みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 丁未の乱後編 8

こうして蘇我馬子は人事を尽くして物部守屋に戦いを挑みました。用明天皇2年(西暦587年)に豪族の頂点同士が争う『丁未の乱』が始まります。此の日時は今から1436何前となります。以下は両軍の陣容です。

※ 大臣の蘇我馬子
蘇我馬子
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厩戸皇子 聖徳太子の事です。
秦河勝 上宮聖徳太子伝補闕記によると丁未の乱厩戸皇子の配下として参戦している。
泊瀬部皇子 馬子が守屋を窮地に追い込む為に擁立した皇子、後の崇峻天皇、馬子の命を受けた『駒』と言う渡来人に暗殺される。
竹田皇子 敏達天皇の子
難波皇子 敏達天皇の子で恐らくは乱で戦死。
春日皇子 敏達天皇の子で春日臣と共に参陣。
迹見赤檮(トミノイチイ) 舎人の役職の武人、守屋大連を射殺す。姓は首(オビト)。
膳傾子 (カシワデノカタブコ) 食膳を司る一族。
巨勢比良夫(コセノヒラブ) 武内宿禰系。
紀男麻呂(キノオマロ)新羅に大将軍として派遣された程の武人。
平群神手(ヘグリノカムテ)武人達を率いて現地に直接参陣
坂本糠手(サカモトノアラテ)百済に派遣された事情通の役人
大伴咋(オオトモノクイ)任那救援で2万の軍勢を率いる予定だった大将軍。
葛城烏那羅(カツラギノオナラ)新羅討伐時の大将軍の一人。
安倍人(アベノヒト)

此の様に蘇我馬子側は皇子が多数と歴戦の武人と大将軍クラスが多く参戦したのです。其々に配下を率いる訳ですから当時は途方も無い大軍団です。戦いは始まる前の時点で大勢は決まっていると言いますが、この例などを思うと本当にそう思います。

※ 大連の物部守屋
物部守屋
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物部連氏一族 古来からの神祇を司り、軍事を司る最強一族。饒速日命の末裔。
捕鳥部万(トトリベノヨロズ) 鳥を獲る事を職業とした品部の出自で有り、物部氏の忠臣。秋田物部文書に捕鳥男速(トトリノオハヤ)なる人物が出てくるので捕鳥部の一族は守屋大連の家人の様に思えます。
物部八坂(モノノベノオサカ) 同族だか戦闘に参加したかは不明。
漆部兄(ヌリベノアニ) 同じく戦いに参加したかは不明。


実質的に物部本家と捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の軍が主力ですね。丁未の乱の陣容はザッとこんな感じになります。物部連氏ほどの大豪族でも朝廷に味方してくれる皇子が居ないと此処まで差がつくのかと思います。記紀には稲城という城を築き守りを固めたとあります。

後世に描かれた稲城です。全体を俯瞰した図は残されておりません。
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大阪府八尾市に有る稲城跡の石碑です。大阪再発見さまのHPより
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両軍は物部守屋の館で激突致します(諸説有り)。何倍もの連合軍を相手に戦闘部族の物部軍は強く、三度に渡り馬子軍を蹴散らしました。両軍の激しい戦いにより河内の野辺と石川の河原は血で赤く染まったと伝わります。此の戦いが行われた季節は田んぼの稲穂が黄金色に色づいた季節だったと言われております。

写真の上から2枚目に物部守屋の傍に立つ衛士が携えている矛は鉤付きの矛(ホコ)と言って、此の鉤で馬上の武人を引っ掛けて引き摺りおろし、落ちたところを矛先で仕留める為の武器です。正倉院に納めされている数種類の矛の一つです。何とまあ恐ろしい武器でしょうか。後世には矛から槍や薙刀に改良されて行きました。
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物部守屋大連は自身も弓の名手でもあり、屋敷内に有る塀を超える朴の木に登り、敵将を狙い撃ちしました。百発百中で敵兵は射殺されたと伝わります。物部守屋軍の猛攻を受け、流石の連合軍の猛者達も怖気付き退却を余儀なくされたと伝わります。此の時代の弓は丸木弓と言って弾力のある梓の木や檀(マユミ)の木を利用しておりました。

此処で大活躍をしたのが兵100人を率いて物部守屋邸の守りを固めていた捕鳥部万(トトリベノヨロズ)です。主人不在の間に館を守っていたので後世の城代のような存在だったと思われます。先にもご紹介したように『鳥を獲る事を生業とした一族』の中で一番の剛の者でした。(注1)

四方から飛んでくる敵の矢を捕鳥部万(トトリベノヨロズ)が剣で打ち払う姿が描かれております。物部守屋大連も木の上から万の勇姿を見て頼もしく思っていた事でしょう。ただ此の後に守屋大連は弓の名手だった事が仇になります。
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NHKのドラマスべシャルだった聖徳太子では本木さんが主演されておりました。此の写真は丁度守屋大連の稲城に攻め込んでいる時の画像です。NHKアーカイブより
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蘇我馬子の軍勢には若き日の聖徳太子(厩戸皇子)がおりました。厩戸皇子は此の形勢の不利に対して椋の木から四天王像を彫り出して額に巻き、此の戦いに勝利した暁には四天王を安置する大寺院を建立する事を誓い、寄手の皆を鼓舞したのです。宗教がかった集団は強くなるのは昨今の戦争の経緯を見てもご理解頂けると思います。果敢に攻め込む連合軍と物部守屋軍の激しい戦いが繰り広げられました。

