みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

木曽釣行中止と小さな村社の考察

今週は満を持しての木曽釣行の筈だったのですが、台風接近に伴う線状降水帯の影響で取り止めとなりました。仲間と常宿の山水さんに連絡して行けない旨を伝えました。コレばかりはどうする事も出来ません。

本日の朝は大阪の釣友から知らせが入り、我が家のある東京都町田市の八王子バイパスにかかる橋梁の近くが崩れたとの報道を知りました。我が家から歩いて10分のところです。近くには鎌倉古道も存在する古い確りした峠道です。今回の大雨は、げにも恐ろしき大雨でした。

そんな訳で今回は何年か前の春に考察した小さい木曽に有る神社の由来についてご案内してみます。此の村社は木曽の名川である正沢川に掛かる七笑橋から旅館山水に向かう村道の左手山側に鎮座しております。山水のご家族の方々に名前を聞いてみると『権現さん』と言われているとの事でした。権現とは神仏習合の名残りで有り、仏が神の形を借りて世の中に実現している状況を示します。蔵王権現、飯綱権現、東照大権現など多くの呼称がありますね。ところが此方の神社の由来は現実味に溢れ、往時より行き交う人々が多かった木曽路独特で有り、そんな地域の方々の優しさが現れた社となります。

此方が其の安藤帯刀神社です。
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古くはなっておりますが、檜皮葺の立派な社です。地域の皆様から敬われている事が分かります。檜皮葺とは檜の樹皮で屋根を葺いたものの事です。
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立派な神額が有ります。
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鳥居は此方の社に向かって左側の正沢川の方角(北向き)の道路沿いに有り、なお社自体は国道側(西向き)に向いております。神社の向いている方角は多くが南向きなのですが、一部東に向くものも存在し、此の様な神社は古い太陽神をお祀りしております。対して西に向くものも少数ですが存在し、其の多くは三韓征伐で有名な仲哀天皇の后である神功皇后を祀る神社(常に朝鮮の方角に睨みを効かせている)と海の神様(住吉三大神)です。従って社や鳥居の向きからは考察が困難でした。

社名の安藤帯刀とは歴史好きなら知らない人が居ない程の武人です。本名は安藤直次と言い、従五位帯刀先生の官名を持ち、戦国時代から江戸初期に活躍した紀伊国田辺藩初代藩主です。その後は老中も勤めておりました。小牧.長久手の戦いでは池田恒興と狂猛な森長可を打ち取った武勇の持ち主です。森長可は私の生まれ故郷である更級人の怨敵であり、其の長可を討ち取った安藤直次の名前は其の高潔な人柄と合わせて確りと私の脳裏に焼き付いていたのです。此の事が原因で此の小さい社に興味を持ちました。森長可が何故に更級人の恨みを買ったかは長くなるので省きます。

神社の近くを流れる正沢川です。かつては渓魚の宝庫でした。阿寺渓谷と共に木曽を代表する美渓です。
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其処でお馬鹿な私は木曽福島町役場に連絡し、此の小さい社の由来を問い合わせてみると『木曽福島町史』に掲載されているとの事でした。また安藤直次とは無関係であるとの事でした。其処で木曽福島町史を見てみると次の様な内容が記載されておりました。

安藤直次公   Wikiより
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時期は慶長の頃の話、この辺りは其の頃から根曾(現在は木曽町新開根曽)と言われていたみたいです。1人の武人が命からがら落ちて来ました。その武人は当時人家も少なかった根曾に苦労して辿り着いたとの事。此の武士は追われる身だったので馬のクツ?を逆に履かせて、あたかも逆に馬を進めている足跡を作って逃れて来たとの事です。(クツとは蹄鉄の事なのかは定かでは有りません) 。不憫に思った地域の方は家の納屋に此の武人を隠れさせ、上に草を被せて隠したと有ります。其処に追っ手が乱入し納屋の隅々まで槍で突き伏せていき、やがては隠れた武人も見つかってしまって突き殺されてしまったと有ります。追っ手に知らせたのは隣村の人で有り、その後に祟りを恐れて墓を建立したと有ります。根曾では殺された武人を不憫に思い根曾大権現としてお祀りしましたが、のちになって其の武士が紀州田辺の安藤帯刀と言う武士だと言う事が分かり、安藤帯刀神社として祀ったと町史には有りました。

甲骨な三河武士を代表的な存在である安藤直次は家康公と頼宜公と二代を通して徳川に仕え寛永12年(1635年)に81歳で天寿を全うしておりますので恐らくは違うと思います。帯刀とは帯刀先生(たてわきせんじょう)と言う役職の名前です。恐らく当時は今ほど情報が出回っておりませんでした。ましては木曽の奥の小さい集落なら尚の事です。

しかし自分達集落に落ち延びて命運尽きた武人に対して弔いの意味としても確り御祀りした事は当時から交通の要所だった木曽地方の方々の心優しい気持ちの現れですね。

私は色々なところに釣りに出掛けております。特に東京に居た頃は木曽川千曲川を共にホームグラウンドにしておりました。千曲川は釣り人達のマナーよ良さは特筆されますが、地域住民の方々は少々残念な場面が多く有ります(特に川上村)。逆に木曽川は釣り人のマナーは極めて悪いのですが、地域の皆様は釣り人にとても親切です。木曽で釣果に惠まれずポケっと日向ぼっこしている時に何回も地域の方々に釣れそうな場所を教えて貰いました。後日缶ビールを持ってお礼に行くとお昼ご飯をご馳走になった事も有ります。そんな愛する木曽地方の皆様か大事にする神社でしたら考察なんて関係なく、それ以後は神社の前を通ると必ず黙礼している次第です。