みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 1

世界最古の歴史を有する日本の皇室には、ご存知の通り三種の神器が伝わっております。一つめとして天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)がございます。此の剣は素戔嗚尊が手名椎と足名椎(テナヅチアシナヅチ)が醸した強い酒を飲み切って泥酔した八岐大蛇を退治し、其の尾から取り出して天照大神に献上したものです。二つめは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、三つめは八咫鏡(やたのかがみ)ですね。三つの神宝のうち八尺瓊勾玉八咫鏡は天岩戸から天照大神を出現させる為に造られたものです。此の三種の神器は新しい天皇陛下がご即位される時に必ず必要な神器ですね。

剣璽等承継の儀 Wikiより
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Wikiに有る三種の神器のイメージです。
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此の三種の神器瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から高千穂に降臨する時に天照大神から授かったと記紀には有ります。

今回の主題である十種神宝は、もう一つの天孫降臨における主人公が同じ様に高天原におわす天照大神から授かった御神宝です。其の神の御名は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と言います。

この神さまが饒速日命です。天照大神から十種神宝を授かった天孫族の神さまです。
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墳墓も確り存在しております。奈良寺社ガイドさまのHPより
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記紀(古事記及び日本書紀)には高天原から天ノ磐舟に乗ってやって来たと有ります。正に空飛ぶ船の事です。

饒速日命を祀る大阪府交野市の磐船神社には磐舟を思わせる巨大な磐座がございます。磐船神社のHPより
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饒速日命の詳しい記述が記載されているのは神道の経典である『先代旧事本紀』となります。私も現代語訳本を10年前に買ってみましたが、饒速日命の事が、詳しく記載されておりました。饒速日命につきましては、謎の神とされており、考察した話は沢山出ておりますが、いづれも妄想の域を出ておりませんので此の場では控えさせて頂きます。

ジブリ千と千尋の神隠しには龍神がニギハヤミコハクヌシと言う名で登場しておりました。映画館に家族を連れて見に行ったら時に、此の名を名乗るシーンを観て、隣に居たジブリのファンであった嫁に『え? おい、いまなんて言った?』と妻に尋ねたところ、『しー! 静かにしてよ、今はダメ』と怒られた記憶が有ります。

さて、十種神宝の事ですが、此の事をご案内するには天孫の系譜と神武東征を先にご案内しないと、全体が把握出来ないと思いますので順を追ってご案内させて頂きます。

※ 皇祖神の系譜(皇室の先初期)
皇祖神の系譜は記紀によると次の様になります。『天照大神素戔嗚命の誓約(うけい)→ 天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)→瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)→彦火火出見尊(山幸彦の事です)→ 鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)→神武天皇(カムヤマトイワレビコ)となっております。

冒頭の誓約(ウケイ)とは、ある理由(理由は省略します)で、天照大神と弟の素戔嗚命が互いの心が清い事を証明する場面が有りました。天照大神素戔嗚命の十拳剣(トツカノツルギ)を噛み砕いて吐いた息より御生まれになった三柱の御子神宗像三女神です。対して素戔嗚命天照大神の御身体に付けている勾玉を噛み砕いて吐いた息から生まれたのが、五柱の男の神さまであり、其の長男が天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)となります。

※ 神武東征
生誕地の高千穂にいらした神武天皇(御名はイワレビコ)は45歳の時に、戦が多かった豊葦原中国(日本の事)を戦の無い豊か国にする為に東征を決意しました。九州を含む西日本は戦いが特に多かったみたいです。其れは稲作を行う環境に恵まれた温暖な土地は水利権の争いや、土地の争いが頻発した事に由来すると思われます。

神武天皇(カムヤマトイワレビコ)です。
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兄神さまの五瀬命です。環刀太刀を握る勇ましい神さまですね。東征軍のリーダーを務めておられました。天孫族は長子相続ですが、出雲族は末子相続となります。現在の我々も大和民族なので長子相続となっておりますね。
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兄の五瀬命(イツセノミコト)と強兵を集めて筑紫の日向から出発したのです。日向を出て宇佐に着くと、宇佐の王である宇沙都比古は服属を示し、宮を増設して歓待致しました。その後は筑紫に移動し、当地の岡田宮に一年滞在し、次に安芸に向かいました。安芸でも日の神子に刃向かうものは一人も無く服属し、安芸には7年も滞在致しました。次に向かったのは吉備でしたが、吉備の王も東征軍に従ったのです。そして吉備には8年間滞在致しました。軍備を整えいう、た五瀬命イワレビコは、いよいよ明石海峡を渡るにつけ、海の道をよく知っている椎根津彦(シイネツヒコ)と後にいわれる、亀に乗ってはばたいて釣りをしていた国津神に道案内を頼み無事に荒海を渡る事に成功したのです。亀の甲羅に乗って釣りをしながら羽ばたいていた(え?)不思議な椎根津彦は初代の倭国造(やまとのくにのみやつこ)になる方です。

此方が亀の甲羅に乗って釣りをしながら羽ばたいていた椎根津彦です。前の名前は珍彦(うづひこ)でした。Wikiより
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明石海峡をへて浪速の渡(恐らく大阪湾の入り口辺り)を経て、白肩津(しらかたのつ)に船を停泊させていたところ、当時大阪周辺に強い勢力を持っていた豪族の王である長髄彦(ナガスネヒコ)の軍隊が襲い掛かって来たのです。此れに対して五瀬命率いる東征軍も応戦しました。

此方は神仏画師の持田大輔さまが描いた長髄彦です。長髄彦の荒々しくも気高いイメージがよく描かれております。後にご案内致しますが、長髄彦は本当に強く勇ましい国津神でありましたが、悲劇の最後を遂げる事になります。
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次回につつきます。