そんな最中に厩戸皇子の舎人である迹見赤檮(トミノイチイ)が物部守屋の登っている大木の下に忍び寄り守屋大連を射落としたのです。権勢を誇った物部守屋大連は迹見赤檮(トミノイチイ)の一矢によって落命致しました。

此の写真の左側中央辺りに矢が当たった物部守屋大連の姿が描かれております。握っている弓も自然素材である事が分かりますね。しかし此の絵についてですが、挂甲も何も付けてないまま戦いに挑む事は有りませんね。
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此方は日本服飾史さんのHPにのる古代の挂甲を帯びている武人です。国宝の埴輪にも挂甲武人の完全体がございますね。
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群馬県太田市飯塚町出土の国宝挂甲武人埴輪です。恐らく大半の方は御記憶があろうかと思います。
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此の古事は迹見赤檮が物部守屋を射た矢を埋めたとされる鏑矢塚が存在し、少し南西に進んだところに弓を埋めたとされる弓代塚が存在している事により間違いないと思われます。

八尾市観光データベースさまより
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八尾市観光データベースさまより
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旗印である守屋大連を失った物部軍はその後総崩れとなり、勢い付いた馬子軍に打たれる者甚だ多く、逃げ出した者も有れば捕虜として捕縛される者もおりました。

主人であった守屋大連の戦死を聞いた捕鳥部万(トトリベノヨロズ) は、その場で自軍を解散し配下には何とか逃げるように説き伏せたと伝わります。自らは馬にに跨り、茅渟県(チヌノアガタ)の有真香村(アリマカムラ)に向かいました。此の村には万(ヨロズ)が心を寄せた女性が居たからです。なんともロマンチックな捕鳥部万さんです。そして一夜を過ごした後に山に入ったのです。捕鳥部万は愛犬の白犬と共に此処で死ぬつもりでした。

山に入る前に一夜を過ごした女性に自分は此処にいると役人に伝えるように言っておりました。女性は泣く泣く承知したそうです。早速河内の国司は数百人のの兵士を送って山を取り囲みました。しかし捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の凄いところは此処からです。

国司の送った兵士たちは雄たけびをあげて殺到しました。万(ヨロズ)は矢を放ち応戦しました。万(ヨロズ)の一族は鳥を捕る事に長けた一族で有り、当然弓の腕も一流だったと思われます。万(ヨロズ)の放ったいずれの矢も兵士の突進を止めたと伝わります。しかし万(ヨロズ)も満身に傷を負っておりました。そして矢が尽きた万(ヨロズ)は弓を折り、剣を抜いて尚も戦ったのです。先に紹介した万(ヨロズ)の絵は恐らく其の時のものだと思います。

愛犬と一緒に戦う万(ヨロズ)。岸和田市のHPより
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やがて力尽きた万(ヨロズ)は叫びました。『お前達、よく聞け、俺は大連(おおむらじ)の従者として今まで大王(オオキミ)のためには身を粉にして働いて来たのだ。それを、悪臣、逆臣とは何なのだ、誰が逆臣だ』 此れは稀代の忠臣捕鳥部万(トトリベノヨロズ)だから出た言葉であり、捕鳥部万だから後世まで残った言葉だと思います。恐らくは万(ヨロズ)の奮闘ぶりに敬意を抱いた将卒も多かったと思います。潔く最後まで戦い抜き力尽きた万(ヨロズ)は剣を折り、そして自らの喉を切り裂き息絶えました。見事なり捕鳥部万(トトリベノヨロズ)。

役人は命令により鬼のように強かった万(ヨロズ)の体を8つに切り裂きました。此の行為は現代の常識に例えると頭がおかしいと思えるかも知れませんが、鬼のように強い者は必ず復活してしまうから、復活しても体が何処に有るのか分からないように行なう古代のやり方なのです。それだけ捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の強さを認めていた事にもなります。

何処からともなく万(ヨロズ)に寄り添っていたの白犬が現れ、晒し場から万(ヨロズ)の頭を咥えて去って行きました。そして主人の首を古塚に埋めたそうです。万の愛犬はその場で臥して横たわり、やがて飢死したと伝わります。

やがて此の事は朝廷の知るところとなりましま。朝廷は万(ヨロズ)と其の愛犬を哀れに思い、万(ヨロズ)の同族の者に命じ、万(ヨロズ)と白犬の墓を有真香邑に並べて作らせたのです。この墓は岸和田市に今も残る天神山古墳です。一号古墳が犬の墓、2号古墳が万(ヨロズ)の墓と伝わります。此の話は学生の頃に先生に教えてもらいました。先生が身振り手振りを交えて話された捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の話に大きく心動いた事を覚えております。

さて物部守屋大連を失った物部の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったのです。厩戸皇子は誓い通り四天王寺を創建しました。物部連氏の領国は蘇我馬子の妻が物部守屋大連の妹だった事から相続権を主張して半分は蘇我氏(ナンデ?)、もう半分は四天王寺に寄進さました。捉えられた一族の多くは四天王寺の奴婢となったと伝わります。簡単に言ったら馬子と厩戸皇子で山分けとなったのです。そして伝わった仏教は日本に飛鳥文化をもたらせました。

復元された玉虫厨子です。本物は法隆寺に有り国宝に指定さらております。国立科学博物館さまのHPより
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此の結末ををお読み頂き、不思議に思った方もいらっしゃると思いますが、では何故に日本が仏教一本になっていないのか、此処までの大乱を後に導き出した日本人の結論とは何かを『詔』を介して次回ご案内致します。

物部守屋大連の子供が信濃の名族を頼りました。またもう一人の子は各地を転々として秋田に落ち延びました。この辺りも系譜を交えてご案内致します。