趣味の話で恐縮ですが、本日は刀の鋒(切先)についてご案内させて頂きます。刀を鑑賞していると、刀身に備わる全ての線と刀身のあらゆる面の終着点は鋒の先端になります。つまり『鋒』こそが『刀の顔』であると古い刀剣の本にありますが、実に肯定出来る話だと思います。そして横手から切先にかけて焼かれている刃文を鋩子(ぼうし)と言います。
此方の図は鋒付近の部位名所となります。 兵庫県立歴史博物館さまのHPより
高明高明な先生方の仰るには、鋒に焼かれている刃文(鋩子 ぼうしと読みます)は刀工の上手下手を如実に表しているといい、理由として鋒は刀の中で一番薄い部分ですので、焼き入れが極めて難しい場所との事です。以前に私が注文打ちをお願いした刀匠に聞いた話だと、焼き入れ温度が高過ぎる場合は刃の部分が割れてしまい、また最初からやり直しに成るみたいです。焼き入れの工程で薄い所に合わせると鍔元の厚い部分の焼きが弱くなると言っておりました。気の遠くなる話しですが、各刀工達は焼き入れのタインミングを鉄の赤さだけで判断するみたいです。従って鋒の刃文(鋩子)は刀の品格にもかかわる大事な部分であると同時に刀工の特徴が良く現れる部位となると書物に書いてありました。
此処からは若干専門的な話になりますが、鋒は其の形状によって呼称が有ります。時代や注文主の要望により変化していったそうです。合戦の形態変化に合わせて変貌したという事になると思います。長く続いた戦乱の中で鋒が傷ついて損傷し、後に研師が研磨して新たな鋒を造り出す事によって、鋒の焼き(鋩子)が無くなってしまっている場合も古い刀にはよく有ります。何百年も前の代物なので仕方ないとは思いますが、鋩子(ぼうし)の無い場合は流通する金額も健全な物と比べると著しく安価になってしまうのが現状です。
此の図は鋒の形状を表したものです。個人的にどの鋒も魅力的ですが、中鋒伸びこころと言う形状が一番好きな姿です。伸びごころとは『少し伸び気味』と言う専門用語です。写真は兵庫県立歴史博物館さまのHPより
小切先、中切先、大切先は原理的に此のような枠で捉える事が出来ます。刀剣要覧より
今回ご案内するのは平造りと本造りの切先(刀と脇差)、最後に冠落としの様な長巻直しの切先をご案内させて頂きます。其の前に代表的な刀の造り込みを2例ご覧下さい。
此方が『平造り』と言う造り込みです。短刀の表面に凹凸がなく平になっております。
此方が『本造り』と言います。強度を上げる為かどうかは分かりませんが、鎬(しのぎ)と言う段差が有ります。
あまり良くないサンプルですが、鎬造りの断面は大凡こんな感じになっております。
此方は次女用に買った小ぶりな平造り短刀の鋒です。鋒の焼き(鋩子)は綺麗に中丸で返っており、個人的には好きな鋒です。因みに直刃と言う真っ直ぐな刃文を選んだのは娘の人生に波風が立たないように願った為です。
此の短刀は身幅の広く重ね(厚み)が薄い短刀です。鋒の焼き(鋩子)は直に入り地蔵風に返っております。地蔵とは地蔵の姿の様に刃文と地刃のコントラストが見える事から名付けられた帽子の名称です。関の刀鍛冶が打ち上げた刀の特徴の一つです。
関の地蔵鋩子もう少し詳しく話すと、赤い丸の部分がお地蔵さんの様に見えると言う事です。また美濃伝には尖っている刃が有るのも特徴です。巻藁を切ると分かりますが、美濃の刀は刃肉が薄くてメチャクチャ切れます! 鋒は造られた地域や作者まで言及出来るほど産地の特徴が出る部分となります。
此方も平造りの脇差の鋒です。帽子は小丸で返って、帰りが深めですね。
今度は本造りの刀の鋒です。大鋒に近い形状になります。帽子は乱れこんで入り、掃きがけ気味に丸く返っております。かなりの上手な刀工だと思います。
此方は新々刀の鋒です。鋩子は湾れて入って中丸で帰っております。材料が違うのか分かりませんが、新々刀の鋒は鋩子の刃縁が比較的にボンヤリしております。
今度は美濃の本造りの刀です。横手の下に美濃特有の尖り刃が見えます。
此方は室町期の脇差の鋒です。元々細い直ぐ刃だと思いますが、400年以上経過しているので焼き刃も相当に研ぎ減っております。写真をが下手で上手く撮影出来ませんが、楊枝の先端くらいの鋩子(鋒の焼き)が残っております。
