうと主張したのです。

私は神々が怒ると言うと、何時も此の憤怒の形相を連想してしまいます。子供の頃は普通に怖い顔だなと思っていましたが、小札の鎧の胸にはアイヌのモレウの紋様、腰には蕨手刀を携えており、何をモデルにしたのか色々考えさせられる大魔神さまです。
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話を戻します。側近2人の意見が分かれてしまった欽明天皇は、物部尾輿は今まで通り神道を全うし、蘇我稲目は試しに仏教を信じてみたらどうかと言う曖昧とも思える言葉を発し、蘇我稲目に此の如来像をお預けになりました。蘇我稲目は我が家に仏像を持ち帰り、向原(ムクハラ)に有る家を寺に改め、仏様を其処に安置し奉斎したのです。これが日本で最初の仏教寺院で有り、名前を向原寺(コウゲンジ)といいます。

向原寺
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しばらくは其のままでしたが、やがて国内に深刻な疫病が蔓延してまいりました。此れを見て物部尾輿中臣鎌子は仏像を祀った事で日本の神々が怒り、其の神罰が降ったと考えたのです。

そして物部尾輿と中臣鎌は軍を率いて寺を焼き払い、僧と尼を裸にし棒で打ち据えて追放しました。そして仏像を壊そうとしたのですが、壊すどころか傷一つ付かなかったので難波の堀江に投げ捨ててしまいました。

仏像を海に投げ捨てる物部の配下達。
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その後に信濃国国司が都に用事で赴いた際に本田善光という人物が国司と一緒に来ておりました。本田善光が難波の堀江を通った時に、打ち捨てられた仏像が自らを東国に連れて行く様にと言って本田善光の背中に乗ったと伝わります。本田善光は故郷の信濃に到着すると早速御堂を建てて仏像を安置したのです。此れが日本で唯一全ての宗派に属してない大寺院で有る善光寺の始まりです。本田義光の義光をそのまま名前にしたのです。

善光寺如来をおんぶする本田義光さんです。素材は閻浮檀金(エンブダゴン)と言って閻浮提と言う大木の下にある金塊で造られていると言う伝説です。長くなるので善光寺の事は此処までにしておきます。
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蘇我稲目は娘を2人欽明天皇に嫁がせておりました関係で大王(オオキミ)家にとって大きな影響力を持っておりました。時が経過し欽明天皇天皇崩御物部尾輿蘇我稲目も没しました。新しい天皇には第30代の敏達天皇が即位し、蘇我氏は子供の馬子の時代となり、物部連氏は物部守屋が引き継ぎました。

仏教を日本に早く取り入れたい蘇我氏は他の仏像を調達して家に祀るなど地道に活動しておりましたが、当主の蘇我馬子が病に倒れたのです。馬子は此れは自分の御仏に対する信心が足りないものと判断し、更に深く仏教に帰依して行きました。

そんな最中、再び都に疫病が流行り始めたのです。此れを見た物部守屋敏達天皇に疫病が流行り始めたのは馬子が仏教を広めているせいだと上奏し、蘇我氏の寺を襲い、仏像を川に流しました。ところが今度は敏達天皇物部守屋が病にかかってしまったのです。此れを聞いた蘇我馬子は疫病が仏教のせいでは無いと確信し、再び仏像を置いて仏教を信仰しました。

そんな最中に敏達天皇が病で崩御してしまいます。次の皇位を継いだのは用明天皇です。ところが此の用明天皇も病気になってしまいました。気弱になった用明天皇蘇我氏が信仰していた仏教を頼ったのです。大王(オオキミ)自身が仏教を信仰すると言ったのです。用明天皇のお妃は穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒノトヒメミコ)と言い、欽明天皇蘇我小姉君の娘である関係で馬子の話を信じたものと思われます。こうなると朝廷内において仏教の普及を推進している蘇我氏が断然有利になるのは火を見るより明らかです。

此の動きを見て危険をサッチした物部守屋は現在の大阪府八尾市にも領地があっとので其処に用心のために移りました。此の後に用明天皇は病が悪化し崩御してしまいます。此処で皇位継承に対する争いが起こりました。蘇我氏物部守屋を追い詰める為に皇子を次々に滅ぼし、物部守屋が擁立する事の出来る皇子が不在となる状態にしたのです。これで朝廷には物部連氏に味方する勢力は無くなった事になります。ライバルを手段を選ばす蹴落とす為とは言え、史上稀に見る極悪な所業ですね。しかし此の事は逆に言えば『物部守屋を追い詰める為だけに擁立した皇子』を生み出した事になります。

馬堀喜孝画伯の用明天皇です。此の方は厩戸皇子(聖徳太子)の父君です。厩戸皇子蘇我氏は縁戚関係がございます。
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後に記紀の編纂を死ぬ前に大急ぎで主導した藤原不比等が自身の出自である中臣鎌足の正当性を主張する為に蘇我氏を悪く書かせているのかは今となっては誰も分かりませんが、記紀にはあまり良く書かれてておりません。

此れは丁未の乱が終わった後の話しとなりますが、物部守屋を追い詰める為だけに擁立した泊瀬部皇子が即位して第32代崇峻天皇となります。しかし元々馬子が擁立しようとしていたのは堅塩姫の系統であり、小姉君系の泊瀬部皇子は物部守屋を追い詰める為だけに擁立した大王だったのです。政治の実権は馬子が握り、崇峻天皇は傀儡の様な扱いを受けたのです。

崇峻天皇は怒っていたと思われます。
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そんな馬子を崇峻天皇が憎んでいるという噂が立ちました。此れに対して馬子は何と崇峻天皇を暗殺してしまったのです。此の時の実行薬は馬子の配下である倭漢氏の『駒』と言う人物です。駒は実行後に口封じで殺されてしまいます。時が前後しますが、その後の大王(オタキミ)は馬子の姪である推古天皇です。天皇が『臣下に暗殺された』事は此れが唯一の事例です。歴史に詳しい方なら此の様に思うかもしれません。今回は物部連氏が主体なので書きませんが、乙巳の変蘇我入鹿が打たれた後に推古天皇を中心に厩戸皇子が政治を執るのですが、両人とも蘇我氏の血筋なのです。

蘇我蝦夷と馬子の邸宅跡かと言われる遺跡も見つかってます。   四国新聞より
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こうして西暦587年に蘇我氏物部守屋に戦を仕掛けたのです。此れを『丁未の乱』と言います。此の時代の大王家は力のある臣下に振り回されるておりました。物事は転写すると言います。もしかしたら皇祖神である天照大神が天岩戸にお隠れになったのは、色々問題のあった八百万の神々に対し『もう勝手にしなさい』と言う感じだったかも知れないと妄想しております。

今回は此処までと致します。来週は蘇我馬子物部守屋の全面対決となります。また物部守屋大連の他に其の戦いで散った英傑もご案内する予定です。