みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

夏の思い出  国宝仁科神明宮 2

前回は大町市(王町市)に鎮座する国宝仁科神明宮について綴らせて頂きました。今回は2回目になりますので神域を順にご案内致します。

何処からか桃色昼咲月見草の種子が運ばれて来たのと思われます。十文字が出る珍しい花です。
f:id:rcenci:20231022154442j:image

入って左に曲がる角に手水舎雅が有ります。手水舎とは手を清める場所ですが、此れにも由来が有ります。ご存知の方も多いと思いますが、簡単に説明すると、古代には川などで身体を清めてから神前に跪い(かしず)いておりました。しかし時代が進むにつれ、日本の食料事情が向上し、人口が多くなると共に簡素化されたり、水質の悪化に伴い簡素化されたのです。また水の無い神社では草花を手に取って擦り合わす事で手水の代わりとする神社もございます。手水のやり方は此の場では書きませんが、此れにも確りとした作法が有ります。

また手洗舎に驚くべき歴史が有ります。此の手洗舎の歴史は約2,500年も遡ります。何と紀元前なのです。第十代崇神天皇の御代に大きな疫病が流行して多くの人々が犠牲になったのを、当時人々が一番集まりやすい場所である神社で手洗いとうがいをする事で治めたのです。

また其の強すぎる霊力を恐れて宮中から天叢雲剣八咫鏡を違う場所に移したのも此の時です。八咫鏡は皇女の倭姫(ヤマトヒメ)が順次運び、最後に落ち着いたのが伊勢と伝わります。少し話が脱線しましたので本題に戻します。

こちらが仁科神明宮の手水舎です。青銅製の龍神さまの御口元から清水が出る仕組みになっております。
f:id:rcenci:20231022154509j:image

此処から坂道となり、白木の鳥居がございます。此の辺りから空気が凛と引き締まり初めます。この先の左に授与所と社務所と宝物館が有ります。
f:id:rcenci:20231022154518j:image

其の先は石段が有り、比較的に新しい白木の鳥居がごさいます。左の端を登っているのは我が長女です。
f:id:rcenci:20231022154527j:image

いよいよ拝殿に辿り着きました。真正面からの撮影は憚られますので端に寄って撮影致しました。
f:id:rcenci:20231022154538j:image

神明造りの真骨頂である荘厳な本殿です。向かって左に小道が有って登れました。奥の山は仁科の森です。
f:id:rcenci:20231022154617j:image

更に近づいてもう一枚撮影しました。此の時に左から強い光が杉の巨木の間を縫って差し込んだまいりました。其の神々しさに暫く見惚れてしまいました。陰陽ですと『陽』の極みです。此れは神域である仁科の森の影響も多分に有ると感じました。諏訪大社なら守谷山(洩矢山)、穂高神社なら穂高岳天津神が多く祀られている戸隠神社なら戸隠山など山岳が多い信濃国ならではです。
f:id:rcenci:20231022154634j:image

拝殿に向かって右奥に有る元の御神木の切り株です。とてつもない太さでした。現在の御神木は少し奥に登った場所に有ります。御神木は余りに強烈な存在感が有り、撮影する事をやめました。
f:id:rcenci:20231022154644j:image

暫く滞在していたかったのですが、妹と長女ががお腹減ったと言うので、『宝物館だけ見させてくれ』と言って時間を貰いました。車で20分の白馬に有る有名なうなぎ屋さんを予約していたので彼女達の頭には鰻重しかなかったみたいです。

次回は普段は鍵が掛けられている宝物館の事について御案内させて頂きます。明治より前には当たり前だった神仏習合を表す文化財が多く存在しておりました。長くなるので此方は来週に回したいと考えます。