江戸時代中期の脇差の鋒です。鋩子は本刃のまま入り、先は掃きがけて帰っております。鋒の鋩子の一番上が、まるで箒で一回掃いた様に先端に向けてザラっとしているのが分かると思います。因みに昔の人の観察眼は、何時も私の想像を遥かに超えます。
山浦真雄の長巻直し刀の切先です。現在研ぎに出しており、薄錆の刀身で申し訳ありません。此の刀は私が手にした刀剣類の中で一番ドキッと来る鋭さです。
幾つか刀剣の鋒をご案内させて頂きました。以前に私の友人が『刀は少し怖いな』と言ってました。正に其の通りだと思った次第です。簡単に人を殺傷する事が可能なんですから当然だと思います。
私は子供の頃から祖父や父が刀剣の手入れをしている姿を見ておりましたので、決して怖いとは思わず、ピンッとは張り詰め空気の中で祖父が刀を拭う姿が美しく思えたのです。刀が持つ独特の『厳しさ』と『品格』が其の様に見せたと思っております。このピンッと張り詰めた空気こそが魅力の一つなのかも知れません。
刀剣が本当に破邪の神通力を発揮した例は幾つも有りますが、其のなかで一つだけお話しさせて頂きます。此は台東区今戸に有る熱田神社の『陰陽丸』という人智を超えた大きさを持つ大太刀の話です。作者は江戸小石川に住み、幕臣の身ながら刀鍛冶をしていた川井久幸(1786~1868)てす。久幸は武道に通じており、特に剣術と槍術に長けておりました。打ち上げる刀は実戦に強そうな造り込みですが、焼き入れの際に付いた刃沸と地沸が細やかで美しく、光にかざすとオーロラの様な色が刀身に見える魅力的な作風です。槍の作品も比較的に多い刀工だと思います。
此方が浅草熱田神社の陰陽丸です(注1)。東京都神社庁さまのHPより
白鞘に入れた状態で此の長さです。此の長さより一回り大きい焼き入れ用の水船や此の長さの火床が必要になります。研磨なんてどの様にやったのか想像も出来ません。台東区のHPより
ご覧の様に長大な奉納大太刀です。刃の長さが何と280cm、中心(手持ち)の長さが88.5cmでして、総長が368.5cmも有ります。刀工の河合久幸は多変な技量を持っていた事の証明にもなりますね。以前にもご案内しましたが大太刀の製作には技量は勿論ですが、全てにおいて桁違いの費用が掛かるのです。
幕末の安政年間は相次ぐ災難が日本国民を苦しめました。まず安政2年には安政の江戸大地震が起こり、一説では1万人近い死者が出ました。続いて安政3年には強烈な台風が江戸を直撃し、大きな風水被害が出てしまったのです。続いて安政5年5月に長崎に入港した米国船ミシシッピ号の船員が持って来たコレラが日本を襲い、同年7月には江戸に到達します。当時世界一の人口過密都市だった江戸では20万〜26万人の死者が出てしまいました。余りにもコロっと死んでしまうので、当時の人達は虎狼痢(ころり)と名付け恐れていたと言われております。人々は長く塗炭の苦しみに喘いでいる時代だったのです。安政6年頃から始まる安政の大獄の前の事です。
本当に酷い有様だったみたいです。埋葬出来ない棺桶が江戸中に溢れて異臭を放っていたと伝わります。俗に言う地獄絵図ですね。感染すると下痢に苦しみ脱水症状になり数時間で死亡したと言われております。
そんな中で人々は神仏にすがっておりました。其処で疫病除行事として陰陽丸を神輿に乗せて市中を巡行したのです。江戸に住んでいた人は陰陽丸に向かって手を合わせ、虎狼痢の退散を願いました。その後に陰陽丸は人々の願いを叶え、虎狼痢を切り伏せ降魔の神通力を示したのです。
他にも雷を切ったと言われる雷切りと言う刀や、5頭の虎を追い払い味方を救った五虎退と名が付いた短刀など多くの逸話がありますが、陰陽丸の様な神秘的な力こそ刀剣の持つ特性の一つであり、刀剣が神器ともいわれる所以となります。そして其の刀剣の顔とも思える部位がが『鋒』なのです。言い換えれば鋒は『神さまご尊顔』とも言えると私は考えております。
注説
熱田神社の御神宝である陰陽丸は6月に行われるお祭りの時のみ公開されております。私は浅草の営業所に3年もおりましたが、見事に3回とも大事な予定が入ってしまい、結局見れず終いで終わってしまいました。今年こそ河合久幸渾身の力作を見に行ってみようかと考えております。