みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

昨年夏の山浦兄弟の生誕地訪問

此れは昨年の夏季休暇に刀工山浦兄弟の生誕地を訪問した時の話です。前回紹介した叔父の遺品を授かる前の話でございます。

此方の住所は長野県東御市滋野甲1939番地。此処には一部当時の古い建物が残ります。現在当時の建物は長野県の指定史跡として保存管理されております。上信越自動車道だと小諸インターで降り、国道18号を横断して千曲川方面に進みます。私は昨年の夏に立科町の母の実家の帰りに思うところ有って寄ってみました。

東御市(とおみし)は活火山の浅間山を中心とした上信越高原国立公園から千曲川へ緩やかな丘陵が続く実に風光明媚な場所です。写真はコトバンクさまより
f:id:rcenci:20230527111319j:image

山浦真雄.清麿兄弟の実家は上田移住後に同姓の山浦伊勢之丞夫妻が管理しておりましたが、明治7年の失火により先祖伝来の母屋は焼失してしまったのです。伊勢之丞は此の責で廃嫡されました。辛うじて敷地内の狭い納屋が焼失を免れており、其処は真雄と清麿兄弟が鍛刀に研鑽した場所だったのです。鍛冶場の火床(ホド)の横に有った炭粉の着いた壁が其の儘に残されております。火床とは鉄を真っ赤に熱する為の場所の事です。

真雄は生家の焼失と言う一報を受け、住まいの松城から急遽駆けつけてたのですが、後始末に追われる最中で倒れてしまい、真雄倒れるの急報を受けて駆け付けた妻子が囲む中で不帰の人となりました。信州政宗とまで尊称された稀代の名人の最後でした。一子兼虎と母のセキは真雄の遺髪を持って松城の西条村に戻り、松城に有る大林寺と言う古刹の墓に遺髪を納め、当時から霊山であった皆神山の皆神石を持って墓を建立したのです。

ナビ通りに進むと、まず東御市教育委員会が設置した此の案内板が有ります。結構細い道を進みますので大型ワゴン車は高度なドライビングテクニックが必要です。此処からもクネクネ曲がりますが案内板が有りますので大丈夫です。
f:id:rcenci:20230527111342j:image

目的地に到着すると、現在此の地にお住まいの御家族がちょうど草取りをされておりました。ご挨拶をして見学の許可を貰い中に入りました。ご家族のお一人である老年の女性が草取りの手を休めて色々案内をしてくれました。因みに現在此処にお住まいの方も同じ山浦さんですが、山浦真雄の縁者では有りません。

真雄没後の山浦家は16年後に其れ迄の松城を去り、以前暮らしていた上田の上鍛冶町に移ったのです。息子の兼虎には子が無く『さと』と言う養女を貰ってから、其の幼女に喜作と言う婿を取らせました。喜作夫妻没後は長男の虎雄氏へ引き継がれ、虎雄氏には子が無かった為に弟の環氏に引き継がれ、更に環氏の子息にあたる健作氏に引き継がれて行きました。その為に山浦家には真雄に関する多くの資料が現存していると刀剣研究家の花岡先生は話しております。

入り口には立派な案内板が有ります。横には『山浦真雄宅』と刻まれた石柱が有りました。
f:id:rcenci:20230527111359j:image

案内板のアップです。真雄が郷土の誇りであると言う気持ちが伝わってまいりますね。
f:id:rcenci:20230527111452j:image

山裏真雄.清麿兄弟を偲ぶ『山浦兄弟生誕碑』が有りました。坂城の人間国宝である宮入昭平(行平)刀匠が私財を投げ打ち、残りは有志の方々の協力で建立されたと聞いております。
f:id:rcenci:20230527111551j:image

何故か納屋本体の写真が無かったので、東御市のホームページからお借りしました。
f:id:rcenci:20230527112419j:image

中はこんな感じです。一面に見える黒い壁が火床の横に有った当時の壁で有り、燃え上がる火床からの炭で黒く成っているみたいです。
f:id:rcenci:20230527112809j:image

入り口にも補修された壁が残されておりました。当時此処で真雄と清麿が研鑽の日々を送ったかと思うと感無量となりましたが、一緒に来ている耳の遠い母に其の事を大声で話すのは骨が折れました。母は元より好奇心が強く、『え?何?』『何なのよ、もっとハッキリ言いなさい』と言われ、大声で説明する私の様子を見ていた現在の山浦さんは、陽に焼けた顔に優しい微笑みを浮かべておられました。此の山浦さんも現在は長野市に住んでおられるとの事でした。夏休みで家族が集まったので実家でバーベキューを行う予定でいるとの事でした。本当に家族団欒の中を申し訳ないと改めて御礼申し上げた次第です。
f:id:rcenci:20230527112827j:image


