十種神宝の話までなかなか行き着けないのですが、今週も神武東征の話となります。此の話からでないと流れが分からず、其の後に続く物部連の話なども単発で書くと全くチンブンカンプンなモノになってしまうのです。どうかお許しください。
東征軍が安芸に立ち寄られた際に過ごした多祁理宮(タケリノミヤ)の顕彰碑が存在する多賀神社です。
此の図は多賀神社さまのHPに有る神武東征のルートです。
多賀神社にはイワレビコが腰掛けた石と伝わる石が有ります。
前回は多くの神さまの神名を出してしまった為に非常に読み難いモノとなってしまいました。よって今回は先に登場する代表的な神々の神名を先にお出しする様に致しました。
五瀬命 イツセノミコト (神武天皇の兄神)
神武天皇 カムヤマトイワレビコ
饒速日命 ニギハヤヒノミコト(物部連の先祖)
長髄彦 ナガスネヒコ (故安倍総理の先祖)
三炊屋媛 ミカシキヤヒメ 長髄彦の妹で有り、饒速日命の后神です。この方の産んだ神が宇摩志麻遅命であり、物部連とつながります。
高倉下 タカクラジ (尾張連の先祖)
武甕雷命 タケミカヅチノミコト
(国譲りに搭乗する神 鹿島神宮と春日大社の祭神)
布都御魂剣 フツノミタマノツルギ
(天照大神の意思が鋒に宿る霊剣 )
高御産巣日神 タカミムスビノカミ
(天地開闢の時に出現された三柱の神さまうちの一柱となります 天照大神より格上です)
八咫烏 賀茂建角身命(カモタケツミノミコト)
八咫烏は賀茂建角身命が化身したと言われてます。鴨氏の祖神としても有名です。
それでは前回の続きからご案内致します。
東征軍は白肩津(しらかたのつ)に着いたところを饒速日命を主人と仰いている長髄彦率いる軍隊に待ち伏ぜ受けて攻撃されてしまいました。長髄彦は自らの妹である三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を饒速日命に嫁がせておりました。其の子供が宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)となり、物部連の祖神となります。
当時における遠間の武器は弓矢になります。東征軍の不利な条件として揺れる船の上での攻防だったと推測します。戦闘の最中に敵の放った矢がイワレビコの兄神さまである五瀬命(イツセノミコト)の腕に刺さりました。狙ったものとすれば長髄彦の見事な指揮となります。蒙古襲来時も鎌倉武士はモンゴル軍の司令官を狙い撃ちして此れを斃し撃退したのです。司令官が負傷した東征軍は総崩れとなりました。
五瀬命は『我々は日の神さまの子孫なのに日に向かって戦ったからいけななかったのだ。その為に手傷を負ってしまったのだ。今度は日を背負って敵を討とう』と仰せになり、今度は南に回り込んで敵の背後を取る作戦をとったのです。此処は大事なところなので強調して言いますが、大和民族は東に向かって闘う事は大凶となりますので皆様もご注意下さい。
日の出る方向の国と戦ったので負けたとも言えます。日を背にして戦った日露戦争も日清戦争も、神功皇后の三韓征伐も勝ちましたね。
傷ついた五瀬命は海水で腕の矢傷を洗い清めました。出血が酷く海に血が広かった事から此の場所は茅渟(チヌ)の海と呼ばれる様になりました。漢字は当て字なので恐らくは血沼(チヌ)であろうと思います。
この事は紀伊国出身である渓友会の名誉会長に若い頃に教えて貰いました。若い頃はお金が無く(今も無いけど)、名誉会長に釣友会費(名誉会長のお財布)と言う名目で、たらふくご馳走になっている時に聞いた話しだったと記憶しております。とても有り難い名誉会長なのです。
この時代の鏃(ヤジリ)は銅製のものが使われていたと思います。後世のような強い鎧も無かった事から鏃を小さく鋭くする必要が無く、比較的に大型の鏃が多いのです。遺跡からはゴツい鏃が発掘されております。
同じ大阪府の雁屋遺跡て出土した銅製の鏃です。少し時代が降った辺りだと思います。こんなのが腕に刺さったら太い静脈や筋を簡単に断ち切りますね。大阪府のHPより
五瀬命の指示通りに東征軍は日を背負って戦う為に南下し、紀伊の国にある雄水門(おのみなと)に着きました。上の神武東征ルートをご参照下さい。其の時に東征軍の司令官である五瀬命は手の傷が元で死んでしまいました。死ぬ直前に五瀬命は『卑しい奴に手傷を負わされて死ぬ事になるもは〜』と雄叫びをあげたと伝わり、雄叫びの『お』を取って雄水門(おのみなと)に呼ばれる様に成ったと言われております。イワレビコも頼りにしていた兄を亡くして悲しかったと思います。そうして此処からはカムヤマトイワレビコノミコトが東征軍の指揮を取る様になったのです。