庭には柿の木が有り、現在の山浦さんのお話では『刀の焼き入れ時を、柿の木の熟した実の色を参考にしていたと聞いてます』との事でした。

柿の実の色です。 Wiki英語版より
f:id:rcenci:20230527112843j:image


焼き入れのタイミングでは有りませんが、折り返し鍛錬中に沸かした鉄の色です。確かに似てますね!
f:id:rcenci:20230527112855j:image

納屋の中には誰の揮毫か分かりませんが額が掛けられておりました。剣〇と有りますが、廟でしょうか、無教養な私には読めませんでした。
f:id:rcenci:20230527112907j:image

納屋の前にも『鍛冶場跡』と刻まれた石柱が有ります。
f:id:rcenci:20230527112918j:image

鍛冶場外の南天の木の前には石灯篭が有りました。
f:id:rcenci:20230527112933j:image

真雄が刀鍛冶修行に江戸に赴く時に決意の印として灯篭を建てたと有りますが、此れの事でしょうか。御武運長久と刻まれた石は新しく見えます。
f:id:rcenci:20230527112949j:image

家の入り口の左側は千曲川河岸段丘が有り、対岸には名勝の『布岩』が有ります。恐らくは真雄も清麿も同じ景色を見ていたと思われ、暫し時を超える気持ちで眺めておりました。
f:id:rcenci:20230527113001j:image

最後に現在の山浦さんに丁重に御礼申し上げて更科への帰路につきました。車で走り去る我々に手を振って送って頂いた事が今でも強く記憶に残っております。

先程の布岩から千曲川を2分はど遡った所に布引山の断崖絶壁に建つ『布引観音 釈尊寺』が有ります。信濃には『信濃三十三霊場』と言われている霊場が存在し、布引観音さまは其の第29番目の札所です。此処は戦国時代に砦が存在し、武田氏との合戦などで焼失しましたが、江戸時代に小諸藩主の牧野公により再建されたものです。小諸市のHPより
f:id:rcenci:20230527113020j:image

真雄の息子の兼虎は廃刀令で槌を置いた後に刀を打つ事は勿論ですが包丁などの刃物を造る事も一切有りませんでした。しかし中には刀鍛冶の技術を活かして生活に便利な刃物を生み出した方もお見えです。兼虎と同じ時代を刀鍛冶として生きた一人と其の背景を紹介させて頂きます。

泰龍斎宗寛(タイリャウサイソウカン)と言う刀工がおりました。宗寛は後の刀銘を阿武隈川宗寛と名乗っております。奥州白河の生まれで下総古川藩のお抱え鍛冶として活躍し、当時から有名な備前伝の名工でした。しかし時代の波には逆らえず、兼虎同様に刀を造る生業は終わりとなったのです。しかし宗寛は其の技術を生かして後世に残る名品を生み出しました。

見た事や使った事が有る方も多いと思いますが、此方が阿武隈川宗寛が造った剪定鋏です。
f:id:rcenci:20230527113039j:image

宗寛が廃刀令の後に開発した枝切り鋏(剪定鋏)が此方なのです。其の技法は150年以上経過している今でも日本国内はおろか広く世界で認められております。

よくよく見ると此の剪定鋏の刃部分は刀の鋒にそっくりですね。1箇所だけに刀の造形を残しております。宗寛の刀を保有する私にとっては、宗寛の強い拘りと矜持を感じる部位だと思っております。
f:id:rcenci:20230527113100j:image

使用した事が有る方なら御存知の様に小指くらいの枝ならば刃先の形状で一発で切断出来る優れた道具です。此れは明らかに反りの着く刀の切れ味を模した物だと思います。
f:id:rcenci:20230527113114j:image

しかし宗寛は神器にも等しい刀を造り出す刀鍛冶から、一般の道具を造る専門鍛冶へ転身した訳ですが、我々が想像するより遥かに強い決意が要った事だろうと此の剪定鋏を見る度に思うのです。廃刀令は刀鍛冶に大打撃をもたらせました。相馬中村藩の藩工であった慶心斎直正などは失意のうちに自刃しております。大工道具を造る鍛冶へ転身したり、実家の全く違う家業に着いたり様々な人間模様がありました。刀鍛冶のみでは無く、研師、鍔などを造る白金師、同じく鞘師は勿論ですが、剣術道場も次々に廃業したのです。

廃刀令で槌を置いた兼虎、生きる為に専門鍛冶に転身した宗寛、両方とも少し前に生きた日本刀千年の歴史を受け継いだ匠達ですね。相変わらず長くなってしまい、申し訳有りませんが、ほんの少しでも紹介出来た事を嬉しく思います。