和歌山市小野町(おのまち) に鎮座する水門吹上神社には男水門顕彰碑が有ると言います。wikiより
和歌山市の和田という場所には五瀬命の墳墓が有ります。Wikiより
死んでしまった五瀬命の言い付け通り、回り込む為に海路を通ったイワレビコ率いる東征軍は熊野に上陸したのです。そうしたら大きな熊が出現しました。
巨大月の輪熊 朝日新聞GLOBEさまより
大熊は見えたり隠れたりして、やがて居なくなりました。その後イワレビコ率いる東征軍は急に体に異変を感じて伏せってしまったのです。当然イワレビコも同じ状態です。熊野の荒ぶる神の毒気にやられてしまったのです。
太陽を背にして戦うと決めた東征軍を天照大神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は天界で其の様子をご覧になっておりました。日を背にして闘うと決め時から御真意を受けられるようになったのです。自分の血を受け継ぐ者たちが困っているのを見かねた天照大神と格上の大神である高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は、国譲りで活躍した武甕槌(タケミカヅチ)をお呼びになって相談したのです。武甕槌は『自分が行かずとも、国を平定した霊剣(布都御魂)が有るので、それを天より使わせばよい』と言いました。そうして下界にいた熊野の高倉下(タカクラジ)と言う国津神に夢の中でお告げを行って知らせたのです。内容は蔵の屋根に穴をあけて、其処から霊剣を入れておくからイワレビコに届けるようにという内容でした。目覚めた高倉下は御神託通りに蔵の中を見てみると、蔵の屋根に穴が空いており、其の下に一振りの剣が有りました。高倉下は急いで霊剣を東征軍のイワレビコに届けたと伝わります。
天地開闢の神さまである高御産巣日神(タカミムスビノカミ)です。伊弉諾命や伊邪那美命よりも前の神さまとなります。
メッチャ怖そうな武甕雷命です。Wikiより
此方が高倉下さんです。この方は尾張連の遠祖となる方です。古来から刀剣を人に渡す時は、柄を左にして渡します。相手の利き腕である右に柄が来る配慮からとなります。此方は個人的に大ファンの神仏画師の持田大輔さまの絵です。
布都御魂剣の霊力は凄まじく、イワレビコを中心とした東征軍は毒気が消え去り、体を回復させ、熊野の荒ぶる神も自ら切り斃されてしまいました。『自ら』とは....布都御魂剣という神器は、もの凄い霊力だと思われます。現在も布都御魂は石上神宮の御神体となっております。
元気を取り戻したイワレビコに高御産巣日神(タカミムスビノカミ)からお告げが有りました。此処からは無闇に進んではいけません。八咫烏を使わしますから、八咫烏の導き通りに進みなさいという御神託でした。
左上に飛んでいるのが八咫烏です。Wikiより
東征軍一行は八咫烏の導きにより安全な進路をとり、紀伊の山々を抜けて吉野の河尻に到着したのです。そこで多くの国津神が服従の意を示し、其の案内を受けて進みました。荒ぶる神々を八咫烏の霊力で押さえ込んだと思われます。実際は此処でも多くの荒ぶる神々と出会いますが、いずれも八咫烏と布都御魂剣の霊力で服属させ、熊野から吉野、吉野から大和へと進軍致しました。
熊野那智大社にある太陽神の化身とされる八咫烏の像です。 熊野那智大社のHPより
八咫烏の咫(あた)とは手のひらの一番下から中指の先までの長さの事です。当時は現在に比べて人が小さかったと思うので仮に15cmとしてもカケる8で1m20cmとなり、此の大きさから分かる様に八咫烏とは巨大な三本足のカラスだったと思わらます。
余計な事ですけど三種の神器にある八咫鏡も同じ大きさと言う事になります。此の大きさは普通の手鏡くらいの鏡とは違い、明らかに儀式様となります。実は同じ大きさの鏡が福岡の平原(ヒラバル)遺跡で見つかっているのです。
弥生時代の地層から見つかった大型内行花文鏡です。此れほどの大きさの鏡は全国何処でも見つかっておりません。弥生時代の製鉄技術を考慮すると数は出来ないと思います。皇祖神が九州に居た証拠となる重要な発掘品のひとつだと考えます。
次回、八咫烏と布都御魂に導かれた東征軍は最強戦士である長髄彦軍団との決戦になり、その後は意外な結末となります。